俺の幼馴染、柴田真明はとにかく世話の焼ける奴だ。
「ソータ、昼飯」
昼休みが始まってまだ間もないのに、奴はいつの間にか隣の隣のクラスから俺の横に移動している。俺の周りの席はまだ空いてない。クラスメイトたちが各々席を離れていく間、真明はじっと待っていた。
「真明はさ、いつも来るのが早いんだよ」
やっと空いた隣の席で、真明はさっさと弁当を広げ始めた。俺はその様子を見ながら溜め息をつく。
「早く来ても待ってるから別にいい」
「お前がいいかどうかじゃなくて……」
待ってる間のこいつは「早く場所を空けてくれないかな」と言わんばかりで、俺の方がクラスメイトに申し訳なくなるほどだ。でもこんなことを言っても、どうせこいつには分かってもらえないだろう。いつも通り無表情の真明を見て、俺はそっと諦める。
物心ついた頃から、こいつはずっと俺の後をついてきた。まるで子分か金魚の糞みたいに。多分真明には、俺以外の友達はいない。彼曰く、新しく誰かと話すのも、友達を作るのも、全部めんどくさいんだそうだ。
こいつのめんどくさがりは至る所に現れている。たとえば俺の名前は颯太だが、こいつは呼びやすいと言って「ソータ」と気のない呼び方をする。くっきりソウタと発音してほしいものだ。
「食べないの?」
真明にそう言われて、俺は鞄から弁当箱を取り出した。俺をじっと見る真明の目は、不揃いな前髪で隠れていた。
こいつは髪を切るのすらめんどくさがるから、この前髪だって、俺がたまに切ってやってるくらいだ。でも、わざと雑に切るだけで済ませている。ましてや髪を染めてやるつもりもない。
理由は単純。そんなことしたら、こいつの見た目だけがやたら良くなりすぎるからだ。悔しいけど、真明の顔だけは何もしなくても上等な部類だった。眠そうだけど切れ長の目とか、通った鼻筋とか、やる気がないくせに絵になるのがムカつく。ましてこれ以上見映えを良くしてやる義理なんて、俺にはないわけだ。
それでもこいつは何も文句なんて言わない。多分自分の外見なんて気にしてないんだろう。俺が去年ちょっと髪を茶色く染めた時も、こいつからのコメントはなかった。
とにかくこいつはめんどくさがりで、ずぼらで、何だかいつも気怠そうにしている。
「ソータ、俺ニンジンいらないから、そのウィンナーと交換しよう」
奴はまだ開けたばかりの俺の弁当箱を見るなり、そう言い出した。こいつはめんどくさがりと言うよりも、我儘で子供っぽいと言った方がしっくりくる。
「仕方ないなあ……」
俺は何となく弟の面倒を見る感じでこうやって許してやってるけど、甘やかすのも良くないのかもしれない。弁当箱を差し出すと、俺のウィンナーは全部鮮やかな色のニンジンに変わって返ってきた。
「代わりに後で真明の英語のノート見せてもらうからな」
「いーよ」
いつもぼやっとしてるように見えるクセに、真明の頭の方はすこぶる優秀だった。めんどくさいなんて言って、大して勉強なんてしてないのに。腹立たしく思うこともあるけど、俺はそれをうまいこと利用させてもらっている。
弁当を食べ進めながら教室を見ると、今日は女子たちがやたらと浮き足立っていた。皆、友達同士でチョコを交換しているようだ。そういえば、今日はバレンタインデーだった。
中学生くらいまでは、俺もこの日に期待を持っていた。でも高2の今では、どうせ今年も何もないんだろうと達観している。
俺がモテない理由は何だろう。「アイドルの誰それに似てる」なんて言われることもあるくらいなのに、いざとなると「春日君は、かっこいいけど……」と言われる。その「……」の部分を詳しく知りたい。
