ディストピア、あるいは未来についての話 5 | fDtD    
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5

 迎えの研究員がチャイムを鳴らしたのはきっかり十時だった。浴衣型のゆったりとした検査衣を身に着けた旭が、まだうまく紐を結べないでいるアラタの手伝いをしていると、リビングに何の断りもなく研究員が三人入って来た。
「準備はできたか?」
「まだ。こいつどんくさいからうまく着られねーみたいでさ。ったく、赤ちゃんかよ」
 脇腹のあたりで一生懸命紐を結ぼうとする旭を、アラタは何もせずじっと見下ろしていた。
「後は我々でやる」
 研究員が旭の身体を引き剥がすと、アラタはつまらなさそうに眉間に皺を寄せた。旭が身体検査と称して服の上からボディチェックをされている間に、アラタの服の紐を別の研究員が結んでやろうとする。しかし、アラタはそれを断ってしれっと自分で結んだ。
「何も持ってないって。監視カメラで服着てる間も全部見てたんじゃないのかよ。……って、そこ、さっきも触っただろ……っ!」
 ボディチェックをされていた旭が抗議の声を上げる。
「何かを隠せる場所だからな」
 服の上から男の手が旭の尻肉を左右に広げるように揉んだ。開いた割れ目に布ごと手が滑り込んできて、旭はぞわぞわと背筋を震わせる。
「そーいうのは、発情期中だけにしろ……っ。今はオフシーズン、だって……」
「発情期でもないのに昨夜は随分楽しんでいたようだが?」
 旭の秘部の入り口を男の指がぐりぐりと刺激する。
「ああ、昨日は確かにこっちは使ってなかったかな。発情期までのお楽しみ、ということか」
 旭が屈辱に震えていると、「あの」という地を這うような低い声が部屋の空気を止めた。
「十時からもう二分以上過ぎているのですが」
 アラタが厳格な声でそう言うと、男は慌てて旭から手を離した。旭がちらっとアラタを見ると、彼は珍しく目を逸らした。
 そんな二人のアイコンタクトを遮るように、二人の研究員が旭の腕を両側から掴んで歩かせ玄関へと向かう。その昔は旭があまりにも暴れて脱走を図ったため、ロープで繋がれていたこともあった。だが、抵抗を諦めた今は少し警備が軽くなっている。アラタに付き添いが一人しかついていないのも、彼が自ら了承してここへ来たという前提があるからだろう。
 黒い玄関ドアを開けた先に小さなスペースがあり、すぐ先にもう一枚の白いドアがある。この白いドアだけは内側から開けることができないのだが、今は監視カメラで見ている誰かが自動でその鍵を開けた。
 旭の隔離居住区を出てしまえば、外はごくごく普通の病院かオフィスといった風景だ。グレーのタイル張りの廊下も、真っ白な壁も、非人道的な軟禁施設を持っているようには見えない。現に旭の部屋の白いドアも、閉めてしまえば何の変哲もない一室に見えた。
「これは電子ロックですか? まさか停電になった時は閉じ込められたりしないですよね」
 アラタはまだ機嫌が悪そうにそんな話を始める。旭といる時と違い、敬語でハキハキとしゃべる彼は別人のようだ。付き添いの研究員は彼にへつらうように扉の鍵の仕組みを話し出したが、旭は彼らの会話を無視した。
 廊下を歩いていく方向で、今日は大体どんなことをされるのか想像がつく。発情期が終わって約十日というタイミングからも、今日は生殖器官の検診になるのだろう。それは旭が最も嫌う内容だった。
 まさかあそこにアラタも一緒に行くのだろうかと思っていると、ちょうど分かれ道でアラタは別の部屋へと連れて行かれた。彼に見られなくて良かったと思う反面、先程彼に助けられたことを思い出すと少し心細くなった。
 旭が通された部屋は少し広めの診察室のようなところだ。奥の方では何人かの看護師か研究員のような人が働いており、手前のデスクの前には四十歳程度の医師が座っていた。
「来島先生、お願いします」
「ああ、内診台に座らせて」
 ドクターの指示通り、旭はデスク脇にある診察用の椅子のようなものへ連れて行かれる。医師はカルテに何か書き残すと、キャスター付きの椅子を滑らせて診察台の前へ移動した。
「最近何か変わったことは?」
