猫と花 14 | fDtD    
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14

 ガーゼを変えて消毒されるだけの入院生活は退屈だ。その間暇潰しに読んでいた新聞やネットのニュースで、今回の事件が世間的にどう扱われているのかを知った。
『有名大学の教授、密輸入ビジネスとの癒着』
 センセーショナルな見出しと共に記載された記事によると、志木は研究のために珍しい蘭を正規に輸入していたが、途中から非正規の密輸ビジネスをしている業者と繋がりを持ったという。蘭を正規に仕入れる傍ら、高く売れそうな動物の不正取引で金を儲けていたのだそうだ。彼の研究室が搬出入しやすい裏門近くにあったこと、彼が倉庫としていくつかの部屋を借りていたこと、同じ建物に同居する他の研究室が少なかったことなども、マスコミには全て筒抜けになっていた。
 しかし、彼が最後に働いた悪事——ネロの誘拐については一切外に漏れていなかった。志木が誤って逃がしてしまったセアカリスザルの写真を撮った柴田は、事件解決のお手柄学生としてインタビュー付きで報じられ、その片隅で事件の最中に犯人から怪我を負わされた学生がいるとだけ小さく伝えられている。
 マスコミの目下の興味は、志木がどのようにして大学からの監査を逃れてきたのかに移っており、その内容次第では大学の管理体制叩きへと移っていくことだろう。

「警察? 父さんと研究所の名前を出せば大丈夫だよ」
 見舞いに来た千草に聞いたところ、彼はけろりとした顔でそうのたまった。確かに、ネロがいなくなった時も彼は何の躊躇いもなく警察に捜索願いを出すと言っていた。
 一体彼の父親は何者なのだろう。あの事件の夜、貴仁の止血をして応急処置を施したのも彼だと言う。ある意味恩人になってしまったため、あまり悪く言うこともできないのがもどかしい。
 大学はちょうど授業最終日や期末試験の期間になっていたが、幸いにも大学側には貴仁の入院の事情は伝わっており、期末試験は後日別途追試を受けていいことになった。期末レポートはネットからの提出ができるため、最終授業には出なくとも出席扱いにしてくれるとのことだ。志木が受け持っていた授業も、別の先生が引き継いで単位を出すとのことで、学生側に不利がないようにされている。
 至れり尽くせりの対応に加え、ネロがいない間に期末レポートの大半を済ませていたため、やるべきことはもうほとんど残っていない。こういう暇な時に限って、柴田も早川もレポートや試験で忙しいと言って見舞いに来ないが、授業での大事な情報だけはせっせと伝えてくれるので許してやる。
 見舞いに来た親への説明が少し面倒だったことを除けば、本当に平和な入院期間だった。

 退院して久々に病院の外に出て見れば、梅雨が明けて暑さはより一層増しており、街には夏休みらしき学生の姿がたくさん見られた。夏休みになったらネロとしたいことがあったはずだが、今は一人だらだらと汗を流しながら家を目指す。
 およそ一週間ぶりに帰った自宅はあの雨の夜出て行った後からほとんど何も変わっていない。もしかしたらネロが待っていて「退院おめでとう」などと言ってくれるかもしれないと思っていたが、そんな願望は夢のまま終わった。
 怪我と入院という突発的な事態が過ぎ去ってしまえば、残ったのは一人になった日常だ。結局ネロとは分かり合えないまま終わってしまったのだという実感が、この家に帰ってくるとひしひしと胸に迫った。
