旭の陣地に同居人が増えてから一週間が経過した。
「やば、今日の夕飯何も考えてなかった」
「米ならあった」
「米だけあったってどうしようもないだろ」
朝食を終えた後、リビングのソファで食料品のカタログを見ながらそんな言い合いをする。
アラタがチャーハンを消し炭にしたあの日以降、結局彼の食事は全部旭がついでに作ってやっている。外から食事を持ってこさせても良かったのだが、「旭の作った食事が食べたい」という彼の無言の雰囲気に流されたようなものだ。
ハムや玉ねぎくらいならあったはずだからオムライスか何かにしようかと考えていると、室内にピンポンとチャイムが鳴り響いた。
「ああ、ほら、迎えが来た。早く着替えろよ」
旭の隣に座るアラタはVネックのカットソーにスキニーデニムという格好だ。彼は少し名残惜しそうに旭とカタログを交互に見てから、渋々といった様子で立ち上がった。スリムな服装と高身長の相乗効果で、スタスタとリビングを出て行く彼のシルエットは綺麗だった。
あの服は彼の職業を知る前に旭が勝手に注文したものだ。彼からすると少しラフすぎるかと思ったが、アラタ本人は旭の選んだものに満足しているようだ。もっとも、アラタの表情は相変わらず固いので、これは旭の勝手な解釈かもしれない。
すぐにアラタは白のシャツとスラックスという仕事に行くような服装に着替えて戻って来た。というより、彼は本当にこれから仕事をするのだ。
それが決まったのは二日前。外で誰かと話をして戻って来たアラタが、唐突にそんな話題を持ち出した。
「は!? 仕事? 弁護士の?」
「外出はできないが、パソコンだけなら使っていいと言われた。あのエレベータの近くにある研究者の共同部屋を使っていいらしい。あそこならネットが繋がるし、個別のブースに仕切られていてプライパシーが保たれる。もっとも、メールの通信内容には検閲が入るそうだが」
「だってここにいるだけで金もらえんだろ。何でわざわざ元の仕事までするんだよ。そっちは休んでここに来たんだろ?」
問い詰めてみても、アラタは無言だった。
「あーあー、まあ何かすっぱり休めない事情? があるわけだな? 仕事したことない俺には分からない話ですよ」
たまの面会以外では外部との通信が完全にシャットアウトされている旭に対し、αのアラタにはネットの繋がるパソコンまで供給される。旭が不貞腐れるのも当然だった。
そういうわけで、現在アラタは平日の朝から夕方くらいまで別の部屋に働きに行く。主に電話やメール、調べもの程度の内容だそうで、早ければ昼、遅くとも夕方には戻って来た。外にいた頃は朝八時始業、翌午前四時終業というような生活だったらしいので、彼にとっては仕事と呼ぶほどでもないのかもしれない。
玄関から勝手に入って来た研究員がリビングに顔を出し、アラタに「まだか」と問いかける。
「とっとと行けよ、なんでパソコン使いに行くだけなのにネクタイなんか締めようとしてんだコラ」
旭はノロノロとネクタイをいじるアラタを急かした。
「気持ちの問題だ。旭、ちょっと……」
見かねた旭は思わずソファから立ち上がってアラタのネクタイを掴みに行く。
「お前、ここに来る前は一人でやってたんだろ? 何で毎日俺がやってやらないとならないんだよ。俺だってこんなもん中学の制服ん時以来だっつの」
自分の視点ではなく向かい合わせで結ぶのはかなりやりにくいが、アラタに任せっきりにするよりは早い。できあがった結び目を正してやってから顔を上げると、じっと見下ろすアラタの視線とぶつかった。
「ありがとう。……いってきます」
彼は丁寧にそう言ってから研究員の男と共に玄関を出て行った。
「おはよう」「おやすみ」「いってきます」「ただいま」
彼はやたらと挨拶をする。挨拶はコミュニケーションの基本だと、例の本で学んだらしい。しかし旭はいつもそれにうまく返すことができなかった。何年も一人で過ごすことに慣れてしまって、そんな習慣は全部忘れてしまったようだ。
ソファに戻ってカタログのページを繰り、食料類を注文する。静かになった部屋に一人取り残されると、仕事のあるアラタと何もない自分を比較してしまい、なぜだか虚しい気持ちになった。
そんな旭をチャイムが呼び出したのは、午後になってからのことだ。
