他人の肌から感じる体温、自分のものではない臭い、身悶えるような吐息。固くなって疼く下半身を押し付けるように、腕の中の身体を強く抱き締める。すると細い指が貴仁の中心にするりと纏わりついて、優しく宥めるように撫でた。だが、欲しいのはそんな擽るような刺激ではない。この荒い衝動を満足させるには、もっと強い力が必要だ。
相手の背中に指先が食い込むほど力を込めると、腕の中の身体はびくんと反抗してみせた。
「た、たかひと……痛いよ……」
耳元で突然聞こえた声に意識が覚醒する。目を開ける間の一瞬で、自分が夢を見ていたのだと気付くことができたが、その後目に飛び込んできたネロの顔のアップには脳の処理が追いつかない。間近にいる彼は少しだけ頬を赤らめて、金色の目をぱちぱちと瞬きさせている。さらにおかしなことに、貴仁の腕は夢の中と同じように彼の背中をきつく抱いていた。
一体どこからどこまでが夢だったんだ?
そう思った瞬間、貴仁は自身の股間にもぞもぞと触れる何かを感じた。
「う、わ……おま、何で——」
それがネロの手だと気付くや否や、貴仁は思わず声を出していた。
「タカヒトがこれをオレの方にぐりぐりーってしてきたから、触ってほしいのかなって」
「ち、違っ」
懸命に否定しようとするも、ネロに根元をぎゅっと握られて言葉を飲み込む。
「でも、触ったらどんどん固くなったよ? やっぱり触ってほしかったんでしょ?」
「いや、だから、お前に触ってほしかったわけじゃなくて——」
単なる朝の生理現象だと誤魔化したいのだが、その先がうまく続かない。ネロの指が怪しく絡みついて、貴仁の茎を緩やかに扱き始めたからだ。
「じゃあ誰か別の人に触ってもらうつもりだったの? あ、もしかして……えっちな夢見てたの?」
「みみみ、見て、な……っ」
あの夢の内容を思い出し、ついついどもってしまう。そんな貴仁をネロはじとっと見つめた。
「嘘つき。今、これおっきくなったよ?」
ネロは貴仁のそこを叱るようにきつく握り締めた。
「ねえ、どんな夢、見てたの?」
有無を言わせぬネロの視線と、股間からの刺激に耐え切れず、貴仁はふるふると口を開いた。
「ほ、本当に、夢って言えるほどちゃんとした内容じゃなくて、その、ただ手頃なところにいた誰かを、こう、ぎゅっとしただけで——」
「その誰かってオレだよね?」
「俺としては、特に相手がお前だってつもりでもなかったけど……って、おい」
ネロはそんな反論をわざと遮るように、指の腹で貴仁の先端をくちくちと責めた。
「でも、現実ではオレのことぎゅってしてたよね? じゃあその夢も、無意識だっただけで、相手はやっぱりオレだったんだよね? ね?」
もはやここで違うなどとは言えない。貴仁は自身の股間を人質に取られているような心持ちだった。
「そ、そうかも、な……」
「そうかも、じゃなくて、そーなんだよ!」
眉をきりっと上げて必死でそう訴えるネロに対し、一瞬胸の奥に甘い感情が沸きかける。だが貴仁がそんな感情に浸る隙も与えず、ネロはゴシゴシと貴仁の中心を追い上げた。
「な、ほんとに、じ、自分でやるから……っ、待っ……」
必死の抵抗も虚しく、ネロの手の中で貴仁の欲望が絞り出される。固く目を瞑ったままはあはあと荒い息をついていると、ネロの手はやっとそこから離れていった。
「いっぱい出たねー」
その声色はとても楽しそうだ。おそらく笑顔なのだろうが、貴仁は羞恥から目を開けることができないでいた。
「タカヒト〜? また寝ちゃった?」
ネロはそう言いながら、汚れていない方の手で貴仁の顔をつねったりつついたりし始める。終いには無理矢理瞼をこじ開けられそうになり、ついに貴仁は観念して目を開けた。
