ディストピア、あるいは未来についての話 25 | fDtD    
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25

 両親の墓がある霊園から徒歩で二十分ほどの場所に、緑に囲まれた木の家がある。旭がかつて両親と共に暮らしていた家だ。両親が亡くなった後、旭は伯父の家に引き取られていたが、彼はこの家も残していてくれた。
 徐々に夜の帳が下りつつある中、旭とアラタは並んで家の前に立つ。アラタの家で二人生活するには狭すぎるということで、話し合った結果ここに住むことに決めたのだ。仕事が忙しい時のため、事務所上のアラタの家もそのまま借り続けることになっている。
 旭が先に鍵を開けて中へ入り、「どうぞ」とアラタに声をかける。
「お邪魔します」
「これからは『ただいま』だからな」
 旭はアラタに持たせていたスーパーの袋を奪い取り、キッチンへと向かった。昨日も伯父と共に掃除に来たはずなのに、いざ実際に生活を始めると酷く懐かしい気がする。親と一緒に買い物をして帰ってきた後、キッチンに置かれた袋からお菓子を取り出していたことを思い出した。
「旭?」
 食卓に置いた袋をじっと見ていたら、アラタが訝しむように声をかけてきた。
「何でもない。家の中探検してきたか?」
「まだだ。旭に案内してもらいたい」
「ったく、お前はホントどうしよーもねーガキだな」
 旭は手早く空っぽの冷蔵庫に食料を詰め込み、アラタに家の中を案内してやった。

 一階の南に大きく取られたアトリエスペースに入った時、アラタは「見たことがある」と言いながら旭を追い越して中へ入った。
「俺が最初に見た旭の絵だ。窓はシャッターが下りているが、間違いない」
 彼は正確にある一点で足を止め、特定の角度から部屋を見た。
「俺の予想した未来、外れたな」
 旭が小さく笑うと、アラタは首だけを旭に向けた。
「いつか一人でこのアトリエを見る日が来るんだって、なぜかそう信じて疑わなかったのに」
 だからこそ、旭はあの絵に自分の後ろ姿しか描かなかった。
「足りないものがあるなら描き足せばいい」
 何食わぬ顔でそう言ったアラタに、旭は「そうだな」と微笑んだ。


***

「あー、ワインって初めて飲んだ。身体があったかい気がする」
 食後、旭はリビングのゆったりとした二人がけのソファに身体を沈み込ませる。七面鳥にサラダ、ピザにケーキ――クリスマスらしい豪勢なディナーのお陰で満腹だ。
「クリスマスだからと言って、食事もそれに合わせる必要はなかったのに」
 アラタは別の一人がけソファに座り、ゴロゴロしている旭をじっと見つめる。彼もワインを飲んだはずなのに、まるでただのジュースだったかのように変化が見えない。
「クリスマスだからって言うか、やっぱ最初の夜じゃん。その、一応、けっ、こんして、から……」
 旭の言葉は尻すぼみに小さくなっていき、最後はクッションを抱えて顔を隠した。こんな時に限ってアラタが無言だったため、シンと静まり返った部屋が余計に旭の顔の温度を上げた。
「……いつもみたいに何か変なこと言えよ!」
「変なこと」
「っあー、だから! なんかあるだろ! たとえば『最初だろうが何日目だろうが何も変わらない』とかさ」
 大きな声を出しても、それは顔を覆うクッションに跳ね返って旭に返ってくる。不明瞭な呻き声を出してソファでのたうち回っていると、アラタは力が抜けたようにふうっと息を吐いた。
「俺がいつもと違うと言うなら、それはきっとまだ緊張しているからだ」
 旭はそろりとクッションから目だけを覗かせ、アラタの様子を窺った。
「あの研究所で旭と初めて対面した日もそうだった。ずっと憧れていた旭に会えたことが信じられなかった。七年ぶりに見た君が……あまりにも綺麗で言葉がうまく出なかった。今もそうだ。旭が大切な人と過ごした家に、こうやって入れてもらえている――まだ信じられない」
「どうしたら信じられるようになる?」
 クッションを抱き締めてソファに転がったまま、旭は上目遣いに尋ねる。アラタは自分のソファからゆっくり立ち上がり、旭の元へ近付いてきた。
「さっきみたいなことをもっと言ってほしい。俺だけじゃなくて旭も俺が好きなんだという実感がほしい」
 旭がもう一度クッションに顔を埋めようとするが、それはアラタの手によってひょいと奪われてしまった。
「旭、顔が赤い」
「これは……、まだワインが残ってるせい……じゃ、なくてだな」
 旭が身体を起こして俯くと、隣の空いたスペースにアラタが座った。
「テ、テレビでも見るか」
 旭は惚けてリモコンのボタンを押す。年末の夜はバラエティの特番ばかりで本当はあまり面白くはない。アラタも同じことを思ったようで、番組内容を無視して話し出す。
「二人でこうやってテレビを見ていると、まだあの部屋に閉じ込められているような気がする」
「俺も、ちょっと同じこと思った」
「だが監視カメラはもうない」
 旭はそこでドキリとする。
 そうだ、俺たちはもう二人きり。誰も見てないんだから、どんなことをしても恥ずかしくなんかないはずだ。たとえば……ずっと避けてきたセックスとか。
 最初の夜ということで、薄々考えていたことが急に具体的になってくる。アラタの今の言葉でさえ、そういう誘いなのではないかと意識してしまって、旭の頭の中にはテレビの内容など全く入ってこなかった。