美容院で髪を染めて、流行の髪型にしてもらっても、もらえるのは視線だけだ。人目を引いているはずなのに、声はかけてもらえないという不思議な状態。俺が自分で見えない場所——たとえば背中かどっかに変なもんがくっ付いてるんじゃないかとさえ思う。
あるいは、俺の背が低いのが悪いのかもしれない。でも、身長なんてこれから伸びる可能性だってある。それに何より、一緒にいる真明の背が高いせいで、相対的に低く見えすぎてるだけって可能性もあるわけだ。
「ソータ、今日予備校ないよね」
「ない」
「じゃあ一緒に帰ろ。英語のノート俺の家にあるから」
「分かった」
俺は返事をしながらふと考える。そもそも、こいつがいつも一緒にいるせいで、たとえ俺に告白したい女の子がいたとしても、そんな隙はどこにもないんだ。
ただ同じ年に生まれて近所に住んでたっていうだけの偶然で、俺はずっと真明と一緒に生きてきた、でも、俺は一体いつまでこいつの面倒をみてやるべきなんだろうか。俺たちもいつかは必ず離れる時が来る。大学で専攻が分かれるとか、お互いに彼女ができるとか……。
大学受験まであと一年のこの時期になって、俺はそんなことを最近考えるようになっていた。
***
ところが、俺のそんな悩みはその日の放課後になって急に現実味を帯びた。昇降口を出て門まで行く途中、一人の女子が俺たちを呼び止めた。いや、正確には「真明を」呼び止めた。
「あの、柴田君、ちょっといい……?」
同じクラスになったことはない、派手すぎず地味すぎず、ポニーテールの黒髪が似合ういたって普通の女子。バレンタインデーの放課後だ。何が言いたいのかくらい誰だってすぐに分かる。
「いや、もう帰るから、また明日」
残念ながら、真明は分かっていなかった。
「真明、明日土曜だけど」
「じゃあ、月曜日……」
「そうじゃなくて。俺、待ってるから行って来いって」
少し後ろに立っている真明を、俺は無理矢理引っ張って前に出した。
「じゃあソータも一緒に……」
「それは駄目だって」
俺たちが押し問答をしていると、目の前にいた女子は鞄からごそごそと包みを取り出した。
「これ、渡したいだけ、だから」
彼女はそう言って、真明の手に包みを押し付けると、逃げるように去って行った。ギャラリーの中でこれだけ真明に渋られれば、まあ無理もない反応だ。
「……ソータ、これ何?」
「バレンタイン」
「……ああ」
真明は本当に「今やっと分かった」と言わんばかりだった。めんどくさがりすぎて、勉強以外で頭を回転させないように省エネしてんじゃないだろうか。そのくらい、とにかく鈍い。こんな鈍感男が何でチョコなんかもらえるのか信じられない。
俺がチョコをもらえないのはいつもこいつと一緒にいるせいだっていう説も崩れた。本気なら、こうやって二人で歩いていても声をかけられるものらしい。
「それで、どうすんの?」
校門に向かって歩き出しながら、俺はぼそっと呟いた。なぜかすごく機嫌の悪い声が出たけど、きっと幼馴染に先を越されたような気がして悔しいせいだ。何で見た目にまで気を配ってる俺より、こんなずぼら男が先に告白されるんだ?
「どうするって、誰が何を?」
少し後ろから聞こえた真明の声も、やっぱり機嫌が良くなさそうだ。
「そのチョコの意味くらいは分かってんだろ? 告白されてんだからさ、断るとか、付き合うとか……」
「どうすると思う?」
逆に聞かれて俺は少しだけ面食らった。
「……お前のことだから、どうせめんどくさいって言うんだろ?」
「うん。分かってるなら何で聞くの?」
俺たちの会話はそこで途切れた。真明のことなんかよく分かってるはずなのに、もしかしたら彼女にOKするんじゃないか、なんて思う俺がいたのも事実だ。
俺は恐れていた。何を? 幼馴染に先に彼女ができることを?
