ディストピア、あるいは未来についての話 2 | fDtD    
  • S
  • M
  • L

2

 カチャリカチャリと食器の音だけが響く中、旭は無言で自作のチャーハンを口に運ぶ。ダイニングテーブルの正面に座った男がじっと自分を見ていようとも、旭は何も気にしないことにした。
 ちょうどその時、ピンポーンという軽快な音が鳴る。そしてすぐに、据え付けられたスピーカーから雑音が入った。
「夕食一人分、置いておきましたのでー」
 朗らかな声はすぐにぷつりと切れる。ちらりとアラタを見るが、彼は今の放送などまるで気にした様子もなく、じっと座っていた。
「おい、聞いてただろ。取りに行けよ」
「外に?」
「入る時見ただろ? ドアの向こうにもう一つドアがある。二重扉の間のあのスペースが外との物の受け渡し場所だ」
「厳重だな。まるで無菌室だ」
 アラタが立ち上がると、椅子がギッと鈍い音を立てた。
「俺との接触を避けてやり取りするなら、あの構造が一番便利なんだろ」
 アラタは相変わらず無表情で、理解しているのかどうかも怪しい。
「俺の特異体質、聞いてんだろ?」
「フェロモンの過剰分泌?」
「そう。もしあの二重扉がなかったら俺の発情期中は面倒なことになる。ドアを開けた瞬間にその辺の男は匂いに気付くだろうな。無菌室ってのはある意味合ってるんだよ。俺があの二重扉の間に入った後、空調設備が働いて俺のフェロモンを消してるはずだ」
 そこまで説明してやってもアラタはノーコメントで、すたすたとリビングを出て行った。
 一体あいつは何なんだ? 無口で無表情で、何考えてんだかさっぱりだ。
 持っていたスプーンをぶらぶらと揺らしながら、旭はそんなことを考える。そうこうしている内に、アラタがトレイに乗せられた食事を持って帰って来た。
「今日の給食は何だった?」
 揶揄を込めて尋ねると、アラタは律儀にトレイの上に視線を落とした。
「白米、味噌汁、鰤の煮付け……」
「あー、もういいから」
 彼は言われた通り言葉を止める。向かいの席に腰を下ろした彼を、旭はこっそり観察した。食事の間くらいは多少表情も緩むかと思ったが、彼は美味しいのかも不味いのかも分からない仏頂面で、ただ黙々と食事を続けている。
 旭は自分のチャーハンがほぼ全てなくなった頃、ぽつりと話しかけた。
「お前さ――
「イチジョウアラタ」
「……イチジョウさんってさ、こんなとこに閉じ込められてんのに何とも思わないわけ?」
 この閉鎖空間での生活に対し、彼が全く不満を見せないことが驚きだった。最初の頃の旭自身がそうだったように、もっと暴れたり喚いたりするものと思っていたからだ。
「事前に了承済みだ」
「了承? そろそろおま……イチジョウさんが何でここに来たのか教えてくんない?」
 空になったチャーハンの皿を脇に避け、旭はテーブルに頬杖をついた。アラタは味噌汁をずずっと啜って、無言のまま食事を続ける。
「だんまりかよ。普通じゃないαだって聞いたけど?」
 落ち着いた所作で和食を平らげていくアラタを、旭は辛抱強く待った。
 無視かよ。Ωなんかに話してやる義務はありませんってか。
 旭はそう言いたいのをぐっと堪えてアラタを睨んだ。やたらと綺麗な箸の使い方でさえ今は癇に障る。まるで「お上品なα」だという自己主張をされているような被害妄想が旭を襲った。
「食べ終わったこれは? 洗った方がいいか?」
 優雅に食事を終えた男は、トレイを示してそう言い放つ。
「そのまんまドアの外に置いとけ。洗ってやる必要なんかない」
 席を立ちトレイを運んでいく彼の背に向かって、旭は小さく舌打ちした。
 何なんだよ。まるで俺ばっかりがあいつのこと知りたがってるみたいじゃないか。俺だってαなんかと話すのはごめんだ。できることなら会話もしたくない。
 そう思い立つや否や、旭も自分の食器を持ってキッチンへ向かう。アラタが戻ってきている気配を感じても、気にしないようにして皿や中華鍋を洗い続けた。
 洗い物を済ませてキッチンから出ると、ダイニングテーブルの脇に立ち尽くすアラタが目に入ったが、それを無視してリビングへ向かう。どかりと二人掛けのソファのど真ん中に座ってテレビをつけてみたものの、いくらチャンネルを回してもつまらないバラエティ番組しかやっていなかった。
