それから三日後、旭は面会室で伯父と向かい合っていた。
「俊輔伯父さん、急に呼んでごめん」
「一か月ぶりだな。何か問題はないか? ……いや、問題があるから呼ばれたのか」
「問題っていうか、伯父さんの体験談が聞きたくて」
努めて明るく振る舞う旭に、俊輔は僅かに怪訝な表情になった。しかし彼に何か言わせるより先に旭が口を開く。
「俺、伯父さんとは付き合い長いからさ、分かってんだよ。あの、いつからか来なくなったキヨって人……伯父さんはあの人が好きだった。そうだろ?」
この会話は全て録音されている。伯父のプライバシーに関わる話をここですることに躊躇いがなかったと言えば嘘になる。それでも、どうしても聞きたかった。アラタの言う通り、そろそろ自分の気持ちを整理して自覚しないといけない。そのために、最後の後押しとなるのが俊輔だと思ったからだ。
笑って躱される可能性も十分あったが、俊輔はテーブルに置いた自分の拳を握り直した。
「うん。やっぱり、旭には分かってたんだな。でも、どうして突然今になってそんな話を?」
彼は気にしていないと言わんばかりに笑みを作ったが、その優男風の風貌はいつもよりずっと力なく見えた。
引き返すなら今だ。それを分かっていて、旭はその先へ切り込んだ。
「伯父さんは、あの人のことが好きだっていつ自覚した? 男が男を好きになる……認めるのに時間はかかった?」
何か察するところがあったのか、彼はもう「なぜこんな質問をするのか?」とは聞かなかった。長い沈黙があり、答えてくれないのかと思い始めた頃、ようやく彼は口を開いた。
「中学生になって、Ωの男がいるんだって意識し始めた頃、男同士っていう組合せでも子供を作って結婚してる人がいるんだなって考えたのがきっかけかな。僕はβで、幼馴染のキヨ……本当は清彦って言うんだけど、あいつもβで、最初はβの男同士じゃ無理だって思ってたんだけど、ある時ふと気付いたんだ。キヨより好きになった女の子なんて、いたかなって」
「いつかキヨより好きになれる女の子が現れるとは思わなかったのか? ずっと自分は男で、女の子と付き合うもんだと思って生きてきたんだろ?」
「そう思ってきたけど、やっぱり違ったんだって気付いたんだよ。旭にだって、後から心変わりすることくらいあるだろう?」
「心変わりなんて、そんな軽いもんじゃないだろ……自分の性別についてなんて」
性別も性的指向も、自分を形作るアイデンティティの一部だ。自分がΩだと知らされるあの日まで、旭はずっと自分は運動が好きな男の子だと思っていた。急に誰かから、「やっぱり君は男じゃなかったんだよ」と言われて「はいそうですか」となる訳がない。
ムッと口をへの字にする旭に、俊輔は小さく苦笑した。
「旭が僕をよく見てきたように、僕も旭をよく知ってる。旭は、自分がΩだっていうことに納得できなかった。でも、じゃあその時好きだった女の子はいたんだろうか? 旭がΩであることを拒否する何か、あるいは誰か……そんな具体的な理由はあった?」
反射的にあの頃のことを思い返してみても、頭を過ぎるのは男友達ばかりだ。そういえばいつもいじめていた女の子がいたような気もするが、自分がΩだと分かった後、その子について深く考えた覚えもない。
「そんなの、なかったけど……」
口籠る旭を俊輔は黙って見ていた。「その先もちゃんと自分で言いなさい」という親の眼差しが、旭の次の言葉を促す。
「俺は……自由でいたかった。Ωってだけで、将来を狭められるのが嫌だった」
Ωだと背が伸びないからスポーツ選手には向かない。Ωだと発情期に学校を休まないとならなくなるから、勉強が必要な職には就けない。自分ではどうしようもない生まれつきの何かに制限されるのは真っ平だった。それを受け入れてしまったら、いつも向き不向きで諦めている格好悪い幼馴染と同じになってしまう。旭のプライドはそれを許さなかった。
「旭は負けず嫌いだ。誰かに決められたことに反抗する気持ちが強いのもよく知ってる。だから、ずっと言わないようにはしてたけど、旭がΩっていう性を拒否するのも、とりあえず何かに反抗したい性格だからなんだろうなって思ってる」