もらった包みを真明が無造作に鞄に突っ込むのを横目に見ながら、俺は一人もやもやと考え込んだ。
***
「お邪魔します」
いつものことだけど、真明の家は誰も帰っていない。俺の家と違って、真明の両親は共働きだった。
「先に上行ってて」
真明はそう言いながら、キッチンへ続くリビングに姿を消した。俺は慣れた足取りで階段を上がり、廊下の右の突き当りのドアを開ける。昔からしょっちゅう遊びにきているから、電灯スイッチの位置まで無意識に覚えていた。
真明の部屋はいつもほとんど物がない。あいつは小説が好きだから、本棚の中身はしょっちゅう入れ替わっているけれど、一体どこに古い本をしまっているのか謎だった。
この部屋にある唯一の高校生っぽいものは、テレビの脇のゲーム機。もっとも、これは俺が無理矢理買わせたもので、多分俺がいない時には稼動していない。
俺はいつも通り、テーブルとベッドの間に座る。背中をベッドに預けながら、鞄から出した携帯を確認してみると、姉貴からメールが来ていた。
『真明君にチョコ渡した?』
文末には、歯を見せて笑うスマイルマーク。何を言っているのか、すぐには理解できなかった。性質の悪い冗談だと分かって無視を決め込んでも、このメールのせいで、忘れかけていたさっきの出来事を思い出す。真明はあのチョコをどうするんだろう。
そんな俺の疑問に呼び寄せられたかのように、部屋のドアが開いた。俺が少し驚いていると、トレイにお菓子と飲み物を乗せてきた真明は、怪訝な目で首を傾げた。
「何?」
「え、いや……あのチョコ、どうすんのかなって考えてて」
真明が持っているのはトレイだけで、鞄は見当たらない。どうやらリビングに置いて来たらしい。
「それ、さっきも話した」
真明はトレイをテーブルの上に置いてから、勉強机の方へと歩いて行った。
「そうじゃなくて、あのチョコ食べるのかなって……いらないなら俺が食べようか?」
「駄目」
即答だった。そういえば、真明は小さい頃から甘いものが好きだ。味覚がお子様とも言う。とにかく、真明はチョコはチョコとしておいしく食べるつもりなんだろう。
机の上からノートを一冊手に取った真明は、そのまま真っ直ぐ俺の方に来て、いつも通り隣に座った。
「英語のノート」
「うん、ありがと」
真明は自分の持ってきたトレイからジュースの紙パックを一本掴んだ。ストローを開ける真明を見ながら、俺はついに意を決して口を開く。
「なあ……お前これからもずっと彼女とか友達とか作んないの?」
「いらない」
口ごもる俺とは対照的に、真明の声は明瞭だった。
「なんで? めんどくさいから?」
「ソータがいるから」
まさか自分の名前が出るとは思っていなかった。不意を突かれて戸惑う俺の横で、真明は何食わぬ顔でジュースを飲んでいる。
「でも……友達は多い方がいいだろ」
「どうして?」
「そりゃ、そっちの方が、世界が広がるっていうの? なんか、そんな感じでさ」
「そういう『友達はたくさんいる方がいい』みたいな社会の風潮、本当にめんどくさい」
真明は頭をベッドに預けて、心底だるそうに天井を見た。
「でも……」
俺が反論しようとすると、真明はむくりと頭を起こして、トレイからクッキーを一袋取り出した。
「友達を増やすってことはさ……その分友達一人当たりに割ける割合は減るわけ」
真明は袋からクッキーを二枚出すと、その内の一枚をぱきっと半分に割った。
「この綺麗な一枚が今の俺たち。そんで、もし俺が新しく友達を作ると、俺とソータの友情はこっちの割れた半分になる」
「何で急に半分になるんだよ」
「確かに割合は五分五分じゃないかもしれないけど、確実に二人の時間は減るよ」
「だから、何で時間に比例して何かが減ると思うわけ?」
俺は真明の手からクッキーの袋を奪い取る。
「この一枚が俺たちで、新しく友達を作ったらまたもう一枚増えて……ほら、元の俺たちに影響なんて何もないだろ?」
何だかイライラして、俺はそのまま手に持っていたクッキーを齧った。
「ソータは、魔法のポケットを叩くとビスケットが本当に増えるって思うタイプ?」
「は?」
そういえばそんな歌があったような気もするけど、だからなんだって言うんだろう。
