正しく境界を越える方法 3 | fDtD    
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3

 なぜ遊園地や水族館がデートスポットとして人気で、動物園の名前はそこまで聞かないのか、現場に行ってみれば良く分かる。まず、その匂いだ。いや、ただちょっと臭いだけならまだ非日常の空間として楽しむ余地はある。
 それよりももっと大きなリスクが他にあることを、信宏は今目の当たりにしていた。ここは、普段のんびりと葉っぱを食んでいるはずのキリンがいるゾーン。家族連れもぽつぽつと見守る中、草食系のキリンが2匹、真昼間からぴたりと密着している。密着していると言っても、横から寄り添っているわけではなく、1匹の背後にもう1匹がくっ付いている。空気的には今にもバックで交尾を始めそうだが、まだ入っていないというギリギリの状態だ。
「信宏、ちょっと……」
 智己に小声で話しかけられて我に返る。
「あ、あ、何?」
「ガン見しすぎ」
 無意識だったが、本番は今か今かと食い入るように見つめていたらしい。
「いやあ、仲良しで結構なことだなと……」
 掴んでいた柵からパッと手を離して言い訳した瞬間、キリンに動きがあった。背後にいた方のキリンがついに勢いよく突っ込んでマウントを取ったかと思ったら、すぐに身体を離してしまった。
「え……入れたの? 終わり? 早漏?」
 思わず漏らすが、智己の方は気まずそうに何も言えないでいた。確かに、こんなところで堂々と動物の交尾行動を観察している自分の方が変わり者なのかもしれない。
 近くで小さな女の子が「ママー、あのキリンさん何してたの?」と無邪気に恐ろしいことを言い放ち、周囲の空気は益々気まずいものになった。

