ネロが見えなくなってしばらく経っても、貴仁は校舎の壁に凭れて俯いていた。落ちていた傘を拾って差してみたところで、既にずぶ濡れの身体には何の意味もない。しかし、先程からチラチラと通行人に向けられていた視線を遮るには有効だった。
いつまでもここに突っ立っていてもどうにもならない。鞄の中に入っていた携帯は無事濡れておらず、とりあえず千草に電話してみることにした。
『貴仁? ネロは一緒?』
「……いや、お前今どこ?」
『坂井さんと一緒に駐車場で待ってるんだけど』
「え? あいつそっちに戻ってないのか?」
彼が行く場所はもう千草の家しかない。即ち、乗って来た車の所に戻るはずだ。彼がいなくなって数分、そろそろ駐車場についてもおかしくない頃だった。
既に帰宅する学生もまばらになった中、貴仁は駐車場へ向かう。途中、雨宿りできそうな場所やバス停の列を見てみるが、ネロの姿は見えない。目的地に辿り着くも、そこにいたのはやはり千草と坂井だけだった。
「貴仁、ずぶ濡れだよ。車の中入って」
千草が心配そうに車のドアを開ける。正しくは、「濡れると風邪を引くからよくない」という論理的思考と学習に基づいて適切な行動を演じている、と言うべきなのかもしれない。
シートが濡れるからと言って断ろうとしたが、坂井がトランクからタオルを出してくれたので、それにくるまって車中へと入れてもらった。
それまで気付かなかったが、乗り込んだ後部座席にはマロネもちょこんと座っていた。何を言っていいか分からず、子供相手にぺこりと頭を下げるが、マロネはぼんやりと俯くばかりだ。
気まずい間を埋めるかのように、千草と坂井が助手席と運転席に乗り込んできた。
「あいつ、少なくとも俺の所に帰るつもりはないみたいだから、行くなら自分の家だと思う」
「ネロと話せたの?」
「うん……ごめん」
「何で謝るの?」
「だって、あいつ絶対ここに戻ると思ってたから、まさかいなくなるなんて思わなくて、追いかけなくて——」
「このキャンパス広いから、この駐車場に戻れなくてちょっと時間かかってるだけかもしれない」
しかしそれから三十分ほど待ってみてもネロは現れなかった。彼は今日携帯を持っているはずだが、それもいくら電話をかけても応答はなかった。周囲を見に行っていた千草とマロネが戻ってきて、車の窓をコツコツと叩く。
「俺たちはここで待ってるからさ、坂井さんは一度貴仁を家まで送ってあげてくれないかな」
「でも俺だけ帰るわけには——」
「ネロが徒歩で駅まで歩いてるかもしれないし、一度駅方面まで車で見てきてほしいんだ」
そう言われれば確かにその通りだった。駅まで徒歩で向かっているなら、まだ道中にいるだろう。貴仁は少し躊躇ってから「分かった」と頷いた。
駅の近くにある自宅に向かう車中は、ラジオも音楽も流れず、ただワイパーが動く音とタイヤが水を跳ねる音だけが響いていた。無駄に車線の多い道路の左右に目を走らせ、歩道に彼の姿がないかひたすらに探す。しかし結局見つからないまま、車は貴仁の自宅マンションの前に着いてしまった。
「あの、ありがとうございます」
坂井という男と一対一で話すのはそういえば初めてだったかもしれない。
「俺もまた着替えてからバスで向かうので」
「……あまり気にしないでください。あなたは巻き込まれただけです」
「でも、ネロがいなくなったのは俺が原因で——」
「原因は千草で、あなたではありません」
ミラー越しに目を合わせて、彼ははっきりとそう言った。まるで自分の子供の不手際を詫びる親のように。
「坂井さんは、全部知ってたんですよね。あの家族のことも、俺の家にネロを置くことになった経緯も」
「あの家族のことはずっと見ています。ネロの件についても、千草から相談を受けていました」
「だったら分かると思うんですけど、俺は巻き込まれた被害者ではなくて、千草の共犯です。俺は千草にだけ責任転嫁できるような立場じゃない。だから、やっぱり俺にもネロを探す責任がある」
バックミラーの中で坂井はぱちぱちと数回瞬きをしてから、ふっと肩の力を抜いた。
「千草に初めてできた友人が君みたいな人でよかった」
「え、あ、すみません、気を遣ってもらったのに生意気なこと言って……」