「俺は、やっぱりあれはポケットを叩いた衝撃でビスケットが割れてるだけだと思うタイプ」
しれっとそう言い放つ真明に、俺は思わず溜め息を零した。
「子供向けの歌に大人気ないこと言うなよ」
「うん、俺子供だから。そんな魔法みたいなこと信じる余裕なんてない」
あっさりと自分を子供だと認められる真明は、俺からしたら急に大人びて見えた。
「多分、もっとずっと大人になったら、さっきソータが言ったみたいに考えられるのかもしれない。でも、今は無理。新しく友達作って、ソータといる時間が減ったら、なんか疎遠になって、そのまま……この関係も消えるような気がする」
それは、俺が最近考えてることとすごく似てる気がした。大学に入って、お互い生活がバラバラになって、俺たちの関係はどうなっていくんだろう。そうやって変に考えてしまうのは、俺たちの関係が終わってしまうかもしれない不安があるから。俺たちはすごく近いようでいて、でも幼馴染っていうだけのあやふやな結びつきしかない。本音を言うと俺だって、真明に別の友達や彼女ができても、俺たちに何の影響もないなんて言い切る自信はどこにもなかった。
「真明はさ……どうすんの? もし、俺と離れることがあったら」
「どういう意味?」
真明の声のトーンが少し低くなった。これは、特に機嫌が良くない時の声。これ以上この話は続けない方がいいのかもしれない。それでも、今のすっきりしない状態を続けるのは嫌だった。
「だって……高校生の今のまま、ずっと一緒にいられるわけじゃないだろ? だから、いつかは——」
「離れる? 颯太は俺から離れたい?」
いつもの真明のはずなのに、喋り方が何となく変わったような気がした。普段ぼんやりと遠くを見ている真明の目が、今は鋭く俺を見据えている。
「別に、そんな積極的に離れたい、とかじゃなくて……。自然の成り行きを考えたら、同じ大学に行けるかも分からないし、たとえ同じ大学でも広すぎて全然会わなくなるかもしれないし、俺だっていつかは、恋人ができて、結婚とか——」
「そんなのあり得ない」
真明は驚くほどはっきりと断言した。
「今の成績なら、颯太は俺と同じ大学にほぼ受かるし、大学決まったら颯太と一緒に都内に住むって親には言ってあるから、別に大学で会えなくても平気だし、颯太に彼女なんて作らせないし」
急に勝手なことをまくし立てられて、俺の頭は本気で混乱した。
「ま、真明、なんかちょっと怖いって。なんでそこまで俺にこだわんの?」
「怖い……? ソータが鈍いだけだよ」
しゅんと項垂れた真明は、またいつもの真明に戻っていた。
「鈍いって、お前に言われたくないんだけど」
「じゃあ、ソータはどうして自分がモテないか分かってる?」
正直言って、分からない。俺は誤魔化すように、手の中に残っていたクッキーを頬張った。
「ほら、答えられない」
「教えろよ」
ジュースのパックに手を伸ばしながら、俺はやけくそ気味に聞いた。
「ソータにはもう俺がいるから」
「は?」
俺は持ち上げた紙パックをぽろりと取り落とす。真明はそんな俺を見て、珍しく口元に笑みを見せた。
「ソータのこと見てる女の子ってさ、俺が睨むと面白いくらい慌てて逃げてくんだよね」
真明はいつも俺の少し後をついてきた。だから、俺はいつも真明がどんな顔してるかなんて知らない。女の子に話しかけられない理由が、まさか本当に自分では見えない背後にあったなんて。
「なんで、そんな……」
俺はそれ以上言葉を続けられなかった。膝の上に落ちた紙パックをただぼんやりと見つめる。
「なんでって、俺が颯太とずっと一緒にいたいから。そのためなら、何でもする」
「なん、でも……?」
「うん、女の子をこっそり睨んで追い払ったりとか、颯太に世話焼いてもらうために、めんどくさいって我儘言ったりとか。あ、半分くらいは、本当にめんどくさいって思ってるけど」
俺の脳は、隣から聞こえてくる言葉を理解することを拒んだ。真明は、めんどくさがりで、ガキっぽくて、鈍くて、俺が面倒をみてやらないとならなくて——そんな俺の今までの認識が、俺の世界が、根底からひっくり返された。もしかしたら全部計算づくで、俺はまんまと乗せられていた?