 入院中、千草からネロが研究所から帰ってきていることは聞いている。それでも、彼は貴仁の見舞いには来なかった。自惚れかもしれないが、怪我までして助けに行ってあげたのだから、ネロもあの夜のことさえ覚えているなら、せめて一度くらい見舞いに来てくれると思っていたのだ。だがそれすらもないということは、やはり貴仁を許す気がないのか、もしくは全部忘れてしまったのだろう。
 千草は何度か貴仁のお使いでこの部屋へ入ったのだから、その際ネロの荷物も持って行ってくれればよかったのに、彼の荷物が全部残ってしまっている。
『栞の場所、ずらさないでね』
 そう言われた生命倫理の教科書は、このままずっと同じページに栞が挟まれたままなのだろうか。ネロがいなくなったあの雨の夜にここで感じた痛みは、今もなお残っているどころか、それはさらに大きくなっている。痛みが増した原因は、きっとまだ抜糸の済んでいない腹の傷のせいだと思うことにした。
 ガラリとベランダに出てみると、育てていた草花は皆元気に夏の陽光を浴びていた。何度も申し訳ないと詫びる千草に対して、罪滅ぼしとしてこの家の植物への水やりを提案してあったのだが、彼は律儀に毎日ここへ通ったようだ。
 七月も下旬となり、アサガオはもう咲いてもいいはずだ。しかしネロの植えたアサガオは成長が遅く、まだ小さな蕾らしきものができただけだった。
『オレがいない間に咲いちゃったらどうしよう』
 貴仁の頭の中にネロの声が蘇る。
「大丈夫だよ。まだ咲いてないから」
 そう呟いてから、閉めた窓にコツンと額をぶつける。もう少し待てば、このアサガオは咲くだろうか。普通に考えればそうなのだが、ネロが戻らない限りこの花もずっと咲かないような気がした。このまま待っていたら、何も花開かずに寿命を終えて枯れていってしまうようなイメージが、貴仁の中でふっと再生される。
 待っているだけでは駄目なのかもしれない。本当に欲しいなら、死に物狂いで追いかけるべきなのかもしれない。
 たかが十四歳の少年一人にここまで必死になって追い縋る姿は、世間から見れば見苦しい男に見えるだろう。それでも、もう周りから自分がどう見られようが構わないほどに、あの子に心を持っていかれてしまっている。あの夜誰の目も気にせず雨の中を走り回った貴仁の身体が、それを何より証明していた。
 静かにカーテンを閉めて窓際を離れ、ベッドにどさりと腰掛ける。気を付けなかったせいで、腹部がまたピリッと痛んだ。
 抜糸が終わってもまだどこかが痛むなら、その時は正しい処置で治してやらないとならない。病院では治せなかった痛みを抱え、貴仁はそっと目を閉じた。


***

 七月の終わりにもなれば、静かな住宅街もセミの大合唱で賑やかになる。千草の家を訪れるのはこれが三度目になるが、あれからさらに家は大きく、塀は高くなった気がした。チャイムを鳴らして門の中に入れてもらっても、玄関までの道はまだまだ長い。顔を上げて見ても、ここからではネロの部屋の窓は見えなかった。
「外暑かっただろ? 時間言ってくれたら坂井さんに車出してもらったのに」
「お前に招待されたならまだしも、俺の方から行きたいって言ったのにそれは悪いよ。お前がもうすぐ検査だって言うから日程も急だったし」
「でもまだ病み上がりなんだから」
「抜糸もとっくに済んで、今はもうほとんど気にならないよ」
 千草とそんな話をしながら玄関にあげてもらう。冷房の効いた室内の空気が、汗ばんだ肌に心地よかった。
「これ買ってきたから、良かったら食べて」
 千草の横にいたマロネにケーキ屋の袋を渡す。マロネは中を覗き込んだが、白い箱に入っているため中身そのものは見えない。
「イチゴのムース」
 教えてやると、マロネはくりっとした目で貴仁を見上げた。
「ネロ、イチゴ好きだよ」
「……うん、知ってる」
 食べ物で釣れるなどとは思っていなかったが、気が付いたらそれを選んでいた。千草はマロネから袋を受け取ると、奥のキッチンへ行こうとした。
