金曜夜の飲食店内は、どこか浮き足立ったようなざわめきで埋め尽くされている。アルバイトであろう店員たちが忙しく行き交う様を、真嶋はぼんやりと眺めていた。
「真嶋さん、どうしました?」
その声で、真嶋は向かいにいた石川に焦点を合わせた。
「いえ、何でもありません」
「真嶋さん、大して飲んでないのにもう酔ってるんじゃないの〜?」
そう言いながら絡んできたのは、隣にいた松本だった。真嶋より彼の方がむしろ酒が入っているようだ。予定通り開かれた報告会の打ち上げは、既に終わりに近付いている。松本の飲んでいたペースを考えれば、そろそろ頭が回らなくなってくる頃だろう。
「松本さん、それ飲み切らずに止めた方がいいですよ」
真嶋が忠告するも、彼は残っていた梅酒をぐいっと飲み干した。
「真嶋さんは逆にもっと飲んだ方がいいって。全然頼んでないでしょ。飲み放題なのにもったいない」
そう言うや否や、松本は近くにいた店員を呼び止め、勝手に数人分の飲み物を注文しようとした。しかし店員から「ラストオーダーの時間が過ぎています」と言われ、彼はがっくりと肩を落とす。
「ラストオーダーってさっき言われてそれ頼んだじゃないですか」
「そうだっけ」
真嶋の指摘に対して、松本はとぼけてみせる。そんなやり取りを見て、石川はクスクスと笑った。松本が彼女に何か文句を言い始めたが、真嶋はまた彼らから注意を逸らした。
隣の松本を挟んだ先には、二神が座っている。彼は木村とずっと最近の携帯電話のスペックか何かについて雑談しているようだが、その顔は見えない。真嶋がわざと彼の顔が見えない場所を選んで座ったのだから当然だ。
昨日の出社時のあの出来事以来、真嶋はなるべく彼との接触を避けていた。話しかけないというだけでなく、わざとオープンスペースで仕事をしてみたり、昼食の時間をずらしたりして、彼をとにかく視界から追い出そうとしていた。そうすれば忘れられると思ったからだ。なのに、モヤモヤとした未練のようなものは未だに消える気配がない。
「真嶋さーん、聞いてます?」
松本に呼ばれて、真嶋は我に返った。
「あ、すみません。何でしょう?」
「やっぱり真嶋さん変だって。そもそも、何か昨日あたりから変。二神さんもそう思いますよね〜?」
上擦った声で松本が二神に話を振った。
「ごめん、何?」
「真嶋さんの様子がおかしいって話ですよ。何となく、よそよそしいっていうか……そういえば、二神さんと真嶋さんが話してるところも今日は見てないような?」
松本の言う通り、二神とは昨日から仕事に関する会話すらしていない。酔っているくせに余計なことは覚えているらしい。むしろ酔っているからこそ、ずけずけと思ったままを言っているとも考えられる。
「あれー、もしかして、二神さんと真嶋さん、なんか喧嘩とかしちゃってます?」
左右に座っている二神と真嶋を交互に見ながら、松本は怪しい笑みを浮かべている。真嶋が何も返せないでいると、二神はがばりと机に顔を伏せた。
「そーなの! 真嶋さんと俺の熱い絆は今ブロークン寸前なんだよ!」
いつものわざとらしい彼の冗談に、テーブルが笑いに包まれる。
「どーせ痴話喧嘩でしょ〜?」
二神のふざけた態度から、皆この件に深刻な問題はないと判断したようだ。周りを心配させない上手いやり方ではあるが、真嶋は二神の本心が気になった。
「ていうか、二神さんもだいぶ酔ってます?」
松本がつついても、二神は顔を上げない。
「あ、寝た?」
そうこうしている内に予定していた時間が過ぎ、一同は追い立てられるようにして席を立つ。
「二神さん起きてくださーい」
松本が声をかけるが、二神は動かない。
「俺会計行ってくるんで、二神さんの方は頼みます」
松本はよりにもよってその役割を真嶋に押し付けた。他の面々も先に行ってしまい、残ったのは真嶋と二神だけになる。
「あの……二神さん、もう店出ますよ」
初めは声をかけるだけ。しかしやはり反応がない。彼の腕を掴もうかと手を伸ばすが、力強く振り払われた記憶が真嶋を怖気づかせる。迷っている間に、運良く二神が自分から顔を起こしてくれた。
「うー、ねむい」
「とりあえず外出ましょう」
真嶋の声を聞いているのかいないのか分からないが、二神は返事もせずフラフラと立ち上がる。こんな状況でも会話にすらならない——真嶋がまた落ち込みかけたその時、二神の手が真嶋の腕を掴んだ。
「ねむい……気持ち悪い……」
彼は独り言のように呟いている。一瞬どきりとした真嶋だったが、彼が自分を明らかにただの支え扱いしていることに気付いて、小さく溜め息をついた。
「ちゃんと歩いてくださいよ」
「うー」
真嶋からは見えなかったが、彼はだいぶ飲んでいたようだ。店の外に出ると、しとしとと雨が降る中、他の3人は道路の脇で談笑していた。
「お、来た来た」
「二神さん、それ一人で帰すの不安ですね」
「そんなに飲んでるようには見えなかったけどなー」
木村と松本が暢気に笑う。二神は自力で傘をさすこともなく、真嶋の傘の中に入れられていた。
「でもほら、また真嶋さんちに連れてってもらえばいいでしょ」
「あれ? でもこの二人、ナントカがブロークンなんじゃないの?」
木村がおどけたようにそう言うと、松本は腹を抱えて笑い出した。
「大丈夫大丈夫。ってことで真嶋さんヨロシク」
「あの——」
真嶋の抗議を無視して、彼らはさっさと行ってしまう。4月の始めの飲み会の時と同じパターンだ。
「えと、私手を貸しましょうか?」
石川がおろおろと二神の様子を窺っている。二神と二人きりになるよりは、彼女がいてくれた方がマシかもしれない。