「起きてるっての! ていうかそもそも何でお前ベッドに……布団で寝てただろ?」
昨夜はきちんと別々に床に就いたはずだ。貴仁は必死で昨夜の記憶を手繰った。
「布団で寝ようとしたけどー、タカヒトが寝た後でやっぱりオレもベッドに入れてもらったの」
「入れてやった覚えはない」
「同じベッドで寝るのに許可なんていらないでしょ?」
ネロは涼しい顔で言ってからむくりと起き上がる。彼が手に付いた汚れをじろじろ見ていたため、貴仁は大慌てでベッド脇のティッシュを数枚取ると、それをネロの手の平に押し付けた。
「ふふっ」
「何笑ってんだよ」
「べーつに」
そんな会話をしている内に、ネロは手を拭き終わったティッシュを丸める。貴仁は彼の手からそれをわざと乱暴に奪い取ってゴミ箱に突っ込んでから、逃げるように洗面所へと向かった。
一通り身支度を整えて洗面所から戻った時、ネロはソファに座ってニュースを見ていた。何日か一緒に過ごして分かったことだが、彼は本を読んだりニュースを見たりと、子供っぽい言動の割に大人びた行動もするのだ。
「ミツユニューだって! 珍しい動物……オレもミツユニューされるのかな」
ちらりと見えた画面には、檻に入った小型の動物の映像と共に、密輸入業者がどうのというテロップが付いていた。
「ああ、悪い奴に見つかったらお前も売り飛ばされるかもな」
「怖い!」
「そう思うんだったら外でうかつにフードを取るような真似はしないこと。あと知らない人にはついていかない」
ぴしりとそう言ってやると、ネロは小さく「はーい」と返事をした。
朝食の用意をするためにキッチンへ向かい、トースターに食パンを突っ込む。汁物を求めて棚をがさがさと漁っていると、テレビの天気予報に交じって、背後からネロが声をかけてきた。
「今日も大学?」
「大学はなし。今日はバイト」
二人分のカップにコンソメスープの粉末を入れながら答える。
「バイトって……お仕事? 何してるの?」
「ああ、それは——」
「待って、オレが当てる! えーっとね、お花屋さん!」
「俺が花屋で女性客相手に接客したり、他の女性店員と協力したりできると思うか?」
自分でそう言っておきながら複雑な気持ちになる。貴仁は出かけた溜め息を堪えて、電気ポットからカップにお湯を注いだ。
「んー、じゃあ男の人しかいないところかー」
「別に子供やおばあさんなら平気だけど」
「じゃあ、子供に勉強を教える先生! ほら、坂井さんみたいなのってカテーキョーシって言うらしいよ!」
「若い母親や綺麗なお姉さんが出てきたら……って思うと家庭教師は無理だな」
キッチンから二人分のスープを運び、ネロの目の前に置いてやる。しかし彼はそれには見向きもせずに、貴仁をじっと見上げた。
「むー、じゃあ何なの?」
「小さな税理士事務所でデータ入力のお手伝い」
パンを取りにキッチンへ戻る貴仁の背後で、ネロはきょとんと首を傾げる。
「ゼーリシ?」
「まあ、お金を扱うところだよ。税理士のおじさんと、後はパートのおばさんしかいない小さな事務所」
さらに続けようとしたところで、トースターがチンと小気味良い音を立てた。
「ふーん。それって遠いの?」
「いや、駅のすぐ近くだから歩いて十分くらいのとこ」
バターとパンを持ってソファに近付くと、ネロは勢いよく立ち上がった。
「オ、オレも一緒に——」
「ダメ」
貴仁はソファに座りながら即答する。
「行くだけ! 中には入らないから!」
パンに伸びた貴仁の手を掴み、ネロは潤んだ目で必死に訴えた。このままでは家を出るどころか、朝食すら食べさせてもらえないだろう。
「分かったよ」