***

 あれからアラタとはあまり会話が弾まず、旭はバスルームへ逃げるように入り込んだ。ガチャリと鍵をかけると、ほっと一息つく。
 別にアラタと険悪な空気になっているわけではない。ただ単に緊張しているのだ。おそらくアラタも同じ気持ちなのだろう。今まであれだけ一緒に生活してきたが、こうやって自由の身になって、二人の意思で一緒にいるということが新鮮だった。自由に何でもしていいと言われると戸惑ってしまうのと同じだ。
 真冬の風呂場は寒い。脱衣所で服を脱いだ旭は、大慌てでバスルームに駆け込みシャワーを出した。
 あいつ、入ってくるかな。
 身体を洗いながらも、旭はチラチラとドアの方を確認してしまう。しかしいくら待っても彼が来る気配はない。
 いつもより時間をかけて丁寧に身体を洗ってしまい、湯船の中でハッとする。
 俺、なんで初デート前の初心な女の子みたいなことしてんだろ……。別に、セックスなんて慣れてるし。どうせ汗だくになるんだから、こんな丁寧に洗わなくていいだろ。
 ぶるぶるっと首を振ると、薄茶の髪から水滴が飛び散る。旭はそのままの勢いでザバッと風呂から上がった。

 タオルで頭を拭きながらリビングに戻ると、アラタはまだソファでぼんやりしていた。
「風呂、空いたぞ」
 彼は「分かった」と言いながら入れ違いに出て行く。
 風呂の使い方が分からないから一緒に来いって言われるかと思ったのに。まあ、監視カメラがないなら、もう風呂場は特別な場所でもないのか。
 旭はそうやってしばらく待ってから、二階の寝室へと向かった。 両親の使っていたこの部屋には大きなダブルベッドが置かれている。それだけでまた、風呂で温まった身体が火照った。
 まだ髪も濡れたまま、ベッドにドサリと横になる。考え疲れてウトウトし始めた頃、寝室のドアが控え目な音を立てて開いた。
「旭……どこに行ったのかと思った」
 迷子になりかけた子供が親を責めるような口ぶりに、旭は思わず力を抜いて笑った。
「だって、リビングにいてもテレビつまんねーし」
「でもまだ十時だ。寝室で寝るには少し早い。子供じゃあるまいし」
 旭は身を起こしてするりとベッドから立ち上がる。
「大人なら寝る以外にこの部屋でやること……あるだろ」
 旭はアラタの目の前で止まって彼を見上げる。湯上りの彼からは、今日買ったばかりのシャンプーや石鹸の匂いがした。
 見つめ合い、旭はそっと目を閉じる。
 しかし何も起こらない。
「ん~~!」
 背伸びをして顔を近付けると、やっと肩を掴まれた。
「……旭、眠いならベッドに」
「いくら童貞だからって鈍すぎだろ!」
 目を開けた旭は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「旭の方が色々知っているんだから、俺をリードしてくれればいいんじゃないか?」
「俺だってキスなんかしたことない!」
 思わず口を滑らせてから、旭ははたと固まった。
「あれだけセックスしていたのに?」
「だって、誰も俺の上半身なんて気にしなかったし、あの庸太郎でさえ――
 焦っているせいでまた失言が飛び出す。案の定、アラタの周りの空気が息苦しいほどに圧縮された。
「な、なんだよ、お前だってどうせキスなんかしたことないだろ?」
「……」
「え、あ、あるのか?」
 アラタが何も言わないせいで、焦りがどんどん膨らんでいく。自分ではないどこかの誰かが、ぎこちないアラタの最初のキスを受けている光景を思い描いてしまう。そして今もその誰かはこの世界のどこかに存在している。
 胸の真ん中がズキンと痛み、それが熱と水分になって目と鼻の奥までせり上がった。
「旭は今、どんな気持ちだ? 俺は目の前で旭が誰かとセックスするのを何度も見た。それも、旭の初めてを奪った男とのセックスだ。顔も知らない誰かと過去に一回キスをしたどころじゃない。今旭が感じているより何倍も大きな痛みだ」
 もし、過去にアラタと初めてセックスした人がいて、アラタとその人の行為を何度も目の前で見せられたら――おそらく旭の心は保たないだろう。ファーストキスくらい、どこかの誰かに取られたからと言って騒ぐほどのことでもないのかもしれない。