「そうしてくれると助かります。とりあえず、駅まで連れて行きましょうか」
「え? 真嶋さんの家じゃなく?」
「電車もまだ動いてる時間ですし、帰れるなら自宅に帰らせた方がいいかと——」
真嶋はそれらしいことを言いながら、二神を自分の家に連れ帰らない道を探った。このまま彼を連れて帰っても、彼が素面に戻った後の気まずい空気は十分予想できているからだ。もうこれ以上、彼とのことで傷付くのは嫌だった。それに何より、彼だってきっと自分とはあまり関わりたくないはずだ。
真嶋はそんなことを考えながら横目で彼を盗み見る。二神は半分真嶋にもたれ掛かるようにして目を閉じていた。
「うーん、そうですね。駅まで歩いている間に、二神さんももう少し回復するかもしれないし」
石川もそう言ってくれたので、早速歩き出そうとする。しかし、真嶋にくっ付いている二神は微動だにしない。
「二神さん、駅まで歩きますよ」
「やだ」
返って来たのは子供のような拗ねた声だった。
「いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう」
「駅はやだ。電車乗りたくない。乗ったら俺吐くよ」
真嶋の腕を掴んで俯く彼の表情は見えない。
「俺、真嶋さんちがいい」
「そんなこと言って——」
「真嶋さん、そんなに俺のこと泊めるの嫌なの?」
酔っ払いのいちゃもんといった風ではなく、本気で悲しげな声色でそう言われ、真嶋は心が痛んだ。
「それは、その——」
ふと視線を感じて石川を見ると、彼女は何かを訴えるようにじっと真嶋を見ている。「二神を傷付けるな」と言われているような気がした。
「……分かりました。僕の家が行先なら、ちゃんと歩いてくれますよね?」
二神はやっと顔を上げると、真嶋を見てこくりと頷いた。
「そういうわけなので、石川さん」
「真嶋さんの家まで手伝わなくてもいいですか?」
「ええ。駅よりは近いですし」
「それじゃあ、二神君のことよろしくお願いします」
この前と同じように、彼女は意味深に二神のことを真嶋に託した。反対方向に歩いていく彼女を見てから、真嶋も二神を引っ張って歩き出す。
もうどうにでもなれという気分だった。酔った上司を一晩泊めるだけのこと。仮に正気に戻った二神と何か気まずくなったら、二神の強い要望で連れてきたのだとハッキリ反論すればいい。
真嶋はそうやって色々考えることで、あえて今触れ合っている二神から意識を逸らした。
***
約2か月前と全く同じ——見慣れた自分のベッドに、酔い潰れて眠る上司。また彼をここに連れてくることになるなど、夢にも思わなかった。そしてあの時と同じように、真嶋は彼を恐れている。ただし、その理由はあの時とは全く違っていた。
目を閉じてすやすやと眠る彼は無防備極まりない。真嶋が何かしようと思えば何でもできてしまうだろう。だからと言ったところで、真嶋の性格的にここで何かするつもりも起きなかった。
寝室を出てリビングに戻った真嶋は、ジャケットだけを脱いでソファに座り込む。明日の朝になって、彼とどんな会話が為されるのか、そもそも会話が発生するのか——色々なケースを想定しては打ち消した。
このまま明日の昼まで眠っている間に、彼が黙って出て行ってくれるパターンが一番楽だ——そんなことを考えた瞬間、寝室のドアががちゃりと開いた。出てきたのはもちろん二神だ。よりにもよって、彼がすぐに起きてくるという一番面倒なパターンになってしまった。
「二神さん、あの、もう大丈夫なんですか?」
心配して立ち上がった真嶋をよそに、彼は何食わぬ顔でキッチンへ移動した。
「うん。だって俺、最初から酔ってないし」
真嶋は驚きで声が出なかった。
「そもそも俺、全然飲んでなかったでしょ。真嶋さん、見てなかったの?」
「見えませんでした……」
「だろうね。真嶋さん、俺のこと避けてるから」
彼はコップに水を注ぎながらそう言った。
「えっと、じゃあどうして酔ってもいないのに僕の家に……?」
頭が混乱する中で、何とか話題を元に戻す。二神は、一口飲んだコップをダイニングのテーブルにコトリと置いた。
「どうしてって……やっぱり最後にちゃんと話さないと駄目だと思って」
「最後って?」
「言わなくても分かってるくせに」
確かにあんな告白をしてしまった以上、こうして彼を泊めるのは最後になるだろう。彼の言う通りわざわざ言うまでもないことだ——真嶋は口を閉ざした。
「あのさ、真嶋さんって……」
そこで二神はテーブルに視線を落とし、一旦間を置いた。
「真嶋さんって、石川さんとどこまでいってるの?」
「……? 石川さんと僕がどこかに行くんですか?」
真嶋の言葉に、二神は勢いよく顔を上げた。
「場所じゃなくて! ほら、キスとか、セックスとか……どこまで進んでるのかなーと」
「はい? 彼女とはただの友人です。その質問が出てくること自体、意味が分かりません」
あんなメールを二神に送ったのに、彼がどうしてそんなことを考えたのかまるで理解できない。
「だってほら、この前も遅くまで一緒にいたみたいじゃん」
「ちょっと飲みに行っていただけです」
「電車無くなってる時間だと思うけど」
「石川さんもこの辺りに住んでるので、電車の時間は関係ありません」
「でも……この前石川さんがミスした時だって、なんかそんな空気だったし」
何日か前のあの失敗を思い出し、真嶋は暗い気分になる。
「失敗した後輩を慰めるのに空気も何も……」
「普通後輩の女の子慰めるのに肩なんて触らないよ」
「それは……どうすればいいのか分からなかっただけで、特別な気持ちはありません」