「お皿に乗せて持ってくから、応接間で待ってて」
「ネロ、降りて来るかなあ。最近また元気ないし……」
 彼はこの家に戻ってから、以前のように自室に籠もりがちになっているという。そして、会話の中で貴仁のことは一切話に出てこないとも聞いていた。
「いいよ、千草たちは先に二人で食べてて。俺はあいつの部屋に行ってみるから」
 待っていても仕方がないと思ったから勇気を出してここまで押しかけたのだ。ここに来てまだ応接間で待つという選択肢はなかった。
 玄関脇にある吹き抜けの大きな階段を上がり、長い廊下を歩く。確かに広い家だが、生まれてからほとんどの時間をこの中だけで過ごすには、あまりにも世界が狭すぎる。
 コンコンとドアをノックしても返事がないが、それは想定内だ。断りも入れずにそっとドアを開けると、そこは最初に来た時と同じく、カーテンが閉まっていてどこか薄暗かった。空調が効いていて日の光も入らないため、廊下よりも空気がひんやりとしている。
 室内にネロの姿は見えない。しかし、キングサイズのベッドの真ん中にタオルケットを被った塊があった。そういえば最初に出会った時も、彼はこうやって丸くなっていて、千草に布団を剥がされていた。狭い世界の中でさらに狭い殻を作って、彼は自分の身を守っているつもりなのだろうか。
 窓際に近付いて一か所だけカーテンを開けると、庭で咲き乱れる百日草が見えた。カーテンを開ければベッドの上の塊は何か文句を言うかと思ったが、無反応のままだ。千草かマロネが来ているだけだと思われているのかもしれない。
 どう切り出せばいいか迷いながら、とりあえず彼に背を向けてベッドの縁に座らせてもらう。伝えたいことはたくさんあるはずなのに、ここに来て何を言えばいいのか分からず、最初の言葉を必死で考えた。
「……お前に会いに来たんだ。千草に頼まれたわけじゃなくて、俺がお前に会いたかったから」
 背後で一瞬ネロが身じろいだ気がした。
「寝てるのか? それとも俺のこと忘れて知らない人だと思ってる? どっちにせよ勝手に喋ってくからな。不審者だとかしつこい奴だとか思われても、何も言えないままよりはずっとマシだから」
 少し待つが返事はない。聞いてくれていなくても、独り言でも構わない——それくらいの気持ちで話せばいいと思った。
「俺さ、ずっと誰かに好かれたかったんだ。嫌われるより好かれたいって当たり前のことかもしれないけど、俺の場合は嫌われるのが怖いって気持ちが極端で、そのせいで意識すると上手く何も言えなくて、余計人が離れて……どうして誰も分かってくれないんだろうって思ってた。いつか、俺のことちゃんと理解してくれて、無条件に好きだよって言ってくれる人が目の前に現れたらいいのにって、ずっと待ってたんだ」
 自分の中にあったささやかな期待は、言葉にすると傲慢で我儘に聞こえた。過去の自分と決別するために、膿は一度全部吐き出してしまわないとならない。これを聞いているネロが何を思うか考えると、指が勝手にベッドのシーツに食い込んだ。
「お前には『この部屋で待ってるだけじゃ誰も会いに来ない』って説教したくせに、俺だって同じ、ずっと受け身で待ってるだけ。上手く話せないからってどもったり黙ったりしたままじゃ、誰にも事情なんて理解してもらえなくて当たり前だし、ましてや好かれるはずなんてないのにな」
 自嘲すると身体から余計な力が抜ける。ちらりと後ろを見て、相変わらず丸くなっている塊を見つめた。
