ディストピア、あるいは未来についての話 17 | fDtD    
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17

「おかしいと思ったんだ。さっき旭の付き添いに行くって出てったはずの人が研究室に戻ってきてて……」
 庸太郎は、旭を抱いて廊下を歩きながらそう独りごちた。自分で歩けるからいいと断ったのだが、彼は自分の着ていた白衣で旭を包み、勝手に抱き上げてしまったのだ。
 幸い廊下に人通りはなく、旭はすぐに自室へと連れ戻された。
「血が出てる」
 旭をベッドに座らせた庸太郎は、剥き出しの太ももに付いた血に眉を顰める。彼はベッド脇に置かれた救急箱から消毒液のついたコットンを手に取り、旭の足を軽く開こうとした。
「自分でやるから、触るな。出てけ」
 旭は固く足を閉じて、身を守るように片腕で膝を抱えた。もう片方の手で彼に白衣を突き返すと、白い生地が一部赤い血で汚れているのが見えた。
「でも――
「こんなの大したことじゃない。発情期以外でこういうことされるのも、ここでは日常茶飯事だ」
 それは庸太郎を納得させるための嘘ではなく、この研究所の真実だ。だが彼はなおも旭の膝を割ってきた。
「だから、シャワー浴びるからいいって……」
 旭の抗議を無視して、庸太郎は旭の内股を拭う。ヒヤリとした感覚に驚いて力を抜くと、彼は旭の両足をさらに大きく開いた。太ももについた血の原因、その奥の窄まりに彼の指が伸びる。
 なんでそんな傷ましい顔してんだよ。お前だって俺に同じことしたくせに。発情中だろうがそうじゃなかろうが、レイプはレイプじゃないか。
 そんな考えをあえて言葉にしないのは、「あれは仕方のない事故だった」と言い返されるに決まっているからだ。事故で発情して周りを誘うΩは責められ、事故で発情中のΩにサカってしまったαは許される。誘ったΩが悪いというのが彼らの理論だった。
「何を、しているんだ?」
 その低い声にハッと顔を上げる。思考に耽っていたせいでドアが開閉する音にすら気付かなかった。普段の無表情をさらに凍りつかせたような固い顔で、アラタがベッドの上の旭たちを睨んでいる。庸太郎は旭から素早く手を引いて両手を上げた。
「誤解されると困るから言っておくと、俺は何もしてない。虫の居所が悪かった研究員にヤられてたところを俺が助けた」
 庸太郎が説明している隙に、旭は傍にあった下着とスウェットパンツをもぞもぞ身に着けた。自身のレイプ被害をアラタに知られること自体屈辱で、ただ俯くしかない。
「この研究所は被験者の人権を何だと思っているんだ?」
「インターンの俺に言われても。それに、旭が絡まれた原因の一部は多分お前だ。今日監視カメラを見てた連中が話してたのを聞いたら――
 その言葉に、旭は弾かれたように顔を上げた。
「庸太郎!」
「どういうことだ?」
 アラタが詳細を尋ねるのと、旭が声を上げたのはほぼ同時だった。
「余計なことは言うな!」
 半ば叫ぶように制止すると、庸太郎はおとなしく口を噤んだ。その代わり納得いかないのはアラタの方だった。
「俺には話せないことなのか」
 彼の怒りは庸太郎ではなく旭へも向けられた。しかしどんなに凄まれても、例の弁当に関する話をアラタに知られるのだけは嫌だった。
「空気が悪いから俺はお暇しようかな。いやあ、カメラに映らないだけで恐ろしい殺気だな」
 庸太郎はのらりくらり立ち上がると、アラタを見て肩を竦める。そのまま部屋を出ていくかと思いきや、彼は最後にくるりと振り返って爆弾を投下した。
「あ、そうだ。旭、今日のアレ、ごちそうさま。旭はついに料理まで上手くなったんだな」
 彼の言葉の意味が瞬間的には理解できなかった。だが、思い当たるのは一つしかない。
「なんで、お前が」
「崎原先生、外出だったから。せっかくの旭の料理を捨てるのももったいないと思って」
 呆然とする旭を残して、庸太郎は嵐のように去って行った。しかしアラタからの突き刺すような視線が消えることはない。このまま無視するわけにもいかず、旭は何とか取り繕おうとした。
「あいつが言ったこと、気にすんなよ。俺がこんな目に合うのも、この研究所がクズなだけなんだから」
 弁当のこともレイプのことも、今日起こったこと全部、まるで何でもないことだったかのようにうやむやにする。アラタだけでなく旭自身にそう言い聞かせるように。
「旭があいつに料理を作ったのも? あいつが監視役としての職権を乱用したのか?」
「それは、その……」
 あれを庸太郎のために作ったつもりなど微塵もない。しかしその言い訳をするためには、言いたくないところから全部説明しないとならない。
 あれはお前のために早起きして作ってやったんだ。色とか配置まで考えて……なんて、惨めすぎて言えるわけないじゃないか。
 旭が無言を貫くと、アラタは呆れとも怒りともつかぬ溜め息を零した。
「分かった。俺も旭には言えないことがある。お互い様だ」
 アラタの低い声にいつもの穏やかさはなく、まるで突き放すように冷たく響いた。彼は旭に背を向けてスーツを着替え始める。このまま会話を終えたくないのに、何を言えばいいのか分からない。
「それは、このカメラがなかったら言えることなのか?」
 やっと出た問いかけの言葉に対し、アラタからの答えはなかった。