へこへこと詫びてから車を降りる。マンションの中を歩きながら千草に電話をかけてみると、彼はすぐに通話に出た。
『貴仁、どうだった?』
「少なくとも国道沿いの歩道にはいなかった。坂井さんが別のルートも見ながらそっちに戻ったけど——」
『うーん、いくらでも脇道はあるし、目視で道路を探すのはあまり期待できそうにないね。そういえば、貴仁の家に戻ってるってことはないかな。家を出るために荷物を回収してたりとか』
ちょうどエレベータを降りたところで、千草がそんな期待を抱かせる。足早に奥のドアまで行って鍵を回すものの、扉を開けた先は真っ暗だった。
「いや、いないみたいだ」
『今はいなくても、この後そこに戻ってくるかも』
千草のそんな提案で、貴仁はしばらく自宅待機を命じられた。雨だけでなく汗もぐっしょりと吸い込んだ服を脱ぎ捨てて、一旦熱いシャワーを浴びる。やっとすっきりして部屋に戻ると、窓の外の雨はより一層勢いを増していた。
ベッドに腰を下ろして携帯に目を通す。ネロがここに戻って来た気配もなければ、千草からの新しい連絡もない。自然と貧乏ゆすりしていたことに気付き、意図的に膝を掴んで止めた。
ネロの姿が見えなくなってからまだ二時間も経過していない。大騒ぎして慌てるような事態ではないのだと、焦る心に言い聞かせる。きっともうすぐ「キャンパスの中で迷子になっていたのを見つけた」と千草から電話が入るに違いないのだ。そうしたら、無駄に広い大学の敷地について二人で笑いながら文句を言い合えばいい。ネロはもうこの家に戻ることはないのかもしれないが。
別れ際にネロから向けられた冷たい視線を思い出して、心はさらに重くなる。嘘をついていた罪悪感と、全てが嘘だったと誤解された悲しみと、行方が分からない不安——貴仁の心は完全に容量オーバーになっていた。
気を紛らわすためにテレビをつけても、内容は全く頭に入って来ない。
そういえば子供の頃に実家の猫がいなくなった時もこんな上の空だったと思い出す。名前を呼びながら近所を探しても見つからず、警察に迷子猫の相談をして家に帰っても、何も手に付かず放心し続けていた。あの時は確かどこかの家の男の子が拾って保護してくれていると警察から電話があって、大急ぎで迎えに行ったような気がする。拾い主である男の子の顔は覚えていないが、もしかしたら彼には直接会わなかったのかもしれない。とにかく、今度もそんな神様のような人が見つけて保護してくれていたらいいのに、と願わずにはいられなかった。
夕食を取る気にもなれず、携帯を見たりマンションの外まで見に行ったりしながら一時間が経過した。21時近くになって、もうそろそろこちらから千草に電話で聞いてみようと思いかけたところ、ちょうど携帯が着信を告げた。
「もしもし? 見つかったのか?」
進展があったものと期待して、声が少し早くなる。
『ううん、多分どこかに隠れてるんだと思う。雨も酷くなってきたし、とにかく真っ暗でさ、とりあえず今夜は引き上げようと思って』
「え?」
『もちろん明るくなってからもう一度探しに行くよ。明日の予報は晴れだしね。それにもしかしたら電車で家に帰ってるかもしれない』
「でも朝まで何もせずにいるってのか?」
『一応警察には捜索願いを出すよ。そうすれば——』
そこで電話の向こうからマロネが何か訴える声が聞こえた。どうやら彼も千草の意見には反対で、「もう一度探しに行く」と言っているらしい。
『ごめん、とにかくそういうわけだから』
彼はマロネを追いかけたのか、最後は大急ぎで電話を切ってしまった。
警察に捜索願い——普通の人間ではないネロを警察が見つけたらどうなるのだろう。千草がそう判断したのであれば、警察に見られても問題ないという確信があるのだろうか。それならば、確かに警察というのは一市民として最も安心感がある。素人の大学生が探すよりよほどいいだろう。
唾をごくりと飲み込んで、乾いていた喉を潤す。しかしそれでは足りず、水分を摂取しようとキッチンの冷蔵庫からペットボトルを取り出した。じめっとした初夏の蒸し暑さの中では、喉を通る冷たい水が心地よかった。