「でも、俺はお前に会った。ただ千草の言う通り受け身で流されただけなのに、俺のこと好きだって言い寄ってくれる期待通りの人に会えちゃったんだよな、これが。ちょっと説教じみたこと言いすぎたりしても、お前は変わらず俺を好きだって言ってくれた。俺が女の人相手に上手く話せない理由を話しても、笑って受け入れてくれた。本当に理想通りだったんだ。男同士だとかまだ子供だとか、否定するようなポーズだけ取りながら、本当はお前に懐かれるのが心地よくて、舞い上がってたんだと思う」
 視線の先、机の脇にあるゴミ箱がくしゃくしゃに丸められた紙で埋まっている。無意味にそんなところを見ながら、貴仁は懺悔を続けた。
「だから、その関係を壊したくなかった。お前に嫌われるのが怖かった。今までのどんな女の人より、お前に嫌われるのが一番怖かった。だから、ごめん、最初のきっかけが嘘だったって言い出せなかった。俺は自分に自信がないから、一番最初に嘘で稼いだ好感度がなくなったら、きっと完全に嫌われるだろうなって思ったんだ。……っていうか現にそうなった、よな……」
 自己嫌悪で大きな溜め息が漏れそうになるのをぐっと堪える。ネロはまだ何も反応してくれない。今日はもうこのままネロは動かないような気がした。
「お前にとって最初にここで会った時の思い出が大事なのはよく分かるし、それが嘘だったことをいくら謝っても許してもらえないのかもしれないけど、俺がどうしてずっと嘘をついてたのかだけはちゃんと伝えたかったんだ。お前が嫌いだから騙してたんじゃなくて、逆に好きすぎて言えなかったんだってことだけ、言い訳かもしれないけどどうしても言っておきたくて。それと、最初のきっかけ以外は、本当にいつも本音で話してきたんだってことも分かってほしい」
 大して期待はしていなかったが、予想通りネロからの返事はなかった。諦めてベッドからゆっくりと立ち上がり、ブランケットの山を見下ろす。
「また会いに来るよ。今度は嘘のきっかけじゃなくて、俺の実力でまたお前に好かれるようになりたい。前のはなかったことにして、今日が最初でいい。どっちにせよ、この部屋にお前を迎えに来た最初の人は俺ってことにしといて」
 部屋を出る時、開けたカーテンを閉めようとして庭を見る。色とりどりの花を見てふとあることを思い出した。
「あ、そうだ。お前のアサガオ、もうすぐやっと花が咲きそうだぞ。咲いたら写真送ってやるよ」
 本当はネロと一緒に見たかったのだが、この様子だとしばらくは実現できそうにない。
 静かに部屋を出て階下へ行くと、リビングから声が聞こえた。見に行くと、マロネが幸せそうにイチゴのムースを頬張っている。その横に座っていた千草は、貴仁の足音に顔を上げた。
「ネロは?」
「芋虫みたいに丸くなってる。また今度来ていい?」
 貴仁が苦笑いを浮かべると、千草の方は眉根を寄せた。
「それはもちろんいいけど、ちょっと芋虫の期間が長すぎるよ。とっくに蝶になって花から花へ飛んでる頃なのにね」
 千草の視線につられて、大きなガラス窓の向こうの庭を見やる。
「庭、すごいな。さっき上から見たら百日草がびっしり」
「今は向こうの百日紅が綺麗だよ。あ、あと裏手の方はヒマワリがすごいんだ。坂井さんがヒマワリの迷路を作っててさ、通路が狭すぎたってぼやいてたよ」
 この庭を見ていると、最初にネロとスイートピーの前で話した時のことを思い出す。マロネが小さく「ごちそうさまでした」と呟く声で、ハッと我に返った。
「帰る前にちょっと見てっていい?」
 庭を示して尋ねると、千草はもちろんと快諾してくれた。

 あの日と同じように玄関から出て庭をぐるりと回る。スイートピーが咲いていたところは、今はただの土だ。おそらく秋になればまた来年の種を撒くのだろう。
 テラスの脇にある木の柵にはアサガオが蔓を伸ばしている。家にあるのとは違い、こちらはもう花を付けているようだが、昼過ぎともなれば花はしぼんでいた。