 それでも、旭は何となくテレビを消すのを躊躇った。テレビを見ているという態度とタレントの笑い声で、見えない防御を張る。
 しかしそんなバリアなど無視して、旭の視界の端でアラタが動いた。彼はすたすたと旭のいるソファへ歩み寄ると、無言で隣に座った。
 身体と身体がぴったりと密着するほど近い。文句を言おうとしたが、自分がソファの真ん中に座っているせいだということに気付き、旭は怒りの矛先を失った。
 何でこいつと寄り添って面白くもないテレビなんか見ないといけないんだ。
 旭は素早くリモコンでテレビを消すと、すっくと立ち上がった。すぐにこの場を離れようと一歩踏み出したその時、座ったままのアラタに腕を掴まれる。
「……な」
 驚きのあまり声を出してしまったが、彼は無言でじっと旭を見上げるだけだった。
 そんな目で見られたって、何が言いたいのかさっぱりだっつーの。
 そう言いたいのを我慢して、ぐっと一度唇を噛む。
「離せよ」
「……どこに行くんだ?」
「風呂の準備!」
 ぶんっと勢いよく手を振って拘束から逃れる。大慌てでリビングを出る旭を、彼はもう追っては来なかった。
 バスタブに湯を張る準備をした後、リビングには何となく戻りづらくなり、旭は寝室へ向かった。ぱたんとドアを閉めると、随分久しぶりに一人になれたような気がする。
 サイドチェストの一番上の引き出しから文庫本を取り出すと、そのままベッドに仰向けにダイブした。風呂の準備が終わるまで読書でもしようと、栞の挟まったページを開く。
 しかし文字を追おうとしても、あの男のことが気になった。リビングに取り残された彼は、テレビも消えた部屋でぽつんとソファに座っているのだろうか――そんな滑稽な姿を考えて首を振る。きっと勝手に自分の見たい番組でも見ているに違いないと考え直した。
 しかしそんな予想をわざと裏切るかのように、寝室のドアがかちゃりと開く。がばりと身を起こすと、ドアの隙間から室内を窺うアラタが目に入った。
「ノックくらいしろ!」
 思わず怒鳴ると、彼は開けっ放しのドアをコンコンコンコンと叩いた。
「今更うるさい。っつーかなんでずっと黙ってるわけ? ストーカーじみててキモいんだけど」
 厳しい言葉を投げかけると、表情は変わらないくせに彼の周りの空気がどんより曇った気がした。
「戻ってこないからどうしたのかと思って」
「お前のところに戻る義務なんかないだろ」
「リビング……テレビがあるからまた見にくるかと」
「見ないから消したんだ。お前、αのくせに頭足りてないんじゃねーの?」
「見たところ、ここにはテレビ以外の娯楽が見当たらない。つまり、暇を潰すにはテレビしかない、と思った」
 推論の根拠を淡々と述べるアラタに向かって、旭は持っていた文庫を見せつけた。
「本もゲームも何でも言えば持ってきてもらえるからな。たまに検査や栄養剤の投与があって、運動不足解消のためにエクササイズルームなんかも用意されて、あとはダラダラ過ごして毎日タダ飯。電気も空調も外からぜーんぶ管理してもらえる。ユートピアみたいだろ? ま、全部監視されてっけどな」
 角の天井に取り付けられたカメラをちらりと見ると、アラタも真似してそこに顔を向けた。外見は二十代後半から三十代前半、おそらく旭よりも年上のはずのその男は、まるで母親について回る子供のようだ。
「とにかくそういうわけだから、お前はテレビでも見てたら?」
 αではなくただの子供を相手にするように話しかける。ところが、男はむしろ寝室に入ってドアを後ろ手に閉めた。
「お前、この部屋にいてもすることないだろ」
 本を読む間ずっと隣に黙って座られたらたまったものではない。しかし旭の威嚇も虚しく、彼はひるむことなく傍まで来てベッドの縁に腰を下ろした。
「何でそこに座るんだよ! だったら俺がリビングに――
「俺がここに来た理由を話す」
 ベッドから降りようとしていた旭は、そこでぴたりと動きを止めた。
 さっきは無視したくせにどうして急に話す気になった?