「今日、ホントに良かったの?」
 人の少ない爬虫類館に近付いた時、智己がふいに呟いた。
「何が?」
「だってこんなところ誰かに見られたらまた誤解されるのに」
「え? ああ、えっと」
 同じような台詞を妄想の中で聞いた気がするが、用意していた答えがすぐに出てこない。
「俺を助けるために信宏まで変な誤解されてて、最近ちょっと心苦しい」
 乱れてもいない髪をサラサラといじる智己は、本当に申し訳なさそうに眉根を寄せていた。
「いや、俺は別に……そーいうの、全然気にしないし?」
 彼を安心させたいのに、なぜか言葉がかっこよく決まらない。
「でも、あそこでやりすぎたのは俺の責任だから、何とか信宏に迷惑かかんないようにしたい……って思うわけ」
「最近智己が俺とあんま一緒にいないようにしてたのって、それが理由?」
 答えはない。ただ、足を止めて目を伏せてしまった彼の態度を見れば、その沈黙が肯定を意味していることは何となく分かる。
 智己に変な心配をかけさせたくない。俺は大丈夫だから、安心して。
 でも、智己に気遣ってもらえるのは嬉しい。もっと俺のことで頭を一杯にして。
 相反する二つの声が頭の中で会話する。
「ちょっと、こっち」
 どちらの感情が勝利したのか自分でも分からない内に、気が付いたら智己の手を引っ張って、人の少ない休憩用のベンチに向かっていた。すぐ傍の展示スペースが調整のため空になっており、見る動物もいなければベンチに近付く客もいない。無理矢理智己を座らせてベンチに二人並んでから、信宏はごくりと唾を呑み込んだ。
「あの、ですね」
「何?」
「博樹や康太ほど分かりやすく出してないけど、一応俺にも性癖があって、ですね」
「何でそんなかしこまってんの」
 智己が笑ってくれたので、信宏も少し緊張がほぐれる。
「ドン引きされたら嫌だなーって、ちょっとビビってる」
「言いたくないなら別に——」
「いや、先週お前も言いにくいこと教えてくれたし、俺もちゃんと話したい」
 さっき突然湧き起こった決意を手放してしまわぬよう、膝の上で握った拳に力を込める。
「ぶっちゃけると、今噂になってること、別にそこまで嫌じゃない」
「どういうこと?」
「俺、男同士に全然偏見ないっていうか、男二人組見て勝手にカップル妄想とかしちゃうタイプで……。まあ、うん、そんな感じ」
 言った。ついに智己にもバラしてしまった。歯切れの悪いカミングアウトだったが、自分の中では及第点だ。
「ゲイとかバイとか、そういうこと?」
 今まさに悩んでいる質問をぶつけられても、答えなど持っていない。智己の声には非難の色も軽蔑の色もないが、その分、何を思っているかも分かりづらかった。
「うーん、どうかな。とにかく、俺が男とどうこうって噂になっても、別に嫌悪感とかないし、あんま気にすんなってことが言いたくて」
「お前が嫌悪感無くても、周りからどう思われるかって考えたら——」
「別にいいじゃん。友達なら博樹も康太もいるんだしさ、たかが大学生で失うような社会的地位があるわけでもなし」
 それは彼を安心させるための方便ではなく、かなり本音に近かった。同性愛者だとバレたところで、現時点で失うものはそこまで大きくはない。もっと様々な友人やら好きな女の子やらがいれば、もう少し周囲の目に敏感にもなるのだろうが、悲しいことに友人は理解のありそうな数人だけで、いい感じになっている異性もいないのだ。何年か後に社会に出る頃には、そんな噂も忘れられているだろう。
「そんな風に思えるって、信宏はすごいな」
 そう言ってもらえると悪い気はしないが、未だに自分がゲイかどうか断定しかねているあたり、褒められるほど自分ができた人間だとも思わない。
「智己は、あの噂のこと気にしてる?」
 内心恐る恐るだったが、なるべくさらりと聞いてみた。
「んー、苦手な連中を遠ざけられるなら、むしろ歓迎かな」
 そう言った彼は、いたずらを企むかのように口角を上げた。この噂が流れる以前と同じ、男友達に戻ったかのような空気だ。
「そっか。じゃ、来週の日曜も……あ、駄目だ」
「何かあんの?」
 智己の追及にたじろぎ、意味もなく首筋を掻く。
「康太と博樹の手伝いでちょっと」
「手伝いって何の?」
 どうやら誤魔化して逃げる道は断たれているらしい。
「その、同人誌即売会で、おつかいを頼まれてて……」
「それ、俺も行っていい?」
 思わぬ提案にぎょっとする。強い口調で来るなとも言えず、信宏は何度か口をパクパクさせた。
「いや、えと、性的なことに嫌悪感があるなら、行かない方が無難……だと思う」
「そう?」
 涼しい顔で首を傾げる彼に向かって、こくこくと大きく頷いた。いくら二次元と現実は違うとはいえ、レイプ被害にあった彼に、少女たちが汚い男に乱暴に犯される本など見せたくはない。
「じゃ、土曜日、信宏んち行っていい?」
 さっきよりもさらに大きく頷くと、智己にクスクスと笑われてしまった。今の彼からはもう、最近感じていたよそよそしさのようなものはない。
 やはり勇気を出して話してみて良かった。信宏は自分で自分を褒めると同時に、このちょっと臭くて人の少ない動物園に感謝した。