二神なら女性を慰める方法も心得ているのだろうと思うと、彼の前でこんなことを正直に言うのも恥ずかしい。しかし二神は馬鹿にするようなこともなく、じっと真嶋を見つめた。
「じゃあやっぱり、真嶋さんが空気読めてないだけだったんだ」
「もしかして、僕はもう少し空気読んだ方がいいって、そのことだったんですか?」
「むしろそれ以外に何があるの? 石川さんは明らかに真嶋さんに気があるのに、あんなムードの中であんなことしちゃって、俺が来なかったらどうなってたと思うのさ」
「石川さんは別に僕のことなんて何とも思ってないでしょう。僕はてっきり、二神さんを庇ってでしゃばったことを言ってしまったのが悪かったんだとばかり——」
「それは、別に、むしろ嬉しかったけど……」
彼はそのまま口籠ってしまう。どんな話題でも会話に詰まることなく軽快に話すいつもの二神ではない。逆に言えば、真嶋が垣間見たことのある弱った二神に近い。真嶋はソファから離れて、彼のいるダイニングへゆっくり近づいた。
「二神さん、それで最後にきちんと話したいことっていうのは? まさか今の話ではないですよね?」
彼はそこでまた俯いて、テーブルについた自身の手を見下ろした。
「真嶋さんは、俺のどこが駄目だった?」
「駄目って? すみません。さっきから全然話が見えません」
「だって、真嶋さんが今のプロジェクトに不満を持つなら、俺以外理由なんて考えられないし」
「僕が……不満?」
真嶋が首を傾げると、二神も怪訝な顔で真嶋を見た。
「真嶋さん、できればプロジェクトの移動を希望してるって桜庭さんから聞いたんだけど」
そんな希望を出した覚えなどない。寝耳に水というのはまさにこのことだ。
「真嶋さんが抜けてもいいかどうかって、俺のところにも話が来て、桜庭さんたちは真嶋さんにちょうどいいジョブが他にあるとか何とか、言ってて……真嶋さん、多分異動になるよ」
彼の話を聞いている内に、一つ思い当たることが浮かび上がった。先週の半ば、二神への恋愛感情に悩んでいた時、メンターとの面談で話したこと——とりあえずプロジェクト移動の可否だけでも確認しておく——あの話が巡り巡って彼らの耳に入ったのかもしれない。というより、それ以外話の出所が考えられない。
真嶋が押し黙っていると、二神は不満気な顔で一人話を進めた。
「問題があったなら先に俺に相談してくれれば良かったのに、俺に言わないってことは俺に関係する悩みなんだろうなー、とか……」
「別にそんなことは——」
咄嗟にそう言いかけたが、真嶋の悩みが二神への感情であったことは事実だ。律儀に口を閉ざす真嶋をかわし、二神はふいっとリビングに向かって歩いて行った。
「どっちにせよ、悩みを打ち明けるほど俺を信用してくれてなかったってことだよね。俺、真嶋さんの友達だと思ってたのに、正直そうやって陰で話が進んでたの、結構キツイ」
「違う!」
どさりとソファに座った二神に、真嶋は慌てて駆け寄った。
「全部誤解です。僕はただ、プロジェクト移動の可否を軽い気持ちで聞いただけで、具体的に移動を希望した覚えなんかない。まさかそんな話になっているなんて知らなかった」
一気に捲し立てたせいで、真嶋はごほごほと咳込んだ。二神は目の前に立つ真嶋を見上げて、なおも口をへの字に曲げている。
「そもそも何でそんなこと聞こうと思ったわけ?」
「それは……僕が二神さんの負担になっているかもしれないと思って——」
「そんなわけないじゃん。むしろ、真嶋さんがいなくなったら本気で困るから、こうして……」
二神は怒りを引っ込める代わりに、切羽詰まった様子で固く目を瞑った。
困る——確かにその通りだ。恋愛感情がどうのこうのという私情よりも、途中でチームを抜けることの方がよほど彼を困らせる。
「最近僕に怒っていたのはそれが理由ですか?」
「怒ってたっていうか、うん、まあ……」
彼は憑き物が落ちたように、ぼんやりとそう答えた。
「じゃあ、今日が最後って言ってたのも?」
こくりと二神が頷く。
「この前かけてきた電話の内容もこの件ですよね?」
「あの日帰る前に、桜庭さんから聞いて思わず」
勘違いしていたことが恥ずかしいのか、二神は真嶋から目を逸らし、膝の上で無意味に手を擦り合わせた。
どうやら彼のここ最近の態度の原因は、自分の出したあの告白メールのせいではなかったようだ。そこでふと、真嶋には一つ疑念が浮かび上がる。
「……もしかして、僕からのメールを無視したりしてましたか?」
勇気を出して例のメールの件に触れそうなことを聞くと、顔を上げた二神はぽかんと口を開けた。
「え? ああ、俺一昨日携帯壊したから、そもそも何もチェックできてない。明日新しいの買いに行こうかなって思ってるけど」
「……壊した?」
予想外の返答に、真嶋は開いた口が塞がらない。
「うん、ほらちょうど真嶋さんにさっきの件で電話した後。ていうか、俺のせいじゃないんだけどさ」
真嶋はそこで、あの日聞いたものを思い出した。
「あの時、誰かと一緒にいましたよね?」
嫉妬心を隠して極力普通に尋ねる。すると、二神も何でもないように苦笑した。
「ああ、兄貴が……」
「お兄さんがいたんですか?」
「そーだよ。俺にはお兄さんがいて、あの日も口うるさいお節介なお兄さんが俺の部屋にいたの」
二神は冗談めかしてぷりぷりと怒って見せた。
「兄弟喧嘩ですか」
真嶋が呟くや否や、二神はむーっと頬を膨らませた。
「兄貴が悪いんだよ。『気になるなら電話しろー』って、無理矢理俺の携帯で真嶋さんにリダイヤルしようとしてさ、もみ合いになって、こう、棚に携帯がガツンと……」