観念してそう言ってやると、ネロの表情がぱっと明るくなる。彼の嬉しそうな顔を見ると、やけにいいことをした気分になるから不思議だ。「いちごジャムがない」と言いながらキッチンに駆け込んでいくネロの背中を見守りながら、貴仁はサクッとトーストに噛り付いた。
朝の十時頃というのは、多くの店のシャッターが上がり、街が一気に活気づく時間だ。自宅のあるマンションを出れば、すぐ近くのスーパーも買い物客が集まりだしていた。行き交う人々の中をネロと一緒に歩くのはまだ少し緊張する。しかしフードを被った当の本人は、あまり気にした様子もなくご機嫌のようだ。
「帰りは何時くらい?」
「向こう終わるのが十八時半くらいだから十九時までには戻る」
「じゃあオレ、お昼ご飯はどうすればいいかなあ」
「あー、そうか……。昨日千草からの荷物にお金入ってただろ? あれでコンビニでもなんでも行って好きなもん食っていいぞ」
成長期の子供には良くないだろうと思ってはいても、一人暮らしで普段からいい加減な食生活をしている貴仁には、それ以上いい案が思い浮かぶはずもなかった。
「コンビニで買い物? わー、はじめてのおつかいみたい!」
貴仁の懸念とは全く別のところにネロが反応する。嬉しそうなネロの声とは裏腹に、貴仁は真顔で足を止めた。
「なあ、お前もしかして、自分で何か買ったことない……のか?」
「ない!」
ネロはなぜか自慢気に言い切った。
「ちょっと不安だからそこのコンビニで今買おう。俺が見ててやるから」
本当はちょっとどころではなく大いに不安なのだが、それを言うとまたネロは怒るだろう。機嫌よく「はーい」と返事をするネロの手を引いて、貴仁は道沿いのコンビニへと足を進めた。
「あ、温めますか?」
研修中という札を胸に付けた若い男店員が、弁当を袋に入れる直前、思い出したように尋ねる。
「? 温めた方がいいのかな?」
会計を無事済ませたネロだったが、ここにきて答えに詰まってしまった。入り口付近の雑誌コーナーから、貴仁はさり気なく彼らの様子を窺う。
「え? えーと、温めた方がおいしいと思いますけど……」
「んー、じゃあ温めた方がいいってことだよね? 温めなくていいって言う人もいるの?」
「えっと……いますね」
「なんでだろ?」
「自分で温められる人とか? 自由に使える電子レンジがある方は、そちらを使うんだと思います、けど……」
「オレ、電子レンジ使えるのかなあ」
「えーっと……」
研修中の新人バイトまでもが、思わぬネロの反応にしどろもどろになっている。見かねた貴仁は大慌てでレジへと向かった。
「あー、いいです、温めなくて。すみません」
店員は思わぬ助け船にほっとした表情で、弁当を薄茶色のビニール袋に入れ始める。
「えー? 温めないの?」
「うちのレンジ使っていいから」
「使い方分かんないもん」
「後で教える。今日はとりあえずオートってやつを選んでスタートっての押しとけ」
こそこそと小声で話し、商品を受け取って店を出る。ネロは貴仁に財布を返しながら、「ちゃんとできたでしょ?」と言わんばかりにニコニコと笑った。
「で、何買ったんだ?」
「鳥のそぼろ弁当っていうやつ! そういえばタカヒトのお昼は? コンビニのお弁当?」
「バイトの時はそうだな。大学がある日なら、学食で朝昼兼用」
「夜は?」
「誰かと食べて帰ってくることもあるし、そうじゃなければ適当にって感じで——」
「えー、なんかさびしーね」
「ああ、彼女とかいたら一緒に外食に出かけたり、手料理作ってもらえたりするのかもな。全部ただの妄想だけど」
縁のない話をしてしまって自分にダメージが返ってくる。とぼとぼ歩き続ける貴仁を、ネロはちらちらと窺った。
「オレ、今日はスーパーにお買い物しに行こうかな」
「はい?」
不審な顔をする貴仁を無視して、ネロはどこか恥ずかしそうに顔を逸らす。