「俺のこと反抗期の子供みたいに思ってたわけ? 思ってて、ずっと黙ってたんだ」
テーブルの上で震える旭の握り拳を、俊輔の手がそっと覆った。
「今までは言わなくても支障はないと思ってたから。旭がいつか本当に女性に恋する日が来るかもしれなかったしね。でも、今は違う。旭が男の人を、αを好きになった」
条件反射的に首を振りそうになって思い留まる。俊輔の目を見れば、取り繕っても無駄なことは明らかだった。それに何より、旭自身その結論にほぼ行きついている。こうして俊輔を呼んだのも、自分の出した答えを正当化してほしかったからに過ぎないのだ。
椅子に座っていた姿勢を正し、旭は粛々と白状し始めた。
「俺、本当に分からないんだ。Ωとして男と……ましてやαとくっ付くなんてあり得ないって思ってたのに。そんな運命、絶対お断りだって思ってたのに。だから自分の気持ちもうまく認められなくて」
両親を失ったあの日、旭も自分の身体の一部がぽっかりなくなってしまったような気がした。あの事件で得られた「αへの憎しみ」は、そんな旭の身体のなくなった部分を修復し、旭を再び動かす原動力となった。
しかし、今またこの身体は動かなくなっている。まるで子供の頃に作った義足をいつまでも使い続けているような違和感で、うまく前へと進めないのだ。
「Ωの否定」も「αへの憎しみ」も、全部壊して一から作り直さなければならない。そう分かっていても、馴染みのものを壊す瞬間には必ず躊躇いが生じる。大事にしてきた貯金箱を目の前に、その手のハンマーを振り下ろすことができないのと同じように。
助けてくれ。
無言で俊輔に縋り付く。彼は少し困ったように眉根を寄せた。
「αとかΩとか、男とか女とか、そういうのを全部無視して、その人が好きかどうか考えたことは?」
性別という人格に大きく関わる要素だけをすっぽりと抜き取るのは容易ではない。だが想像してみる。もし仮に、自分がΩであることを受け入れていて、αのことも嫌いでなかったとしたらどうだろう。
Ωを見下さず、αだからといって驕らず、自分を庇い、気遣ってくれる。懸命にコミュニケーションを取ろうと努力し、好意を露わにしてくれる存在。
彼の庇護の元で過ごす時間は居心地がよかった。「男のくせに男に守られるなんて」「αの慈悲などいらない」、そんな意地だけが、その心地よさにストップをかけている。
「本心ではその人が好きなのに、『αが憎い』、『自分はΩなんかにならない』、『運命に逆らってやる』、そんな反抗心で迷うくらいなら、それこそ旭はαやΩっていう性に縛り付けられてる」
俊輔の心は、旭の揺らいでいた心をぐさりと刺して固定した。
「旭が女の人を好きになったなら、Ωの性にいくらでも反抗すればいいと思う。でも、もし旭が男の人を好きになったなら、Ωの運命を受け入れて利用するのが、本当の自由ってやつじゃないのかな」
彼の言うことに、反論の言葉が思い浮かばない。
誰からも縛られまいとして自分を守る壁を作り、その結果自分自身の動きを封じてしまっている。傍から見たら酷く滑稽で子供染みているだろう。その馬鹿馬鹿しさに気付いた瞬間、自分の中でひび割れかけていた壁が、ついに音を立てて崩れた。
やっぱり俺はあいつのことが好きで、俺がΩなのも、あいつがαなのも、全部そのまま受け入れていいのかもしれない。抗うのをやめるからって、それは負けでも何でもない。運命でも、生まれつきの性別でもなく、俺自身が自由に決めたことなんだから。
俊輔の手が、旭の緩くなった拳をぽんぽんと優しく叩いた。
「旭はいつも自分がΩになったことを呪いのように言うけどね、僕は時々考えるんだ。もしも僕がΩでキヨの子供を産むことができたなら、キヨはまだ僕と一緒にいてくれたんだろうかって」
Ωである甥を羨むでもなく、離れていった友人を恨むでもなく、俊輔は寂しそうに空想を語った。
