ディストピア、あるいは未来についての話 4 | fDtD    
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4

 小学生の頃までは、男の子と女の子という分け方が世界の全てだった。旭も例外なく男友達とつるみ、校庭でサッカーをしたり誰かの家でゲームをしたりして過ごしていた。彼らは皆、「男」という性別を分かち合う一つの集団だった。
「俺もサッカー入っていい?」
「いいけど、庸太郎は弱いからこっちのチーム来んなよー。ただでさえあっちには旭がいるのに」
 クラスメイトらがそんな会話をしているのを聞きつけると、旭は蹴っていたサッカーボールをひょいと手に持って彼らの元へ駆け寄った。
「じゃー庸太郎は俺のチームな。庸太郎がいるくらいがハンデになってちょうどいいし」
「う……今日は頑張る。旭、ありがとう」
 運動のできる旭は、クラスの中でも人気者で、皆を仕切る上の立場だった。運動だけではない。クォーター故の人形のような顔を持ち、勉強もできて、絵を描くのすら上手かった旭は、悔しい思いをしたことがほとんどなかった。
 小学四年生の頃、旭は隣の席になった麻里という女の子にちょっかいをかけた。頭の低い位置で左右に髪を結んだ、旭より少し背の高い女の子だった。
「デカ女! マリモ!」
 そう言って結ばれた髪を引っ張っては、彼女を怒らせて逃げ回っていた。それは子供特有の、気になる子ほどいじめたくなるという心理だった。恋愛などという大それたものではなく、ただ男の子としてごく自然に女の子の気を引こうとしていただけの、つたない子供心。
 少年漫画には大抵ヒロインの女の子キャラクターがいて、ある時は主人公がヒロインに必死のアピールをし、ある時はヒロインの方が主人公への恋愛感情を露骨に示していた。自分もいずれ大人になれば、誰かと恋愛をするのだろう――旭がそこでぼんやり思い描いた相手はやはり、女の子だった。

 しかしそんな曖昧な認識が崩れ始めたのは、小学六年生の半ばだった。運動が得意な旭はいつも体育の授業を楽しみにしていたが、その時間はたまに退屈な保健の授業へと早変わりしてしまう。
 その日の保健の授業の題材は、第二次性徴と子供の作り方だった。いつもは居眠りをしたり落書きをしたりして過ごしているクラスメイトたちだったが、その日の授業は皆どこかソワソワしながら先生の話を聞いた。
 教科書には男の子と女の子の裸のイラストが描かれていて、第二次性徴を迎えるとそれぞれどんな変化が現れるのかが図示されていた。その少し下を見ると、小さく「Ω男子とα女子の体」というコーナーがあった。Ω男子は身長もアレも小さく、α女子にはなぜかアレが付いている。
 さらに旭を混乱させたのは、隣のページにある性別分類表だった。そこは男と女という二つの区分ではなく、さらにそれぞれにα、β、Ωという見慣れない記号が付けられて、全部で六種類の性別に分けられていたからだ。
「人間の内、45%がβ男性、45%がβ女性で、皆さんもほとんどがβだと思います」
 担任の先生は確かにそう言った。だから旭も自分はきっとβなのだろうと想像した。
「一応言っておくと、4%がα男性、3%がα女性、2%がΩ女性、1%がΩ男性になります。このクラス三十人中の三人くらいは、この中のどれかになるかもしれませんね」
 もし仮にその三人になったとしても、男ならαという方になるんだろうなと朧げに考えた。その後は赤ちゃんの作り方という話に移り、旭はそんな人口比率に関する話を放り出して授業を聞いた。
「えーっと、男性のペニスから出た精子と、女性の中にある卵子が受精すると、赤ちゃんができます」
「せんせー、どうやって精子を女の中に入れるんですか?」
 そんな質問の後に、くすくすと誰かが笑う気配がした。性的知識に疎い旭は、その笑い声が意味するところが分からない。
「それは……ペニスを女性の膣というところに入れて射精します」
 若い女の先生はちょっと言いにくそうに説明してから、他の質問が来る前に再び口を開いた。
「ですが、この図を見てください。α女性は子宮もペニスもあるので、子宮を持った人に精子を入れることも、逆に精子を入れられることもできます」
「すげーっ! 便利じゃん!」
「じゃあ、このΩ男性もそうなんですかー?」
 生徒から質問が上がる。図の中では確かに、Ω男性も女性の子宮とは全く別の経路で特別な器官を持っていた。
「Ω男性の精子はとても弱いので、子宮を持った人に入れても赤ちゃんができません。なので、Ω男性は精子を入れられる側にしかなりません」
「えーっ、男なのに変なのー」
「太一君、Ω男子だったりして!」
「うっせー、ブス! お前だってそのうち女のクセにチンコ生えてくんじゃねーの」
「俺Ωなんてぜってーやだ! そんなの女じゃん! チンコ付いてる意味ねーもん」
「そんな心配しなくても、地味な庸太郎はどうせβだろー?」
 あちこちで私語が広がり、ざわりざわりとクラスが盛り上がる。しかしその間、旭は無言で教科書の親の性別と生まれる子供の性別の確率を睨んでいた。
 果たして自分はどこの確率で生まれたのだろうと考えた時、旭は両親の型を知らなかったことに気が付いた。しかし非常に重要な情報として、旭の両親はどちらも男だった。
 両方男ってことは、どっちかがΩじゃないと男同士で赤ちゃんはできないんだ。そうすると、父さんたちはβとΩか、αとΩ……?