***

 まだ小学生だった頃、旭は親の展示会によく連れられてきた。と言っても、親は仕事のために画商や来場者と話をするばかりで、旭は一人放っておかれることが多かった。そしてその場合、大抵旭は会場外のどこかに座って、スケッチブックに向かっていた。
 その日もいつもと同じく、会場の外にはアートと言う名のおかしなオブジェが鎮座する公園があった。暑さも和らいだ晩夏だったが、旭は木陰になったベンチを陣取り、スケッチブックに公園の風景を写し取っていた。日曜日ということもあって、公園から見える道路には多くの人が行き交っているが、旭は自分の絵の中に人の気配を混ぜなかった。
「何を描いてるんだ?」
 旭の集中を遮ったのは眠そうな低い声だ。ビクッと肩を震わせてから振り向くと、十代半ばくらいの男が旭のスケッチブックを覗き込んでいた。彼の視線からスケッチブックを隠すように身体ごと横を向き、ベンチの背に手をかけた彼を見上げる。
「お兄さん、誰? 変質者?」
「展示会の客」
「じゃあ展示会の絵を見に行けばいいのに」
 あからさまに邪険に扱ったのだが、彼は鉄面皮のまま首を振った。
「俺は君の絵の方が気になる」
「あっちはプロの絵。俺はシロート。どっちを見るべきかは明らかだろ」
 シッシッと追い払う手振りをすると、男は旭の小さな手を掴んだ。
「プロだとか素人だとか、肩書きは関係ない。君は将来、プロになるつもりはないのか?」
 どうやら自分は面倒くさい人に絡まれているらしい。子供ながらにそう悟った旭は、適当に話し相手になってやってあしらうことにした。
「嫌だよ。俺の親、プロの画家だけど、親と同じってなんか嫌じゃん。親の七光りとかって言われてさ」
「そういうものなのか。俺は、親と同じ職業を目指してるのに」
 お前の個人的な話なんて聞きたくないんだけど、と言いたいのをぐっと堪える。
「へー、何になりたいの?」
「弁護士」
「弁護士って具体的にどんなことしてんの?」
「困っている人を……助ける」
 男の返事の仕方がやけにたどたどしくて、旭は今の状況も忘れて本気で吹き出してしまった。
「アバウトすぎだろ。弁護士は法律に詳しい人だってことくらい、小学生の俺でも知ってるのに。お兄さん、弁護士になりたいって本当?」
 急に笑顔を見せた旭に、男も少し表情を柔らかくした。
「親と同じ弁護士になることも、そのために勉強することも、疑問に思ったことがない。……ちゃんと考えた方がいいんだろうか」
「そんなこと小学生の俺に聞くか?」
「君の意見が聞きたい」
 子ども扱いせず真剣に意見を求められ、悪い気はしなかった。旭はスケッチブックを胸に抱いて「うーん」と考える。とは言っても、子供の旭に広い見識があるわけでもないので、自分だったらどうするか、と想像するしかないのだが。
「将来について疑問に思ったこともないくらい固い意志なら、それってもうお兄さんの土台の一部みたいなもんじゃねーの? 俺なんていっつも迷ってるからさ、目標に向かって脇見もせずに一直線に進めるのって、すごいことだと思うよ」
「迷う?」
「うん、サッカー選手になりたい日もあれば、なんかすごい学者になれる気がする日もある。親と同じ画家になるのも悪くないかなって思う日だって、たまーにはある」
「君は才能があるんだな」
 彼の一言に、頭上の木の葉がざわりと揺れた。
「俺、才能って言葉嫌い。生まれつきの能力が何だって言うんだ? 才能があれば、できて当たり前だって思われる。才能がなければ、どうせできないから諦めろって言われる。どっちに転んでも不幸なんだ。馬鹿みたいだよな」
 旭は幼馴染のことを思い出していた。「旭は何でもできて羨ましい」と彼は言う。まるで旭が努力せずに何でも手に入れているかのように。「お前もやればできるかもよ」と言い返すと、「親から向いてないことはやるなって言われてるんだ」としょぼくれる。旭は口にしなかったが、幼馴染のそんな姿勢を内心格好悪いと思っていた。
「なら、君はその能力でどう生きたいんだ?」
 男の問いに、旭は描きかけの絵をじっと見つめた。
「生まれつき才能に恵まれてるなら、できて当たり前じゃないところまで行ってやる。生まれつきの能力で負けてても、頑張れば逆転できるかもしれない。そういうのってキツいと思うけど、かっこいいって思う」
 その瞬間に頭に思い浮かんだのは、並んで絵を描く両親の背中だった。彼らは二人の力を合わせることで、一人の限界を突破した。両親への憧れが強くなった時、この手元のスケッチブックの中の世界は、まるで旭が飛び込んでくるのを待っているかのように手招きしてくるのだ。
 自分の将来のことを考えていたら、話し相手がいることをすっかり忘れていた。ちらりと男を見ると、彼はまじまじと旭を見下ろしていた。
「本当は、弁護士になるには生まれつきの俺の能力だと足りないかもしれない。でも、君がかっこいいと言うなら、努力だけで上を目指すのもいいかもしれない」
 大真面目にそんなことを言われても、どう返事をすればいいか分からなかった。
「俺にかっこいいって言われたところで、特に意味なんてないだろ」
 照れ隠しでぶすっとそう言ってから顔を背けると、建物の入り口から両親がこちらを見ているのが目に入った。おそらく昼食か何かで呼びに来たのだろう。旭は彼らから声がかかるより先にひょいと立ち上がる。
「まーいいや。弁護士になったらさ、困ってる人を助けるんだろ? 俺が何かに困ってたらよろしくな」
 そう言って立ち去ろうとした時、秋の匂いの混じった風が旭の髪を撫でる。その優しい感触と共に、背後から「旭」と名を呼ぶ声が聞こえた。慌てて振り向くが、そこには今話していた男しかいない。
「俺の名前……! やっぱりお前、なんかヘンだ。ストーカー! 変態!」
 子供ながらに身の危険を悟った旭は、一目散に両親の元へと逃げ帰った。


