桐崎結以斗には二つの顔がある。
普段大学に通っている時は、いかにもお洒落に興味がありませんとばかりに黒い髪をボサッと垂らし、その前髪の間から分厚い眼鏡を覗かせている。チェックのシャツにストレートのジーンズを合わせ、友達と一緒に教室の隅に生息する、地味で平凡な理系男子大学生。それは情報工学科という空間にすんなりと馴染んでいた。
しかし、土曜日の夜だけはその仮面を脱ぎ捨てる。野暮ったい眼鏡を外して現れるのは、濃茶の大きな瞳。手入れしていないかのように見えていた黒髪は、額を出すようにセットされ、光を反射して艶めいた。鏡の前でにこりと微笑み、結以斗は自らの魅力に満足する。
いつも着ているTシャツの上に、チェック柄のシャツではなくジャケットを羽織り、ジーンズを普段より細身のものに変える。それだけで、結以斗は大抵の女を振り向かせるモデルのような男に早変わりした。もっとも、身長は175センチ程なので、モデルになるにはもう少し欲しいところだ。
しかし、結以斗の目的はモデルになることでもなければ、女を振り向かせることでもない。土曜の夜の街に足を踏み出した結以斗は、いつも決まったバーへと向かった。ユイという名の常連としてしばらくそこで酒を飲み、決めた男と共に店を出る。行き先は繁華街にあるラブホテルだった。
「……っ、は、ぁ」
「声、我慢しなくてもいいだろ?」
ぐしゃぐしゃに乱れたシーツの上、結以斗は覆い被さる男を潤んだ瞳で見つめた。
「は、恥ずかし……」
「遊んでるように見えて、実は真面目で純情って、マスターが言ってた通りなんだな」
バーカウンターで出会った二十代半ばの男は、真っ赤になった結以斗の頰を撫でた。その手も声も優しいのに、彼の目は獰猛に光っている。獲物を捕らえた雄の視線――見つめられるだけで背筋がゾクゾクする。結以斗はこの感覚がたまらなく好きだった。
「まあいいや。声、我慢できなくさせればいいんだよな」
彼はそう言ったかと思うと、結以斗の中に挿れていた自身をギリギリまで引き抜き、一気に最奥まで貫いた。
「……んっ」
結以斗が思わず声を出したところで、男の欲望が本気の牙を剥く。男は突然ピストンを早め、結以斗の入り口から奥までを抉るようにズンズンと突き上げた。
「ゃ、ぁっ……はっ、んぁ」
ガクガクと腰を揺さぶられ、二人の身体の間で結以斗の欲望が勢いよく揺れている。ぶるんぶるんと跳ねるソレを、男の無骨な手がピタリと捕らえ、結以斗は爪先をピンと痙攣させた。
「今、ちょっとイッた?」
男は意地の悪い声でそう言いながら、結以斗の中を蹂躙し続ける。何を否定したいのかも分からず、結以斗はただ首を振って快楽に耐えた。
「誤魔化してもココでバレるのに」
「ちが、っぁ……」
きゅうきゅうと締め付ける結以斗の中で、男はある一点を掠めるように腰を動かす。思い切り突いて欲しいのに、男はわざと少しずらした場所を責め続ける。射精までは至らないものの、結以斗は何度も絶頂寸前に追い込まれた。
「ドライで何度もイッてるよね」
「んっ……んぅ」
「あんまり強情だと最後までイカせてあげないよ?」
ぐずぐずに蕩けた結以斗の頭の中に、男の言葉が媚薬のように入り込む。
「ゃ、だ……っ、おねが……イか、せて」
そう言いながら、男の双眸をじっと見る。征服欲に塗れた、傲慢な支配者の目。それだけで胸が高鳴ってどうしようもない。
男の唇が満足気に微笑み、焦らしていた箇所に硬い欲望をガツガツと突き立て始めた。
「ん……んっ、ぁ、こっち、も……」
後孔で快楽をたっぷりと味わいながら、男に掴まれたままの屹立に手を伸ばす。結以斗のおねだり通り、男は素早い抽挿に合わせて結以斗の性器を扱いてくれた。前と後ろからの責め立てに、結以斗の理性が薄れていく。
「ぁ、ん……も、イく……っ」
男の手の中で結以斗の欲望が白濁となって弾ける。その緊張で中を締め付けると、今まで余裕ぶっていた男が僅かに眉根を寄せ、結以斗の中で剛直を強張らせた。
結以斗の中から自身を引き抜いた男は、ローション塗れのコンドームを外す。中に溜まっている白い液体を見て、結以斗はふふっと微笑んだ。
男から傲慢な支配を受けるのが好きだ。しかしセックスの最後、自分の中で男をイかせるあの瞬間はもっと好きだ。
