「真嶋さんにこのプロジェクトから異動されると困るよね?」
ミスをしつつもなんとか大きな報告会を乗り越えたその日の夜、二神は上司の桜庭から唐突にそんな話を持ちかけられた。
「え……当たり前じゃないですか。何で急に——」
「いやあ、ちょっと人事から聞いた話でね、真嶋さんがプロジェクトを移ってもいいか聞いてるみたいだったから。でもまあ、二神さんがそう言うのは当然だよね」
彼はそれだけ言うと、二人だけの反省会をお開きにした。
ミーティングルームを出てから広いオフィスに戻ると、まだ忙しそうな別チームがまばらに活動していた。二神の仲間たちは夕食を食べると言って先に帰ったため、もちろん姿はない。
ノートパソコンを充電しておこうとデスクに置いた時、電源アダプタをミーティングルームに忘れてきたことに気が付いた。荷物を全部置いて廊下に出ると、少し先で桜庭が他のマネージャークラスの人間と喫煙室に向かっていく姿が目に入った。
二神が早足だったため、彼らとの距離はすぐに縮まっていく。その時、ふと彼らの会話の中に聞き覚えのある名前が出てきた。
「真嶋さん? ああ確かに彼物理系だったから、あのクライアントには合ってるね」
「アナリストとしてもよくやってますから、彼なら他にいくらでも仕事はあるでしょう」
彼らはガラス張りの喫煙室に入ってしまったため、そこから先の会話は聞こえなかった。
そういえば、真嶋が異動を希望しているという先程の話に対し、桜庭は明確にノーという結論を出さなかった。彼はただ、二神の希望を聞いたに過ぎない。
つまり、二神の意向に関わらず真嶋の異動希望を通すかもしれないということだ。というより、今の彼らの話を聞く限り、既に真嶋の異動先まで話を進めていると思っていいだろう。
あまりにも突然のことに現実味が湧かない。暗くなったミーティングルームの明かりを点けると、ぐちゃぐちゃに絡まった電源アダプタとコードがテーブル下に転がっていた。
***
会社から一駅の距離でセキュリティも万全の1LDKマンションに住んでいる真嶋と違い、二神の家は大学生が多く住むようなワンルームマンションだった。電車を乗り継ぎ一時間かけて帰宅した時、部屋には明かりが点いていた。
「ただいま」
「陽人、遅かったな。合鍵もらっといてよかったわ。今日は早く帰れるんじゃなかったのか?」
ソファに座って寛いでいたのは、四つ年上の兄、陽太だった。
「ちょっとミーティングが長引いて」
「夕飯は?」
「あー、食べてないや」
「俺もさっきここに着いたばっか。牛丼食いたい」
傍にあったボストンバッグを蹴飛ばして陽太が笑う。確かに彼はまだ営業マンらしいスーツ姿のままだった。彼は一昨年から仕事の都合で関西に行っていたが、たまに東京出張がある時だけこうしてこの家に泊まりに来ていた。
黒い髪を短く立てたスポーツマン風の陽太は、外見も中身も二神とは似ても似つかないが、それでも彼らは仲の良い兄弟だった。
二人とも私服に着替えてから家を出て、近所にある牛丼のチェーン店へと入る。給料も良く、女遊びをしている派手な印象を振りまいている二神だったが、現実はあんなマンションに住んでこんな食生活をしている。真嶋にこれを知られたら何と言うだろうかと考えるも、今は彼の反応すらイメージできなかった。
「お前マジでその並盛で足りんの? 信じらんね」
そうぼやく陽太の目の前には、特盛の牛丼に加えて卵とサラダと味噌汁も並んでいた。サッカー部に所属していた学生時代から、陽太はとにかくよく食べる男だった。
「なんか疲れて食欲なくてさ」
「……何かあった?」
「別に」
「半熟玉子、いつも食べるのに注文してないなと思って」
どうやら兄の目は誤魔化せなかったようだ。
「部下が」
二神がぽつりと話し出すと、陽太は牛丼をかき込みながら頷いた。
「今のチームから異動したいって、人事に言ってるみたいで」
「あー、激務だから?」
「違う、そんなことで音を上げるような人じゃない。きっと俺のせいだ」
「部下いびりでもしてんの?」
陽太の特盛牛丼は順調に減っていくが、二神自身の並盛はなかなか崩れていかなかった。
「そんなんじゃない。むしろ俺が真嶋さんに……」
好意を寄せすぎた。だから、距離を置かれそうになっている。
思い付いた嫌な想像に、二神の箸は完全に止まってしまった。
「真嶋さん……ねえ」
陽太は意味ありげにそう言ってから味噌汁をずずっと啜る。