***
二人の研究員によって玄関の外に連れ出された旭は、両手をロープで縛られていた。この前来島という医者にハサミを向けた一件を受け、警備が厳重にされてしまったからだ。紐などという細いものではなく、しっかりとした本格的な縄だ。しかもそれをかなりきつく手首に巻きつけられているため、歩く際に擦れるだけで痛みを感じた。たったこれだけの変化で、まるで看守に連れられて歩く囚人のような卑屈な気持ちになる。
検査衣への着替えがなかったことと、歩いていく方向から併せて考えると、今日の行き先はおそらくカウンセリングルームだろう。唯一人間的な扱いを受けられる検診内容であり、βのカウンセラーである崎原は旭が信頼できる数少ない医師だ。
そんなことを考えながら手首の痛みに耐えて歩いていると、アラタがいるはずの共同研究室が見えてきた。自室のない研究員や外部からの派遣の人間が自由に使えるフリースペースだと聞いたことがある。
少し先から早足で別の研究員が歩いて来て、「崎原先生がまた来ていない」などという会話が始まった。「上階にいるはずだ」とその研究員が傍にあったエレベータに乗り込み、旭と引率の研究員はしばらく廊下の隅にある柱の陰で待つことにした。
しばらくしてエレベータが降りてきたが、そこに乗っていたのは研究員でも崎原でもなく、背の高い美女だった。タイトなスーツに身を包んだ彼女は、いかにも有能なαのビジネスウーマンといった出で立ちだ。おそらく身長は旭より高い。ストレートの黒髪は明かりを反射して天使の輪を作っている。
彼女は柱の陰にいる旭らに気付くことなく、一緒に乗っていたスーツの男性に導かれて、すぐ傍の共同研究室へ入っていった。
明らかにこの研究室の関係者ではない女性と、彼女の入っていった場所から、旭は何となく嫌な想像をしてしまった。
廊下の壁際に凭れかかっていた旭は、さり気なく態勢を変えるフリをしつつ、二、三歩移動した。そこからなら共同研究室のガラス張りのドアが視界に入るからだ。そしてそこから見えたものに、「ああ、やっぱり」と納得した。
ドアを入ってすぐのところで彼女を迎えていたのはアラタだった。女性の方は背を向けていて分からないが、アラタの表情ははっきりと見ることができる。彼らは何かをずっと話していたかと思ったら、女性の方が持っていた布の包みを差し出した。アラタはそれを受け取ってから女性に何か言われたらしく、明らかに顔を赤らめて俯いた。
何だ、あいつやっぱりモテるんじゃん。っていうか、あの見た目で優秀な弁護士ってんなら、童貞とか言ってたのも絶対嘘だ。
私情を排して客観的に見ても、アラタの長身と顔は上等な部類だった。それに加えて弁護士というなら、どんなに喋りがおかしくても女性が寄ってくる。彼が意識的にそれらを断っていない限り、女性経験がゼロというのはあり得ない話だ。
旭はガラスの向こうの男女をじっと睨む。175センチはあるだろうかというスラリとしたモデルのような女性は、アラタと並んでもバランスが取れている。まだ紅潮した顔で何か会話を続けるアラタから、旭は静かに視線を逸らした。その結果目に入ったのは、惨めにもロープに拘束された自身の赤い手首だった。
しばらくすると女性が部屋から出てきた。外部の人間に見せたくないのか、研究員は旭のロープを引いて壁の柱の陰に引き込む。彼女が呼んだエレベータから、ちょうど入れ替わりに崎原医師が出てきた。女性を乗せたエレベータのドアが閉まってから、研究員と旭は彼らの元へ向かった。
「先生、お待ちしてました」
「すみませんね、来客があったもので」
二十代後半の眼鏡と天然パーマが似合う崎原医師は、いつも通りふんわり微笑む。彼はそこで旭を拘束するロープに目を止めた。
「ああ、これはほら、この前来島医師が襲われた事件があったでしょう? それで今はこうしているわけです」
聞かれるより先に研究員が説明する。
「しかしあれは、来島先生の方に行き過ぎた点があったと聞きました。被験者と実験者の間の上下関係が行き過ぎるのは、篠原君だけでなくあなたたちの心理的にもよくないですよ。スタンフォード監獄実験の話、研究者なら一度は聞いたことがあるでしょう」
崎原はそう言いながら、旭の手首の戒めを解いてくれた。