 もう少し先へ進むと、千草が言っていた通りヒマワリが群生して真っ黄色になっているのが見えた。小さいヒマワリではなく、二メートル以上ある背の高くて大きなヒマワリだ。一斉に太陽を向いて並ぶヒマワリの行列は圧巻で、貴仁はしばしその場で感嘆していた。
 ヒマワリ畑の周りをうろうろしていると、人が一人ギリギリ通れるくらいの狭い隙間が現れた。そういえば坂井氏がヒマワリで迷路を作っていると千草が言っていたのを思い出す。
 勝手に入っていいものか悩んでいると、何かが勢いよく貴仁に体当たりしてきた。
「っ……わ」
 バランスを崩してヒマワリ畑の迷路に思わず倒れ込む。
「タカヒト、よかった、帰ってなくて」
 痛む肘をついて少し身を起こすと、腰のあたりに黒い頭と耳がしがみついていた。しかしそれきりネロは俯いたまま黙りこくっている。貴仁は土が付くのも構わず、もう一度地面に仰向けになった。見上げるとヒマワリの緑と黄色の向こうに青い空が見える。あまりにも綺麗で、今ここにいるネロも含めて全部夢なんじゃないかとさえ思った。
「さっきの話、聞いてた? ていうか、俺のことちゃんと覚えてんだろうな」
「覚えてるに決まってるじゃん! 覚えてなかったら不審者が入って来たって大騒ぎするもん」
「だってお前、記憶消して忘れるとか言ってたし。俺忘れられるのかなって本気で心配してたのに」
 ネロはそこでやっと身体を離すと、貴仁の視界を遮るように見下ろしてきた。ずっと見たいと思っていた金色の瞳は、ヒマワリによく似た色をしている。
「そんなの、忘れられるわけないよ。タカヒトと一緒にあの家で住んだことも、タカヒトに連れてってもらった場所も、タカヒトが言ってくれたことも、全部全部、忘れたくないもん」
 泣きたかったのはこっちの方だ——半分涙声のネロに内心独りごちる。
「この前また研究所に行ってたって聞いたけど?」
「あれは念のための検査だよ。麻酔って分量とか間違えるとよくないらしいから、一応もう一回見ておこうって、パパが過保護だから……」
 ネロはそこで涙を堪えるように「う〜」と唸った。
「忘れてなかったなら見舞いくらい来いよ」
「だって、タカヒトが怪我したの、オレのせいでしょ? オレが勝手に一人でいなくなって、知らない人じゃないから大丈夫って思ってあの先生についていったの。全部オレがバカだったせいなのに、タカヒトに合わせる顔なんてないって思って……は、反省文、書いてたの」
「反省文?」
「うん、それができたらタカヒトのところに行ってドゲザ? しようと思ってたのに、何書けばいいか分かんなくて、そしたらタカヒトの方が先に来ちゃって、さっきもどうしようってずっと考えてて……」
 先程彼の部屋で見た紙屑の詰まったゴミ箱を思い出す。貴仁は思わず頬を緩めてから、腕を上げてネロの頭をぽんぽんと叩いた。柔らかく温かな猫の耳は、久しぶりなのにどこか懐かしい。
「俺はてっきり忘れられたか嫌われたと思ってたよ」
「オレのことあんな怪我までして助けに来てくれたんだもん。タカヒトの気持ちが嘘じゃないことくらい、よ〜く分かったよ。嫌いなんて言っちゃったけど、やっぱりなし。嫌いになんて、なれないよ……」
 ネロが瞬きすると、彼の涙が貴仁の頬に落ちた。宥めるようにもっと頭や耳を撫でてやると、ネロは涙を隠すように貴仁の胸に顔を埋めた。
 しばらくそうしてやると、ネロはずびっと鼻を啜ってからぽつりぽつりと話し始める。
