ディストピア、あるいは未来についての話 20 | fDtD    
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20

 どれだけ検査をしても旭の体内に器質的な問題は見つからず、自律神経の乱れということで結論付けられた。旭の治療には主に崎原が当てられ、とにかくよく休むこと、とだけ言われた。
 さすがに旭のこの状態を見た研究員らも「やりすぎた」と思ったのか、治療室で旭に酷く接するものはいない。しかしどうせ彼らは反省などしていないのだ。玩具を少し乱雑に扱って修理に出している、という程度の認識なのだろう。
 めまいや食欲不振、耳鳴りに悩まされたのは最初の一週間ほどで、次第に倦怠感が抜けて起き上がれるようになり、崎原が運んできてくれる療養食も摂るようになった。

「篠原君、君は幼い頃、何になりたいと思っていましたか?」
 食後、ベッドのヘッドボードに背中を預けて休んでいると、食器を回収に来た崎原がベッドの端に座ってそう尋ねた。
「分からない。運動とか、勉強とか、他の皆より上手くできて、褒められて、それでよかった」
 自分がクラスの中心だった頃の映像が再生されるが、やけに日の光が強くて眩しかった。もう太陽の光など七年も見ていない。
「絵を描くのも上手かった。この研究所を出たら、画家になるのはどうでしょう」
 崎原にそう提案されると、次に自宅のアトリエの風景が蘇り、父親の晶とした会話がそこに流れ始めた。

「旭も大きくなったら画家になれるかも」
 夕食の時間を告げに来た晶は、アトリエで黙々と絵を描いていた旭を見てそう言った。夏の長い日が暮れかけて、アトリエには赤い夕陽が差し込んでいる。
「嫌だよ」
「どうして?」
「だって、こんなの写真でいいじゃん。俺の絵、皆上手いって褒めてくれるけど、それってリアルだねってこと以上に何があんの?」
 まるで現実をそのまま絵にしたようなハイパーリアリズム。これを評価しない人がいることも、幼い旭は知っていた。
「写真と絵を比べることなんてできないよ。ここには確かに旭の視点と気持ちが入ってる。旭の目と脳を通した世界は、写真じゃない」
「俺は、頭の中にある写真を写してるだけな気がする。俺のこの変な記憶力なら、できて当たり前のことだろ。そんなんじゃダメなんだ」
 生まれつき与えられた能力の限界を超えて、その先へ行かなければ意味がない。評価されない。旭はそう考えてしまう性質だった。
「旭にどんなすごい記憶力があっても、その通りの世界を絵にすることができるのは、それだけ絵を描くことに執着できるからだよ。絵を描くのが好きだっていう気持ちがなければ、こんな細かい作業を最後までやり切ることなんてできないんだから」
 両親はいつだって旭のことを肯定してくれた。大きくはないが温かな手で、無理に引っ張るわけでもなく、旭の向いている方向へと背中を押してくれた。
 しかしあの人たちはもういない。

 白く均質な部屋の照明が一瞬ちらついて、旭を現実へと呼び戻した。
「俺の絵、リアルだってこと以上に何があるんだろ」
 もう一度、誰に問いかけるでもなくそう呟く。崎原はベッドに投げ出されていた旭の手に自分のそれを重ねた。
「篠原君の視点でしか描けないことがある。篠原君の目を通した世界を見て感動できた人もいる。たとえば、一条さんのように」
「あいつの話はしたくない」
 旭は崎原に触れられていた手をパッと引いて身構えた。
「どうして? イライラするから? 悲しくなるから?」
「全部」
 旭は膝を抱え、ぷいっとそっぽを向いた。
「彼のことが嫌いになった?」
 嫌い、という単語だけで、なぜか胸がツキリと痛む。
 この治療室に移されてから約十日、彼のことを考えない日はなかった。初めは耳鳴りや動悸ですぐに思考が中断されたが、今はそれなりに落ち着いて考えられるようになってきている。
「分からない。あいつが俺に隠し事してたことも、最近俺に冷たいことも、確かに最初はムカついてたけど、今は俺自身にもムカついてる」
 膝を覆っていた掌に力がこもる。崎原の「どうして?」という相槌に、旭は一度深呼吸した。
「俊輔伯父さんと話して、あいつのこと、αとか弁護士とか全部無視して考えられそうだって思ってたのに、駄目だった。あいつの母親の話を聞いて、父さんたちの顔が思い浮かんで、俺の気持ちがぶれた。あいつに対する俺の気持ちって、そんなのに勝てないほどのもんだったのかって思ったら悔しくて、あいつのこと本当に好きなのか自信がなくなった」
 掌で目元を覆い、込み上げる熱いものを堪えて、はあっと長く息を吐く。
「変だよな。今まではαなんか好きになったら負けだ、父さんたちに顔向けできないって思ってたのに。いざ恨みが勝ちそうになったら、なんか虚しくなって」
 断ち切ったはずの過去に、今もまだ無意識に囚われている。もう背中を押してくれる人はいなくとも、このまま彼への愛情を手放すべきか、まだ胸の内に持っておくべきか、自分で決めて進まなければならない。
「また彼と顔を合わせれば何か変わるかもしれないですね」
「どんな顔して会えばいいのか、もう分からないけどな」
 崎原は旭を導く役割をしてはくれなかった。誰かに助けを仰いで天を見上げても、そこには白い天井が広がっているだけだった。