「あるわけないだろ」
 立ち上がった医師は旭の検査衣の紐をするりと解き、前の合わせを開く。彼は旭の下腹部の辺りを押すように触診してから下着に手をかけた。
「腰浮かせて」
 旭は少し躊躇ってから、おずおずと腰だけを上に突き上げるように浮かせる。まるで早く脱がせてほしいとねだっているような姿を一瞥してから、ドクターは満足気に下着をずり下げた。
「ほら、股開いて、ここに足乗せて」
 医師が旭の太ももをパンと叩く。言われるがままに、旭は膝を立てて両脚を開き、椅子の左右にある台にそれぞれ足を置いた。部屋の奥には何食わぬ顔で作業を続ける看護師、部屋の入り口には旭を連れてきた二人の研究員。衆人監視の中で、旭は自らの恥部を医師に見せつけた。
「どうしてもう濡れてるんだ?」
 旭の後孔の周りはうっすらと湿っており、医師はその周りを指でするりと撫でた。
「……っ、それ、は」
 部屋を出る前に研究員からそこを刺激されたせいだ。Ωのそこは単なる排泄の場所ではないため、性的刺激によって女のように濡れてしまう。
「ただの検査なのに濡らすなんて、やっぱりΩだな」
 医師は旭の入り口から細い内視鏡を入れて診察を進めていく。普通に診ればいいものの、このいやらしい医者はわざとらしく旭の茎や中の性感帯を何度も器具で掠めた。
「はい異常なし」
 ずるりと器具が抜けていく感触に、旭はふるふると身体を震わせた。不要な責めによって、旭の前は既にはっきりと勃ち上がっている。明るい診察室の中、先走りを零す旭のそこは、白い電灯を反射して濡れ光っていた。
「Ωの検査に前は関係ないんだ。こんなに涎を垂らしても何もしないからな」
 医師は旭の屹立を無視して、今度は別の器具を差し込みエコーで内部を確認していく。しかしその途中、彼はわざと旭の控えめに膨らんだ二つの玉を押さえつけた。
「ほら、腰を揺らすな。淫乱Ωが」
 彼の手から逃げようと腰を捩っただけなのに、医師はそう叱ると旭の玉袋をきつく揉んだ。
「っ、そこ、やめ……」
 旭が力なく首を振ると、医師は中に入れていた器具を再び抜いた。彼は綿棒を取り出すと、それで旭の内壁をぐにぐにと擦る。
「木戸君」
 医師が呼ぶと、奥にいた男性看護師が内診台へと近付いてきた。彼が見ている前で、医師は旭の中の綿棒をくちくちと掻き回してから外へ出す。愛液がとろりと糸を引き、綿棒の先端はぐっしょりと湿っていた。
「これ、検査お願い」
 綿棒を出されても、男性看護師は旭に見入っていた。火照った頬で浅く息をする旭を見て、看護師はごくりと生唾を飲む。
「木戸君、聞いてる?」
「は、はい」
 彼は旭のはしたない液のついた綿棒を持って、奥にある別の部屋へと消えていった。
「最後に中を触診しておこうか」
 医師はそう言ってから、器具ではなく彼の指を旭の中に埋め込んだ。ぬるぬるに湿ったそこは、彼の指を難なく奥へと導いていく。内壁をぎゅっぎゅっと押しながら少しずつ進み、ある一点を押し込んだところで、旭の身体が弓なりにしなった。すぐ通り過ぎていけばいいものを、医師はわざとそこを二度三度と刺激し続ける。
「……っ! さっさと……奥に……進め、このエロ医者!」
「悦んでいるくせに。君はいつも身体と口が一致しないな」
 医師がそこをより強く突き上げる。旭は声が漏れそうになるのを堪えようと、口に手を当てた。
「は……っふ……ぅ」
 いつの間にか増やされた指でごりごりと前立腺を責め立てられる。旭の性器は触られてもいないのにはちきれんばかりに大きくなって、指で突かれるたびにぷるぷると揺れた。
 後ろだけでイキそうになったその時、医師の指は前立腺を離れて奥へと進む。外側から下腹部を押してΩの胎を触診した彼は、そのまま何もせずに指を引き抜いた。
「はい、終わり。異常なし」
 絶頂の直前で放り出された旭は、足を開いたまま後孔と性器をひくつかせている。
「ほら、もう足も閉じていいし、下着を履いて服を直しなさい。次の検査があるんだろう?」
 医師にそう言われても、旭は足を広げたまま身体を震わせていた。
「次は尿の採取の予定です」
「あーあ、じゃあこれ一回抜かないと」