「子供が産めるか産めないか、そんなことで結婚相手を決めたんだとしたら、キヨって人は性別に縛られてたんだ」
そして俺も、キヨって人と同じになるかもしれない。それだけは絶対に嫌だ。
表情を硬くする旭とは対極的に、俊輔は穏やかに笑った。
「そんなこと関係なしに、僕と彼女を比較した結果なのかもしれないけどね。本当のところはキヨにしか分からない」
そこでドアの外からノックが聞こえる。きっと面会終了の合図だ。そちらに返事をする前に、旭はもう一度俊輔を真正面から見据えた。
「伯父さん、俺はやっぱり、自由でいたい。でも確かに、反抗することと自由でいることはイコールじゃないのかもな」
俊輔が「そうだね」と言った瞬間にドアが開き、薄暗かった面会室に白い光が差し込んだ。
***
自分の気持ちを固めたとはいえ、それをすぐに相手に伝えられるかと言うと、それはまた別問題だった。
旭より少し後に帰ってきたアラタは、自分の分の夕飯を内線で頼もうとしたが、旭は「俺が作るから」と言ってそれを引き止めた。
そして今、アラタはリビングのソファに座り、テレビを見るでもなくじっと黙っている。旭はオムライスを作るべくご飯を炒めながら、この妙な空気をどうしたものかと悩んでいた。
前はここまで険悪な雰囲気じゃなかったよな? ここまで一気にこじれたのはあの日だ、あの思い出したくもない一日。
弁当を作るという申し出を拒否されるわ、研究員にからかわれて強姦されるわ、挙句の果てに庸太郎まで出てきたあの日から、アラタは明らかに旭への風当たりを強くしている。
何があいつをここまで怒らせたんだ? 俺が危機意識も無しにノコノコαに刃向かって犯されたから? それとも庸太郎に助けられたから? あるいは俺が庸太郎に何か食事を作ってやったと思ってる? それについて俺が弁当の件を隠してるのが気に食わない?
色々思い当たることはあるが、そのほとんどは旭には何の非もないことだった。唯一最後の一点、アラタに隠し事をしたことを除いては。
でもそれだって、あいつが俺の弁当断ったりしなけりゃ……。
そこでふと、彼に会いに来ている女性の姿を思い出してしまった。
こいつが好きだって自覚したところで、こいつにはもう恋人がいるんだった。
重い溜め息が出そうになるが、目の前の料理がまずくなりそうだったので何とか我慢した。オムライスはアラタの好物だったからだ。
トロトロの卵を乗せたところで、リビングのアラタに「もうすぐ晩飯」と声をかけた。
今このケチャップで卵の上にでっかく「好きです」って書けたらいいのに。ここの監視カメラは後ろだ。俺の背中に遮られてオムライスなんて見えてない。……って俺何考えてんだよキモいキモい!
慌てる旭の隣にアラタが立ち、食器棚からスプーンを取り出し始めた。
お前の好きなオムライスだぞ。なんか言え。
もちろんアラタが旭の心の声に応えることはなく、旭は仕方なく自分から口火を切った。
「あのさ、一個誤解されたくないから言っとくけど、お、俺が料理作ってやろうって思う相手なんて、お前しかいないんだからな。それだけはほんと、絶対、お前以外のために飯作ったことなんて……」
段々自分が何を言いたいのか分からなくなってきた。無意識にグニグニと絞っていたケチャップが、黄色い半熟卵の上で大きなハート型になってしまっている。ハッと気付いた時、隣のアラタの視線もまさにそこに集中していた。
「っ、これは偶然! 偶然だから!」
アラタを横目で睨もうとしたその時、旭は目を奪われる。
あ……笑ってる。
水平かへの字しか知らないような彼の口が、今は僅かに口角を上げている。まるで愛しいものを慈しむように。背後にある監視カメラにも映らない、それは旭だけが見た彼の本心だった。
「早く持ってけば」
皿をずいっと寄せてやると、アラタは一度瞬きをして表情を消してから、食卓へと料理を運んだ。
やっぱり、あいつは俺が本気で嫌いなわけじゃない、んだよな……? 恋人がいたとしても、今は俺の方が好きとか、せめて二股の愛人くらいには思われてるよな? なんでそこまでカメラを気にするんだ?