 旭の視線の先、教科書にはこう書かれている。
 β×Ω=β(90%) Ω(10%)
 α×Ω=α(40%) β(20%) Ω(40%)
 旭はそこに書かれた数字を見て目を白黒させた。先程先生の言っていた人口比ではα男性が4%でΩ男性は1%なのに、両親の性別とこの掛け合わせ表から考えると、旭がαやΩである確率はもっとずっと高いことになってしまう。
 うーん、確率ってよく分からないな。でもまさか俺が1%のΩなわけないし、大丈夫だよな。
 旭はそうやって自分を納得させた。しかし帰宅後にその話を両親にすると、旭は衝撃的な事実を聞くことになる。
「旭、ごめん、父さんたち二人とも……Ωなんだ」
 それは、教科書によると子供ができないとされる未知の組み合わせだった。

 旭がΩであると診断されたのは、それからさらに半年後の中学入学時だった。人口の内たった1%しか存在しないはずのΩ男性――両親が二人ともそれだっただけでなく、そこから生まれた旭もまたΩの宿命を負っていた。生まれてから約十二年――ずっと男として生きてきた旭にとって、それはアイデンティティの大きな崩壊だった。
 旭の同級生約百人の内、Ωは男女合わせて旭以外誰もおらず、αは八人だったという。
「今年の新入生はΩが少なくて安心しましたな」
 偉そうな先生がちらりとそんな話をしていたのをよく覚えている。
 皆口々に自分の診断結果を教え合っているので、旭も友人たちに結果を教えないわけにはいかない。旭がΩであると知った時、今まで同じ「男」としてつるんできた彼らは、旭を異質な存在として見るようになった。
「なあ、太一、今日サッカーするだろ?」
 昼休み、旭はいつも通り仲間に声をかけたが、彼らの反応は鈍かった。
「え、校庭先輩たちが使ってるから、中一の俺たちだとな……」
「昨日はサッカーやってただろ。俺、見たし」
 旭に声をかけることなく、昨日彼らは校庭で遊んでいた。
「そうだけどさ……」
 居心地の悪い空気になった時、教室のドアを開けて庸太郎という幼馴染の友人が近付いて来た。彼はこの前の診断でαだと分かったらしい。
「なあなあ、体育館空いてるから隣のクラスの奴らとバスケの対戦しよーぜ」
 彼は旭ではなく、旭と向かい合っている太一だけに声をかけた。
「じゃあ、俺も」
「あ……バスケの人数ぴったり集まったから」
 旭の言葉はすげなく却下され、彼らは教室を出て行った。厳密な人数のルールなどこれまでもほとんど無視してきたのに、庸太郎は誰よりも露骨に旭を避けるようになっていた。
「庸太郎君、最近背伸びたよね」
 教室の隅で数人の女子がそんな会話を始める。その中には、小学生の頃旭がいじめていた麻里も入っていた。
「だってαなんでしょ? 多分これからもっと伸びるよ」
 小学生の頃は庸太郎より旭の方が背が高かったのに、彼はこの半年ほどで旭の背を軽く抜き去っていた。
「ねえ……バスケ、見に行こっか」
 彼女たちは少し恥じらうように顔を見合わせてから席を立った。
 庸太郎なんて、小学生の頃は全然目立たなかったじゃん。サッカーも弱くて、いつも俺の金魚の糞でさ。バレンタインだってクラスの中で一番チョコ貰ってたのは俺だし、庸太郎なんて誰からも貰えてなかったし。αだからって何だよ、急に。
 旭は心の中でそっと文句を言った。小学生の頃はどんなにいじめても女の子から構ってもらえなくなることなどなかったのに、中学に上がった途端、女子だけでなく男子でさえ昼休みの旭に声をかける者はいなくなった。

「Ωはいつか発情が始まって、その間は特別学級に行くらしい」
「αはΩに近寄らない方がいいらしい」
 ヒソヒソとどこかでそんな噂が立てられている。中には、不躾な質問をぶつけてくる者もいた。
「なあ、まだハツジョーキ、ならないの?」
 旭はカッと顔が熱くなるのを感じた。