「タカヒトのために夕飯作ったら、タカヒトはオレのこともっと好きになってくれるよね」
「いや、えっと、どこから突っ込めばいいのか分からないけど、とりあえず一人で包丁とか火を使うのはやめてくれ」
何か妄想していたらしいネロだったが、まるで夢から覚めたようにパッと貴仁の方を見上げた。
「えっ、包丁とコンロ使わないとお料理できないんじゃない?」
「今度一緒に教えるから、今日はちょっと待て」
どうやら無条件で喜んでもらえるはずだと思っていたらしく、ネロは金色の猫目で貴仁を不満そうに睨んだ。ちょうど信号が赤になったため、貴仁は渋々屈んでネロと目の高さを合わせる。
「俺はな、お前が怪我したり火傷したりしたら困るから言ってるんだよ」
「オレのこと心配してくれてるってこと?」
不満と不安が混ざった目で睨まれ、貴仁はこくこくと頷いた。
「そういうこと」
これで機嫌を直してくれるかどうか——わずか数秒ヒヤヒヤさせられた後、ネロはけろりとした顔で笑った。
「なーんだ、そっか」
ほっと胸を撫で下ろしてから、青になった横断歩道を渡る。面倒な子守だという気持ちがないわけでもなかったが、自分の何気ない反応に一喜一憂するネロの姿はやはりどこか憎めないのだ。
歩道沿いに置かれた個人宅のプランターに顔を寄せ、ネロはベゴニアの花をしげしげと観察している。その後、また別の家の花壇へと跳ねるように歩いて行くフードの頭を見て、貴仁はどこかむず痒い気持ちになった。
駅の近くのテナントビルは東隣りの高層マンションの陰に隠れ、この時間帯だと入り口が薄暗い。
「このビルの三階。もし何か緊急事態になったらここに来いよ」
「一人ぼっちで寂しくなっちゃうのは緊急事態に入りますかー?」
「入りません」
そんなことを話している間にエレベーターは三階に着く。出てすぐの所には税理士事務所の表札がかけられたドア。
「ほら、ここまで。場所は覚えただろ?」
ネロが何か言おうとした時、目の前のドアが反対からガチャリと開いた。そこから出てきたのは真面目そうな若い女性だ。黒い髪に黒いスーツといった出で立ちは、就職活動中の学生のようだった。
「う、あ……」
ばったりと目が合ってしまい、思わず言葉にならない声が漏れる。自分たちが立ち塞がっているせいで彼女が立ち止まっているのだと何とか気付き、貴仁は慌ててネロを引っ張って廊下の隅に寄った。彼女は一度ぺこりとお辞儀をしてから、今しがた貴仁たちが乗ってきたエレベーターの中へと消える。
「ゼーリシのおじさんとパートのおばさんしかいないって言ってたくせに」
貴仁を現実に引き戻したのは、ネロのそんな不満気な声だった。
「そ、そりゃお客さんが来ることはあるって。ほとんどが年配の人だけど」
近隣の中小企業を相手にしている事務所で、たまに来るのもそういった企業の社長や経理の偉い人ばかりだ。あんな若い女性客というのは、貴仁のこれまでのバイト時間では見たことがない。
ネロの疑いの視線を受け続けていると、もう一度事務所のドアが開いた。
「あら、吉住君」
今度出てきたのは、見慣れたずんぐりとした体型の女性——パートの白井だった。
「お、おはようございます。今出てった方は——」
「先週からまた求人を出しててね、その面接」
「求人?」
白井はまるで井戸端会議をする主婦のように「そうなのよぉ」と相槌を打った。
「吉住君、最近大学の演習とかで忙しいでしょ? だからもう一人くらいアルバイトを雇ってもいいかもしれないって」
「えっと……」
もしもこれでさっきのような若い女性が採用されてしまったら一大事だ。このアルバイト先は安寧の地ではなくなってしまう。
「はいはーい! じゃあオレがアルバイトする!」