二神は片手を上げてその時の動作を再現している。
メールの返事がなかった理由も、彼が一緒にいた男のことも、分かってしまえば何てことはない。二神と同じように、真嶋も勝手に勘違いしていたのだ。緊張が解けた真嶋は、ふらふらと二神の隣に腰を下ろした。
並んで座ると、途端に沈黙が落ちる。何か言うべきだろうか。何を言うべきだろうか。真嶋は僅かに迷ってから、思ったことを口に出した。
「二神さんは……お兄さんがそうやって心配するくらい僕のことを気にしていたってことですよね」
真嶋は彼の方をあえて見ないように前を見ていたが、横で彼がびくりと反応したのが分かる。
「う、何でそんなこと——」
「すみません。心配をかけて申し訳ないとも思うんですが、そこまで僕のことを思ってもらえたならそれはそれで、嬉しいような気がして——」
言いすぎたと思い、真嶋は慌てて口を噤む。ほんの少しの間の後で、二神がふうっと深呼吸するように息を吐いた。
「うん、そうだね。俺真嶋さんのことばっか考えて、めちゃくちゃ気にしてたと思う」
冗談っぽさもなくストレートに言われ、真嶋は不意打ちで何も言えなかった。
「こうやって真面目に話すの、なんか久しぶりで調子狂うな」
二神はそう言って苦笑する。真嶋が黙っているせいで、室内はまた静かになった。
やけに長く感じられた沈黙の後、二神はソファの上で膝を抱えて小さくなる。真嶋が彼に視線をやったその時、彼は膝に顔を埋めたままぽつりぽつりと話し出した。
「真嶋さん、俺さ、高校の時好きな人がいたんだ。一つ年上の先輩で、本気で好きだった」
随分唐突にも聞こえたが、真嶋は黙って話を聞いた。
「先輩が卒業する日、思い切って告白したんだけど、やっぱり駄目だったんだよね」
彼の声は自虐的な笑いを含んでいて、悲しみは見えない。
「二神さんでも女性に振られることがあるんですね」
真嶋が正直に驚きを表すと、二神はふふっと寂しそうに笑った。
「だって、その先輩……男だったから」
彼の一言を理解するのに、真嶋の頭はほんの僅かに遅れを見せた。あの女性との噂の絶えない二神が、かつて男に告白して振られた——俄かには信じられない話だ。
「やっぱり、引いてる?」
膝の間からちらりと顔を上げて、二神は真嶋の様子を窺った。
「いえ、二神さんはいつも女性関係で色々話があったので、ちょっと驚いてしまって——」
真嶋は頭を押さえ、素直に混乱を表す。
「そうだよね。わざとそういう風に見えるようにしてきたのは俺だから」
今まで思っていた二神の一面が、音を立てて剥がれ落ちていくようだった。顔を上げた二神は、真嶋を見ることなく真っ直ぐどこか遠くを見ている。まるで過去を思い出すかのように。
「俺が先輩に告白したって話、いつの間にか同級生が皆知ってて、何となく遠巻きにされたり、からかわれたり……詳しくは言いたくないけど、とにかく高校最後の一年は何もかもが嫌だった。だから高校の知り合いが少ない大学に入って、今度は失敗しないようにしようって思ったんだ」
「石川さんが言ってました。あなたが随分変わってしまったと」
話の最初から薄々感じていたが、これが石川の言っていた二神の隠された過去なのだろう。石川の名前を出すと、二神は露骨に苦い顔をした。
「正直、ああいう元同級生に俺の過去をバラされるのが怖かったよ。でも高校の時も見て見ぬふりだった石川さんは、大学でも結局何も言わなかった」
その口ぶりからも、二神が石川を良く思っていないことは明白だ。いじめを見て見ぬふりをする人も加害者、ということだろうか。
「彼女は、あなたのことで罪悪感を持っていました」
「真嶋さんは石川さんを庇うんだ?」
責めるようにそう聞かれたが、真嶋は落ち着いて首を振った。
「彼女に言われたんです。二神さんを助けてほしいって」
ずっと前を見ていた二神が、そこでゆっくりと真嶋に顔を向けた。彼の双眸はまるで真嶋の本心を探るかのように、真剣な色をしている。
「真嶋さんは俺を助けられると思う? 俺はもう救いようのない人間に堕ちたと思ってるけど」
「そんなことないです」
真嶋がはっきりと言い切ると、二神は逃げるようにふっと視線を下に落とした。
「どうかな。ノンケを装うために何とも思ってない女の人を利用してるような奴だよ?」
「その社交性や話術を今後は正しく使えばいいだけのことでしょう」
二神はそこで膝を抱えていた手にぎゅっと力を入れ直す。
「社交性? 拒絶されるのが怖くて、後から『冗談だよ』って逃げられる道を残してるだけなのに? 周りの人も俺の話なんて『どうせ冗談だろ』ってくらいにしか思ってないよ」
まるで自分が狼少年かのように二神が吐き捨てると、真嶋の胸は自分のことのように痛んだ。
「それでも僕は、二神さんの話を全部真面目に聞きますよ」
「そうだね、真嶋さんはそういう人だから」
真嶋は思わず、二神の腕を掴んだ。
「性格なんて関係ない。僕がそうしたいからするんです」
分かってほしい一心で、真嶋は二神の目を覗き込む。彼は一度瞠目してから、苦しそうに顔を伏せた。
「……俺、もう本気で恋愛なんてしないって高校の時決めたんだ。男の人好きになっても、絶対うまくいかないから。でも真嶋さんに会って一緒にいる内に、好きになったらダメだ、近付きすぎるなって思ってたのに、やっぱりもう一回だけ、これが最後って、思い始めて——」
彼が一旦言葉を止め、顔を上げる。
「俺、真嶋さんが好きだよ」
彼の言葉が信じられず、真嶋は壊れた時計のようにぴたりと止まってしまった。