 入り口付近にいた研究員と医師がそんな会話をしているのを、旭はぼんやりと聞いていた。
「ほら、聞いてたか? それ、早く何とかしなさい。自分で、できるだろう?」
「ついでだからこの紙コップに尿も出してもらいましょうか」
 医師だけではない。入り口に突っ立っている研究員も、奥で作業をしている看護師も、皆密かに旭の行動に注目していた。
「ほんっとαって性格最悪だな……エロ親父……変態、チビ……」
 そんな旭の抗議を叱るように医師が旭の先端をぴんと指で弾く。
 その時、入り口のドアががらりと開いた。そこにいたのは、白衣の研究員に連れられたアラタだった。
「旭……?」
 見られた。男たちに辱めを受けながら、股を開いて恥部を曝け出しているところを。ギリッと唇を噛み締めると、口の中に鉄の味が広がった。
「彼、ただの検査なのに発情したみたいでねえ。どうしようもない淫乱ですよ。今ここで処理させますので」
 医師がまた旭の性器を弾く。
「奥の部屋へ行くだけですのでお気になさらず」
 研究員がそう言ってアラタの腕を引くが、彼はその場に立ち尽くして岩のように動かなかった。
「不可抗力でそうなってしまったのなら、トイレかどこかで処理させればいいのでは?」
 アラタが淡々と尋ねると、旭の付き添いの研究員は少したじろいでから首を振った。
「トイレに行くにしても、我々は監視としてついていきます。ここでやってもトイレでやっても、人目があるのは変わらない。そもそも彼の生活はトイレでの排泄に至るまで常に監視されています。これは何も特別なことじゃない」
「ああ、君が昨日からこのΩと一緒に住んでいるというαか。一晩同じケージに入れただけでもう番になったのか?」
 医師がアラタに不躾な視線を送ると、近くにいた研究員らはぎょっとして固まった。しかしそんな研究員らの不穏な空気も気にしていない様子で、医師はさらに続ける。
「なら君が今ここで彼を手伝ってやればいい。これを一発抜いてやって、ついでに尿も採ってやれ。昨夜君たちがナニをしたのか全部見られていたんだ。今更恥ずかしがることもないだろう」
 研究員らがオロオロする中、アラタはじっと医師を睨みつけた。
「……いいですよ。その手を旭から今すぐ離してくれるなら」
 医師の手は先程からずっと旭の先端を弄り続けていたが、その言葉にパッと手を離した。
「すまない、君のΩ……だったね」
 カサついた男の指が、旭の滑らかな白い頬をガサリと撫でる。アラタは研究員の腕を振り解くと、まだ診察用の椅子で足を広げている旭に近付いた。
「そっち、使ってもいいですか?」
 アラタは部屋の隅にある普通の診察用ベッドを示して尋ねる。医師が何か言いそうになる前に、研究員たちは黙ってこくこくと頷いた。
「旭……俺の身体で見えないようにするから」
 アラタはそう耳打ちしてから、検査衣にくるまった旭の身体を抱え上げてベッドに運ぶ。彼は旭を壁際の隅に座らせると、周囲の視線から庇うようにして旭を壁と自身の身体で挟んだ。
「誰も見えてないから」
 旭にだけ聞こえるくらい小さな声で呟いたアラタは、まだ萎えることのない旭のモノへと手を伸ばす。先走りでぬめるそこを扱くと、くちゅりくちゅりという小さな音が二人の身体の間から響いた。
「……は、ふ……っ」
 旭は思わず新の胸にしがみついて顔を埋める。アラタの大きな体躯に阻まれて、他の男からは旭の顔も性器も何も見えていないはずだ。しかし、漏れるいやらしい音と吐息だけはどうすることもできず羞恥を煽られた。
「旭……」
 アラタが熱っぽく囁き、旭のピンク色の亀頭をぐちぐちと可愛がる。びくんびくんと旭が身体を強張らせて敏感になっているところで、さらに根元から絞り出すように扱きあげられた。
「~~っ!」
 旭は声にも出さずに悶え、その先端から白い液体をとろとろと吹き零す。
「ふぁ、あ……」
 旭が余韻に浸っている間に、アラタはベッドの上に置かれていたティッシュを素早く取り出して白く汚れた部分を綺麗にしてくれた。その後ティッシュの脇にあった紙コップを手に取ったアラタは、荒い息をつく旭を宥めながら少し躊躇いを見せた。
「射精後の尿採取で問題ないのか?」
「タンパクが出るでしょうが、問題ありません」