 この男の秘密が知りたい。
 いや、俺はこんな男の話聞きたくない。
 葛藤の末、旭は意を決してベッドを降りた。
「お、俺は、お前なんかに興味ないから」
 せかせかとクローゼットを開けて着替えを取り出すと、旭はあえてアラタを見ないようにして部屋を飛び出した。
 彼に後をつけられる前に大慌てで隣にある洗面所に入り、叩き付けるようにドアを閉じる。
 本当に断ってよかったんだろうか。
 頭を振ってそんな迷いを断ち切る。さっさとシャワーと熱い風呂で忘れてしまおうと服を脱ぎ始めた。Tシャツをぽいっと脱ぎ捨て、ジーンズを足から抜く。そして最後に下着に手をかけたその時、廊下に通じるドアが急に開いた。
「……は!?」
 ドアの隙間から顔を覗かせたのは、他の誰でもないアラタだった。
「おま、なんで……覗き? ほんとキモい」
「やっぱり、どうしても話しておくべきだと思う」
「だからって風呂まで入ってくるかフツー!?」
 そこでアラタは旭の身体をじろじろ見つめた。
 外出もせず必要以上の運動もしない、白くて貧相な身体――旭にとってそれはコンプレックスだった。発情期中にやってくるαの大半が、旭の身体を見て「綺麗だよ」と言う。しかし旭にとってそれは褒め言葉ではなく、むしろΩへの性的なハラスメントにさえ聞こえていた。
 目の前のアラタの視線が旭の急所を隠しているボクサーパンツに向けられ、慌てて傍にあったバスタオルで全身を隠した。
「へ、変態α! エロα!」
「男同士なのに何をそんなに気にするんだ?」
 まるで自意識過剰だと言われたような気がして、旭の顔が赤くなる。
「な……男同士以前に俺はΩだ。お前みたいなαに散々好き放題されてきたんだから、警戒して当たり前だろ」
「俺はそんなことはしない」
「どーだか! αなんてどいつもこいつも、俺の発情期にあてられて豹変したんだからな」
「俺がここに来た理由を説明すれば分かってもらえるはずだ。だから話がしたい」
 旭ばかりが焦っていて、アラタの方は全く動じることなく話を進めようとする。調子が狂う。
「さっきは俺のこと無視したくせに……!」
 無視されたから無視し返す――子供じみた反抗心。言ってしまってからただでさえ赤くなっていた顔が茹蛸のようになり、羞恥で目尻に涙が滲んだ。
「無視……?」
「食事中!」
 もうどうにでもなれと責めると、アラタは少し考えてから口を開いた。
「あれは無視したわけではなく、君に話すべきかどうかを考えていただけで……」
「だからって無言はないだろ」
 一歩詰め寄ると、彼はやっと少しだけ困ったように眉尻を下げた。
「すまない、ここに来てから少し緊張しているみたいだ」
「緊張? なんで? っつーかさ、ずっと無表情で緊張どころか堂々としてんじゃん」
「それは……」
 彼がその先を言わないせいで、洗面所の狭い脱衣スペースが沈黙に支配される。
「で、いつまでここにいるつもり? 俺、風呂入りたいんだけど」
「話を――
「分かったから、風呂の後で!」
 このままだとアラタはいつまでもここに居座りそうな気がして、旭も意地を張るのをやめ妥協することにした。そうすればアラタもここは一度引き下がってくれると思ったのだが、彼はまだじっとバスタオルにくるまれた旭を見つめている。
「……何? 一緒に風呂でも入りたいわけ? 言っとくけど俺、発情期外はそういうことしないから」
「え、いや、そういうわけでは……」
 今まで無表情だったアラタが、ふいに初心な反応を見せる。ちょっとした冗談のつもりだったのに、旭の方まで恥ずかしくなってしまった。
「いいから外で待ってろ!」
 大きなアラタの身体を無理矢理押し出し、旭は洗面所のドアに鍵をかけた。今まではずっと一人で暮らしてきたため、まさかこの鍵を使う日が来るとは思ってもいなかった。しかし鍵を閉めた後もまだ、彼がひょっこり顔を出すのではないかと思ってしまう。少しだけ警戒しながら、旭は今度こそ下着を脱いだ。