「気付いてないのは、多分世界で颯太だけだよ。鈍すぎ」
俯き気味の俺を覗き込んで、真明は困ったような笑顔を見せた。
俺はこんな真明知らない。ずっと一番近くにいたはずなのに、俺は真明のことを全然分かってなかった。
「ごめん、今日は、帰る」
まるでゲームに出てくる裏世界に迷い込んでしまったような気がして、とにかくここから逃げ出そうと、俺は慌てて立ち上がった。でも俺が歩き出そうとしたその時、真明が俺の手首を強く掴む。
「颯太は俺と一緒にいたくないの? 自然の成り行きとかって奴で離れるなら、それはそれでいいって本気で思ってる?」
それでいいとか悪いとか以前に、いずれ離れるのは当たり前だと思っていた。その後二人の関係がどう変わるかは別として。
俺が頭の中で答えを探している間に、真明は立ち上がって俺を至近距離で見つめてきた。その瞳の奥は真っ暗な闇のようでいて、見えない炎が燃えているようだ。怖い——瞬時にそう思ってしまうほどに。
「こういうこと話すのめんどくさいって思ってたけど、曖昧なままにしとくのはもっとめんどくさいから、この際ちゃんと話そうよ」
「話すって何を?」
「俺たち確かに子供だけど、もうそろそろ自分で選ばないといけないと思う」
言うや否や、真明は俺の身体を後ろにあったベッドに向かって倒した。態勢を整えようとする俺の上に、真明が圧し掛かってくる。押し返そうとした右手首は、真明の手によってあっさりと止められてしまった。
「話するだけなんだから、暴れなくてもいいのに」
「話をするだけなら座って話せばいいだろ」
「うん、そうなんだけど……」
そこで、真明は俺の顔をじっと見た。
「なんかこうしてると……キスしたくなる、ような……?」
あまりにも突拍子のない発言は、むしろいつもの真明らしさがあった。ちょっと安心した俺は、いつもの調子で口を開く。
「男同士で何言ってんだよ。大体、お前キスなんてしたこともないくせに」
「……あるよ、一度だけ。颯太もあるんじゃないの?」
その言葉で、せっかく緊張を解きかけていた俺の頭は、もう一度真っ白に吹き飛ばされた。
いつ、どこで、誰と? 俺は誰ともしたことなんかない。
驚きで声一つ出せない俺を見て、真明は無表情のまま話し出した。
「颯太はさ、俺のこと颯太なしじゃ生きていけないって思ってるのかもしれないけど、そんなことないから。颯太がいないならいないで、俺は新しく誰かを探せるよ」
痛いところを突かれた気がした。俺は真明に「新しく友達を作れ」って言いながら、「どうせ真明は俺以外とはうまくやっていけないはずだ」って、心のどこかで思っていた。確信って言えるほどじゃなくて、いざ真明が女子にチョコをもらったら不安に思う程度の、あやふやなものだけど。
「颯太は本当にいいの? 俺が別の友達とつるんで、彼女とか作って、セックスして、子供ができて……耐えられる? もし逆の立場だったら、俺は耐えられない」
胸の奥の方がずきりと痛む。最後の台詞は、真明の声も少し震えていた。さっき怖いと思った真明の目は、今はどこか潤んでいて、何かを切々と訴えかけている。
「俺、俺は……」
俺が言葉に詰まったその時、右手首がぎゅっと握りしめられ、俺は思わず顔を顰めた。真明はハッとして俺の手首を解放すると、そこを労わるように撫で始める。
「ごめん……ソータ、俺のこと嫌いになった?」
狼狽える真明は、いつもの世話が焼ける幼馴染だった。
「分からない。今、とにかく混乱してて——」
真明は俺の上から退くと、ベッドの端に座って項垂れた。
「俺も、ソータと一緒じゃなくなるって考えたら……混乱した。でも、ソータが嫌だって言うなら尊重するから、ソータが選んでほしい」
俺が起き上がると、真明は不安そうに俺を見た。
「もしこれからも俺とずっと一緒にいてくれるなら……今日中にチョコ、持ってきて」
突然の期限設定。日付が変わるまで、あと6時間もない。その短い時間で決めないとならない。何を? 「ずっと一緒にいる」ことを? それは何を意味してる?
俺はとにかく考えながら、ふらりと立ち上がった。鞄を持ったところで、背後から真明が呼び止める。
「ソータ、俺、ソータにもらったチョコが食べたい」
それはまるで、弁当のおかずをねだるような普段の真明の調子だった。
真明の家から外へ出ると、そこはいつもと全く変わりない近所の風景。俺の世界はこの30分足らずで180度変わったのに、俺以外の世界は通常運転だ。何だか理不尽に思いながら、とりあえず自宅に向かって歩きだす。
俺はずっと、真明の面倒を見てやってるつもりでいた。あいつの首輪にリードを付けて、俺が引っ張ってやってるつもりだった。それが本当は、檻に入った俺をあいつが運んでるだけだった。俺はあいつに囚われていた。
あいつの言う「ずっと一緒」を受け入れれば、俺は一生囚われたままだ。今ならまだ、逃げ出せる。さあ、どうする?
これを受け入れたら、俺は普通の人生から道を逸れることになるのか?
あいつは俺と一緒にいたいとは言ったけど、それはつまり愛してるってことなんだろうか?