***

 気分が沈むと昔の夢を見やすくなる。たとえすっかり忘れていた記憶だったとしても、旭の映像記憶能力は全ての記録を脳に残している。そのため、忘れていた出来事を唐突に思い出すということもままあった。
 今の夢……あの男、アラタの雰囲気にそっくりだった。今よりちょっと子供だけど、仏頂面で、声も顔も感情が見えなくて。
 むくりとベッドから身を起こしても、隣には誰も寝ていない。それもそのはずだ。アラタはついに昨夜、このベッドで一緒に寝るのをやめてしまった。いつまでも寝室に来ないからおかしいと思い、夜中に水を飲むフリをしてキッチンへ行ったら、リビングのソファから大きな体躯をはみ出させて眠る彼がいた。
 何はともあれ、もう起きる時間だ。洗面所で顔を洗いリビングに顔を出すと、既にスーツに着替えを済ませたアラタが、真っ黒に焦げたトーストを齧っていた。
 朝の「おはよう」もなければ、旭の分の朝食を一緒に用意してくれているわけでもない。昨日の一件以来、隠れてこっそりと繋がっていた二人の関係は、ばっさりと断ち切られてしまった。
 なぜか食欲がわかず、旭はいつものパンには手を付けずに、インスタントの乾いた野菜スープをカップに入れた。
「なあ、俺たちここで会う前に直接会って話したこと、なかったか?」
 ポットからお湯を注ぎながらぽつりと聞いてみる。
「……ない」
 背後から聞こえた簡潔な彼の答えに、旭は「そう」とだけ相槌を打った。
 スープの入ったマグカップは取っ手まで熱くなっている。そんなことを理由に、旭はカップを持ってテーブルに行くのを少し待った。
「次の発情期まであと二週間もないな」
 独り言のように言ったせいか、アラタに向かって投げたつもりの会話は、キャッチボールにならず床に落ちた。
「もし、次にお前がうまく発情できたら、この状態のまますることになるけど、お前はそれでいいのか? 発情期以外もわざわざこうやって同居してる目的、果たせてるか?」
 めげずにもう一度、今度は質問を投げかける。それでも、アラタからは何も返ってこない。
「なあ……俺は、お前の気持ちがよく分からない。なんでこんな関係になってまでお前はこの部屋に残ろうとするんだ?」
 なぜだか息苦しくて、言葉尻が少し掠れた。
「俺も旭の気持ちがよく分からない」
「そんなの、俺だって知らねーよ。お前が来てから頭ん中ぐちゃぐちゃだ」
 旭が吐き捨てると、アラタは椅子が軋む耳障りな音を立てて腰を上げた。彼の足音が一歩、また一歩と背後から近づく。しかし旭には何も起こらず、すぐ傍でシンクにガチャリと食器を置く音がした。そのまま彼の足音はキッチンを通過してリビングを出ていく。
 そこでちょうどアラタを迎えにきたチャイムが、まるで旭を馬鹿にするかのようにピンポンと明るく鳴り響いた。

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