これは告白なんだろうか。二神さんから僕への? まさか。どうして。
微動だにしない真嶋の内側では、そんな感情が嵐のように巻き起こっていたが、二神の腕に触れていた手から振動が伝わって、やっと我に返る。
「俺の気持ち知ってもまだ、俺のこと助けたいって思える?」
彼の目はどこか怯えていた。
「……思います」
彼の恐怖を追い払うように、真嶋はしっかりと言い切る。しかし二神はまだ暗い顔のままだ。
「一緒にいて気持ち悪いって思わないの?」
彼の不安を取り除くためなら——真嶋は迷うことなく首を振った。
「思いません。……僕も二神さんが好きだから」
二神は目を丸くして、大きく首を傾げた。
「真嶋さん、俺の言ってる好きの意味、分かってる?」
これにはさすがの真嶋もムッとしてしまう。
「話の流れを聞いていれば分かります。二神さんと僕の『好き』は同じのはずです」
真嶋は彼の腕から手を離すと、ソファに置かれた彼の手に自分のそれを重ねた。包み込んだ彼の手は、緊張していたのか指先が冷たい。それを温めるように、真嶋は彼の指を撫でた。
「本当は、僕の方が先に言ったのに」
「何のこと?」
真嶋の呟きに、二神がすかさず尋ねる。
「一昨日メールを出したんです。一大決心で告白したのに、返事がないので振られたと思ってました」
「うわ、それ先に読んでれば俺だって今こんな死ぬほど緊張しなかったのに」
携帯を新しく買った後、溜まっていたメールは彼の元に受信されるのだろうか——そんなことを考えるが、お互いの気持ちを知った今となっては、むしろあんなつたないメールはそのまま消えてしまえばいいとさえ思う。
「あ、真嶋さんが昨日今日なんとなく変だったのってそれ?」
閃いたと言わんばかりに二神が言う。
「僕たちはお互い全然違うことで悩んでたんですね」
仕事でいつもデータ収集と仮説の組み立てを行っているにも関わらず、どうしてこんな見当外れの決めつけをしていたのか、真嶋は自分で自分に呆れていた。はっきり相手からデータを取ることを避けていた上、ネガティブな感情が冷静な判断の邪魔をする。やはり恋愛は仕事のようにはいかないのだ。
そんなことを考えていると、二神の手が真嶋の手を控えめに握り返してきた。
「でもきっと、先に好きになったのは俺の方だよ」
「いつから?」
「大学で偶然弓道場の横を通りかかった時。生垣の合間から弓をつがえてる人が見えて、堂々と真っ直ぐ立ってる姿勢が本当に綺麗だった。しばらく見てたらたまたま真嶋さんが弓道場から出てきてさ、顔見たらその……まあぶっちゃけめちゃくちゃ好みだなって。その時はすぐ諦めたけど、まさか同じ会社に入ってくるなんて思ってもなかった」
まさか大学時代からとは思ってもいなかった。真嶋の中で好奇心が疼きだす。
「僕を今のプロジェクトに誘った時から、そういう意図があったんですか?」
「半分は本当に真嶋さんが適任だと思ったから。もう半分は、うん、下心」
「最初の飲み会で僕の家に来たのも、まさか今日と同じように——」
「ううん、あれは本当に酔ってた。ここで起きた瞬間めちゃくちゃ驚いたもん。まさかこんな日が来るなんてって」
「僕だって全く同じことを思ってましたよ。……二神さん、あの日自分が何をしたか覚えてます?」
「う、セクハラしました……だってつい、テンション上がって……」
彼は身悶えるように丸くなった身体を揺らした。
「本当に酷い目にあった」
真嶋は敬語も忘れてぼやく。
「……アレ、どうやった?」
今度は真嶋が赤くなる番だった。
「ちなみに白状すると、俺はあの日真嶋さんの家の風呂場で抜いたから。懺悔します」
「な、何してるんですか」
「だって、真嶋さんの触って俺の方が興奮してたから」
二人で顔を見合わせ、何とはなしにおかしくなって笑う。二神は丸めていた身体を伸ばし、背もたれに身体を預けながら天井を見上げた。
「あんまりハマりすぎると後に引けなくなるって思ってたのに、いやー、駄目だったね。冗談に逃げてる俺と違って、真嶋さんは真面目すぎるくらい誠実で、何か羨ましくて……この人なら、って思っちゃったから」
「僕はこの性格がコンプレックスでした。人並みにうまく人付き合いもできなくて、二神さんにもきっと嫌われると思ってた」
二神が拒絶を恐れて冗談ばかり言っていたのと同じように、真嶋もいつだって怖かったのだ。やはり思った通り、自分たちは似た者同士なのだろう。
「真嶋さんってさ、人を好きになったことがないって言ってたよね。俺、それ聞いて半分安心したけど、半分はがっかりした。脈なしだなって。それなのに、なんで急に俺?」
二神は興味津々といった様子だ。真嶋は突然の問いに必死で答えを探した。
「正直言って、僕にもよく分かりません。去年トイレでいつもと違う二神さんを見た時から、ずっと引っ掛かっていて……風邪を引いた二神さんが来た時に、はっきり何とかしてあげたいと思ったんです。生まれて……初めて」
「俺、そんな弱そうに見えた?」
二神がちょっと困ったように眉根を寄せる。
「他の人にどう見えるかはわかりませんが、少なくとも僕には」
「そっか。真嶋さん視力いいもんね」
「両目とも2.0ですけど、視力とは関係ないんじゃ——」
そこで二神が笑いを堪えているのに気付いて、ただの冗談だと悟る。
「うーん、それにしてもきっかけがトイレって……ロマンなさすぎ。やっぱ真嶋さんはもーちょっと雰囲気とかさあ……」
二神は繋いでいた手を乱暴に揺すった。
「でも二神さんも、あの時のこと覚えてましたよね」