「さあさあ、診察室の鍵を開けるから行きましょう」
彼は軽やかにそう言ってから旭と研究員を促した。共同研究室の前を通り過ぎる際、ふとガラスのドアを見たが、入り口付近にはもうアラタの姿は見えなかった。
カウンセリングルーム内の会話は、医師と患者だけのプライバシーが保たれる。いつも入り口に立って待っている引率の研究者も、この時ばかりは崎原が呼ぶまでどこかへ追いやられていた。
「新しく同居人が増えたそうですね」
デスクの奥にある椅子に座るなり崎原はそう言った。
「ああ、ここにも来たって言ってたな。コミュニケーション入門とかいう変な本、先生があいつに渡したんだろ?」
旭はデスクの手前にあった患者用の丸椅子に腰かける。
「はい、彼も色々とあなたのことで悩みがあったみたいなので」
「あの無表情に悩みなんかあんのかよ」
旭はケッと吐き捨てた。
「残念ながら一条さんの悩みについてお話しすることはできません。が……篠原君はどうですか? 彼の悩みが気になる?」
「別に。どうせあいつは分からないことだらけなんだ。悩みだけ聞いたって意味ないだろ」
旭は足を組んで興味ないという態度を取った。
「分からないことだらけ……何が分からないのですか?」
「あいつが何を考えてるのか」
端的な旭の回答は不十分だったようで、崎原は「具体的には?」と相槌を打った。
「何で自分からこんなところでの生活を受け入れたのか。何で子供みたいに俺の後をついて回るのか。何でわざわざここに来てまで仕事をするのか……まだ言うか?」
「分からないことがあるなら、吐き出して整理しましょう」
温和な崎原の言葉に乗せられて、旭はふと先程見た光景を思い出していた。
「女とヤッたことがないってのは本当なのか。本当なら、それは何でなのか。嘘なら、何でそんな嘘をついたのか。……あいつは、俺と発情期を過ごすことをどう思ってるのか」
言ってしまってからカッと顔が熱くなる。彼の性事情ばかり気にする自分を、あさましいΩの性として恥じた。
「篠原君はどう思っていますか? 発情期を彼と共に過ごす……どうなると思いますか? あるいは、どうなってほしいと思いますか?」
旭は無意識に膝の上の拳を握っていた。
「俺はあいつが嫌いだ。αだし、弁護士だし、一番憎むべき存在で……気ままな一人暮らしの邪魔者だ。だから、さっさと出て行ってもらうためにあいつを発情させて、フェロモンの感知が鈍ってただけなんだって証明させたい。原因が分かればすぐに調査は終わりだって聞いたから」
「篠原君は、一条さんが発情すると思っている」
「俺のフェロモン、βにまで効くから……あ、崎原先生には効かないけど。とにかく、αのあいつに効かないってことはないと思う」
どんなαも籠絡できるという点においては、旭は自分の能力を信じていた。αに犯されるのは不本意だが、αを狂わせる力を持っていると捉えると、少し優位に立ったような気になれる。
「発情期まであと一週間くらい、ですね。そこで一条さんが発情すれば、彼との生活もそこまで」
崎原の言葉はなぜか旭の胸にちくりと刺さった。あとたったの一週間。発情した彼は人が変わったようなセックスをして、旭の元から消えるのだろうか。そうして、あの女性の元へ帰るのだろうか。そんな想像が頭の中に湧き起こった。
「彼との生活で何か困っていることはありますか? あと一週間でも一応聞いておきましょう」
旭はぼんやりと彼と過ごしたこれまで一週間を振り返った。
「監視カメラでも見てると思うけど、あいつやたらとベタベタ俺にくっ付いて来るんだよな……。風呂入ってるといっつも何か理由付けて覗きに来るし、ソファに並んで座るのもやたら近いし、夜のベッドだって抱き枕にされるし……」
「篠原君はそれが嫌だ、と」
「当たり前だ。最初に言ったけど、あいつが何を考えてあんなことしてくるのか分からない」
「好意の表れだとは思いませんか? いやがらせや悪意を感じる?」
旭の心臓がぎくりと跳ねた。好意――あえて意識しないようにしていた彼の空気。
「悪意は感じないけど……好意なんて向けられても……困る」
旭はたどたどしくそう答えるので精一杯だった。しかし崎原は無慈悲にも「どうして?」と会話を続ける。
「俺はαも弁護士も嫌いだから」
