それから季節が一巡りした頃。
春を間近にしたうららかな日差しの元、旭はアトリエに座り、黙々とアクリル絵の具でキャンバスに色を乗せていた。描いているのは物の少ないモノトーンの部屋だ。
その時、少し離れた場所から携帯の振動音が旭を呼んだ。ディスプレイに出ている名前を確認して、少し悩んでから電話を取る。
「庸太郎?」
「出てくれてよかった。無視されるかと思った」
彼とはぎこちないながらも昔ながらの幼馴染に戻りつつあった。
「なあ、旭、裁判やらないって本当か?」
「ああ、そうだけど?」
あの事件としては、林と何人かの研究員が旭の監禁について刑事告訴されることになっている他、林は過去の事件に関する殺人教唆でも刑事告訴されることになった。実行犯に渡した毒物の出どころ次第では、まだまだ余罪がありそうだ。
ただし、研究員らが旭にした性的暴行や侮辱等について、刑事裁判や民事裁判をするかどうかは、旭の決定に委ねられていた。
「本当にいいのか? 崎原先生も、旭のためならいくらでも証言するって言ってくれてるし、すぐ側にプロの弁護士がいるだろ?」
「何、お前は俺に訴えられたいのか? あれだけ『仕方ないことだ』って言ってたくせに」
「……旭は、俺を恨んでるんじゃないのか? 俺に罰を与えなくていいのか?」
旭は携帯を肩と耳で挟みながら、絵を描くのを再開した。
「俺も前は同じこと考えてた。庸太郎は俺を恨んでて、罰を与えたいんじゃないかって」
鏡写しのような偶然に思わず笑うと、電話の向こうで庸太郎が戸惑う気配がした。
「まあとにかく、俺は忙しいんだ。裁判とかやってる暇なんてないし、経済的にも余裕があるし、そんなことに時間を使うくらいならもっと楽しいことがいくらでもある」
「忙しいっていうのは……幸せでってこと、だよな」
「そういうこと」
幸せだと言っておきながら、遠くから聞こえた泣き声に頭痛がする。
「なら、いいんだ。そうだ、旭、今度個展やるんだって? 見に行くよ。でも旭の絵、どれもタイトルが『未来』で分かりづらいんだよな」
「馴染みの画商の人にも親譲りだって笑われた。番号でも振ってもらうよ。それより、お前は就職するんだって? あの株価ダダ下がりの白峰製薬に」
「評判が落ちたって言っても、Ωの薬はやっぱりあそこのものが多いから……なくなると困るだろ。最近はα同士で生まれたαよりも、αとΩの組み合わせで生まれたαの方が優秀だなんて研究成果もあって、今後は逆にαがΩを取り合うことになるかもしれない。Ωにも自衛のための薬を提供しないと」
お前のそれは本当にΩのためを思ってのことなのか? 結局Ωをαのための道具扱いしてるんじゃないか?
まだそんな思考が頭を過ぎるが、旭はもうその怒りを口にすることはなかった。代わりに何か言おうとしたその時、背後のドアが開いてわんわんと泣く赤ん坊の声がアトリエ内に響いた。
「ごめん、切る」
ピッと手早く通話を終了して振り向くと、赤ちゃんを抱えて困り果てたアラタが立っていた。
「旭、やっぱり俺には無理だ」
「なんだよ、面倒見とくから絵でも描いてろって大見得切ったのはお前だろ」
「俺はきっと嫌われている。旭を取り合うライバルだから」
彼は旭に泣きじゃくる子供を押し付けながら項垂れた。
「確かに、お前たまにすごい勢いで睨んでるもんな」
旭の腕の中に納まると、赤ちゃんの泣き声は僅かに小さくなった。
「ほら、ミライ、あっち行こう」
未来と呼ばれた男の子は、まだもぞもぞと鼻を鳴らしている。よしよしと宥めながらアトリエを出て、ベビーベッドの置かれた寝室へ向かうことにした。
「アラタ、お前は洗濯物取り込みにでもいっとけ」
追い払うと、彼はすごすごとベランダへ向かっていった。
「どう見てもおむつ変えてほしかったんだよな。あっちの使えないパパは気が利かないな、ホント」
水分を吸って重くなったおむつをスッキリ替えてやるが、赤ん坊はまだぐずぐずと泣き続けている。
「えーっと……お腹も空いてる?」