「そんなに見るなよ。欲求不満なのか?」
「別にそんなんじゃないけど」
ゴムを捨てた男は、横になっている結以斗の額にチュッと口付けた。
「毎週あのバーにいるんだって?」
「うん」
「恋人は?」
「いない」
「じゃあ、好きな人は?」
その言葉に、いつも大学で見かける一人の男を思い浮かべた。
「返事がないってことは、いるんだな。どうせノンケだろ? 無理だからやめとけよ」
「別に、本気でどうこうなりたいわけじゃないし」
「顔だけ好みのタイプってやつか」
結以斗は頭の中でとある男の姿を思い描く。男らしいキリッとした顔立ちも、傲岸不遜な立ち居振る舞いも、結以斗がときめく理想の俺様男そのままなのだ。
「ん、そんなとこ。それよりさ、シャワー浴びたい」
「もう一回しないのか?」
「……お風呂場でヤろ?」
結以斗は男を誘う方法を知っている。彼の腰に指先だけ触れて上目遣いをすれば、男の目の中に欲望の炎を灯すのは簡単だった。
***
志田雅哉という男を初めて見たのは約二年前、大学一年の春だった。
教室のドアがガタンと音を立て、振り返った結以斗の視線の先に、彼が大股で颯爽と現れたのだ。意志の強そうな瞳と、堀の深い鼻立ち、真っ平らにきつく結ばれた薄めの唇。短い髪はさり気なくダーク系のアッシュブラウンに染められていて、服の方にもお金をかけているのが分かる。
彼は教室内に誰がいるかも確認せず、隅の方の席にどかりと座った。まだ友達ができていないのかと思いきや、彼に気付いた男女数人が、彼の場所に合わせて席を移動する。彼らに話しかけられても、男はにこりともせずにそっけなくあしらっていた。しかし、誰も彼から離れていこうとはしない。
まるで王様のような男だ。
その時から結以斗は彼を目で追うようになった。近くには行けないが、心だけは王様の仕え人になったように。
自分の性指向に気付いた高校一年生の時から、結以斗の好みは決まってこういったタイプの男だった。
なぜかと自分自身に問うてみると、いつも必ず父の顔が思い浮かぶ。いつも気弱そうで、母に何か言われても言い返せずにへらへらと笑っているような、そんな人だった。結以斗が小学三年生の時に母が離婚して以来会っていないため、記憶の中の彼はどこかおぼろげだ。
芯のない父に母が愛想を尽かし始めた頃、結以斗と妹は言われるがままに母の側についた。その結果、父は家庭内で孤立し、仕事もうまくいかなくなった頃の離婚だった。
もしかしたらあの頃から、父には強さや威厳を求めていたのかもしれない。幼少期に満たされなかった父性への憧れが、自分を力強い男へと惹き寄せている。それが結以斗の推測だ。
大学でたまに見かける志田を視線だけで追いながら、土曜の夜に一晩限りの相手を見繕って性欲を満たす。ずっとそんな生活が続くと思っていた。大学三年生の春までは。
初めて研究室に所属してゼミに出席するその日、結以斗は友人の菅原拓と共に小さな教室へと向かっていた。自分と菅原以外に何人くらいの新三年生が集まるのか、どんな先輩がいるのか、ゼミの進め方はどんな雰囲気なのか。新しい環境にソワソワする気持ちは、目的の教室前で全部吹っ飛んだ。
ドアの真横。壁に背を凭れて立っているのは、いつも遠くから見るばかりだった志田雅哉。彼はちらりと結以斗たちを見てから、すぐに視線を外した。挨拶も何もないが、彼がこの部屋に用事があるのは明らかだ。
菅原が彼の横のドアに手をかけるが、ガタガタと揺れるだけでドアが開かない。
「まだ鍵がかかってるのか」
菅原がそう言うも、志田は無言のままだった。
まさか、彼が同じ研究室を希望していたとは。こんな近くに立ったのは初めてだ。やっぱり背が高い。彼と自分の身長差は五センチから十センチの間だろうか。
結以斗が軽くパニックになっているのも知らず、菅原は彼に声をかけた。
「あの、水原研の方ですか?」
「そうだけど」
「この部屋で合ってますよね? いつもここの鍵ってどうされてます?」
「さあ? 俺今日が初めてだから」
「なんだ、俺たちも今日から入る三年だから」
菅原は志田のつっけんどんな態度を気にした風もなく、「この部屋のはずなんだけどなあ」と唸った。
これはもしや、ついに憧れの志田と接点を持つチャンスなのではないか。いや、接点を持ったところで彼とどうこうなれるはずがない。
