「タカヒトっ、起きて起きて!」
ネロの慌てた声で起こされた時、時計はまだ朝の八時を過ぎたばかりだった。
「ん、なんだよ……」
大学は夏休みに入り、今日はバイトもない。目を擦りながら身を起こすと、ネロが腕を引っ張ってきた。
「アサガオ、咲いてる!」
欠伸をしながらネロに連れられて窓際へ向かう。昨夜のセックスで腰が痛まないのかと思ったが、ネロはピンピンしていた。
「なんかね、オレの家の庭に咲いてるやつと違うんだよ!」
どれどれとカーテンを開けてベランダの鉢を見る。支柱からベランダの柵を伝って伸びるアサガオには一厘の薄水色の花が咲いていた。ただし、ネロが言う通り普通のラッパ型のアサガオではない。外側の花弁には周囲にひらひらと切れ込みがあり、さらに内側にもう一重花弁が付いている。遠目に見ると、まるで薄い青バラのようだった。
「葉っぱの形が普通だから出物ってやつじゃないってタカヒト言ってたじゃん」
「うん、出物じゃない。これは親牡丹」
貴仁はネロへの説明の途中で窓を開けると、身を屈めて花を間近で観察した。
「親牡丹?」
「葉っぱも花も特別な奴が出物、葉っぱも花も普通の奴は種取り用の親木になるんだけど、こいつは花しか特別じゃなくて、しかも種ができない。雄しべと雌しべが内側の花弁になってるから」
「出物でもなくて種もできないなら、中途半端なハズレ?」
隣にしゃがんだネロが少し寂しそうな顔をする。
「まあ出物だけを目当てにしてる人にはそうかもしれないけど——」
もう一度二重に花弁を付けた小さなアサガオの花を見る。
「俺は親牡丹って綺麗だと思うよ。この一代だけで種ができなくても、葉っぱまで珍しくなくても、俺はこいつが好きだな」
奇抜な見た目で珍しさを誇る出物よりも、少し花弁が多くてひらひらしている方がオーソドックスに美しい。写真に納めたくなって携帯を取りに行こうとすると、しゃがんでいたネロが服の裾を掴んできた。
「今、好きって言った! タカヒトが好きなのはオレだけでいいのに」
「そんなとこで嫉妬? だってお前がちょっとがっかりしてたから——」
すかさず立ち上がったネロがぎゅっと抱き付いてくる。ここはベランダで、誰かに見られていないか少しだけ心配になった。
「何て言ってほしいんだ?」
諦めてぽんぽんと頭を撫でると、ネロは貴仁の胸からちらりと顔を上げた。
「好きって言って」
甘え下手のツンとした猫が、少し照れくさそうにおねだりする。それだけで、ここがベランダだと言うことも、大人としてのプライドも、全部どこかへ行ってしまった。
「……好きだよ。子供ができなくても、三毛猫ほど珍しくなくても」
大きな耳を立てて、ネロは貴仁の腕の中で言葉を噛み締めるように瞳を閉じた。
「オレもね、タカヒトが好きだよ。だからタカヒトがオレのこと好きって言ってくれるなら、オレもオレのこと、もうちょっと好きになってみようかな」
草花が成長するように、ネロの考え方も少しずつ変わっていく。何か言おうとしたところで、二人の間からぐぅ〜と腹が鳴る音が聞こえた。
「おなかすいたね」
腹の音の主であるネロはそう呟いて、パッと身体を離してにっこり笑った。
「トースト焼くか?」
「うん! あ、イチゴジャム、古くなっちゃったかな……?」
「カビさえ生えてなけりゃ食えるだろ」
貧乏性なことを言っても、ネロは笑顔で「そーだね」と言ってくれる。彼の実家に比べたら、やはりまだまだ自分には甲斐性がないのかもしれない。
それでもネロはご機嫌で尻尾を立てながらキッチンへ歩いていく。そのせいでシャツの裾が捲れ上がり、チラチラと白い双丘が見え隠れした。
