ガチャリという重い音を立てて、外部と通じる白い扉が封印される。研究員らは旭とアラタを黒いドアの向こうに閉じ込めると、すぐに部屋を去っていった。
「ただいま」
アラタがぽつりとそう言ったのを無視してさっさと靴を脱ぐ。先に部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると、追いついてきたアラタが背後から腕を掴んだ。
「旭、さっき何を貰ったんだ?」
彼の視線は旭の持つ小さな紙袋に注がれていた。
「これ? なんか傷に貼るやつ」
掴まれていない方の手を上げて手首を見せてやる。
「傷?」
「大したことない」
旭は腕を下ろしたが、アラタはガッシリと旭の両肩を掴んで壁に押し付けた。
「βのあいつに何かされたのか?」
「は!? 違う、あの研究員たちだよ。ロープでしょっ引かれたら傷になったんだ。崎原先生はむしろ助けてくれたんだって。大体、あの先生がそんなことするわけないだろ」
旭がもがいても、αの圧倒的な腕力に敵うわけもなかった。
「旭は、やっぱりあのβの男が好きなのか?」
間近で見るアラタの目は、目の前の獲物を逃がすまいと照準を定めている。
「お前が言ってる好きの意味が分からないんだけどさ、俺は普通の意味で崎原先生が好きだよ」
「じゃあ、俺とあの男のどっちの方が好きなんだ?」
アラタは旭の身体をぎゅうっと抱き締め、旭の髪に顔を埋めた。
「あのなあ、会って一週間のお前と、もう二年? いや三年? くらいお世話になってる先生と、二人比べてどっちが好きかなんて分かりきってるだろ?」
「分からない」
「とにかく、夕飯作るから離れろって」
アラタは完全に拗ねてしまったようで、欲しい答えが得られるまでは梃子でも動かないといった様子だ。
好意の表れ――ふと崎原が言っていたことを思い出す。おそらくこれは嫉妬なのだろうということは、旭にも分かっていた。それに気付かないほど鈍感ではないからだ。ただし、そもそもなぜこの短期間でここまで好かれているのかは分からない。
旭は子供をあやすようにアラタの背中をぽんぽんと叩いてから、こっそり溜め息をついた。
「夕飯いらないんなら作らないぞ。一ついいこと教えとくとな、俺は崎原先生に何か料理を作ったことなんてないからな。分かったか?」
その言葉に、アラタは現金にもぴくりと反応を見せた。
「カレーも? 麻婆豆腐も? パスタも? ハンバーグも? シチューも?」
「はいはい、全部」
アラタが並べ立てたのは、この一週間で食べたことのあるメニューだ。
「今日はオムライスな。分かったら離して、とっとと着替えてこい」
アラタのネクタイの結び目を緩めてやると、彼はやっと旭を開放した。
***
食後の休憩としてソファで野菜ジュースのパックにストローを差すと、すぐアラタが隣に座ってきた。
「ごちそうさま」
旭は何も言えずに、ちゅーっとジュースを吸い上げた。
「旭の料理はいつもおいしい。が、オムライスは特においしかった」
液体が鼻に来て思わず咳込んでしまう。
「男のテキトー料理に何言ってんだ」
「真っ黒にならないだけすごい。あの料理はどうやって習得したんだ?」
旭は意味もなくジュースのパックを撫でまわした。
「しゅ、習得って……。料理本買って覚えただけだって。ここネット使えないから面倒だったな。包丁欲しいってのも最初は却下されたし」
「却下?」
「武器になるからじゃねーの? 研究員に包丁向けたり? あと……自殺したり? 料理に使うだけだって何度も言ってやっと注文できたんだ。暇だからリビングの棚でもDIYしようとした時だってさ、工具セットの購入許可が下りるまで大変だったんだからな。ハンマーで壁に穴を開けるかもしれないって……監視カメラで見てるんだから途中で止められるだろっつーの」
旭は遠い目で昔を懐かしんでからチビチビとジュースを飲んだ。
「あ、何かテレビ見る?」
リモコンをちらつかせると、アラタの肩が小さく震えた。