彼は二神が高校時代に何があったか知っている。親にも相談できなかったこと——自身の性的指向について、二神は兄にだけこっそりと相談していた。
「そーんなに元気がなくなるくらい気になってるのか」
「そりゃ、上司として当たり前——」
「いや、俺だったらただの部下が異動希望してても『はいそうですか』で終わるけどな」
「うわ、冷たい上司」
まだこんな軽口を返せたことに、二神は少し安心する。陽太が言ったように、なるべく気にするなと自身に言い聞かせた。
それでも今日の一連の出来事ばかりが腹に溜まっていき、牛丼を詰め込むための胃袋はすぐに一杯になってしまった。
食事を済ませて自宅へ戻ると、陽太は途中のコンビニで買った缶ビールを飲み始めた。二神は明日に響くからと言って遠慮したが、酒に強い陽太は気にせず缶を空にしていく。
テレビのニュースキャスターが今日の出来事を言い連ねているが、それは陽太の声でほとんどかき消されていた。
「いやあ、もう酷いんだよ、ほんと。うちがエンドに営業かけてたのにさ、後から商流に入ってきていいとこ持ってくんだから」
ソファでふんぞり返る彼の仕事の愚痴を、二神はベッドの上から話半分で聞いていた。兄の話よりも、今日先に帰った部下たちが夕食の席でどんな話をしたか考えていたからだ。もっと言うなら、真嶋が石川に対してどんな話をしたかが気になった。
彼女の肩に手を置いて慰めようとしていた真嶋の姿——思い出したくない光景が脳裏にフラッシュバックして、二神は無意識に首を振ってしまう。
「なんだよ、俺の悲しみが分からないってのか?」
「え、ちが、ちょっと別のこと考えてて」
「別のこと? ああ……真嶋さん?」
全く酔いも見せずに、兄が鋭く指摘した。
「何、好きになっちゃったの? 俺、もう弟が傷付くとこ見るのは嫌だからな」
陽太の声が急に真面目なものに変わった。陽太から真嶋に対する敵意のようなものを感じ取った二神は、誤魔化すのも忘れて口を開いた。
「……たとえうまくいかなくても、真嶋さんなら俺を傷付けるようなことはしない、と思う」
「高校の時だってそうやって信じて告白して、最後には裏切られた。そうだろ?」
「そうだけど、真嶋さんは違う。だって、女の子に告られても『好きじゃないから』って律儀にお断りし続けてきたような人だよ?」
「律儀だな。食っちまえよ」
「俺の突拍子もない冗談だって、いちいち『本気ですか?』『どういう意味ですか?』って首傾げるような人だよ?」
「ノリも空気も無視した冗談キラーかっつの」
「陽太、本気にしてないでしょ」
二神がむくれていると、陽太はソファからベッドに移動してきた。
「お前がぞっこんなのは分かった。でも、俺はそこで警鐘を鳴らす係だから。いいか、その真嶋さんが異動の希望を出している。それはなぜだ?」
「それは……俺を傷付けないように、やんわり離れる、ため……?」
自ら口にしておきながら、二神はその言葉にじわりと目の奥が熱くなった。
「よーしよし、じゃあお兄ちゃんが真嶋さんに聞いてあげよう」
彼はベッドの上に放り出されていた二神の携帯を手に取る。
「え、ちょ、駄目だって」
「どうして? 告白するより先に、まずは異動の理由を聞いた方がいいだろ? その答え次第では、傷も浅く引き返せる」
陽太が携帯のパスコードで詰まっている間に、二神はなんとか彼の手から携帯を救出した。
「陽太に電話させるくらいなら、自分で聞くから……!」
咄嗟にそんなことを言ってしまったせいで、陽太は「早く」「行け」と急かしてくる。
仕事上の相談をするだけ——そのつもりで、二神は深呼吸してから真嶋の番号に電話をかけた。
コール音は数回で途切れ、すぐに「もしもし?」という真嶋の声が聞こえた。彼の声の後ろからは、ゆったりとした音楽のようなものとグラスの音、人々の談笑する声が聞こえている。
彼はまだ帰宅していない——それに気付いた瞬間、嫌な予感がして言葉を失ってしまった。
カランカランという乾いたベルの音と共に、電話口の向こうが静かになる。どこかの店内から静かな道路に出たのだろうか。
「二神さん? 何かありました?」
ハッとしてこの電話の目的を思い出す。
「真嶋さん、あの、さっき桜庭さんに聞いたんだけど——」
「何かトラブルでも?」
先を促されても、どういう聞き方がいいだろうかと考えてしまう。「異動を希望してるって本当?」とストレートに聞くべきか、「今のプロジェクトに何か不満ある?」と婉曲的に聞くべきか。