「タカヒトがオレのことえっちな目で見てる!」
トースターにパンを入れたネロは、くるりと振り返るなりそう言った。
「オレ以外の女の子をそういう目で見るの禁止だからね! おっぱいの大きさ見ちゃダメ! スカートの裾見ちゃダメ! 分かった?」
「う……はい」
すごすごとソファに座ると、まだ何やら背後のキッチンからぶつぶつと聞こえてくる。
「タカヒトはもうオレがいればいーんだから、他の女の人に嫌われる心配もしなくて済むね! あ、でもそしたらタカヒト普通に喋れるようになっちゃうのかな……」
多分、この上がり症はすぐには改善されないだろう。そうなると、他の女に気があると疑われてしまうのだろうか。
そんなことを考えていたら、ソファの背凭れ越しにネロがぎゅっと首に抱き付いてきた。
「タカヒトが浮気しないように、いっつもオレが一緒にいればいいんだよね。そしたらタカヒトもオレに夢中で女の人なんか意識せず話せるし、オレたちの仲を見た女の人もタカヒトに色目使わないし、イッセキニチョーだよ」
ネロは可愛らしい声で得意気に勝手なことをまくし立てる。
「そんなにうまくいくかな」
上辺ではそう言いつつ、貴仁もまた自分の中に植えられた変化の種を感じ取っていた。
この子に実家ほどではないが、いい暮らしをさせられるだけの男になりたい。この耳と尻尾に向けられる社会の目から、この子を守れるようになりたい。そのためには、少し女性と話したくらいで動じてしまう弱い心も変えていかなければならないだろう。
その種はまだ小さく芽吹いただけに過ぎないかもしれないが、いずれ大木になることを夢見ている。
「きっとうまくいくもん!」
反論するネロに貴仁が何か言い返そうとしたその瞬間、頬に柔らかなものがちゅっと音を立てて触れた。
「な、な……」
慌てて振り返ると、ネロはぷくっと頬を膨らませた。
「これから毎日ちゅーするのに、そんなに驚いてどーするの?」
「毎日って——」
貴仁の抗議を阻止するかのようにトースターがチンと鳴り、ネロは大きな耳を震わせてキッチンに行ってしまった。
これから毎日、ネロと恋人としての生活が始まるのだ。そんな当たり前のことを今更自覚して、朝食の用意をするネロの背中に胸が高鳴る。
この先もっと長い時間を彼と共に過ごす中で、二人の関係はきっと蔓が絡まるように固い絆へと変わっていくだろう。そしてやがてまだ見たことのない花が咲き、二人に大きな実りをもたらすのかもしれない。
「今日はタカヒトもイチゴジャムだからね! 悪くなる前に二人で早く食べちゃお」
ネロはそう言いながら、たっぷりのイチゴジャムが乗ったトーストをテーブルに二皿置いた。この量はもはやジャムがメインと言っても過言ではない。
「タカヒト……何か文句ある?」
「……ない」
「じゃ、早く食べて今日は買い物行こ! 冷蔵庫の中なーんにもない」
そう言ったネロは、幸せそうに甘いトーストを齧る。友人の猫を少し預かるだけのはずだったのに、貴仁の受難と幸せの日々はまだまだ当分続きそうだ。
どういう経緯で猫耳人間がいるのか、しかもどういう経緯で友人の弟レベルの子供を押し付けられることになるのか、というところに説得力を持たせるために、ネロや千草の設定から先に作ったお話。
あるいはショタコンの夢を具現化したお話。
こんな子がうちにも欲しい!貴仁ずるい!って思ってもらえたら成功だと思ってます。
タイトルがシンプルすぎる気もするけど、これ以外に思いつかなかった……。求むセンス。
どうでもいい私事ですが、このお話を書き上げるまでの間に花の開花時期や花言葉に詳しくなりました。