じゃあ俺の方はあいつを好きなのか? 男同士なのに?
俺たちの関係は、幼馴染から何になる?
たくさんの疑問が頭の中で浮かんでは消えていく。答えなんて出るんだろうかと思った瞬間、冬の夜の冷たい風が顔に吹き付けた。顔や耳が痛いほど冷えた時、ふとさっきの胸の痛みが蘇る。
もし今日、俺が真明を突き放したら、あいつは俺じゃない誰かのところに行くんだろう。それはもしかしたら、あいつがキスをしたという相手のところかもしれない。今日チョコを渡してきたあの女子かもしれない。
その痛みは、俺の色々な疑問や迷いを全部吹っ飛ばすほどの威力があった。この痛みを消すことができるなら何でもするって思うくらいの、強烈な痛み。それはまるで気付け薬のように俺の意識を呼び覚まして、気付いていなかった事実を突き付けてきた。あいつが俺に執着するように、俺もあいつに執着心を持っている。この胸の痛みの分だけ、その思いは大きい。その正体が愛だろうが何だろうが、今は関係ない。と言うより、考えてる時間がない。
十字路まで来て、俺は家とは反対方向の道に進んだ。足は勝手に黙々と歩き続けて、すぐに近所のコンビニへと辿り着いた。
店内には当然のようにバレンタインのコーナーがある。あと何時間かで撤去されるそこを無視して、俺は普通のお菓子の棚へと向かった。あいつがよく食べているミルクチョコレートの赤いパッケージを手に取りかけて、やっぱりその隣にある黒い箱のビターチョコを選ぶ。何食わぬ顔でレジを済ませ、来た道を引き返した。
この小さな袋に入った平凡なチョコに、俺の人生の選択が詰まってるのかもしれない。今までずっと自然の成り行きに流されて生きてきた子供の俺が、最初に踏み出した第一歩。そんな意識から気を紛らわすために、鞄から携帯を取り出す。そうだ、さっき姉貴から来た冗談のメールに返信しよう。
『真明にチョコ買ったよ』
本当のことだけど、きっと冗談返しだと思ってくれるはずだ。
そのメールに姉貴からの返信が来るより先に、少し先の公園の前に制服を着た人影を見つけた。誰だろうと思う間もなく、その雰囲気だけですぐにそれが真明だと分かる。距離が縮まっても、真明はじっとその場を動かない。動くのもめんどくさいのか、それとも動けないでいるのか、俺には分からなかった。
「何してんの?」
「……ソータが、チョコ持ってきてくれるか不安で」
「で? 後つけてきたわけ?」
呆れを隠さずに言うと、真明はこくんと頷いて、捨てられた子犬のような目でコンビニの袋を見つめてくる。いつも通り、世話を焼きたくなる真明の姿。さっき真明の部屋で見た別の顔は、やっぱり夢か何かだった気がしてくる。
俺はコンビニの袋ごと押し付けるように真明に渡した。受け取った中身を恐る恐る覗いてから、真明は袋から黒いチョコのパッケージを取り出す。
「これ……」
「何だよ、文句あるか? チョコはチョコだろ」
「そうじゃなくて、ビターチョコ……」
バレンタイン用のチョコにしなかったのも、真明の好きなミルクチョコレートにしなかったのも、ちょっとした反抗心に過ぎなかった。綺麗にラッピングされたお洒落で甘いチョコレートの方がいいことは分かっていても、それを素直に渡せるような性格じゃないから。
「いらないなら受け取らなくていい」
天邪鬼にビターチョコを持ってくるような男でもよければ、受け取ってほしい。言い換えればそういうこと。
「いらないなんて言ってないし」
そう言った真明はすたすたと公園の中に入っていく。小さい頃一緒によく遊んだ砂場やブランコの方には行かず、隅にあったベンチに座った。何をするのかと近付いてみれば、真明はおもむろにパッケージを開けてチョコレートを一片取り出し、その紙包みを器用に剥がした。
「ん……やっぱり、苦い」
口の中でチョコを溶かしながら真明がぼやく。その隣に何となく腰を下ろした瞬間、横から襟首を掴まれてぐいっと顔を引き寄せられる。ヤバいと思った時にはもう唇と唇が触れ合っていて、チョコの匂いが鼻を掠めた。
「……んーっ」
我に返って抵抗したら、むしろ逆に唇を割って舌が入ってくる。匂いだけじゃなく、チョコのほろ苦い味までもがしっかりと口の中に広がった。
日の落ちた冬の夕方とはいえ、ここは道沿いの公園で、そんなところで男同士キスをしている。本気で慌てて真明の胸を叩くと、チョコの味の元凶はゆっくりと離れていった。
「急に何すんだ、馬鹿!」
「ビターチョコって、もっとオトナの関係になりましょうって意味じゃないの?」
断じてそんなつもりじゃなかった。でも、縋るような目をした真明を間近に、そこまではっきり言ってしまうほど鬼でもない。何も言わないでおいてやると、真明は調子に乗って俺の唇を指で撫でた。
「同じ人と、同じ場所で、二回目」
「何が?」
「キス」
言われてやっと思い出した。確か幼稚園の頃、親か何かが見ていた恋愛ドラマの真似事をこの公園でしたことがあった。
「じゃ、さっき言ってた『キスしたことある』って話——」
「うん? だから言ったじゃん。ソータもしたことあるんじゃないのって」
つまり、さっきまで俺は過去の俺自身に嫉妬していた……?