しかし、本当にいいのだろうかという思いが頭を過ぎる。雨風も暑さもしのげる室内で冷たい水を飲んで、朝までベッドの中で眠りについて、それでいいのだろうか。むやみに探し回っても無駄だというのも分かるが、その間何もしないでいるのも心理的に難しい。
キッチンから一望した室内は、一人暮らし用のワンルームのはずなのにやけに広く感じられる。本来であれば今夜はここにネロがいたはずだ。二人で久しぶりにファーストフードのハンバーガーでも買って帰って、ネロがおいしいと言いながら食べるのを眺めるはずだった。一緒にテレビを見て、風呂に入って、ベッドであの子を抱き締めてあげるはずだった。
叶わなかった幻を見るのはやめようと、ペットボトルを戻すため冷蔵庫に向き直る。その中にネロがいつも買い込んでいた野菜はない。いかにも一人暮らしの男子大学生らしいガランとした冷蔵庫に戻っている。しかしその中に使いかけのジャムの瓶を見つけて、貴仁の手が思わず止まった。
『だから、タカヒトのことはもう忘れることにする。パパの研究所に行けば記憶も操作できるって聞いたから』
唐突にネロの言葉が蘇った。彼はここに使いかけのジャムがあることも忘れてしまうのだろうか。彼は忘れてしまうのに、この瓶だけはいつまでもここに残るのだろうか。
そんなのは死んでも嫌だ。忘れられるなんてごめんだ。
ついさっきは自業自得だと諦めかけたのに、彼の名残を見てしまうと未練だけが膨れ上がった。彼が見つかったら、もう一度会って頭を下げに行かなければならない。いや、彼が千草や警察に見つかって彼らと共に行ってしまう前に、自分が一番に彼と会って話さなければならない。
貴仁は早足でキッチンを出ると、まだ充電が中途半端な携帯をケーブルから抜き、ポケットに突っ込んだ。雨の様子を見ようとベランダの窓際へ向かうと、そこにもネロが育てていたアサガオが残されていた。この花が咲くのを彼と一緒に見たい。
顔を上げると雨はほとんど止みかけていた。
***
雨さえ降っていなければ自転車が使える。大学までは自転車だと二十分。この時間帯のまばらな本数のバスを待つよりずっと早くて気軽だ。
大学に着く頃には22時を過ぎているだろうが、徹夜も可能なあのキャンパスならまだ人も残っているだろう。レポートで忙しい期末のこの時期、この時間に大学に行くのは何も特別なことではない。ちょっとその辺まで散歩がてら探しに行くようなものだと自分に言い聞かせた。そうでもしないと、まるでゲームのラスボスのダンジョンに挑むような緊張感に襲われてしまいそうだった。
いつも使う大学の入り口で一度自転車を止めて、守衛室の警備員のところへ行く。話を聞いてみても、レインコートの子供がここを通って出て行ったこともなければ、すぐそこのバスターミナルに並んでいるのも見ていないとのことだった。
他にも大学への入り口は何か所もあるため断定はできないが、やはりネロはまだこのキャンパスにいるような気がした。
アスファルトの広い道沿いに、キャンパスの外周をぐるりと回ってみるが、その程度では何も見つからない。自転車では芝生にも入れず小回りも効かないので、ここからは歩いて探してみることにした。
ネロと最後に会話を交わした校舎脇は、先程までの雨が嘘のように静まり返り、生温い七月の風がゆったり流れている。いくつか並ぶ校舎の間を見ながら歩くが、ネロどころか大学生も見当たらない。宿泊可能な場所は演習室や研究棟に限られるため、このあたりの講義用の校舎は既に閉鎖されていた。
さすがに大学生に交じってコンピュータの並ぶ演習室に入っているとも考えにくいが、とりあえず誰か知り合いがいることを期待して、自分がよく使うC棟の演習室へ向かった。
かちゃりと中を覗き込むようにドアを開けると、入り口付近の席にいた何人かが振り向いた。演習室はほぼ満席で、皆死んだような目でキーボードを叩いているか、隣同士何やら話をしているかといったところだ。普段なら空席がないことを確認してすぐに部屋を出るのだが、壁際の席に見知った顔を見つけてソロソロと中へ入った。
「早川」
「吉住、レポート終わってたんじゃないの? あ、そこ空いてないよ」
彼は隣の空席を目だけで示した。椅子には見慣れた柴田のリュックサックが置いてあるため、言われなくとも分かる。