***

 旭の体調が十分安定し、元の部屋に戻れるようになるには、結局二週間かかった。
 病室を出てすぐの場所は普段来る機会のないエリアだったため、ただの廊下もやけに新鮮に感じられた。崎原だけでなく主任である林までもが旭に付き添って、二週間ぶりの「我が家」へと連れて行かれる。見慣れた廊下の風景が見え始めると、やはり手足が緊張で固くなった。
 あの部屋の主は俺だ。何で俺が緊張しなきゃならない? あいつに会ったら一発ぶん殴ってやればいいんだ。嘘つき野郎。研究所の犬。
 罵り言葉の予行演習をしながら白いドアを一つ開ける。そしてもう一つ、黒いドア。
 崎原のあとに続いて玄関に入った時、旭はそこにいる人物を前にして固まった。
「おかえり」
 低音で抑揚のない、しかしどこか穏やかな声色の挨拶。てっきりリビングのソファででも寛いでいるだろうと思っていたアラタは、なぜかここまで出迎えに来ていた。
「一条さんには、また以前のように君と親しく振る舞ってほしいとお願いしてある。またストレスで体調を崩されたらたまらないからな」
 林はつまらなさそうにフンと鼻を鳴らす。治療室での丁重な扱いからも予測できていたが、研究所は旭を精神的にいたぶるよりも、旭の体調管理と実験の円滑な進行を優先したのだろう。
 崎原が「また何かあったらすぐに言うように」と伝え、付き添っていた全員が出て行く。
 まだよく状況が飲み込めないながらも、靴を脱いで廊下に上がると、アラタはすぐに旭の身体を両腕で抱き締めてきた。
「この感触、久しぶりだ」
 彼はまるで母親に久しぶりに会えた幼子のように、安堵と喜びを振りまいている。
 瞬間的に旭も再会を喜びそうになってから、こんなやり取りは紛い物だという自戒が頬を打って目を覚まさせる。
 そうだ。こいつは全部、研究所の言いなりで動いてるだけなんだ。
 彼と密着したところにあった温もりは、突然吹き込んだ隙間風によって急速に冷めていくようだった。
「よそよそしくなったりベタベタひっついたり、あいつらの一言でお前はロボットみたいにモードチェンジするんだな。あいつらにリモコンか何かで操縦されてんのかっつーの」
 彼の身体を押し退けてズカズカとリビングに向かう。久しぶりに見たそこは、散らかっているわけでも、物が増えたり減ったりしているわけでもなく、旭が出て行った時のまま時間が止まっていたかのようだった。
 彼は旭がいない間どんな生活をしていたのだろうか。キッチンへ足を向けると、コンロの上に鍋が一つ出ているのが見えた。腐った残り物かと思いつつ蓋を開けてみると、中にはまだ作って間もないと思われるお粥が入っている。
「旭が戻ってくると聞いたから作っておいた」
 無言でノソノソと後をついてきていたアラタが、得意気に口を挟んだ。
「お粥って、俺もう病人じゃねーし」
 照れ隠しに鍋の蓋を乱暴に戻してから、フルフルと首を振った。
 騙されるな。これも全部、優しいフリだ。
 旭は彼を振り切って寝室に逃げ込む。ベッドサイドのチェストを確認しようと近付いたその時、背後でそっとドアが開く音がした。振り向けば思った通り、ドアから半分顔を覗かせたアラタがいた。
 二ヶ月前、出会ったばかりの頃と全く同じ。まるで時間が戻ったかのようだ。
 しかしあの時とはもう違う。あの頃のように何の疑いもなく「変態」「ストーカー」と怒ることはできない。
 研究所に言われたらパッタリとやめてしまう程度の執着心なのを知っているから。
 彼が多くの隠し事をしているのを知っているから。
「旭、ストレスが溜まっているなら、絵を描いて発散するのはどうだろう」
 彼はベッド横の引き出しを示して提案した。確かに、絵を描くことで言葉にできないモヤモヤを昇華することができる。しかし彼の言う通りにするのも何となく癪で、「そうだな」とだけ答えた。