「……うん。あんなとこ見られて失敗したーって思ってたけど、相手が真嶋さんだったからある意味成功だったのかな」
「あの時二神さんの本当の顔を見なければ、僕は多分あなたを気に掛けることもなかった」
「チャラいヤな奴だってずっと思ってたかもね」
「……そうですね」
真嶋はただ正直に言っただけのつもりだったが、二神は少し面白くないというような顔で立ち上がる。何をするつもりなのかと思っていたら、彼は正面から真嶋の膝の上に跨った。今にも額同士がくっつきそうな距離で、二神はじっとりと真嶋を見る。どぎまぎする真嶋のことなどお構いなしに、二神はそのままで話し始めた。
「言っとくけど俺、別にそこまで遊んでないよ」
「でも——」
「確かに女の人と帰ることは多かったけど、全員と寝てたわけじゃないし。もちろんホテル行ったこともあるけど、大抵は疲れてるって言えば何もしないで寝かせてくれたよ」
「大抵は……ということは、噂通りのケースもあったわけですよね」
強気だった二神の顔がぎくりと顰められる。
「う、まあ……一応。俺、女の人だとあんまり、その、気分が乗らないから、こう、仰向けで目を瞑って、さあどうぞ、みたいなマグロ状態で……」
「そんなこと説明しなくていいです」
想像したくなくて、真嶋は無理矢理話を打ち切った。
「ごめん」
二神の顔に陰りが出る。今更彼の過去を責めたところでどうにもならないことは、真嶋にも良く分かっていた。仕方ないと自分に言い聞かせながら、真嶋は目の前の二神の頬に手を添えた。
「これからはもうしないでくれればそれでいいです。僕で最後にしてください」
せめてこれから先は、全部自分だけのものでありますように——彼の滑らかな肌をさすりながら、真嶋はそう願った。その指が無意識に彼の唇に行きついて、少しだけ乾いたそこを指でなぞる。そのまましばらく唇を触っていると、彼はくすぐったそうに笑って真嶋の手を退かした。
「何? 真嶋さん、キスしたいの?」
別にそんなつもりはなかったのだが、至近距離にある彼の笑顔は蠱惑的だった。真嶋が返事に窮している隙に、彼の顔がごく自然に近付いてくる。伏せられた長い睫に気を取られた瞬間、唇に一瞬柔らかいものが触れて、離れた。
「初めての人用」
彼の笑顔はいたずら好きな子供のようでもあり、妖艶な大人のようでもあった。あまりにも一瞬の出来事で思わずぼんやりしていると、二神まで急に赤くなって真嶋の肩に顔を埋めた。
「た、ただのキスじゃん、何かそこまでびっくりされると俺まで調子狂う」
「二神さんにとってはただのキスかもしれませんけど——」
真嶋がそう言いかけたところで、二神はハッと顔を上げた。
「違うよ! ……ああ、そっか。俺にとっても特別だったんだ」
「特別?」
「だって俺、今まで本当に好きな人とキスとかしたことないもん」
真嶋の膝の上で、二神は少し寂しそうに俯いた。真嶋はこういった彼の態度にとことん弱い。
これからは自分が傍にいてやろう——そんな気持ちを込めて、真嶋はやっと二神の背に腕を回した。シャツ越しに感じる彼の体温が、今はやけに高く感じられる。軽く力を入れて引き寄せてやると、二神は真嶋の肩に頭を預けた。少し細い彼の髪をふわふわと撫でてやるだけで真嶋は幸せだったが、二神の方は焦れたようにもぞもぞと身を捩り出す。
「ねえ、真嶋さんがしたいならもっと色々してもいいよ」
彼の言う『色々』の意味を図りかねていると、二神の手が真嶋の胸やわき腹を怪しく這い回った。そこで初めて彼と密着した下半身に意識が行き、彼の言わんとすることを何となく理解する。
「えと……じゃあ、その内」
真嶋がかろうじてそうかわそうとすると、二神はがばっと顔を上げた。真嶋を見る彼の口はぽかんと開いている。
「え? その内? 今日は?」
「いえ、その、お付き合いにも段階というものが、ある、ような……」
まさか今日彼とこんな関係になるとも思っていなかった真嶋は、心の準備が何もできていなかった。二神は心底不満そうに口を真一文字に結び、真嶋の胸を軽く叩く。
「真嶋さんってやっぱり頭固い! 空気読めない!」
彼はそう言って真嶋の上から退いて立ち上がった。
「え、あ……」
彼がそのままどこかへ行ってしまいそうになって、真嶋は咄嗟に二神の手を掴む。
「まあ……だから好きになったんだけどさ」
真嶋から顔を背けたまま、二神は悔しそうにそう呟いた。
「なんかたくさん話して疲れた。ねえ……じゃんけんしよ」
くるりと振り返った彼はもういつも通りだ。
「またベッドの譲り合いですか? じゃあ今日も勝った方がベッドで——」
真嶋を遮って、二神がぶんぶんと首を振った。
「ううん、勝った方が全部決める」
「全部って——」
「ちなみに俺が勝ったらせめて一緒にベッドで寝てもらうから。お付き合いの段階とか無視で」
今までじゃんけんは彼が全勝だ。このまま彼の言う通りになった場合のことを考えて、真嶋は既に心臓が飛び出しそうになっていた。
「そーだ、ついでに俺が勝ったらその敬語も全面撤廃してもらおう」
「敬語って寝る場所とは関係ないんじゃ——」
「はいはい早く、最初はグー、じゃーんけーん」
聞く耳持たない彼の掛け声に合わせて、真嶋は覚悟を決めてパーを出す。どうせ負けた——そう思って彼の手をよくよく見ると、彼の手は固い握り拳だった。
「あれ?」
まさか負けると思っていなかったのか、二神は目を真ん丸にして固まっている。
「あ、えっと、勝った方が全部決めていいんですよね?」
真嶋は恐る恐る二神の反応を窺った。彼はまるでこの世の終わりかのようにがっかりしている。このまま彼を一人ベッドに行かせるのは忍びない気がした。