「いや、レポートじゃなくてちょっと探し物があって——」
「何? 携帯でも忘れた? 明日学務にでも……って明日土曜か」
「そうじゃなくて、人を探してるんだけど、中学生くらいのレインコート着た子供見なかったか?」
「見てないけど、吉住とどういう関係?」
早川はいつも通り無表情のまま尋ねた。彼と柴田は一度酔った状態でネロと会っているはずだが、予想した通り、結局彼らはあの後すっかり忘れてしまっていた。
「友達の弟なんだけど、まあ見てないならいいや」
深く詮索されるより先にそそくさと部屋を出る。廊下を歩いて建物入り口まで来たところで、ちょうど柴田が戻ってきた。いつもおちゃらけた空気の彼が、今はやけに神妙な顔をしている。
「柴田、どうした? レポートやばいのか?」
「いや、レポートじゃ、なくて……」
「なんだ? いつもの変な動物探しでヤバいもんでも見たのか?」
軽い気持ちで言ったつもりなのに、柴田はものすごい勢いで目を逸らした。
「え? マジ?」
「俺、どうしよう」
「どうしようって聞かれても分かんないって」
「昨日、またあいつを見たんだよ。猿みたいな顔のリス。そんで写真撮って、今日ネットに上げたんだ。そしたらなんか炎上して——」
「なんで動物の写真上げるだけで炎上すんだよ。才能か」
「俺は悪くないって。なんかさー、めちゃくちゃ珍しい動物だからそんなところにいるはずない! 注目を集めるための捏造だ! って怒られてさ、写真を消さないと大学に通報して今期の単位全部はく奪してやるって匿名の脅迫がきて、もうさっき慌てて消したとこなんだよ」
柴田は自分の身を守るように縮こまってぶるぶる震えた。
「写真に加工とかは?」
「してないって! ほら!」
柴田は携帯に保存された写真をずいっと突き出してきた。そこには確かに木の上からカメラに目線を寄越す猿が写されていた。
「猿みたいなリス? いや、どう見てもこれ猿だろ」
体長三十センチから四十センチほどのその生き物は、サイズも顔もリスではない。
「どっちでもいいって! なんかこういうのリスザルって言うらしいんだけどさ」
「ほら、やっぱり猿なんじゃないか。リスじゃないだろコレ」
「動きがリスっぽい感じだったんだよ! とにかく、背中の毛がちょっと赤毛になってたのが炎上原因で」
「赤毛は珍しいのか」
「セアカリスザルって言うらしくて、調べたら確かに日本にいたら駄目な奴だった」
「どういう意味?」
「ワシントン条約だよ。輸出入に規制がかかってんの」
「それ、言われるまま画像消して良かったのか?」
貴仁に問い詰められても、柴田は惚けた顔で首を傾げた。
「だってお前、画像に加工とかしてないんだろ? なら、この近くにそいつを密輸入して逃がした奴がいるってことじゃないか。しかもお前を大学に通報するって、相手はお前のハンドルネームから本名も所属も分かる知り合いってことか?」
柴田の顔は面白いほど一気に青ざめた。
「だ、だだだ誰が? ど、どうしよう……よ、吉住、助けて」
「って言われても、俺も今それどころじゃないんだって——」
そこでハッと嫌な可能性に思い当たる。そんな珍しい生き物を狙う犯罪者がいる場所で、猫耳の人間が無防備に歩いていたらどうなるか。ネロは自ら身を隠しているわけでもなく、迷子になってウロウロしているわけでもなく、誰かに誘拐されたのだとしたら。
「ごめん、ちょっと俺急ぐから。あ、お前も証拠の写真持って警察か大学に言った方がいいぞ」
不安気な声を上げる柴田を無視して、大慌てで校舎を出る。こんな危険がある以上、やはり朝まで捜索を打ち切ってしまうのは間違いだ。
「もしもし? 千草、今どこだ?」
『貴仁? 結局マロネがまだ探すって言うし雨も上がったから、まだマロネと一緒に大学にいるよ。坂井さんだけ家の様子を見に行ってくれてて、父さんがちょうど一昨日から家に帰ってきてるから相談するって』
考えすぎかもしれないと一瞬思ったが、言わずに後悔することになるよりはマシだ。貴仁は今柴田から得られた情報を千草にも話すことにした。