***

 木曜日は5限まで授業を入れているため、授業が終わった時にはもう外は暗くなっていた。
「信宏ー、今日もやってく?」
 少し離れた場所に座っていた優が、鞄を持って近付いてくる。月曜、火曜、水曜と何だかんだで毎日1回は彼とゲームをしていたため、今日もその誘いのようだ。
「おー、ていうかお前さ、見るたびに強くなってんのおかしくない? どんだけやってんだよ」
「ゲーマー舐めるなよー」
 優は席に座ったままの信宏に背後から覆いかぶさり、がっちりと首をホールドした。
「痛い痛い」
 じゃれていると、教卓で教授に質問していたはずの智己が戻ってきた。
「あ、いや、これは」
 言い訳っぽい言葉を口走りながら、優を引き剥がしてがたりと席を立つ。
「またゲーム?」
 智己は特に気にした風でもなく、やれやれと苦笑した。あのカミングアウトをした後でも、彼はこうやって笑ってくれる。
「イエース! 智己も一緒にやろうよ」
 優のありがたい誘いにより、智己と一緒にゲームができるかもしれない、という期待が胸を過る。
「あー、俺そもそもゲーム機本体まだ持ってないし」
 速攻で希望を打ち砕かれがっかりしていると、優に思いっきり腕を掴まれた。
「ゲームなんかやらないリア充の発言だー! 信宏、逃げるぞ!」
「うわ、おいっ」
 走り出した彼に引き摺られながら、智己に大慌てで「じゃあな」と挨拶する。校舎を出てサークルの部室に近いところまで来た時、優はやっと口を開いた。
「ざーんねん……だったね?」
「え?」
「せっかく智己も誘ったのに」
 優の三日月に細められた目は、何か余計なことを考えているらしい。
「優はそんなに智己が気になんの?」
「それは俺じゃなくて、信宏の方でしょー」
 白状しろと言わんばかりに、優は信宏の腕をツンツンと突いた。
「べ、別に……」
「あそこで智己が俺に嫉妬して誘いに乗ってくれば面白かったのに……って信宏も思わない?」
 言われてついつい妄想が始まる。頬をぷうっと膨らませた智己が、上目遣いで睨みながら……。
「信宏ってば、最近毎日ゲームばっかり。俺もゲームすれば構ってもらえんの?」
 とても魅力的な場面だが、智己の性格的にそんなことを素直に言うとは思えず、虚構の世界はすぐに幕を閉じる。
「……ないない」
「じゃ、あの噂はやっぱりただの噂かー。なら今日は一晩中俺が信宏借りていいのかな」
 優はつまらなさそうだったかと思えば、すぐにワクワクした顔に変わる。クルクル変わる表情は、見ていてなかなか面白い。
「おー、是非とも俺を連れ回して強くしてくれ」
 寄生して強くなる気を隠しもせずそう言うと、優はげしっと小さく蹴りを入れてきた。