「なってねーよ!」
 発情期もまだ来なければ、身長もクラスの中の平均を保っており、旭はまだ自分がΩであるということを認められずにいた。今までずっと同じ男だったはずなのに、なぜ自分だけが切り離されなければならないのか、納得がいかなかった。
 何がΩだ。そんな性別なくなってしまえばいいのに。
 学校の真ん中でそう叫びたくなった。何度も、何度も。
 しかし旭は全てを飲み込んで、せめて男らしくあろうと努力した。女々しく泣くまいと決めたあの日から、たとえ大きな瞳に涙が滲むことがあっても、決してそれを零すことはなかった。


***

 人肌に抱き締められる感触は気持ちがいい。包み込んでくれる身体が大きいほど、全てを安心して投げ出してしまえる。
 ごく自然にそんなことを考えてしまってから、旭はゆっくりとまどろみから覚醒した。
「……っ!」
「あさひ……?」
 目の前にいた無表情の男が呟く。パッと彼から離れようとするものの、背中をしっかり抱き込まれていて動けなかった。
「なに、なな、なんで――
 旭はそこで昨夜の記憶を手繰る。確か身体に掛けられるものが小さめのブランケット一枚だったため、何やかんやと文句を言いながらも二人寄り添って眠りについたはずだ。しかし起きてみれば、旭はアラタの抱きぐるみになっていた。
「寒かったから」
 当然と言わんばかりのアラタは、暴れる旭をさらにぎゅっと抱き締めた。
「そりゃパンツ一枚じゃ寒いだろうな! 起きるから離せ!」
「もう朝なのか?」
 この寝室は時計もなければ窓もない。彼が混乱するのも無理はなかった。
「俺の体内時計が朝だって言ってる」
 この長い軟禁生活の中で、旭の時間感覚はかなり鍛えられていた。アラタの腕からやっと解放された旭は、ベッドを降りてトイレに行こうとする。またパンツ一丁の男がくっ付いてきそうになったため、慌てて「まずは服を着てろ」と彼を足止めした。

 朝食のパンを焼こうとした旭は、アラタから向けられる視線に耐え切れず口を開く。
「何、朝飯外に頼まないの?」
 アラタはちらりと内線電話の方を見てから、旭のパンを食い入るように見つめた。
「……これ、食べたいのか?」
 彼は期待に満ちた目で頷いた。
「お金は払う」
「そんなもん俺も払ってねーし。食料や食材は基本タダだぞ、ここ」
 カンパーニュを二個オーブントースターに入れてから、旭は冷蔵庫から出したウィンナーを炒め始めた。
「タダ……どうして?」
「サービスなんじゃねーの? お前ここの生活費について聞いてないのかよ。ここでの生活自体が俺たちのお勤めで、毎日結構いい額の給料出てるんだよ。見てないけど、多分俺の銀行口座か何かに溜まってんじゃないかな? で、注文した服や娯楽品の代金は給料から天引き、食費とか消耗品はタダ」
「研究協力の謝礼として給金が出るのは知っていたが――
「絆されるなよ? タダ飯だろうが高給だろうが、この研究所がやってることはおかしい」
 ウィンナーを二枚の皿の隅にざざっと分配すると同時に、トースターがチンと音を立てる。旭は中からカリッと焼けたパンを一つ取り出し、フォークと一緒に片方の皿に乗せた。
「朝食はこれだけ?」
 アラタは旭の真似をして自分の皿にパンを乗せてからそうぼやいた。
「だったら外に頼めばよかっただろ」
「いや、旭が……それで足りるのかと思って」
 彼と共に過ごして一晩だが、よくよく見ると無表情ではなく、僅かに眉を下げて申し訳なさを表していることが読み取れた。
「足りる」
 旭はそう言い捨て、冷蔵庫からバターを取り出してダイニングのテーブルにつく。冷たい態度を取ってしまってから、アラタが何をそんなに申し訳なさそうにしているのか考えを巡らせた。
「……ああ、俺普段からパン一個しか食わないから」