***
新しい可能性が見つかったと言っても、それは探す当てを絞り込むどころか、逆に探すべき範囲を広げただけだった。もし仮に誘拐されたのだとしたら、トランクか何かにネロを詰め込んで、既に大学外へ出てしまっているかもしれない。知らない人にはついていくなと教えたはずなのだが、突然攫われてしまえばどうしようもないだろう。
いつまでも大学の中だけをウロウロ探しても意味はないかもしれないが、ひとまず千草と落ち合う約束をした生協へと向かった。
雨に濡れた草の匂いを嗅ぎながら歩いていくと、途中でキャンパスの外周側へ抜けていく小道への分岐点が見えてくる。そういえばこの先は柴田がおかしな動物を見たと言っていた場所の近くだ。あんな写真をばら撒かれて、密輸入の犯人はあのリスザルを捕まえようとは思わないのだろうか。捕まえるとまではいかなくとも、この付近の林に様子を見に来るくらいはしてもいいような気がした。
千草との待ち合わせまでにほんの少し寄り道をするだけ——貴仁は早足で脇道に足を踏み入れた。車一台が通れるくらいのアスファルトの道を少し歩いてから、道を逸れて林の中の獣道へと入っていく。柴田は動物を目当てにこの辺りに来ていたが、貴仁も季節ごとの花を見るために何度かこの辺りを探索したことがあった。
公式に舗装された道から外れてしまうと、明かりがなく周囲は真っ暗になる。携帯を使って懐中電灯にしながら、雨上りの湿った土を踏みしめ先へと進んだ。頭上の葉が雨の名残である水滴をぽたりぽたりと垂らすせいで、まるでここだけまだ雨が降っているかのようだ。せっかく家で服を着替えてきたのに、Tシャツの肩にはぽたぽたと水分の染みができてしまった。
もしも密輸入の犯人も今ちょうどこの林の中にいるとしたら、向こうからはこの携帯の明かりが見えているのだろう。そんな恐ろしいことを考えた瞬間、一際大きな水滴が首筋にボトンと直撃した。飛び上るほど驚いてから、ゴシゴシと首の水分を拭う。正直かなり怖かったが、それでも何か手がかりはないかと身体を奮い立たせて先へ進んだ。
少し歩くと、貴仁がよく花を見に来るスポットに辿り着いた。確か今の時期だとこの辺りはトケイソウが咲くはずだ。辺りを照らしてみると、思っていた通り時計盤のように丸く広がった花が見つかった。しかしそのすぐ横では、緑色の実がぐちゃぐちゃに食い荒らされている。トケイソウの花が咲いた後はパッションフルーツの実をつけるはずだが、それが熟す前に食べられてしまっているようだ。
去年まではこんなことはなかった。柴田が言っていた通り、この林には確かに外からの動物が持ち込まれているようだ。
結局得られた収穫はそれだけで、来た道を引き返すことにした。歩きにくい林の中を抜けて、やっと舗装された細い脇道まで帰ってくる。点々と立つ街灯の明かりにここまで安堵したのは初めてだった。
急いで千草との待ち合わせ場所である生協に向かおうと歩き出した時、正面から誰かが歩いてくるのが見えた。
「ああ、吉住君。こんな時間にどうしたんだい?」
「志木先生」
コンビニの袋を下げた教授が軽く片手を上げた。この脇道はちょうど彼の研究室がある研究棟へと続いている。この道を彼とネロと一緒に歩いたのが遠い昔のように感じられた。
「レポートで居残りかい? ちゃんと演習室にいないと、そろそろ警備員さんが学生証チェックに回ってくるよ」
「はい、ちょっと息抜きで散歩に」
彼の半袖のシャツの肩口が濡れているのを見ながら、咄嗟に誤魔化した。
「そういえばほら、俺の友達がこの辺りで猿の顔したリスを見たって話あったじゃないですか。さっき俺の好きなトケイソウの場所に行ったら、本当に実が食い荒らされてました」
「うーん、猿はそういう実が好きそうだからねえ。吉住君も食べたかったなら残念だったね」
そう言って笑いながらすれ違って去っていく志木を、貴仁はじっと見つめた。今見聞きしたことが貴仁の中で奇妙な一本の仮説を導き出し、そのせいで足が竦んで動かなかった。彼の姿が見えなくなってから、ようやく金縛りが解けたように携帯を取り出す。
「もしもし? 千草? ネロの居場所、分かった……かもしれない」
細い道の向こう、木々の合間から見えるコンクリートの建物を見つめながら、貴仁はぼんやりと呟いた。