***

 バスルームの水音を聞きながら、寝室でベッドに座った旭はふうと一息ついた。
 アラタはあれから半日ずっと旭に構い倒した。ついこの前まであれだけ冷たく接していたのが嘘のように。旭に夕飯のお粥を食べさせ、リビングのソファで並んでテレビを見る。その間もさり気なく旭の腰に手を回し、挙げ句の果てには堂々と一緒に風呂に入ろうとまで言い出した。
 さすがにそれをしてしまうと、バスルームでなし崩し的に彼に身体を許すことになりそうで、無理矢理彼だけを先に風呂へ行かせたところだ。
 頭では駄目だと否定しながらも、なんだかんだで彼からの接触に心が跳ねてしまう。お陰でたった半日なのにやけに疲れてしまった。
 これってつまり、俺はまだあいつのことが好きってことだよな。俺よりも研究所の連中の言うことに従うような奴でも。母親が憎い弁護士でも。あいつに恋人がいても。なんであいつのこと嫌いになれないんだろう。
 その答えをうまく言葉にすることはできない。しかし、彼からの深い愛情が確かにそこにあって、深く潜りすぎていて見えないだけだと感じることがたまにあるのだ。彼の視線、表情の変化、触れてくる手の力加減、声色。監視カメラ越しでは分からないであろう細かいことの積み重ねが、旭に「愛されている」という錯覚を与えていた。
 彼はまだ風呂から出てくる気配がない。旭はこの隙にとサイドチェストからスケッチブックを取り出した。
 最後に描いたのはどんな絵だったか――そんなことをぼんやり考えながらパラパラとページをめくる。書き込みのある最後のページを開いた瞬間、旭の手が、全身が止まった。
 文字だ。
 小さくて汚い字が紙面一杯に書かれている。遠目に見たら黒で描かれた前衛芸術のようだ。
 誰が書いたのか、考えられるのは一人しかいない。旭のいない二週間、この部屋にいた人物。
 旭は何とか視線を定めて一番上から目を通した。
『旭へ
 研究員らは既に私に対する警戒を解いたようだ。あれだけ徹底的に旭に冷たくした甲斐があった。監視カメラも今は布に覆われて止まっている』
 手が震え、めくりかけたページの隅に皺が寄る。
『君がこれを読む頃には、また監視カメラが動いているだろう。スケッチブックをずっと見ているだけでは怪しまれるから、読んだところから君の絵で塗り潰してほしい』
 脇にある色鉛筆のケースを慌てて開き、短くなった黒を指に握った。
『私的な手紙というものを書いたことがないから、何から書けばいいのか分からない。報告書や契約書なら馴染みがあるが、果たしてそれらと手紙にはどのような違いがあるのだろうか。親しい間柄の場合、一人称は私ではなく俺とした方がいいのだろうか。さすがに甲、乙ではおかしいだろうことは分かる。とにかく、分かりにくいところやおかしなところがあったら申し訳ない。
 君はおそらく、俺が今ここにいる理由について次のように理解していると思われる。
 ある日検査でαであることが判明し、発情しない特異体質のために研究協力を要請された。たまたま実験での同居相手が篠原旭という、過去に絵画展で知った名前の人物だった。ここへの入所時に研究員らから君の生い立ちについて知識を得て、新薬開発の実験協力としてここに滞在している。
 しかし真実は以下の通りである』
 何だ、これ。俺は今、何を読んでるんだ?
 焦りと困惑で、紙の上の方を彷徨わせていた黒い線が不規則に乱れる。
 その時、寝室のドアがガチャリと開き、まだ髪が濡れた状態のアラタが入ってきた。彼は旭が膝に抱えているスケッチブックをチラリと見てから、無言のまま旭の隣に座った。
「旭の描く絵を見るのは久しぶりだ。続けて」
 彼は何食わぬ顔で旭に先を促した。
 この先にやっと、彼の真実がある。旭は逸る心を落ち着かせながら、長い、長い手紙の続きを読み始めた。