「……じゃあ、僕も二神さんもベッドで」
当初の二神の希望通りのことを言ってやると、二神はまたもや信じられないというように目をぱちくりさせた。
真嶋はソファから立ち上がり、とりあえず寝室に向かおうとしたが、二神はその場に立ち尽くしている。手を引いても反応がないため、真嶋はそっと口を開いた。
「ハルト」
呼んだ途端、二神は本当に飛び上るほどびくりと震えた。
「すみません。お兄さんがそう呼んでたのが羨ましくて、何となく真似してみたかったんです」
さっきから驚いてばかりの二神を見て、真嶋は珍しく声を出して笑った。
「あ、真嶋さんの笑った顔、やっぱり……」
「何か言いました?」
「何でもない! シャワー浴びよっかなって言っただけ!」
二神はそう言って逃げるようにバスルームに向かう。彼が耳まで赤くなっていたことにも気付かず、真嶋はただ首を傾げた。
***
「真嶋さん、そろそろ起きないと遅刻だよ?」
すぐ傍から聞こえた甘い声で、真嶋の意識が呼び起される。前にもこんなことがあったなと思いながら目を開けると、二神の顔がすぐ目の前にあった。
「おはよう」
にっこりと笑う彼は、真嶋と同じベッドで寝ている。
どうして彼がここにいるのだろう——寝ぼけた頭でそんなことを考えてから、昨夜のことをゆっくりと思い出した。あれは夢ではなかったのだ。
「今日は土曜日、です」
「残念。また引っ掛かるかと思ったのになー」
口ではそう言いながらも、二神は嬉しそうに真嶋の身体に抱き付いてきた。
「昨夜は激しかったね。真嶋さんがベッドではあんな性格になるなんて」
「何もしてないですよね」
交代でシャワーを浴びてからベッドに入って寝ただけだ。二神の冗談に律儀に返してやると、彼は真嶋の胸で首を振った。
「真嶋さん、つれなーい」
「事実の捏造を訂正しただけです」
「駄目。もうめっちゃ傷付いた。だからお詫びに今日俺に付き合って」
「……付き合うって何を?」
真嶋が聞き返すと、二神が顔を上げる。狭いベッドの中のこの距離感にまだ慣れず、整った二神の顔を目の前にして、真嶋の鼓動は少し早くなった。
「ケータイ買いに行くの」
身構えていた真嶋だったが、案外普通の要求にほっと胸を撫で下ろした。
「いいですよ」
「やった。デートデート」
二神はいそいそと身を起こす。
「真嶋さん早く起きて。朝ごはん食べよう」
「食べようって……作るのは僕なんでしょう?」
ベッドから立ち上がると、二神は楽しそうに頷いた。
「俺真嶋さんの作った目玉焼きが食べたいなー」
いつかと同じことを彼が言う。
「分かりました」
真嶋の答えもあの時と同じ。ただ二神はもう驚くことはなく、はにかんだように笑うだけだ。彼を幸せにしたい——ずっと抱いていた願望が、やっと実現され始めたような気がした。
綺麗に焼きあがった目玉焼きとハムの皿を両手にダイニングテーブルに行くと、二神が机に突っ伏して「うーん」と唸っていた。
「二神さん、どうしたんです?」
「ケータイ、どうしよっかなって」
顔を上げた二神の目の前に皿を置いてやると、彼は小さく礼を言った。
「機種のことですか?」
「ううん、そうじゃなくて。完全に新しい番号とメアドにしようか迷ってて」
「どうしてそんな面倒なことを?」
「何となく、今までの繋がりを一度リセットしようかなって迷い中。だってさ、絶対香田さんとかまた誘いに来るよ。あの人、俺なんかより真嶋さんにターゲット移してるしさー」
「そんなまさか」
「あ〜、石川さんのことといい、香田さんのことといい、真嶋さんは女の人の好意に鈍感すぎるんだって! 真嶋さんに悪い虫がつかないように心配する俺の身にもなってよ」
席に着いた真嶋は、それに関しては何も言いようがなかった。
「で、真嶋さんはどっちがいいと思う? 俺のケータイ」
「……それは、二神さんが決めることです」
真嶋の答えが気に入らないのか、二神はテーブルを指でコツコツと叩いた。
「こーいう時はさ、ちょっとくらい束縛っていうか執着心みたいなものを見せてほしいんだけど」
「と言うと?」
「他の奴の番号なんて全部消して、自分の連絡先だけ入れておけ! みたいなこと、真嶋さんは思わないの?」
真嶋はトーストに伸ばしかけた手を止め、ほんの少し考えた。
「そうですね。二神さんが僕以外の誰とも連絡を取らないなら、僕は多分嫉妬することもなく平和でしょう。でも、それは僕の都合です。二神さんにとって、それが本当にいいことなのかは分かりません」
「俺に、とって……? うーん」
「二神さんは、今までの交友関係を虚しいもののように思っているかもしれませんが、本当に全部捨てていいものなのかは疑問です」
真嶋自身、彼のネットワークに助けられたことは何度もある。それは彼にとっても財産の一部であることに違いはない。しかし二神が黙ってしまったので、やはり答えを間違えたのかと慌てる。
「その、もちろん二神さんが誰かと連絡を頻繁に取るようなら、僕は嫌ですけど……」
念のため本心を言うと、二神はふふっと小さく笑った。
「うん。感情とはまた別に、メリットデメリットをちゃんと考えないとね」
彼は機嫌を直して箸を取る。結局彼はこのまま今まで通りの番号を使い続けるのだろうか——彼の選んだ答えを考えながら、真嶋はふとあることを思い出した。
「あ、いや、やっぱりリセットしましょう」
「急に何?」
彼がここで過去のアドレスや番号を捨ててくれれば、真嶋のあの告白メールも闇に消えてくれるだろう。真嶋が不明瞭な声で唸っていると、二神は「あっ」と言ってからにやりと笑った。