貴仁の焦りなどつゆ知らず、ネロが暢気な声と共に手を上げた。
「そちらの子は?」
白井婦人はやっと気付いたとばかりにネロをまじまじと見た。
「友人から預かってる子で、今日は場所を教えるために連れて来たんです」
「そう。今いくつ?」
「十四歳?」
ネロの答えはなぜか疑問形だ。学校等の社会生活がないと、自分の年齢も忘れてしまうのかもしれない。
「ごめんねえ、アルバイトの応募規定は十八歳以上なの」
白井は申し訳なさそうに手を頬に添える。
「何それ! 年齢差別!」
ネロは赤みが差した頬を膨らませた。
「あー、もうお前は帰って留守番してろ」
「タカヒトもオレと一緒がいいよね? それとも、新しい人が女の子だといいなーって思ってるの?」
「違うから! ほらエレベータ来るぞ」
すぐ傍のボタンを押してエレベータを呼ぶ。ネロはまだ納得いかない様子だったが、エレベータが来ると、唇を噛み締めて渋々乗り込んだ。
「もしかして怒らせちゃった?」
嵐が去った後、白井が困ったように言った。
「気にしないでください」
とは言ったものの、帰宅した時の反応が少し厄介だ。貴仁はなるべく考えないようにと自分に言い聞かせ、事務所のドアを開いた。
ここでのアルバイトは至って平和である。紙の書類をひたすらファイルするか、紙の書類からパソコンの表計算ソフトにデータを入力するくらいのもので、難しいことなど何もなかった。たまに顧客企業へと出向いて書類の受け渡しのおつかいを頼まれるが、大した肉体労働でもない。卒業した大学の先輩から紹介されて引き継いだ勤務先だが、かなり運が良かったと言えるだろう。
コンビニ弁当の昼食を取り終え、そろそろ眠くなってきたかという頃、事務所のドアがノックされた。普段はパートの白井が来客対応してくれているのだが、あいにく彼女は少し遅めの昼食に出てしまっている。
「ああ、面接の人かな」
奥の机で、この事務所の主である税理士の神崎が呟いた。彼が立ち上がりそうになったので、貴仁は慌てて先に席を立ってドアを開けにいった。また若い女性ではあるまいなと警戒していたのだが、目の前に現れたのは黒い短髪の小柄な男だった。
「本日十三時半のお約束でアルバイトの面接に参りました」
「あ、ああ、どうぞ」
中に通すと、すぐに神崎が衝立に仕切られた応接スペースへと案内していった。貴仁は作業中だったデスクに戻り、緊張していた力を抜く。何も新しいバイトが増えるからと言って、女性だとは限らないのだ。
衝立の向こうから僅かに聞こえる声を聴きながら作業すること約二十分。面接も終わって応募者が帰った後、貴仁はさり気なく神崎に話しかけた。
「今の人、どうでした?」
「ん? んー、まだたくさん応募者がいるから、相対的に見ないと」
こうしたデスクワークはアルバイトの中でも人気が高い。まだこの先何件も面接があるのだろう。
「俺は今の人でいいと思いますけど」
「まあ、何件も面接をしてたら時間がなくなっちゃうからねえ」
彼はそう言うと、また自分のデスクに戻って忙しく書類の作成を始めてしまう。これ以上強く言うこともできず、貴仁はただ心の中で男性が採用されるよう祈るしかなかった。
***
「ただいま」
「おかえりなさーい」
夕方帰宅して恐る恐るドアを開けると、意外とネロの反応は普通だった。
「また本読んでるのか?」
「うん」
ソファに座ったネロは、また何か机の周りにあった生物系の教科書を眺めているようだ。貴仁はソファの脇に鞄を置いてから、飲み物を取りにキッチンへと向かう。だが冷蔵庫を開けたところで、その手はぴたりと止まった。
「おい、これ……」
単身者用の小さな冷蔵庫の中には、買った覚えのない野菜類が無造作に突っ込まれていたのだ。