『俺がまだ高校生だった頃、親に連れて行かれた絵画展で君の絵に出会った。その後、画商との話で篠原旭という人物について教えてもらい、君の親のことも聞き出していた。君の親の個展などにも顔を出し、連れ添いで来ていた君を遠くから見たり、時には会話をしたりもした。
 そんなある日、あのΩ大量殺人事件が起きた。母がその犯人の弁護を受けることになり、集められた遺族に関する情報の中で、君が養護施設で生活していることを知った。
 当時法科大学院の学生だった俺は、ボランティアの家庭教師としてそこへ出向くことに決めた。休憩時間に子供たちに連れられて旭のいる診察室へと入った時、君は初めての発情期の真っ只中だった。人を呼んで、君を救急車に乗せた後、俺は君の伯父さんと知り合って話をした。俺はたまに彼に連絡を取り、病院の君の様子について情報をもらっていた。
 しかし君がこの研究所に入ったことを知らされてからは、まったく何も分からなくなってしまった。施設の子供たちと一緒に会いに行こうとしても、面会はできないの一点張りだ。
 長らく不審に思っていたところで、母からとある話を聞かされた。今は詳細を省くが、母はとある案件で公安と関わりを持っていた。その公安から、白峰製薬の研究所で人が不当に拘束されている疑惑が起こっている、という話を聞いていたそうだ。
 俺はその後個別にその公安の男と連絡を取って話を聞いた。疑惑の大元は、旭の伯父さんが持ちかけていた相談だそうだ。君の伯父さんは何食わぬ顔で君と面会をしているが、実は君の置かれている状態に疑問を持っている。
 公安が何とか白峰製薬の関係者をスパイにできないかと動いていた時に、俺はちょうどある事故に巻き込まれて負傷した。その治療中に幸か不幸かおかしな体質のαだということが分かり、俺自ら白峰製薬の研究所へ潜入できることになったというわけだ。
 白峰製薬からの研究協力のオファーを渋るふりをして半年以上焦らしながら、その間に公安からはスパイとしての立ち回りについて相談した。
 散々渋った末の了承ということもあり、研究所での俺の待遇は上々だった。仕事と称して別室に行き、恋人の振りをした女性と会うことさえできれば、外との情報交換ができる。ネットを通じた通信は全て監視されているが、さすがに恋人に受け渡す弁当箱の中身までは確実にチェックされない。小さな物や紙切れ程度なら外部とのやり取りが可能だった。彼らはαというだけで俺を信用しすぎた。
 最も避けなければならない事態は、俺の体質の謎が解明されて実験が終了してしまうことだった。白峰製薬から研究のオファーが来てすぐ、白峰製薬のライバルである黒野製薬の提携病院で密かに詳細な検査を受けている。αに関する知識に長けた彼らでも俺の体質を暴くことはできなかったが、開発中だというα向けの抑制剤を提供してもらえるよう協力を仰いだ。
 旭の発情期がくる少し前に、例の弁当箱を通して受け取った薬を飲んでから、この部屋へ戻ってくる。研究員は実験内容について事前に親切に教えてくれるため、それに応じて飲む薬を変えればいい。受容体の感度を上げる実験をすると言われたら、神経側を鈍らせる薬を飲む。逆に神経の伝達を助ける実験をすると言われた時は、受容体を鈍らせる薬を飲む。薬の飲み合わせによる危険性だけは残るが、至ってシンプルな打ち消し合いだった。
 ここで人が監禁されているという証拠を押さえるために、実は何度か小型のカメラを回していたこともあった。どこにそのカメラがあるか言ってしまうと、旭の視線が不自然になるかもしれないから、今は黙っておくことにする。とにかく、今このカメラの中身を公安に提出すれば、君の軟禁に関する容疑で、彼らはすぐにこの研究所へ踏み込むことができるだろう。
 しかし今はまだそれができない。その理由が、先ほど詳細を省いた母の追っていた別件だ。こちらの件に関しては、まだ君に詳細を話すことができない。話してしまったが最後、カメラと同じく君はおそらく顔や態度に出してしまうだろう。とにかくこの件に関して何らかの証拠を掴むことさえできれば、全てを終えて君と外に出ることができる。
 俺は今まで、君にたくさんの嘘や隠し事をしてきたが、君をここから助けるための最善の行動を取っているつもりだ。外部からの指示や恋人役の女性から、君への態度について俺は散々怒られてきた。そのため、時に君に対してわざと冷たく振る舞わなければならないことが心苦しい。研究員を騙すだけでなく、君にも勘違いされて嫌われてしまったかもしれない。しかし君をここから自由にできるのであれば、たとえ俺が嫌われても、たとえ君が外に出てから俺以外の誰かと幸せになっても、それはそれで構わないと思っている。
 いや、こうして監視カメラのない隙を使ってこのような言い訳がましい文章を書いている時点で、やはり君に嫌われたくないという未練はあるのだろう。
 今日研究員がここに来て、君が戻り次第以前のように親しく接してやってほしいと頼まれた。君が体調を崩しているのは恋煩いのせいだからだと。
 そうであればどれだけいいかと思うが、実際君にストレスを与えている原因は、俺の母親に関する事実だろう。君があの事件をどれだけトラウマに思っているかは知っている。憎くてたまらない弁護士の息子がすぐそばにいるとなれば、平静でいられないのは当たり前のことだ。
 また君に触れられる生活が戻ってくることは、俺にとっては喜ばしいことだが、君にとっては苦痛以外の何物でもないかもしれない。俺は君を外に出すために研究員に従って行動するが、君に負担を与える可能性については、今ここで先に謝罪しておく』