結以斗の頭の中でそんな論争が起こる。
「結以斗、どうかした?」
菅原の声で我に返り、何か言わなければと焦ったその時、廊下の角から「遅れてすみません」と学生の集団が現れた。
部屋の鍵を開けた先輩学生たちは、新入りの結以斗らをまとめて座らせようと席を勧めてくる。今年の新入りはこの三人だけなのだそうだ。結局、結以斗は菅原と志田の間に座ることになってしまった。
まさかこの男の隣に座る日が来ようとは思ってもみなかった。いつもそこに座る誰かを羨みながら、遠くから見つめるだけだったから。緊張する結以斗には目もくれず、志田はカバンから取り出したノートパソコンを開いている。
教授が入ってきてゼミが始まってすぐ、新入りの三人は自己紹介をさせられる。やはり人違いでも何でもなく、隣の男は志田雅哉と名乗った。結以斗はかろうじてもごもごと自己紹介をしてから席に着くが、その後のゼミの内容には全く集中することができなかった。
五限のゼミが終われば、今回は引き続き初回の飲み会へと連れ出された。四年生の先輩が三人、大学院生の先輩が修士と博士を合わせて六人。それに加えて教授と非常勤の助手が一人。人数は多すぎず少なすぎない、とても居心地のいいゼミだと思う。隣にいるのが志田でなければ。
結局居酒屋の席でも、結以斗は菅原と志田に挟まれていた。
「志田君はどこかサークル入ってる?」
向かいに座った院生の先輩に話を振られ、隣の男はコクリと頷いた。
「一応、テニスサークル」
「リア充~! テニスできるの?」
「まさか。あのサークル、ほとんど誰もテニスなんかしてないですよ。ほぼ飲みサーなんで」
「うわ、やっぱリア充……」
眼鏡の先輩はヒョロリと細い首を竦めた。
実際、志田はリア充と呼ばれるに足る生活をしている。文系学部と合同キャンパスだった一、二年生の頃は、しょっちゅう派手な男女が彼の周りを囲んでいた。三年になった今は、男だらけの理工系の授業中、彼は一人でいることが多いようだ。しかし、理工学部のキャンパスを出れば、彼の周りにはまた女が群がるのだろう。
以前から少し周囲に注意を払えば、志田の噂はよく耳に入ってきた。誰それと付き合っているのではないかという憶測が飛び交い、その相手の名前は聞くたびに変わる。
そこだけ見ていれば、彼は皆の人気者に見えるだろう。しかしもっと視点を引いてみれば、彼を快く思わない者はたくさんいた。
「リア充だなんだと羨むような言い方をするなら、テニサーに入ればいいんじゃないですか?」
彼の言葉に、案の定先輩の頰がピクピクと引き攣る。サークルの繋がり以外で理工系の男友達を作っていないことからも分かる通り、志田はモテない同性に敵を作りやすいタイプだ。このままだと、この研究室での志田の立場が危うい。卒論のためにも、院生の先輩との関係を壊すのは得策ではなかった。
「あの、谷口先輩はどこかサークルとか入ってないんですか?」
結以斗は話題を逸らすように、先輩自身のことを尋ねた。彼は結以斗の地味な外見を見るや否や、仲間を見つけたような安心した顔で口を開いた。
「学部の頃は折り紙サークルだったんだけどね」
「あ、折り紙って俺たちが思い浮かべてるのよりずっと複雑なの作ってるんですよね」
持ち上げると、隣の菅原も「へー、どんな?」と話に乗ってくる。期待の眼差しを受けて、先輩は居酒屋の紙ナプキンをせっせと折り始めた。
それから他の先輩が結以斗と菅原の学生生活について質問してきたが、サークルにも入っていない二人の話はすぐに尽きてしまう。どの教授の授業が楽か――そんな先輩から後輩へのアドバイスになった頃、結以斗は一度トイレに席を立った。
先程から志田は黙々と酒を飲むばかりで、会話に入ってこようとしない。いつものテニスサークルではひっきりなしに女が話しかけるのだろうが、真面目な理系の男しかいない研究室では、彼は完全に孤独だった。正直、隣にいる結以斗まで息が詰まりそうになる。
トイレで息継ぎをするように休憩してから、またあの席へ戻ろうとしたその時、途中の通路で志田と鉢合わせになった。
「あ……トイレ? そこ右に行ったとこ」
彼と初めて話せた内容が、居酒屋のトイレの場所について。情けない話に溜め息を堪えたその時。