 アラタに分け与えたせいで朝食が減ったわけではないのだと教えてやると、彼の纏っていた憂いが消えた。
 変な奴。Ωの朝飯なんて気にしなきゃいいのに。
 旭は小さくちぎったパンにバターを塗りながら、向かいに座る男のことを考えていた。ずっと自分をβだと思って生きてきたせいか、彼にα特有の尊大さは一切見られない。今も旭がバターを使うのを静かに待っていて、自分のパンがどんどん冷めていくことなど何も気にしていない様子だ。日の元に出て行くタイプではなく、旭を傍で見守る付き人のような日陰者。
 世の中のαが皆こいつみたいなのだったら良かったのにな。
 そんなことを考えて一拍後、旭の顔はみるみる赤くなった。
 違う、αにいい奴なんているわけがない。こいつはαのための研究に協力するような奴だ。こんな男に気を許すな。
 旭が自分で自分を叱咤していると、アラタが首を傾げた。
「旭? 食べないのか?」
「お、お前がジロジロ見るから食べづらいんだよ」
 旭はバターとバターナイフをアラタの方に寄せた。
「俺もういいから。使って食え」
 わざとぶっきらぼうに言うと、アラタはバターと旭を戸惑うように交互に見てから「ありがとう」と呟いた。αに礼を言われるなど生まれて初めてのことで、旭は喉の奥がむず痒くなった。それを誤魔化すように黙々とパンを食べ進める旭を見て、アラタもやっと食事を始めた。
 この研究所に入れられてから約六年――旭は誰かと一緒に生活するどころか、誰かと食事を共にすることもなく暮らしてきた。家族との食事中にどんな会話をしていたのかも思い出せず、旭は無言でウィンナーにフォークを刺した。
 パリッとした表面を貫くと肉汁が溢れてくる。そんな旭を見ていたアラタは、予想通りパンを一旦置いてウィンナーに手をつけた。
「旭の焼いたウィンナー……旭の、ウィンナー……」
 フォークに刺さったウィンナーを見て彼がぼんやりと呟き、旭は思わず噎せそうになった。
「何で今それ言い直した!?」
「え……いや……」
 こういう時だけ彼は分かりやすく狼狽を見せる。
「言っとくけど、俺のここまで小さくないからな」
 アラタはじっと見ていたウィンナーをパクッと口に放り込んだ。
「確かに、少し小さい」
「……っ! ウィンナー食いながら何思い出してんだ! ド変態! ムッツリエロα!」
「俺はただ、旭の作ってくれた料理が嬉しかっただけだ。それを旭の方が勝手に勘違いして――
「もういいって!」
 分が悪くなった旭は、残っていたパンを慌てて口に押し込んだ。その時ちょうど室内にチャイムが鳴った。続けてスピーカーからドアの向こうの音が聞こえてくる。
「今日は二人とも検査だ」
 音声がぷつりと途切れた後、玄関のドアが開けられる音がした。足音と共にリビングへとやってきたのは、白衣を着た二人の研究員だ。彼らはダイニングで食事をとる二人に向かって、手に持っていた荷物を見せた。
「検査着に着替えておけ。十時にまた迎えが来る」
 リビングにある壁時計はまだ八時半をさしている。監視カメラでこの部屋のタイミングは全て見えているのだから、せめて朝食が終わってから来ればいいのに――旭はいつものことながら無神経なαに辟易していた。
 彼らが出て行った後、アラタはパンを手に口を開く。
「検査、とは?」
「色々だよ」
 既に食事を終えた旭は、足を組んで椅子の背凭れに身体を預けた。
「血液とか唾液とか口の中の皮とか卵子とか、あいつらそういうのが大好きだから。あとはスキャンにかけられたりエコーされたり……まあ、色々としか言いようがないな」
「旭は、慣れてるのか?」
「慣れっていうか、諦めだな」
 アラタも食べ終わったのを確認して、旭は食器類を持って立ち上がった。シンクでさっさとそれらを洗っていると、アラタも自分の食器を持ってきた。
「洗っといてやるから。もうリビング行ってテレビでも見とけ」