「そーだ。真嶋さんからのメール読まないと。まだちゃんとサーバーに残ってるよね? 新しいケータイで受信すれば溜まってた分も届くよね? ああ、お店の人に確認しないと〜」
もうこうなってしまってはおしまいだ。楽しそうな二神を横目に、こっそりと溜め息をつく。諦めて手を付けた朝食は敗北の味がした。
***
月曜の午前。打ち合わせの終わったミーティングルームで、真嶋と二神は桜庭を呼び止めた。
「真嶋さんが異動? いや、そんな今すぐの話じゃないけど」
桜庭のその言葉を聞き、二神と真嶋は声を揃えて「えっ」と言ってしまった。
「でもこの前、なんかそんな話を——」
「もうすぐ立ち上がりそうなプロジェクトがあるんだけど、ちょうどこっちが終わる頃から始まりそうだから、次はそっちが真嶋さんに合ってるんじゃないかって話してたけど、今すぐの話はしてないね」
これもやはり二神の早とちりだったらしい。
「というわけで、あと3か月、最後まで今のメンバーでやってもらうからね」
桜庭はにこやかにそう言って部屋を出て行った。
「なんか……勝手に騒いでごめん」
二神はしょんぼりと項垂れている。
「別にいいじゃないですか。その勘違いのおかげで二神さんは僕と話をする気になったんだし」
真嶋はそこまで言ってから、ファイルやノートパソコンをまとめる手を止めた。
「でもどっちにせよ、あと3か月なんですよね」
プロジェクトも人も目まぐるしく移り変わっていく——この会社では当たり前だと思っていたことが、今は真嶋の胸をきつく締め上げている。
「真嶋さん、寂しい? でも別に、プロジェクトが違ったって、会社が違ったっていいじゃん。俺たち、いつでも会える……よね」
「時間さえ、あれば……」
そうは言ってもこの忙しい会社では中々時間を確保するのも難しいだろう。
真嶋が不安に思っていると、二神は部屋の入り口の方を窺った。誰もいないことを確認し、彼は真嶋をじっと見上げる。
「俺、真嶋さんちに住みたいな。そしたら、どんなに忙しくても家で会えるし。……やっぱりまだ早いと思う?」
真剣な表情——もう冗談で誤魔化すことをやめた彼を見て、真嶋は場所も忘れて思わず彼の身体をぎゅっと抱き寄せた。
「大家さんにちゃんと言って……あと、ベッドはもう少し大きいのに変えた方がいいですね」
耳元でそう囁いてやると、二神は嬉しそうに「うん」と頷く。互いの顔を見合わせていい雰囲気になったところで、廊下の方から誰かの話し声が聞こえた。いくら会議室の中とはいえ、会社でこれ以上はまずいだろう。
二人で慌てて部屋を出ると、廊下にいた男3人とばったり出くわす。
「お、二神じゃん」
一人が二神の肩を叩く。無造作にスタイリングされた髪も、さり気ない耳のピアスも、真嶋にはまだ苦手意識が残っている。いつものように真嶋は空気に徹しようとした。
「何、打ち合わせ?」
「え、うん、イチャイチャ大事な打ち合わせ」
二神はいつもの調子でそう言うと、真嶋に腕を絡めてぐいっと引っ張った。よりにもよって、男たちの視線が真嶋に集中する。
「あ、あの、はい、今後の大事な話を……」
真嶋が全部言い終わらない内に、男たちはぶっと吹き出した。
「ほら二神〜、ドン引きされてんじゃん」
「真嶋さんはそんなことしないよ! 俺には超優しいもん。ね?」
二神がちらりと真嶋に視線を流す。さっきから彼は冗談のフリをして大胆すぎるのではないか——真嶋は呆然と首を振った。
「ドン引き、という言葉が相応しいかは分かりませんが……僕には二神さんが何を考えているのか全く理解不能です」
「何それ!」
二神がムッとすると、男たちは声を上げて笑った。
「何考えてんのか分からない……それ、去年こいつと同じプロジェクトだった時、上の人がしょっちゅう言ってた」
「ええ、今のプロジェクトでも仲間内で言われてますよ」
真嶋が思わずそう言うと、二神はぎゅっと真嶋にしがみついた。
「う、嘘!?」
「本当です。誰が言ったとは言いませんが」
「松本さんでしょ! 絶対!」
二神が悔しそうにそう言う姿を見て、男たちは笑い声を大きくした。
「もっと言ってやっていいっすよ」
彼らが口々にそう言った時、ちょうど近くのドアが開き、廊下の彼らに集合がかかった。「じゃあな」と別れを告げて彼らがいなくなると、廊下には腕を組んでくっつく真嶋と二神だけが取り残される。
ずっと天変地異か何かが起きない限り、彼らと仕事以外で話すことはないと思っていた。しかし、別に怖がらなければ彼らのような人とも話せるものだ。この春から2か月あまり、普通に仕事をしながら生活しているだけだったはずなのに、二神との出会いで何かが少しずつ変わっている。
真嶋が一人そんなことを考えていると、隣の二神が仕返しとばかりにふふっと笑った。
「俺の話なんて皆冗談だと思ってるから、逆にこれを利用すれば、真嶋さんと社内で堂々とイチャイチャしてても——」
「何考えてるんですか。駄目ですよ。バレたらどうなると——」
「バレないって。冗談王の俺なら誰も信じない信じない」
彼はそう言ってスキップでもするかのような足取りで先に歩いて行ってしまう。
あの年下の上司改め恋人と今後うまくやっていけるのか、真嶋はやはり不安を抱かざるを得ない。それでも、これから彼と過ごす毎日には期待の方が大きかった。
普通は最後あそこでエロ入れるべきなんだろうけど、なんとなく真嶋氏を簡単に脱童貞させたくなかったので持ち越しました。
この二人は初体験までめちゃくちゃ苦労すればいいと思うし、いつか二神さんの元想い人でも出てきたら楽しいことになりそう。