旭は自分のオムライスを見下ろして、思い切って聞いてみることにした。
「なあ、研究所の連中に何か言われたからって、俺たちがそれに縛られて行動を制限する理由なんて、ホントにあんのかな」
ケチャップをかける手が震え、卵の上にはぐちゃぐちゃの赤い線が引かれた。
「研究所から何か言われているのは俺だけだ。俺はαの新薬開発のために、実験が継続されることを最優先に行動している。だが、旭の行動は誰も制限していない。旭は自分の思った通りに行動すればいい」
それはその通りだ。旭は今すぐにでも彼に「好きだ」と伝えることができるし、自ら彼に触れることもできる。それができないでいるのは、その結果彼から突き放されるのが怖いからだ。
だからずっと待っている。彼の方から触れてくれることを。
だから何度も聞いている。彼の気持ちを。
何物にも縛られずに自由でありたい。そう思い直したばかりなのに、最後の最後でプライドという名の足枷が旭を受け身にしていた。
せめて一緒に寝ていたあの頃くらいの関係に戻りたかったが、果たして何を言えば彼が折れてくれるのか分からない。
「そういえば」
彼の言葉に旭は思わず振り返る。
「あのソファは寝るには窮屈だ。君と寝たくないからと言って、身体の大きいαの俺があのソファに行くのは理不尽な気がしてきた。だから、今日からベッドに戻ろうと思う」
まさに今旭が願っていた通りのことを、彼は実に渋々といった風に呟いた。
旭は「うん」と気の抜けた返事をして、自分も食卓へと向かう。
俺が庸太郎に何か料理を作ってやったと勘違いした日からソファで寝て、今日俺が弁解したら、笑ってくれて、またベッドで寝てくれるらしい……。これは俺の都合いいように捉えていいんだろうか。こいつの言葉の中身を全部無視して態度だけで考えたら、嫉妬で拗ねてただけにしか見えないんだよな。
悩みながらオムライスを黙々と口に運んでいたら、少し先に食べ終わったアラタが満足気に「ごちそうさま」と声を出した。
ここ数日めっきりなくなっていた久しぶりの挨拶に、旭は珍しい生き物を見るかのような目を向けてしまう。アラタは素早く目を逸らして「しまった」という空気を醸し出していた。
やっぱりここは俺の方から押せばいいんだろうか。冷たくされても全部監視カメラのせいだって思えば、プライドだってそんなに傷付かない。内心こいつは俺の料理に喜んでるし、俺と一緒に寝たいんだって思っとけばいいじゃないか。
悶々と悩む間にも時計の針は進み、寝る時間がやってくる。旭は既にベッドの上に座っているが、アラタはまだリビングにいるようだ。
ほんの少し前までも彼と一緒に寝ていたはずなのに、突然どういう流れで二人ベッドに潜り込んでいたのかも思い出せなくなっている。
俺は何でこんな緊張してんだよ。前と何も変わらない。変わったのは、あいつが好きだって自覚したことくらいだ。これじゃまるで恋する乙女みたいじゃないか。うわ、乙女って自分で言っててキモい!
旭は先に羽毛布団を頭から被り、ベッドの上でゴロゴロと身悶えた。
しばらくしてドアがそっと開く音がし、旭は布団の下で息を潜めた。ギシリという音に続いて、隣のスプリングが沈み込む。今までは一枚しかない布団を二人で使っていたが、待ってみても彼が旭の被る布団に手を伸ばしてくることはなかった。
そろりと顔を出してみると、アラタは旭に背を向けた状態で、何もかけずに横になっている。四月の、しかも空調の効いた室内で寒いことはないだろう。だが、旭の心には冷たい北風が吹いた。
確かにまたベッドで一緒に寝てるけど、違う! そうじゃない!
通販で買ってやった彼のパジャマの背中を睨みながら、旭は迷った。迷った末に、彼の行動を待つのをやめて自ら動いた。
自分にかかっていた布団を広げて彼の身体にかけると、その背中にぴったりと抱きつく。
少し硬くて、子供みたいに体温が高い。
彼がここに来たばかりの頃、夜は彼に抱き枕にされていたことを思い出す。今度は旭が彼を抱き枕にする番だった。
抱きついた瞬間だけ彼はびくりと震えたが、それ以降は背中を向けたまま、抱き返してくることもない。
だが、今はそれでも構わなかった。カメラの前で態度には表せなくても、心の中でこの温もりを嬉しいと思ってくれているかもしれない――それだけが旭の心の支えだった。