ベッドへ移動した旭は、シャツのボタンを上からいくつか外し、胸元に赤ん坊を抱き寄せた。小さな口がちゅうちゅうと必死に乳首に吸い付いたのを見てほっとする。
頼む、このままおとなしくなってくれ。本当に頼む。
生まれて半年、旭は乳児の子育てに疲れ切っていた。
しばらくすると、寝室のドアがギッと忍ぶような音を立てる。視線に気付いてそちらを見ると、予想通りドアから半分顔を出したアラタが、じっと旭を見ていた。
「だから、それ怖いからやめろって。そうやって睨むから未来に嫌われるんだろ」
「旭のそこは俺だけのものだったはずなのに」
目の前まで来たアラタは、惜しむように旭の胸とそこに吸い付く子供を見つめる。
「普通、自分の子供にまで嫉妬するか?」
「俺はする」
まだ生まれたばかりの頃、彼は自分の子供に対抗して旭の胸に吸い付いたが、どうやら母乳があまりおいしくなかったようで、幸いにもそれ以来おかしな真似はしていない。
旭は盛大に溜め息をつき、やっとおとなしくなった赤ん坊をベビーベッドに寝かせた。置いた瞬間泣き出さないかドキドキしたが、幸いにも目を閉じてくれた。
「さっさと全面的に離乳食にしてしまおう」
「一気に変えるのはまだ早いだろ」
すやすやと眠りに落ちていく子供を見ながら小声で話す。
「そういえば旭の発情期はまだか?」
「産後一年は来ないってさ。それに来たとしても……今度はちゃんと避妊しないと、またデキるぞ」
旭は妊娠後に医者に告げられたことを思い出す。
「例の研究所でのこれまでの研究成果も見ましたが、一条旭さんにはおそらく、望まない精子を拒否する仕組みが備わっていると思われます。あの研究所でもその仮説に気付いたのか、あなたと顔見知りの人間を種に使い、あなたが心を許すよう統制しようとしていたみたいですね。フェロモン過剰はΩ同士という組み合わせによって生まれたことによる体質かと」
彼は詳しく卵子が精子を通す仕組みがどうのこうのと話していたが、もうその内容はすっかり忘れてしまった。
「そして一条新さん、あなたは特別な相手でないと発情しない仕組みになっていると思われます。あなたのご両親はどのような方ですか?」
「αの母一人に育てられました。もう片親については全く分かりません」
医者はアラタについても、かつて人類が皆βで、αやΩの素質も併せ持っていた時代の先祖返りのようなものではないかと力説していた。とにかく結論としては、旭もアラタも人類の新しい進化系だと言っていた。
目の前で寝息を立てるこの子は、他の人間と何ら変わりなく生まれた男の子だ。しかし、大人になってαになるにせよΩになるにせよ、旭やアラタの特性を受け継いでいるかもしれない。
「俺たちみたいなミュータントがポコポコ子供作ったらどうなるんだよ」
「ミュータントは映画の中の話だ」
「現実に俺たちがそうなんだよ」
「俺たちの遺伝子がどうなるか、人類の進化はなるようにしかならない。人類の未来なんてどうでもいい。俺は旭としたいことをする」
不意に肩を抱き寄せられ、こめかみにキスを受ける。
「ムッツリエロα」
「ああ、でも……俺と旭の子孫の方が進化の系統上繁栄したら、俺と旭はアダムとイブになれる。それは少し魅力的かもしれない」
またこの男はおかしなことを言い出したが、そんなことにももうすっかり慣れてしまった。
「はいはい、そうだな。俺たちが出てきたのはエデンとは真逆の場所だったけど」
旭は未来が落ち着いたことを確認して寝室を出た。しかしアラタまでくっ付いてくるのだから逃げた意味がない。
「そうだ、今度の日曜はさすがにお前が未来のことみてろよ。俺出かけるって前言ってただろ?」
「どこに行くんだ? この前も出かけていた」
階段を降りたところで振り返ると、鴨の雛状態でついてきていたアラタとぶつかりそうになる。
「この前は、昔お世話になった施設への挨拶。今度の日曜は、サッカーの観戦チケットもらったんだ。昔高校で二か月だけ友達だった奴が試合に出るんだって。βなのにプロになったんだ。すごいだろ?」