 旭にとって風呂場とは、この住処の中で一番安心できる場所だった。トイレにも洗面所にもバスルームにも、ここでは至るところに監視カメラが付けられている。しかしこのバスルームの監視カメラは、なんと間抜けなことに曇り止めの機能を持っていなかった。
 ――俺の風呂なんて監視したってサービスシーンでも何でもないだろ。
 以前αの研究員にそんな嫌味を言ったことがある。その時に返って来たのは「すぐレンズが曇るから何も見ていない」という言葉だった。実際バスタブの縁に立って天井付近のカメラをじっくり見たところ、少しシャワーを浴びただけで、レンズ部分はきれいに曇ってしまっていた。
 シャワーを浴びて頭と身体を洗ってから、ちゃぷんと湯船に浸かる。普段は足を伸ばしてゆったり寛ぐのだが、今日の旭は膝を抱えてバスタブの隅に丸まっていた。
 あの男が来てから落ち着かない。旭は彼と目が合うたびに身体の芯が震えるような何かを感じていた。
 運命の番。
 その言葉が頭を過ぎった瞬間、前髪から落ちた雫が水面にゆらゆらと波紋を作った。
 αとΩには番と呼ばれる繋がりがある。αがΩのうなじを噛むと番の契約が成立し、それ以降Ωが発情した際のフェロモンは番のαにしか効果がなくなるのだそうだ。そしてその番の契約は、基本的に互いが死ぬまで有効になる。αの方から無理矢理番を解除することも可能らしいが、その場合Ωにかかるショックや負担は相当なものになるとされていた。あまり詳しいことは知られていないが、少なくともフェロモンの効力が失せた以上、発情期に相手をしてくれる者はいなくなってしまうのだから、Ωにとっては死活問題だ。
 どこかのαが番にでもなってくれれば、俺のこの迷惑なフェロモン体質の被害も減るだろうに。
 旭はこれまで何度となくそんなことを考えてきた。しかし当然のことながら、実験のためにやってくるαたちがわざわざ旭の番になるはずもない。ここに実験動物として閉じ込められている限り、番などというシステムとは無縁だった。
 ましてや「運命の番」という都市伝説など、まともに考えたことすらなかった。生まれた時から番になるべく宿命づけられたαとΩ――どこかのロマンチストが考えた夢物語のようなそれによると、運命の番は出会った瞬間にお互い何かを感じるという。
 何を考えているのか分からないアラタの深い瞳に、旭は言いようのない何かを覚えていた。単に彼の思考が読めない不安でもなく、αに対する恐怖や嫌悪感でもなく、身体の内側が僅かにピリピリと痺れるような、不思議な感覚だ。
 運命の番なんてもんはただの噂だ。これはきっと風邪か何かを引いてるだけに違いない。あんな男が俺の運命だなんて、馬鹿な想像はやめておけ。
 ばしゃりと両手で掬った湯で顔を洗う。この後風呂を出て、彼からいったいどんな話を聞かされるというのだろう。
 旭がそんなことを考えた瞬間、擦りガラスのドアがガラッと開いた。
「寝間着を持ってくるのを忘れたんだが、どうすれば――
「な、ななな……っ」
 旭はバスタブの隅で自らの身体を抱き締め縮こまる。開いたドアを見上げれば、湯気の向こうでアラタが平然と顔を覗かせていた。
「か、鍵、閉めた、のに……」
「あんなものコインで簡単に開けられる。家庭内の鍵なんてそんなものだろう。こうやって緊急事態で開ける必要性もあるわけだからな」
「お前がパジャマ忘れた話のどこが緊急事態なんだよ……っ! ヘンタイ! 出てけ!」
 アラタめがけてパシャッと湯をひっかけると、彼は素早くドアを閉めて回避した。そのままいなくなるかと思いきや、擦りガラスの向こうの人影は動かない。
「確かカタログか何かで頼めば何でも持ってきてくれると言っていたが――
「後で説明するから、とにかく外で待ってろ!」
 既に閉まっているドアに向かってもう一度勢いよく湯をかける。それでやっと彼は洗面所から出て行った。
 何なんだ、何なんだアイツ! ストーカー! 覗き魔!
 あまりにも興奮しすぎて頭がくらりとする。大して長い間湯に浸かっていたわけでもないのに、旭は半分のぼせ気味になっていた。

コメントをつける
   
お名前
コメント