 旭は意味もなく色鉛筆をざかざかと動かしながら呆然としていた。今まで見知ってきた世界が、突然まっさらに吹き飛ばされて更地になってしまったような気がした。
 隣にいるこの男は、初めから旭を助けるためにここへ入り込んできたのだ。
 なぜこんな場所で共同生活を望んだのか。なぜコロコロ態度を変えるのか。なぜ、たまに彼から愛情の片鱗を感じることがあったのか。
 今まで感じていた全てにやっと答えが出た。
 隣からソワソワとした気配が伝わってきて、何か言わなければならないのだと気付く。旭は少しだけ迷ってから、下の方の空いているスペースに伸び伸びとした大きな字を書いた。
『ありがとう。何で俺のためにそこまでしてくれるのか分からないけど』
 それが旭の本心だった。彼からの執着と愛は予想していたより遥かに大きくて、大きすぎて見えないくらいで、嬉しい反面、自分にそこまでの価値があるとは思えなかった。
 アラタは旭の手から優しく黒の鉛筆をもぎ取ると、この手紙の筆跡と同じ、小さくてミミズが這ったような読みにくい文字を連ねた。
『旭は俺の神様だから』
 首を傾げても、アラタはそれ以上説明してくれない。
「俺は……お前が……好き、なんだけど?」
 ぼそっと言うと、アラタが隣からぎゅうっと抱き付いてくる。言葉はなくても彼の気持ちはしっかり分かっていた。
「これじゃ描けないだろ」と彼を優しく引き剥がし、本格的にこの絵に取りかかることにする。下地にある黒を活かして、いつか見た夜空をスケッチブックに写し取ることにした。
 アラタの片手に腰を抱かれて、ふとあの温かな両親の手を思い出した。いつの日か、流星群を見に両親と夜の丘へ出かけた記憶。
「旭も何か願い事してみたら?」
「流れ星の願掛けなんて迷信だろ。大体、何を願うって言うんだよ」
 涙のようにポロリポロリと流れる光の線を見上げながら、旭は奏多の言葉に適当に返した。
「旭が幸せになれますように」
 奏多の言葉に合わせたかのように、真っ黒な空を一筋の大きな光が流れていった。
 旭は自然とあの日の記憶の写真を絵に落とし込み始めた。
 あの日の空をもう一度、こいつと見てみたい。何年かかっても構わない。
 旭からすれば出会ってたったの二ヶ月。だが、その前から何年も続いていた彼の気持ちを目の当たりにすれば、自分もはるか昔から彼に惹かれていたような気がするから不思議だ。
 運命の番。
 あのお伽話のような言葉を不意に思い出す。彼と目が合った瞬間の心地よい微電流のようなものは、やはりその証だったのだろうか。
 しかし今更そんなことはどうでも良かった。旭がこの男を愛すると決めたのは、運命の相手だからではない。この人が運命の人でなくても、αでなくても、どんな親を持っていようとも、どんな職業でも、この手紙を読んだらきっと好きになっていた。
 あの手紙の文字はもう夜空の絵の下にほとんど埋もれている。しかし旭の脳裏には、塗り潰す前の状態の手紙がはっきりと焼き付いて離れない。この映像は死ぬまで、いや、死んだ後までもずっと残り続けるような気がするほど深く、旭の中に刻み込まれている。忌まわしいと思っていたこの記憶能力に、旭は生まれて初めて感謝した。

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