「どんなに好意を向けられても好きにはなれない、ということですね」
崎原の言葉に旭は小さく首肯した。
「ずっと憎んで生きてきたんだ。今更αだの弁護士だのに心を許すのは……負けな気がする」
「負け、というのは、誰と何の勝負に?」
「さあ? 俺自身とのプライドの勝負、かな」
旭は頭の後ろで手を組もうとしたが、手首の痛みに顔を顰めた。
「ああ、それ……皮が剥けてますね。血も出てる?」
崎原はそう言って立ち上がると、隅にあった洗面台で旭の傷口を洗った。旭は部屋の脇にあったベッドに座り、棚から救急箱を持ってくる崎原を見上げた。
「本当は外科の先生に診せた方がいいんでしょうが」
「いいよ、このくらいの傷。それに俺、崎原先生が一番好き」
至近距離で真っ直ぐ目を見てそう言うと、彼は少し照れたように笑った。
「それは私がβで、しかも君のフェロモンが効かないからでしょう。要は無害で安全な存在だということです」
「それもあるけど、それだけじゃない。崎原先生だけは、俺のこと人間扱いしてくれるから」
この研究所の者は皆、旭を籠の中の実験動物か、さもなければ奴隷のように扱った。そんな中、旭の待遇について声を上げてくれたのはいつも崎原だった。
「来島先生のこと、前からたまに相談を受けていたのに、あそこまでエスカレートするのを止められなかった。私がβでなければもう少し違ったんでしょうが」
彼は適当な大きさに切った薄いシートを旭の擦り傷に貼りつけた。
「崎原先生がいつαの連中に苛められるかの方が俺は心配」
「βである以前に私はまだまだ若い下っ端なので、色々言われても当たり前です。まだ若いから怒られるんだと思うことにして、相変わらず好き勝手言ってますよ」
崎原は型による差別を年齢の話にすり替える。彼のポジティブさにつられて、旭も少し笑った。
「崎原先生、いくつだっけ?」
「二十九、ですね」
「あ、アラタと一緒」
思わず言ってしまってから、旭はハッと口を噤む。シートをハサミで切っていた崎原は、そんな旭を見て満足気な笑みを浮かべた。
「せ、先生、何その顔」
「いえ、別に。一条さんのこと、すぐ思い浮かべるんだなと」
「そんなんじゃないし」
楽しそうにふふっと顔を綻ばせる崎原を、旭は俯きつつチラチラと観察した。アラタと崎原は同じ歳で、アラタも崎原もβとしてαの世界に挑んだ。結果的にアラタはαだったわけだが、育った境遇としては近いものがあるだろう。それなのに、彼らは剛と柔でまるで正反対だ。そして、旭が彼らに抱く感情も緊張と安らぎという真逆のものになっている。
「そうそう、明後日ですが、篠原君の伯父様が面会にいらっしゃるそうですよ」
「……ああ、父さんたちの命日も近いからな」
その後、この前うっかりニュースを見てしまったことや、両親の夢の話などを細々と報告し、今日の診察という名の雑談は終了となった。
旭が部屋を出るところまで、崎原はいつも見送りに来てくれる。彼と並んでドアを開けた瞬間、旭は「ゲッ」と声を上げそうになった。
「旭」
真っ先に名前を呼んできたのは仏頂面のアラタだった。
「もうすぐ終わると聞いたから一緒に帰ろうと思って」
「一緒に帰って何の意味があるんだよ。小学生の下校時間じゃあるまいし」
アラタを無視してさっさと歩き出そうとした時、崎原が声をかけてきた。
「篠原君、それ、液が漏れてきたりかぶれるようなことがあったりしたら取り替えてくださいね。お風呂の時がおすすめです」
彼はそう言って、替えのシートが入った袋を渡してくれた。
「それと、もうロープはやめましょう」
崎原の言葉に、傍にいた研究員が目を逸らす。首を傾げたアラタが研究員らの名札をじっと見て「ロープ?」と呟くと、白衣の男たちはビクビク震えた。
「先生、ありがと」
別れ際に礼を言うと、彼は「またね」と手を振った。
「何してる、行くぞ」
旭が歩き出してからすぐ、背後から研究員のそんな声が聞こえてきた。振り返ると、アラタが立ち尽くしてじっと崎原を見ていた。
「あの本、役に立ちましたか?」
アラタの向ける剣呑な空気を柳のように躱し、崎原はにこりと笑っている。
「役に立ったのかどうか、よく分からない」
アラタはそれだけ言ってから、ツカツカと旭たちの方へ歩き出した。