***

 優は宣言した通り、ほぼ一晩中ゲームをし続けた。大学で2時間、夕食後には優の家でさらに6時間。あの集中力は見事と言う他ない。他にゲームサークルのメンバーが2人一緒にいたが、やはり彼らも長時間のプレイに何の苦もなさそうだった。疲れたと言って先に退散させてもらった信宏とは大違いだ。
 11月の朝4時の空気はかなり冷え込み、冬が迫っていることを感じさせる。優の家から徒歩でとぼとぼと自宅に帰り着いた時、ドアの前に人が立っているのを見つけた。
「朝帰り?」
「……え?」
 声をかけてきたその人物は、紛れもなく智己だった。
「何? そんな驚いて」
 コンビニの袋を下げただけの彼は、控えめな笑みを零した。
「いや、何かあったのかと思って……。あ、前来た時忘れ物とかあった?」
「ゲームとか映画とか、何か用がないと来ちゃ駄目なのかよ」
 彼がムッとしたため、慌ててぶんぶんと手を振る。
「や、別にそういうわけじゃないけどさ。あ、上がって」
 鍵を開けて彼を迎え入れ、自分は手早く靴を脱ぐ。狭い玄関で一瞬触れた智己の肩は、かなり冷たかった。
「真夜中に起きたら眠れなくなってさ、誰かと飲みたいなって思って」
「連絡してくれればもっと早く帰って来たのに」
「ビール買いにコンビニ行ったついでに何となくここ来ただけだし、寝てたら帰ろうと思ってたから、そこまでするほどでも——」
「でも、こんな時間まで待ってたのか?」
 靴を脱ぎかけた態勢で、智己の動きがぴたりと止まった。
「……うん、何でだろうな」
「俺に聞くなよ」
 おかしなやり取りに笑うと、智己もつられたようにはにかんだ。
 トイレに行ってから部屋へ向かうと、智己はテーブル脇のクッションの上にちょこんと座っていた。
「なんでそんなキョロキョロしてんの?」
 智己はデスクの周りや乱雑に物が積まれた場所が気になっているらしい。
「え? いや、信宏のシュミに関するものって、この部屋には全然ないなと思って」
 動物園での出来事から4日が経っているが、彼があの話を持ち出したのはこれが初めてだった。
「男同士のアレソレに関する本やマンガがあると思った?」
「うん。違うの?」
「俺は自分の妄想が全てだから」
 嘘ではなく本当のことだ。空想のキャラクターではなく、自分の目で直接見たことがある人物で想像したい。我ながらおかしな性癖だった。
 智己は酒を飲みに来たと言っていた割に、テーブルに置いたコンビニの袋には手を付けようとしない。「飲まないのか?」と聞く前に、智己の方が声を上げた。
「ねえ、そういう想像って、知り合いの男二人とかでする?」
「何でそんなこと——」
「いいじゃん」
「言いたくない」
 彼のいるテーブル付近を避けて、奥のベッドにどかりと座る。康太と博樹の組み合わせがきっかけだったなどとは絶対に言えない。
「じゃあさ、誰かと誰かじゃなくて、自分と誰かの組み合わせって考えたことある?」
 一番聞かれたくないところに踏み込まれ、まるで胸の皮膚スレスレにナイフをあてがわれているような気さえした。ここで返答を間違えば、そのナイフは心臓に達するだろう。
「そ、れはどういう、意味?」
「意味? あー、つまり、そういうことをしたいと思ってるお相手がいるのかなってこと」
「何で急にそんなこと聞くのか本気で分からない」
「だってあんな話聞かされたら、普通そういうことまで気になるだろ。あれから何日か気になってたけど、我慢できなくなって」
 気になる、という言葉の意味を考える。もしも友人から「男同士での恋愛妄想癖がある」と聞かされたら、自分ならまず何を気にするだろうか。そう考えれば、彼の意図するところはすぐに分かった。
「心配しなくても大丈夫。お前ではそういうことしてないから」
 嘘をついた。
 この数日我慢できなくなるほど気にしていたという彼に、かつて性的被害に合ってトラウマを持っている彼に、本当のことなど言えるはずがなかった。
 罪悪感で彼と目を合わせることができず、思わず顔を俯けてしまう。
「じゃあ誰でしてんの? あ、もしかして今日朝帰りだったのって——」
「優の家でゲームしてただけだっての。プロのあいつに手とり足とり……って、そっちの意味じゃなくてだな……」
「でも、そっちの意味でもしたいって思ってるんじゃないの?」
 彼の声はまるで冗談を飛ばすような軽い調子だったが、その声はちっとも楽しそうではない。まるで軽蔑されているような、怒っているような、とにかくそこには何か負の感情が詰まっている気がした。
「俺、は……こういう風にからかわれるために自分の嗜好をバラしたわけじゃないんだけどな」
「え……」
 智己は何か言いかけたが、今は何を聞くのも怖くて、彼を遮るように言葉を重ねた。
「お前がEDだって話、俺が一度でもからかったことあるか?」
 冷たい朝の部屋が、シンと静かになる。彼はもう何も言おうとしなかった。
「ごめん、授業まで寝たいから帰って」
 ベッドにごろりと横になって彼に背を向けると、智己はしばらくしてから部屋を出て行った。玄関のドアがばたんと閉まると、部屋は余計冷たくなった気がした。
 いつも自分の話を受け入れてくれた彼が、初めて見せた拒絶の色。男同士での妄想癖やゲイ疑惑は、彼を数日悩ませるに足るものだったらしい。
 やっぱり自分の性癖なんて話さなければ良かった。妄想は妄想のまま、自分だけが知っていればいい。その存在すら誰かに伝える必要はなかったじゃないか。なぜ、あんな話をした?
 あんな噂なんて気にしていないと、彼を安心させるため? 本当に智己のためだけだったか?
 彼ならば自分の性癖も受け入れてくれると期待してたんじゃないか? それだけでなく、あわよくば彼とそういう関係になるための第一歩として、まずは様子見のつもりだったんじゃないか?
 どうせはっきり好きだと告白する勇気もなければ、自分が男を好きだと認める覚悟もないくせに。妄想だけで足るを知る人格者ぶったところで、本当は願望を表に出すことすら恐れる小心者なだけじゃないか。
 空想の中、金網の向こうに立った自分が鋭利な言葉を次から次へと投げつけてくる。
 うるさい、黙れ、黙ってくれ。
 がばりと身を起こした信宏は、誰もいなくなった部屋を突っ切って、玄関の鍵を固く締めた。

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