「ああ、心配すんなって。テレビ付ける時はまず時間を見る。今の時間はバラエティかドラマ。で、ニュースの多いチャンネルは時間に関わらず見ない。これでいつも大丈夫だから」
リモコンで電源ボタンを押すと、予想通りそこではオフィスもののドラマが放送されていた。男女の社員のコミカルなやりとりを見ながら、旭はふと今日見たアラタと女のツーショットを思い浮かべた。
「お前、そういえば明日も仕事?」
「ああ。どうして? 寂しい?」
「んなわけねーだろ」
旭は空に近いジュースを思いっきりへこませながら、アラタに肘鉄を入れた。
「そんなに仕事があるんなら、発情期の時だけここに来ればよかったのにって思ったんだ。ほら、いつも俺のところに来るαどもみたいにさ。発情期以外をこうやって一緒に生活する意味なんてないだろ。研究者にそう命令されたのか?」
「いや。発情期よりも先に旭に会っておきたいと、俺の方から頼んだ」
旭は紙パックを吸うのをぴたりと止めた。
「なんで?」
ドラマの内容など二人とももう全く気にしていなかった。アラタはリモコンでテレビの電源を落とすと、かなり長いこと逡巡してからゆっくりと口を開いた。
「その、初めての相手だから……赤の他人ではなく、それなりに親密になっておきたかった」
咥えていたジュースのパックが、旭の口からぽろりと落ちる。
「だ、だからって……俺との共同生活を自分から申し込んだのか?」
深々と頷いたアラタに、何と声をかけていいか躊躇った。
「何て言うか……ロマンチストな童貞、なんだな……。そもそも、お前ホントに童貞なのかよ」
今日の昼間見たのと同じように、アラタは顔を赤らめた。旭の中で、あの時感じたムカムカしたものが蘇る。
「弁護士様なんだろ? 金目当ての女にホイホイ誑かされて既成事実作られたりしてたんじゃねーの?」
「そんな暇はなかった。弁護士になるまではβだから頑張ろうと勉強に必死で、弁護士になってからは休む暇もなく仕事があった」
「一晩遊ぶくらいはあっただろ」
旭はゴミ箱に向かって紙パックをシュートした。弧を描いたパックは、どこにぶつかることもなく綺麗にゴミ箱に吸い込まれる。
「あっても俺はそういうことはしなかった」
旭を真っ直ぐ捉えるアラタの目に嘘の色はなかった。
「あっそ。そんな身持ちの堅いαがこんな実験でΩ相手にヤッちゃっていいわけ?」
「だからせめて、その前にお互いを知っておこうと思った」
アラタはやはりどこか言葉を選んでいるようで、今一つ完全に信じることができない。
つまり、こいつが俺に懐いてるのは純粋な好意じゃなくて、初体験に至るまでの恋人ごっこみたいなものをしようとしてるのか?
彼の露骨でつたない愛情表現を思い出すと、子供のままごと遊びというのもどこか納得できる。しかしこれまで散々彼に振り回された割には、その行動原理があまりにも単純で、どこか虚しさを覚えたのも事実だ。
俺のこと本気で好きってわけじゃないのか。実験で初体験を捧げる相手だから、仕方なく……って感じか?
「旭は、まだ信じられない?」
その言葉に現実に引き戻される。
「え、いや。もう分かったよ。お前が純情童貞なんだってことがな」
「どことなく、馬鹿にされたような気がする……」
アラタの声色はあからさまに不本意だと言っていた。
***
頭のてっぺんから熱いシャワーを浴び、旭は柔らかな髪をかき上げた。
アラタの話を聞いてモヤモヤしていた何かはシャワーでも流れ落ちることはなく、胸のどこかにこびりついている。
今日会ってたあの女は結局何だったんだ? あれは何をもらってた?
手持ちの材料を元に、辻褄の合うストーリーを構築してみることにした。
あの女性にアラタは長いこと片思いをしていた。だから他の女の誘いも断って独り身を貫いてきた。しかし彼女の心を射止める前にこの実験への参加を余儀なくされて、初体験を彼女ではなくどこぞのΩに捧げることになってしまった。だから仕方なくそのΩを恋人に見立てて、気持ち的には恋人との初体験にしようとしている……?