 そう思おうとしたその時、アラタが少し困ったように目を逸らした。
「……本当のことを言うと、俺だって誰かとキスをしたことなんかない」
「へ……?」
「ただ旭に俺の嫉妬がどんなものか知ってほしくて。こんな時にまであいつの名前を出された腹いせだった」
 彼は旭の目尻に溜まった水分を拭った。
「ひ、ひど……俺だって、別に好きで男と寝てたわけじゃないのに、なんで俺がキレられないといけないんだ?」
 あれは仕方ないことだったのに、と言おうとして固まる。その言い訳をしてしまったら、庸太郎と同じになってしまう。しかし、庸太郎がそう言いたくなった気持ちが今なら痛いほど分かった。
「お前の前で、他の男と寝て、感じまくって……確かに俺は本能に抗えなかった汚いビッチだよ。お前が俺に怒るのも当たり前かもな。うん……言い訳は、しない。毎月代わる代わる別の男に犯されて、あそこもガバガバで、お前がヤる気になんなくても自業自得、だよな」
 肩に置かれた彼の手を離して、その横をすり抜ける。部屋を出て行こうとしたところで、手首をギュッと掴まれた。
「あ、あさひ、どこに――
「俺の部屋。お前はここで寝ていいから」
 懸命に腕を振って拘束から逃れようとしても、アラタの大きな手はビクともしない。
「すまない、旭を責めたつもりはない。ただ、今までずっと溜め込んできた嫉妬を俺もどうすればいいか分からなくて――
「俺は! 俺はこれまでお前を傷付けた分も、助けてもらった恩の分も、お前に何か返してやりたいって思ってる。身体で返すってわけじゃないけど、お前に喜んでもらいたい。なのに、お前は全然その気じゃねーし、俺ばっかりヤる気みたいで……ああ、クソ」
 風呂で念入りに身体を洗い、ダブルベッドのある寝室で待って、キスをねだっても、全部空回りだ。思い出すだけで恥ずかしくて、消えてなくなってしまいたくなる。
 掴まれた手を思い切り引かれたかと思ったら、旭の身体はアラタの胸の中にしっかり抱き込まれてしまった。
「旭は……俺とそういうことはしたくないのかと思っていた」
 耳元にかかる彼の声は、僅かに緊張しているようだ。
「いつ誰がそんなこと言った?」
「あの研究所で何度も断られた。旭はあの男とはセックスするのに、俺は拒まれ続けた」
 むすっと拗ねた声に、旭は思わず彼の顔を見上げた。
「俺は『まだ駄目だ』って言ったんだ。ずっと駄目なんて言ってない」
「どうして?」
「本気で分からないのか? お前とのセックスを誰かに見られるのが嫌だったんだよ。研究員どもの暇潰しのAVみたいになるのも、あいつらに嗤われるのも嫌だったんだ。お前がセックスしてるとこを俺以外の誰かが見るのも嫌だし、俺自身だって……初めて好きな人とセックスしたらどうなんのか分からなくて、そんなとこお前以外に見せたくなくて――
 旭は真っ赤になった顔を彼の胸に埋めた。
「俺は、カメラ越しに見せつけてやりたかった。あの男に旭は俺のものだと思い知らせてやりたかった。だからそれを止められて、それで少し旭にも腹を立てていた」
「は……何だよそれ。嫉妬しすぎて俺より庸太郎の方が気になってんじゃ意味ないだろ」
「それに……さっき風呂の鍵が開けられなかったのも腹立たしかった。旭に拒まれている気がした」
「そんなわけないだろ」
「なら、あの脱衣所の鍵は変えよう。緊急事態に開けられなくなる」
「緊急事態って、どうせお前が覗きたくなった時だろ。俺は一人でじっくり汚い身体を洗いたいんだよ」
 彼の胸に額をぐりぐりと擦り付けると、乾きかけの髪をアラタが撫でてきた。
「旭の身体は綺麗だ。身体だけじゃない、中身も何もかも。だから……」
 旭の左手を取った彼は、薬指に光るリングにキスをした。まるで許しを請うように。
「お前の方がよっぽど綺麗だ、馬鹿」
 人生の半分近く自分を思い続けて純潔を貫いてきた男に、自分のこの身体が報酬として見合うものかは分からない。
 そんな不安を封じ込めるかのように、アラタは旭の頬に手を添えると、躊躇いなく深い深い口付けをくれた。

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