迷っていたら、もう一度電話の向こうでカラカラと鐘が鳴った。
「真嶋さん、どうしました?」
女性の——石川の声だった。嫌な予感は的中した。彼は彼女と共に夕食をとった後、今までずっと彼女と一緒にいたのだ。
「今の石川さん?」
震える声を何とか隠してそう言うと、真嶋は何でもないことのように「ええ」とだけ答えた。
「そっか、ごめん。別に今話すことじゃないし、また今度でも」
「え、ちょっと、二神さん——」
「陽人」
真嶋が呼び止めるのと、陽太に名前を呼ばれたのはほぼ同時だった。しかし、二神は双方を無視して通話を断ち切る。
「なんで聞かなかったんだよ。石川さんって誰?」
「俺の……高校の同級生で、真嶋さんの大学時代の部活の後輩」
陽太の表情が曇ったため、二神はすかさずフォローを入れた。
「石川さんのことなら大丈夫。それも全部、真嶋さんが気を遣ってくれて、石川さんは誰にも……真嶋さんにも高校の頃の話はしてないって」
「ふーん。で、その石川さんってのは女の子なわけだ? お前が酷い目に合ってたのを見て見ぬふりしてた女が、お前の好きな人とこんな時間まで一緒にいるわけだな」
「……っ、分かってるならそんなことわざわざ口に出さなくてもいいだろ」
二神は思わず膝を抱えてそこに顔を突っ伏した。
「でも事実だけじゃ分からないこともある。どうして異動を希望したのか、どうしてそんな女と一緒にいるのか、知りたいんだろ? なんで聞かないんだよ」
「聞きたいこと素直に聞けたら、世界中のほとんどの人は苦労しないよ。陽太の馬鹿」
「うーん、じゃ、俺が聞いてやるよ。聞けたら苦労しないんだろ?」
そう聞こえたかと思ったら、ベッドがぎしりと沈み、携帯を持った腕を掴みあげられた。
「え、ちょ、やめ……」
抵抗して勢いよく腕を引っ込めたその時、ゴンッという嫌な音が鳴り響いた。二神の手はベッド脇の棚に勢いよく携帯を叩きつけている。おそるおそる携帯の状態を確認し、二神はサッと青褪めた。
「あーっ! 嘘、信じらんないんですけど! ちょっと、これ!」
見せつけた携帯はぶつけた角から綺麗にディスプレイが割れている。電源を押しても反応はないが、それがディスプレイのせいで見えないだけなのか、中身まで壊れて起動すらしていないのかも分からなかった。
「陽人が渋るから悪い」
「陽太が強引なのが悪いんじゃん! もう……最悪」
二神はまた膝の上に顔を伏せる。
部下のせいでせっかくの報告会の資料にミスがあったこと。
その原因が高校の同級生だった石川で、真嶋が彼女を慰めようとしていたこと。
真嶋が何の相談もなく異動を考えていたこと。
そして……真嶋が終電もなくなったこんな時間に石川と一緒にいること。
最悪の一日だった。携帯が壊れたのはまるで最後の仕上げと言わんばかりだ。
「えーっと、俺風呂借りよっかなー……」
陽太はすっとぼけながらベッドを降りて部屋を出て行った。彼が心配してくれていることは百も承知だったが、携帯が壊れた原因である彼にもやはり腹が立つ。
二神はそのままベッドに潜り込んで不貞寝を決め込むことにした。
***
「二神君」
高校時代の制服を着た石川が、二神のいるテーブルにやってくる。ここは確か、高校の理科実験室。班別に分かれてよく実験をしていた場所だ。
「川島君が班変わりたいって言うから、今日からよろしくね」
なぜ班を変わりたいなどと言いだしたのか、大体想像はついている。
あいつは男に惚れるらしい。近寄ると危ない。
それは同級生の間で周知の事実となっていた。
警戒しなくても、男なら誰にでも惚れるわけじゃない。うぬぼれるな。
心の中だけではそんな威勢のいい声が出せるのに、二神は石川に向かって何も言うことができなかった。
その時、ふいに頭上が陰り顔を上げる。そこにいたのは、高校の学ランを着た真嶋だった。気が付けば向かいに座った石川も、成長した社会人女性の顔つきになっていた。
「二神さん、僕も誰かと班を変わってもらおうと思ってるんですが」
その言葉に、二神の目の前が暗転した。
がばりと身を起こすと、そこは見慣れた自室だった。時刻を確認しようとベッド脇にあるはずの携帯を見るが、そのディスプレイには大きなひびが入っている。
携帯が壊れているということは、アラームをかけずに寝てしまったということだ。大慌てで近くにあった腕時計を引き寄せると、時刻はもう9時になっていた。