そう考えた時、アラタにとって旭はあの女の身代わりということになる。もしかしたら、彼は旭の姿を見ていても、そこに彼女を重ねて見ているのかもしれない。
旭は思わず湯気で曇った鏡をドンと叩いてしまった。
その時、急に背後でがらりとドアが開く音が聞こえた。どうせまた何かしら理由を付けてアラタが覗きに来たのだろう。そう思って振り返ろうとした瞬間、背後から思いっきり抱きすくめられた。
「ちょ、お前……は、はだ」
旭がどもるのも無理はない。いつもは服を着て覗きに来るだけだったアラタが、今日は自らも服を脱いで入ってきてしまったらしいのだ。
「ほんっとキモい! ヘンタイ! 何度も言うけどキモい! これ外でやったら通報されてるからな」
壁にかけておいたシャワーヘッドを取り、背後にいるアラタの顔面に向かって放水攻撃をしかける。しかし彼はシャワーを持った旭の手を捕まえて、肩口に短いキスを落とした。
「親睦を深めるには裸の付き合いがいいらしい」
また例の本から得た知識だろうか。彼は風呂椅子に旭を座らせると、シャンプーを泡立てた手でゴシゴシと旭の髪を洗い始めた。
「ヘッタクソ。お前絶対美容師になるなよ」
泡が目に入りそうになり、旭はぎゅっと目を閉じて文句を言った。ジャバジャバとシャワーで髪を洗い流された後、そろりと瞼を開けてみる。相変わらず鏡は曇っていて背後のアラタの表情はよく見えない。そう油断していた隙に、ぬるりとした手が旭の脇腹に触れた。
「っ、ひゃ……」
思わず変な声が出てしまい、腕で口を隠す。ぬめった手は容赦なく胸の辺りに移動してきて、旭の体は無言でひくんと震えた。アラタはタオルもスポンジも使わずに、手の上に泡立てたボディソープを直接旭の体に塗りたくっていく。
「く、くすぐった……っ」
旭がいくら身を捩っても、アラタの大きな手はしっかりと旭の身体に纏わりつく。彼はおそらく何も意識していないのだろうが、その指が胸の突起のあたりを掠めると、くすぐったさだけではない別の感触がムクムクと下半身に広がった。
「だ、駄目、ちょっと、待……っ」
アラタの手が旭の下腹部に到達してしまい、旭の反応したモノが彼の手にぶつかってしまった。
「旭? これは……」
熱い湯のせいだけでなく、旭の顔はみるみる温度を上げていく。
「お前が、変なことするから……!」
「身体を洗っただけだ。背中を流すのが裸の付き合いの基本で――」
くるりと振り返った旭は仕返しとばかりにアラタを押し倒して抱き付いてやった。彼が床に頭をぶつける鈍い音が風呂場に響く。
「お前だって絶対勃つからな。見てろ」
旭はぬめった自身の身体をアラタに密着させ、手に取ったボディソープも彼の身体に塗り付けていく。控えめに立ち上がった旭自身をわざとアラタのモノに擦り付けながら、とにかく彼の身体を愛撫していった。特に脇から脇腹にかけてつつーっと手を滑らせると、彼の身体は分かりやすく強張る。
「ほらな、童貞がソーププレイに耐えられるわけないんだって」
旭はゆっくりと身体を起こして膝立ちになる。その下でアラタの太いモノが上向いているのを見下ろし、満足気に微笑んだ。
「身体、洗っただけなんだけどなー?」
旭は二人分の欲望をまとめて握り、ソープでぬめる手でゆっくりと扱いた。
「っは、お前の、でかすぎなんだって……」
片手で二人分のモノをしっかり握り込めず、旭は自身の猛りを彼の裏筋に擦り付けるように腰を振る。その中途半端な刺激に耐えられなかったのか、アラタは突如上半身を起こすと旭の手の上から二人分の欲望を包み込んだ。
「あら、た……?」
彼の大きな手で力強く擦られてしまえば、旭の持っていた主導権はあっさりと奪われてしまう。
「そ……そんな、したら……っ」
ぬるぬると上下に摩擦される感触と、ピンク色の敏感な亀頭同士がぶつかる刺激で、旭の口は意味のない吐息を零すばかりになった。膝立ちでいられなくなり、アラタの上に対面座位のように座ってしまう。支えを求めて彼の身体にしがみつきながら、下を擦られるたびに身体を揺らした。
「旭、気持ちいい……」
アラタの低い声に色気が混じっていて、旭の耳からぞくぞくした悪寒のようなものが身体中を巡っていく。腕だけでなく立てた膝でもきゅっと彼の腰回りにしがみ付き、彼の手の動きに身を任せた。泡を含んだくちゅんくちゅんという音が密着した二人の間から響く。その音がどんどん早くなっていくことで、アラタの限界が近いことを悟った。