 研究員の言葉を聞いて、アラタは旭の髪を優しく撫でた。
「旭、少し落ち着いたら教えてくれ」
 アラタに顔を埋めている旭は、耳まで真っ赤にしてこくりと頷いた。射精後のぼんやりした意識が徐々にクリアになり、これから何をされるのかもはっきりと分かってくる。屈辱感で旭が思わずアラタの検査衣を握り締めると、それをOKの合図だと勘違いしたのか、アラタの身体が動いた。
「旭……ここに」
 彼は先程まで扱いていた場所に紙コップを潜り込ませ、今は下を向いている旭の茎をコップの開口部に宛がった。
「本気……か?」
「大丈夫、誰にも見えてない」
「お前が見てる。目逸らしてろ」
「……分かった」
 アラタがそう言って視線を外しても、旭は中々始められなかった。この状況ですぐに出せと言われて出せるわけでもなく、尿が引っこんでしまっていたからだ。
 だが少し待つと射精後の尿意が徐々にやってくる。ずっとこのままでいるわけにもいかず、旭は意を決して最初の一滴を吐き出した。ちょろり、ちょろりと液体が紙コップの底を打ち、その音はすぐにちょろろろ……という長い音に変わった。誰にも見られてはいないが音は聞かれている――羞恥を感じても、一度出し始めたものを止めることはできない。
 斜めになった紙コップから液体が零れてしまわないかと不安になって下を見る。重みを増しているであろう紙コップはアラタの手でしっかりと支えられていて、零れる心配はなさそうだ。
 そんなことを考えながらふと顔を上げると、目を逸らしてくれていたはずのアラタがじっと紙コップを見ていた。紙コップだけではない。控えめに液体を吐き出し続ける先端部も、溜まっていく黄金色の液体も、全部見られている。
「見るなって、言ったのに……っ」
 あまりの羞恥に旭の目尻に涙が溜まった。
「零れないか心配で、つい――
「つい、じゃないだろ」
 そうこう言いつつ、旭の排泄が次第に勢いを失っていくところまで、アラタはしっかり見守った。
「旭、もういいか?」
「見てるんだから分かるだろ。止まってんだから終わりだ。変態」
 旭が眉を吊り上げると、アラタは生暖かい液体を湛えたコップをそこから離した。
「助けたから恩知らずなことは言われないと思ったのに――
「それ、は――
 今朝学習したことをアラタは早速応用したらしい。確かに彼が来てくれたことで、盛大に自慰を披露する羽目になるのは避けられた。しかし未だ羞恥で頭に血が上っている旭は、素直にここで礼を言う気にはならなかった。
 アラタは呼び寄せた研究員に紙コップを渡すと、旭の片足にひっかかっていた下着を履かせ、検査衣の前を合わせてくれた。今朝は自分の服を着るのも手間取っていたくせに、今の彼は易々と旭の検査衣を直していく。
 服を整え終わってアラタの身体が少し離れた時、やっとその向こうに立つ男の顔が見えた。研究員三人は入り口の近くでどこか戸惑ったように立っているが、これを命じた医師はデスクの前の椅子にどっかりと座ってこちらをいやらしい目で見ていた。
 どうせ普段からトイレもセックスも監視されてるんだ。今更キレるようなことじゃない。落ち着け。
 どれだけそう思おうとしても、この男にいいように動かされたことが旭には耐え難かった。
 アラタがベッドから降りて旭に手を差し伸べる。しかし旭はその手ではなく、彼の後ろにある医療器具の乗ったワゴンに目を止めた。
 次の瞬間、旭は弾かれたようにベッドから降り、流れるような動作でワゴンの上にあったハサミを手にする。その勢いのまま空を切って歩を進め、椅子に座って呆けている男へ向かってハサミを振りかぶった。ギラリと輝く刃が、重力も乗せて勢いよく振り下ろされる。反射的に閉じられた男の瞼の上で、凶器の先端はピタリと止まった。
「Ωだからってあんまり舐めるなよ。これ、今すぐ刺してもいいんだからな」
 恐る恐る男が目を開けた瞬間、もう一度ハサミを少し離して眼球スレスレに突き立ててやると、医師は喉の奥から「ひっ」という空気を漏らした。
 普段ならこんなことをすればすぐに付き添いの研究員が羽交い絞めにしてくるはずなのだが、今日はやけにおとなしい。彼らの代わりに旭を止めたのはアラタだった。