「別に、タカヒトのために買ったんじゃないよ。オレが自分用のご飯作るために買ったの」
ソファの方から白々しいネロの声が聞こえてくる。どうやらまだ彼は機嫌を損ねたままのようだ。
「ちゃんと買い物、できたんだな」
「当たり前じゃん」
褒めてやっても反応は薄い。貴仁は頭を掻きながら、ソファへと歩み寄った。
「なら包丁と火の扱いは今度教えてやるよ」
「うん、そんでオレはオレのために一人分のご飯作るから」
いかにも拗ねていますといった風に、ネロは貴仁の昔の教科書をぺらっとめくった。
「じゃあ俺の冷蔵庫もキッチンも使うなよ」
まるで子供の頃に姉と兄弟喧嘩をした時のように、思わずそんな言葉が飛び出す。ネロは黙ってぱたんと本を閉じると、その表紙をただじっと睨みつけた。
少し大人気なかったかと反省し、貴仁は静かに彼の隣に座る。
「まだ怒ってんのか?」
尋ねても返事はない。そもそも彼がなぜ怒っていたのか、朝の会話を記憶の中から引っ張り出して考える。
「なあ、あのバイト先の求人だけどさ、今日他の人も面接に来て、その中には男の人もいたよ。俺はその人を推しといたからな。俺だって女の子に来てほしいわけじゃない」
どうしてわざわざこんな弁明をしないとならないのだろう。まるで恋人同士の痴話喧嘩のようじゃないか。
貴仁はいたたまれなくなって顔を覆う。
「それホント?」
「はいはい、ホントです」
わざとぶっきらぼうに言うと、ネロがふふっと笑った。
「じゃあ、タカヒトの分のご飯も作ってあげてもいいよ」
ゆっくり手を離すと、ビスクドールのような顔が貴仁を覗き込んでいた。瞬間的に可愛いと思ってしまったが、彼は男——それもまだ子供だと思い直す。
「いや、作りたくないなら作らなくていいぞ」
誤魔化すようにそう言って立ち上がると、腰回りにネロが纏わりついてきた。
「う〜……作るの!」
素直なのか素直じゃないのか、ネロは無理矢理貴仁をキッチンへと連れ込もうとする。
「今から?」
尋ねると、ネロはこくこくと素早く頷いた。
「タカヒトは何が食べたい?」
「何でも……いてて」
ぎりぎりと足を踏まれ、思わず声を上げる。
「何が食べたい?」
有無を言わせぬ気迫に、貴仁は慌てて口を開いた。
「い、インスタントラーメン……?」
大きな目にきょとんと見つめられ、どこか気まずい空気が漂う。
「それ、すっごく簡単な奴でしょ? 料理なのかな?」
「火を使うってだけならいい練習メニューだろ? あ、野菜も切って入れるか?」
冷蔵庫にあった食材からするに、ネロはもっと豪勢なものを作ろうとしていたようだが、さすがに最初からそれは怖い。目の前の彼は耳をぴくぴく動かしながらちょっと考えた後、幸いなことに「分かった」と言ってくれた。
「えへへー! どうだ!」
ソファ前のローテーブルにラーメンを運び、ネロは得意気に胸を張った。
「見た感じちゃんとできてるな」
「説明の通りにやれば失敗することなんてないじゃん!」
「インスタントラーメンなら、な……」
テーブル脇に座って箸を取り、麺をズズッとすする。味の方も問題はない。
「ケータイで見たんだけどね、ネットにたくさんレシピがあるから、他のも全部その通り作ればだいじょーぶだよ」
「できるもんならやってみな」
ネロは嬉しそうに頷いてから、「いただきます」と言って自分のラーメンに手を付けた。
どうせ無理だろうという気持ちよりは、彼の料理を楽しみにする気持ちの方が大きい。今食べているこのインスタントラーメンも、いつもと全く同じ商品を食べているはずなのに、彼が自分のために作ってくれたものだと思うと味も違って感じられるから不思議だ。そんな貴仁の心など知る由もなく、ネロは楽しそうに今後の挑戦メニューを語っていた。