頭の中で瞬時に今日の日付、曜日、スケジュールを再生する。ヒヤッとさせられたものの、今日は出社が遅れても問題ない日だった。
ほっと胸を撫で下ろしてからシャワーを浴びてスーツに着替える。出かける直前、ベッドの上に転がっているひび割れた携帯が目に入った。
持って行っても何の役にも立たないし、おそらく携帯を新調できるのは土日になるだろう。
そう考え、携帯のことは週末まで思考の外に追い出してしまおうと思った。どうせ壊れていなくても、来る連絡といえば女性からの誘いばかりだ。大きな報告会が昨日終わったことは知られているので、今は特にアプローチが激しいだろう。携帯のキャリアメールも見ようと思えばパソコンから見られるだろうが、そこまでするほどのことではないと判断した。
二神は携帯を置き去りにして狭い自宅を出る。まさかその日の夜、この携帯電話に真嶋から一大決心の告白メールが送られてくることなど知る由もなかった。
***
休日の携帯ショップというのは無駄に混雑している。整理番号を呼ばれて待合スペースの椅子を立つと、思わず足元がふらついた。隣にいる真嶋はそこまで気の利く男でもないので、残念ながら二神は自ら体勢を立て直す。
カウンターの席に座って壊れた携帯を見せると、店員の若い男性は苦笑いを見せた。
「これはまた派手に壊れてますねぇ。ディスプレイが割れてるだけじゃなく、本体ごと壊れているかもしれませんが、バックアップは……」
「バックアップならPCにあるので、もう機種変更で大丈夫です。いやあ、夜の街の片隅で秘密結社の殺し屋に絡まれて、命からがら逃げられたものの、携帯は残念ながら尊い犠牲になりました」
真嶋は二神の顔をちらりと見た後、店員に向き直って大真面目な顔をした。
「冗談なのでお気になさらず」
カウンターの向こうの男性が「はは……」と力なく笑う。
「ねえ、言わなくても店員さん冗談だって分かってるからね? 真嶋さんの解説はいらないからね?」
「はあ、そうですか。すみません」
小声でそんな会話をする二人を無視して、店員は朗らかに今後について説明を始めた。
SIMカードの入った新品の携帯を受け取り、二神は店の隅でさっそく携帯を確認した。家に戻ってバックアップから色々と復元する必要があったが、携帯のキャリアメールだけは待ちきれないと言わんばかりにどんどん入ってきた。
「わーお、めっちゃ溜まってる」
大量の未読の中から真嶋の名前を見つけて指を止める。
「あ、あった。これ?」
そこに書かれていた告白文を見て、二神は思わずぶっと吹き出しそうになった。
「小学生の作文みたい……! PC用のメアド全部に転送しとこ。スクショも取ろ」
「け、消してください! 増やさないで!」
「お断りしまーす」
真嶋が慌てて携帯に掴みかかろうとしたが、二神はサッと手を引く。幸いにも、今度はもう携帯をどこかにぶつけることはなかった。
携帯ショップから真嶋の家へと徒歩で向かう間、真嶋はまだぶつぶつと文句を垂れていた。
「あの日の二神さんの告白、どうせなら僕も全部録音しておけばよかった」
二神は歩きながら真嶋の顔を上目遣いで覗き込む。
「何度も聞きたいなら、録音じゃなくて俺が毎日生声で言ってあげよっか?」
「え、あ、これも冗談……?」
「冗談じゃないよ? 今ここで言う?」
「え、え……」
「真嶋さんかわいいなあ」
真嶋が顔を赤くしたのに合わせたかのように、目の前の信号も赤になる。立ち止まった隙に二神は携帯を取り出し、陽太に一つメッセージを送ることにした。
『携帯、新しくしたよ。それと、諸々うまくいったので心配無用です』
信号が青に変わり、まだ混乱する真嶋の腕を引っ張って歩き始める。今日の昼食は二人で牛丼チェーン店にでも行こうか——そんなことを考えながら、二神は真嶋の腕にぎゅっとしがみついた。
二神さん視点だとこうでした、というお話です。
ミステリー小説の謎解きシーンが面白いように、恋愛ものもこうやって後から答え合わせできるようなお話が好き。
二神さんって会社ではキラキラしてるけど、自宅では狭い部屋でジャージ着てるイメージある……。
そんなところ以外でも、まだまだ二神さんの中にある暗い部分や黒い部分は書ききれてないなあと思っています。
このお話は会話中の呼び方に合わせてキャラクターを苗字で記述してきたのですが、二神兄が出てきてしまってちょっと困りました。
両方二神じゃん!