不登校だった旭と友達になってくれた茂樹は、あのテレビ出演で旭のことを思い出して伯父の家に訪ねてきたそうだ。何でも、旭が姿を消してからしばらく探してくれていたのだと言う。
旭の嬉しい気持ちとは裏腹に、見下ろすアラタの目が徐々に暗さを増していく。
「言っとくけど、そいつとは何でもないからな。伯父さんも一緒に見に行くし。あと、保坂さんっていう伯父さんの友達? 俺を探してる間に仲良くなった公安の人とか何とか……」
モゴモゴ言いながら旭はアトリエへ向かった。描きかけにしていたキャンバスの前に座ると、アラタも隣に椅子を引っ張ってきて腰を下ろす。
「旭、この絵、本当に描き上げるのか?」
「なんだよ、どうせお前はそうやってごちゃごちゃ言うだけなんだから、隣にいなくていいんだって」
隣のアラタを肘でつつくが、彼の大きな身体はビクともしない。仕方なく目の前にあるキャンバスへと向かい合った。
七年生活した、あの部屋の、あの寝室の風景。今でもまだハッキリと思い出せる。
去年、検察と一緒に実況見分で入ったのが最後になった。本やゲーム、服などは私物として持ち帰ってきたが、あの部屋には今後そうそう入ることはできないだろう。
「でも、この場所は旭にとってあまり……」
「お前と会って、お前を好きになった場所……だからかな。お前は何年も前から俺のことストーキングしてたんだろうけど、俺にとっては、あそこが始まりの場所」
出会った初日の夜、パジャマを忘れたと言って風呂に入り込んできた彼の姿を思い出す。筆を止めて笑っていると、空いていた左手に彼の手が繋がれた。薬指のリングを撫でられれば、彼の要求がすぐに分かる。
「絵描いてるんだから、ちょっとだけだぞ」
許可を出してやると、尻尾を振る犬のようにアラタが横から抱き付いてきて、唇に短いキスをもらった。ぎゅうぎゅうと締めつけられると、やはり犬と言うよりは狼だと思う。
「ほら、おしまい。早くしないとまた未来が泣き出すから」
「まだ旭が足りない」
「こうしとけばいいだろ」
左手だけは繋いだまま残して、片手で絵を描き始める。この家には大きな子供と小さな子供の両方がいるようだ。
キャンバスの中の無機質で冷たい部屋。あそこにいる時は、まさかあの部屋を懐かしむ未来があるなどとは思ってもいなかった。今はなぜか、またいつかあの場所へ行ってみたいとさえ思っているから不思議だ。絵の中には、小さな子供を連れた二人の後ろ姿。
未来とは、変化していくこと。人も、気持ちも、社会も。
大きな窓から差し込む光が、アトリエの中を舞ってキラキラと輝き、キャンバスの前に並んで座る二人を照らしている。たとえこの先明けない夜が来て、この部屋が暗くなったとしても、隣の彼と一緒なら何も怖いことはない。
元気な子供の泣き声が響くまで、二人であの場所の思い出を語りながら、未来についての絵を描き続けた。
オメガバースと聞いて最初に思い浮かべたのが、発情するΩは家畜みたいに隔離部屋に飼われてて、社会はうまいことΩを利用して幸せにやっている、というディストピアSF世界でした。
しかし家畜状態の受けΩ一人を攻めが助けてハッピーエンドにするには、この社会はちょっとどうなのかと思い…。
結局はディストピア空間を一つの研究所にぎゅーっと狭めて、脱出できたらそれなりにハッピーになる話を作りました。
でも結局この話でもやっぱり社会はどこかおかしいし、現実の私たちの社会も幸せを望めば望むほど、ディストピアな管理社会になっていくのかもしれない。
だから、たとえそんな風に変わっていっても大丈夫と思える強さをこの子たちにあげておきました。
しかし小説内の世界って、作者という手によって管理されて、読者さんに監視される空間なので、これも一つの管理社会?
監視カメラなくなったーってアラタと旭は喜んでセックスしてるのに、私たちが全部見てるの。ごめんね!
隠れ両思いでの監禁期間(20〜21)や、妊娠期間(26〜27)、そしてED後の子育て期間などなど、続編番外編スピンオフの余地は残したので、また手を加えたくなったらこの子たちの世界を管理しに来よっと。