「んん、ふ、ぅ……」
声を抑えて鼻声で旭が喘ぐと、アラタは一瞬息を止める。密着した彼のモノがどくんどくんと脈打って、旭の腹部に何かがドロリとかかった瞬間、旭も堪えていた欲望を先端から吐き出した。
互いにぴったりと抱き合って座ったまま、はあはあと呼吸を整える。アラタをからかってやろうとしても、いつも最後は旭が翻弄されてしまっていた。
「背中流すって……身体洗いに来た奴が汚してどーすんだよ」
旭の腹部には石鹸の泡ではない白いものがべったりと付着している。それをアラタに見せつけてやると、彼はふいっと目を逸らした。
「旭が……挑発するから」
「俺のせい!? 元はお前が俺のこといやらしい手つきで撫でたのが悪いんだろ! このムッツリ!」
出しっぱなしで転がっていたシャワーを手に取り、アラタの身体目がけて湯を浴びせかける。ついでに旭自身の腹部の汚れも洗い流そうとすると、アラタの真っ白な欲望がお湯と共に旭の股間へと流れていった。たったそれだけのことで、旭の奥の方でずきずきと何かが甘く疼く。この不思議な感覚を彼も共有しているのだろうかと考えていると、彼はもう一回旭をぎゅっと抱きしめた。
「おいコラ、洗えない」
「……もう少しだけ」
彼はまだ射精後の甘い余韻に浸っているのか、ソープの香りがする旭の肌の匂いを嗅いだ。まるで本当の恋人同士のようだ――旭は湯気の籠もる風呂の床でそんな錯覚を覚える。童貞喪失のための恋人ごっこなどではなく、アラタが抱き締める力は本物のような気がした。
***
アラタがせっせと髪を洗っているのを、旭はバスタブに浸かりながらぼんやりと見つめる。わしゃわしゃと髪を泡立てるたび、肩から上腕にかけての筋肉が美しく動いていた。
あまりにもぼーっとしていたため、髪を洗い終わったアラタがバスタブに入ってくるのを防ぎ損ねてしまった。狭い湯船に二人という状況になって、旭は大慌てで先に上がろうとする。しかしアラタの手によって難なく引き留められ、さらにはそのまま彼の前にすっぽりと座らされてしまった。
背後からぎゅっと抱き締められると、ただでさえ温まっていた体温がさらに上昇していく。しかも密着しているせいで彼のモノがしっかりと旭に当たっていた。
「ちょっと、もう出たいんだけど」
アラタは返事をする代わりに旭を抱く腕に力を込めた。逃がさないと言わんばかりの執着心。旭には彼の本心が見えなかった。
少しするとアラタの手が旭の手首をそっと持ち上げる。傷を覆うように貼られたシートをそっと撫でてから、彼は勝手にそれを剥がし始めた。
「何してんだよ。せっかく崎原先生が貼ってくれたのに」
「風呂で取り替えるといいと言っていたから……。本当はこれを剥がすためにここに来た」
「それはもっと時間経ってきたらの話だろ」
旭の抗議も虚しく、何時間か前に貼られたばかりの医療用シートは剥がされてしまった。そこまで酷い傷ではなかったので、痛みはあまりない。アラタは現れた傷口をそっと撫でた。
「風呂から出たら俺が貼る。あいつが貼ったのをいつまでもそのままにしておくのは嫌だ」
こいつ、自分が何言ってんのか分かってるのか?
全く嫉妬を隠そうとしないアラタに、旭は自分の方が自意識過剰なのではないかとさえ思った。あるいは、恋人ごっこだからこそわざとらしく嫉妬してみせているのかもしれない。
アラタに手首を持ち上げられたかと思うと、背後から彼はその傷口にキスをした。柔らかな唇に掠り傷を撫でられるのは、痛いようなくすぐったいような何とも言えない感覚だ。彼がそのまま手首を舌で舐め始めたせいで、全然関係ない下半身がうずうずと反応し始めてしまう。
「おい、何してんだって……」
身体を捩ると、その分だけまた強く引き寄せられてしまう。アラタの中心がまた固くなりつつあるのに気付いたら、ちょうど彼も旭の前に手を忍ばせてきた。
「旭、ここ……」
彼の手に摑まえられたそこは、悔しいがまた勃ってしまっていた。
「ああ、もう! お前といるとキリがないんだよ! このエロα……っ!」
そんな旭の抗議の声は、すぐに甘い嬌声へと変わっていく。彼の手で欲情を煽られ、旭の身体は湯の中に溶けてしまいそうなくらいに蕩かされた。
ふと顔を上げると、天井にはレンズの曇ったカメラが光っている。今この映像を誰かが見ているなら、いやらしい音声だけが聞こえてくるものの、視覚的には何も見えていないのだろう。そう考えると少し楽しくて、旭は誰にも見えないのをいいことに快楽を貪った。