「オレね、ずっとずっとこの家で言いたいこと我慢してきたんだ。マロネと千草が仲良くなっても、二人には遠慮して我儘言わないようにして、一人でウジウジしてたの。だけど、タカヒトが来てくれた時ね、このチャンスだけは絶対に逃がしちゃダメだって思って、オレももっと欲しいものは欲しいって言える子になろうって、勇気を出して頑張ってみたんだ。ホントはオレ、そーいうキャラじゃないけど、タカヒトに思いっきり甘えてみたの。積極的で明るい子の方が人気者になれるってテレビで見たし、ツンよりツンデレの時代なんだよってマロネも言ってたから」
 彼の積極性と消極性についてはずっと気になっていたことだが、やはり千草やマロネに遠慮していた彼の方が本来の性格だったようだ。貴仁が一人勝手に納得していることなど気にせず、ネロはもじもじと貴仁のTシャツを握った。
「オレがそうやって一生懸命好き好きって言ってたのが、タカヒトにとってすごく嬉しいことで、それでオレのこと嘘じゃなく本気で好きになってくれたんだよね。だから、勇気出して甘えてみて良かったなって、さっき話を聞いてて思ったの」
 ネロもまた、待っているだけでは駄目なことに気付いてもがいていたのかもしれない。ネロは再び顔を上げて貴仁を上から覗き込んだ。
「ね、またオレのこと連れてってくれる? 世間知らずだし、やっぱりウジウジしてるかもしれないけど……」
 遠慮しているのか不安があるのか、彼の目の色が少し陰る。貴仁はネロの頬を両手でむにっと摘まんでやった。
「わざわざ迎えに来てるんだから当たり前だろ。お前のアサガオもジャムも、全部中途半端に残ってんだよ」
 地面についていた背中がだんだん熱くなってきて、よっこらせと上半身を起こす。しかしネロは貴仁の膝に座ったまま、一向に退く気配を見せない。腕や背中に付いた土を払い落としていると、ネロが不意に呟いた。
「それじゃ……ちゅーしてくれる?」
 何かの冗談かと思ったが、ネロは本気の顔をしている。
「……ここで?」
「はーやーくー」
 さっき彼は「そういうキャラじゃない」と言っていた。こうやって積極的にしていても、本当はねだるごとにいつも勇気を出しているのかもしれない。そう思うと、彼のおねだりを無碍にはできない。
 周りを見渡すが、幸いにもヒマワリ畑に突っ込んだおかげで外からは見えないだろう。
「ほら、目閉じろ」
「はーい」
 言われた通りに目を伏せたネロが急に大人びて見えて、心臓がドキリと脈打つ。キスしたい——自然にそう思った時には、ネロの後頭部にそっと手を添えて唇を合わせていた。触れたネロの唇はマシュマロのように柔らかい。そういえば今まで散々きわどいことをしてきたが、キスは初めてだ。そう思うとなぜだか急に緊張してきて、ぎこちなく唇を離す。
 本当に唇を合わせるだけのキスだったが、ゆっくりと目を開けたネロは、どんな花より綺麗に笑ってくれた。

「何度もストーカーみたいに通うつもりだったのに、何で急に庭に出てきたんだ?」
 やっと立ち上がってジーンズの土を落としながら尋ねると、ネロがぴたっとくっ付いてきた。
「ま、マロネがね、タカヒトと千草がオレのこと芋虫って言ってたよって」
「それで?」
「いつまでも芋虫だと嫌われちゃうよって」
「それだけ?」
 少し呆れたような声を出すと、ネロはぷーっと頬を膨らませた。
「マロネはかわいいちょうちょになりたいなーって。そしたらタカヒトも何度もここに来る内にマロネの方を好きになっちゃうかもねって。あと、イチゴムースがおいしかったって自慢してた」
 頭の中で可愛い顔をした策士が舌を出した。やはりこの兄弟はネロの方がいじめているように見えて、実質マロネの方が主導権を握っているのだろう。
「お前ってやっぱ子供だよ」
 呟いた声は、幸いにもネロには届かなかったようだ。

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