「旭、そんなことしなくてもいい」
 彼は旭の手をそっと下ろしてから、だらしなく椅子に座る医師を見下ろした。白衣の下にある彼のグレーのスラックスは、股間部分が徐々に濃い色に変色してきている。どうやら彼は今の旭の脅しで失禁していたらしい。
 旭の手からハサミをそっと奪い取ったアラタは、それを手の中で弄びながらちらりと医師の名札を確認した。
「来島、先生……ですか。今度白峰製薬の上の方に会った時に伝えておきます。御社の危機管理上、問題のある人材は解雇をお勧めします、と」
 アラタがなぜ大真面目な声で突然そんなことを言いだしたのか、旭にはまるで分からなかった。だが背後にいる彼からは、今まで感じたことのない凍りつくような空気があった。その威圧感は彼が確かにαであることを物語っている。
「あら、た……?」
 そろりと振り返るも、そこにいたアラタは相変わらずの無表情で、旭をじっと見てから首を傾げた。
「旭、検査はもう全部終わったのか? 早く帰ろう」
 旭が答えに窮していると、隅にいた研究員がやっと仕事に戻ろうと口を開いた。
「いえ、彼はこの後まだ採血やスキャンが残っています」
「一条さんもこの後耳鼻科系の別の検査を受けてもらってから、今後の生活についてカウンセリングとお話がありますので……ってさっき言いましたよね?」
 口々にそう言われ、真一文字に結ばれていたアラタの口が、ほんの僅かにへの字に曲がった気がした。
「……分かった」
 アラタが渋々といった感じでそう言うと、一人の研究員が引き続き彼を引率して奥の扉の向こうへ消えていった。
「彼は一体どんな立場の人間だって言うんだ?」
 タオルで股間をゴシゴシ拭きながら、医師がぶつくさ文句を垂れる。そんなことは旭に聞かれても分からないのだが、答えは別の所から出てきた。
「一条新――彼は、弁護士です」
 旭の腕を掴んだ研究員が静かにそう言った。
「最短年齢で司法試験を通り弁護士になってから、まだ若くして大企業や政財界の大物への貢献で高く評価されている、と聞いています」
 男の口から出てくる言葉がどこの誰を紹介しているのか、旭の頭は考えるのを拒否した。
 あいつが、弁護士……? それも優秀な? 受け答えはどっかズレてるし、ガキみたいに俺の真似してくっ付いてくるストーカーだぞ?
 旭の心の声に応えるかのように、研究員は話を続ける。
「性格には多少の難がありますが……クライアントの分野に関する知識の習得の速さと的確な助言は、まるで機械のようだと言われています。あれでβというのがまた彼の高評価に拍車をかけていたわけですが、調べてみればαだった、というわけです」
「白峰製薬とはどういう関係だ?」
 医師は苦々しい顔で吐き捨てた。
「以前コンプライアンスや特許に関する依頼を受けたことがあるそうで、上の者とも繋がりがあります。今回は弁護士としてではなく個人の治療と研究協力のためここに来る、ということだったので、この研究所での軟禁生活については基本的にコンプライアンス上の追及はしない、という約束で受け入れたはずですが――
 そこで彼らは言葉を濁した。アラタが本当にこの医師について本体の企業に密告すれば、この医師の首は飛ぶだろう。軟禁生活や監視カメラは研究のために意味があるかもしれないが、この医師がしていたことは単なるいやがらせに過ぎないのだ。そんなことに時間を使う給料泥棒は解雇されても文句は言えない。
 この男は、怒らせてはいけない相手を怒らせてしまった。逆にこの研究員たちはアラタの立場を知っていたからこそ、彼の要求を黙って受け入れていたのだろう。
「それでは、次の検査があるので」
 失禁したまま呆然としている汚れた医師を置いて、研究員らは旭を別の場所へと連れて行く。
 廊下を歩きながら、旭はイチジョウアラタというあの男について考える。彼は大嫌いなαというだけでなく、旭が最も嫌う職種の人間だった。
 弁護士――旭にとって絶対に許すことのできない存在。今朝のニュース番組のことも相まって、旭の中にある負の記憶がズキズキと痛んだ。

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