気付いてしまったら急に顔が火照ってきた。真明の言う通り、俺は本当に鈍いのかもしれない。
「やっぱり家で待ってればよかったな……」
「なんで」
照れ隠しにわざとぶっきらぼうに言ってしまう。それでも真明はいつも通りの無表情で、淡々と言葉を発した。
「だって、公園じゃこれ以上オトナなことできないし」
何が言いたいかはすぐに分かった。ついさっきあの部屋でベッドに押し倒されたことも、その時の真明の目の色も、全部思い出してしまった。おそるおそる横目で窺ってみたけど、幸いにも真明はいつものまま、心なしかちょっと残念そうにしているだけだ。
「どっちにせよもうお前の母さん帰ってくる時間だろ。ほら、心配するから帰ろう」
「どうせキッチンに置いといたチョコでもバリバリ食べてるよ」
すっかり忘れていたあの女の子のチョコレート。嫉妬心が消えた代わりに、少し彼女を気の毒に思う余裕が出てきている。いらない同情心を捨てるように、俺はベンチから立ち上がった。
「いいから、帰ろう」
手を引いて真明も無理矢理立たせる。
「……さむい」
「だからさ、いつもマフラー忘れるなって言ってるだろ」
いつもの癖で、俺はつい自分のマフラーを外して真明の首にかける。首に巻かれたマフラーに顔を半分埋めてから、真明はなぜか俺をじっと見つめた。
「だって、ソータの匂いがするマフラーの方が好きだから」
本当になんでこいつは恥ずかしいことをここまでずけずけ言えるんだろう。マフラーを外したはずなのに顔が熱い。
「さっき言ったじゃん。ソータに世話焼いてほしくてわざとしてるって。ネタばらししてもやっぱり構ってくれるんだから、ソータだって末期だよね」
違う、なんて言えなかった。真明の本性を知ってしまっても、俺はやっぱりこれからも真明の我儘に構い続けてしまうはずだ。さっきあの部屋で見た真明を怖いと思ったくせに、心のどこかではあの真明をもう一度見たい、と思っている。俺は結局、真明に振り回されたいし、真明の暗い罠に囚われ続けたいんだろう。
「俺ってマゾだったのかな」
言葉と一緒に白い息が空へと溶けていく。
「マゾでもいいけど、俺限定じゃないと嫌だよ。……颯太は俺だけ構ってればいいんだから」
ずっと一緒にいるからこそ分かる、真明の声の小さな変化。ぎゅっときつく握るように手を繋がれて、二人歩き出す。幼馴染というレールから一歩逸れたその先に、一体何が待っているんだろう。新しい関係、新しい真明の素顔、世界の何もかもが変わってしまった今、信じられるのは繋がれたこの手の温かさだけ。
リラックマってかわいいですよね。あんなのがうちに来たら面倒見ちゃいますよね。でも背中にはチャックがあって、中身はわからない……。
面倒見たくなる皮を被ってるけど、本当は全部計算ずくの中身がいる…っていう黒リラックマな攻めがいたら変人でいいなあと思って、本当にそれだけのために書いた話です。
今後の人生きっとソータ君は大変だろうな〜、かわいそうに(他人事)。
バレンタインがなぜ金曜日なのかというと、2015年に書いたままこうしてお外に出すまで1年以上PCに眠らせていたからです。