 真横で待とうとする彼を、旭は適当に追い払った。
 皿二枚とウィンナーを炒めたフライパン一つはすぐに水洗いが終わる。濡れた手をタオルで拭いていると、リビングでアラタがテレビを付けた。旭は何とはなしにリビングへと向かい、そこに映っているものと音声に身体を強張らせる。
『では次のニュースです。昨年十月に制定された――
 アナウンサーの声、画面下のテロップ。
 まるで貧血を起こしたかのように脳に血液が回らなくなり、耳から入る音はすぐ耳鳴りにかき消された。目の前が真っ暗になって盛大に倒れる前に、自らぎゅっと目を瞑ってその場にへたり込む。意識的に大きく呼吸しつつ、旭は震える唇を開いた。
「……け、せ。テレビ、消して」
「旭?」
 アラタが声をかけて近寄るが、旭は視覚も聴覚もシャットアウトされていて気付かない。
「見たくない、嫌だ、い、やだ……っ」
 無意識に子供のような駄々を捏ねながら、旭は目尻の涙が零れないように耐える。はあはあと荒い息を吐いて、ムカムカする肺の中に新鮮な空気を送り込もうとする。
「テレビ……いや、ニュースが嫌なのか?」
 アラタはリモコンで手早くチャンネルを変えてから一旦テレビの電源を落とす。
「旭、テレビを消した」
 何も聞こえていない旭は相変わらず苦しそうに息を吐き続ける。とその時、アラタが旭の肩に触れて軽く揺さぶった。
「旭、聞いてるか?」
「……っ!」
 錯乱した旭が大きく頭を振って逃げようとする。アラタは抵抗する旭を両腕で抱き締め、その背中を宥めるようにさすった。
「大丈夫だ。もう何もない」
 その心地良さに縋るように、旭は彼の背に腕を回して自ら抱き付いた。旭の汗ばんだ額には前髪がうっすらと貼りついている。その柔らかな茶色い髪をそっと退け、アラタは涙の滲む旭の目元に唇を寄せた。
 そのくすぐったさにヒクリと跳ねた旭は、だんだんと落ち着きを取り戻し始める。耳鳴りが遠のいていくと、「大丈夫」と囁く優しい声が聞こえてきた。
 あれ、俺どうしたんだっけ……? 朝飯食って、リビングに戻って……ああ、ニュースを見たんだ。
 旭の意識がゆっくりと正常に稼働し始める。瞼をぴくりと動かすと、目元に触れていた温もりが離れた。そのまま目を開けると、目と鼻の先から端正な顔がこちらをじっと覗き込んでいた。
「旭……大丈夫か?」
 後頭部と背中を撫でながら、アラタはもう一度旭の目尻に短いキスをした。
「っ、な、何して――
「俺が……ニュースを付けた。だから旭がおかしくなった。俺のせいだ」
 背中に触れていた彼の指に一瞬力が籠もった。
「お前のせいじゃないだろ。俺が言ってなかったから……」
「ニュースは全部見ない。これからはそうする」
「うん、あと、新聞も見たくない」
 彼に抱き締められたまま、旭は思い出しそうになる記憶に新しく封印をした。
「それはやっぱり、あの事件のせいなのか?」
 アラタの言葉に、旭の心臓がリズムを崩した。
「……はっ、お前そんなことまで聞いてんの? 誰が言ったか知らないけど、個人情報漏洩ってやつじゃねーのかよ」
 そんなことを言いながらも抱かれた腕の中でおとなしくしている旭に、アラタは小さく首を傾げた。
「旭はこういうことをされると嫌なんじゃなかったのか?」
「こういうことって?」
 アラタはその疑問に答えるように、旭の身体をぎゅっと引き寄せた。なるほどな、と思い、旭は思わず苦笑する。
「取り乱した俺のためにこういうことしてくれてたんだろ? ここで思いっきり変態呼ばわりして引き剥がすほど、俺は恩知らずじゃねーし」
「恩……なるほど」
 彼が何か良くない学習をしてしまったような気がして、少し嫌な予感を覚えた。

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