「あんたさ、トイレで鏡見てる?」
「へ!?」
咄嗟のことに、彼の言う意味が脳でうまく消化できない。
「ダサすぎ……って自分でも気付くだろ、それ」
外見について揶揄されているのだと気付いた時には、彼の姿はトイレへと遠ざかっていた。
なるほど、あれは確かに腹立たしい。同性から敵視されるのも無理はない。
納得する反面、なぜか彼の言葉に喜びを感じている自分がいる。どんな内容でも話せて嬉しいのか、あるいは自分にマゾの気質があるのか。
酒の席に戻ってしばらくそんなことを考えていても、志田は中々トイレから戻ってこなかった。
「あれ、志田は?」
「さっきトイレの近くですれ違った」
菅原とそんな話をしていたら、向かいの谷口がこそりと声をかけてきた。
「桐崎たちはあいつと知り合い?」
「……いや、別に」
結以斗が僅かに返答を躊躇うと、菅原がちらりと横目で見てきた。しかし彼は何も言わない。
「んー、そうか。でもこれからはあいつとも一緒に俺のプロジェクト進めてくからさ、仲良くなっといてよ。……って、俺も仲良くなれそうな気がしないけどさ」
谷口がトホホと肩を落とす。気が付けば周囲の先輩も皆苦笑いしていた。結以斗とは別の理由で、彼らも志田との接触に緊張しているらしい。
そんな空気など露知らず、戻ってきた志田は結以斗の隣に座ると、また一人で黙々と酒を飲み続けた。
既定の時間が過ぎ、居酒屋の前でゼミ生全員がたむろしていると、通行人はいかにも邪魔そうに店の前を通り過ぎていく。教授の一言でお開きの空気となり、何人かずつの集団で自然と散っていく中、結以斗は一人歩き出そうとする志田にさり気なく近付いた。
「志田ってどこ住んでんの?」
声をかけると、彼は虚を突かれたように足を止めた。まさかこんなダサくて引っ込み思案そうな男から話しかけられるとは思ってもいなかったのだろう。
「……大倉山」
「じゃあ電車か。あ、俺たち大学の近くなんだ。同じマンションで」
傍にいた菅原を無理矢理会話に引きずり込もうとするが、特に話が膨らむわけでもなく、志田は「へえ」とだけ答えた。
前を歩く先輩たちのグループは、自然と電車組と徒歩組に別れていく。駅の近くまで来た時、志田はどの先輩とも一緒になることなく、独りで改札へと消えて行った。
「結以斗はさ」
菅原と二人きりになってしばらくした後、彼はそう切り出した。
「結以斗は前からよく志田のこと見てたよな」
思わず横にいた菅原の方を向く。結以斗とは違う、お洒落な黒フレームの眼鏡の奥、彼の瞳がこちらを見ていた。
彼には既にゲイであることをカミングアウトしてある。同じマンションに住んでいることがきっかけで、大学入学時から仲良くなり、去年の半ばに偶然土曜の夕方の姿を見られてしまった。そんなに見た目を変えてどこへ何をしに行くのか、どちらの結以斗が本当の姿なのか、問い詰められて白状してしまったのだ。
「そんなに見てたかな。でも志田は確かに目立つから……」
しどろもどろになりかけた時、菅原の空気が和らいだ。
「別に、尋問してるわけじゃない。ただ何となく気になっただけ」
彼は笑いながら春物のコートのポケットに手を突っ込んだ。
踏み込まれたくないという結以斗の空気を察して、おそらく彼は身を引いた。ありがたいという気持ちと申し訳なさで、結以斗は少しだけ本音を零した。
「あいつ、あのゼミでうまくやってけんのかな」
「心配してやってんの? 優しいなあ結以斗は」
「そんなんじゃないけど、ゼミの中にうまくいってない奴がいるって、見てていたたまれないって言うか」
「俺なら、あーいう調子乗った奴がうまくいってないの見ても、ザマアミロとしか思わないな。性格悪いかもしれないけど」
普段から大人びた菅原がそう言うのなら、世間の多くの人がそれに同意するのだろう。
「まあ、先輩から俺たちがそれぞれ分担割り振られて、その内容で卒論書くだけだろ? 先輩とのやり取りはあっても、俺たちの横の繋がりってあんまりなさそうだな」
結以斗は「そうだな」と言いながらも、「それだと少し寂しいな」と心の中で呟いた。
***
結以斗たち三年生は、研究室の入り口付近にあるフリースペースを割り当てられた。奥の方のデスクは大学院生が固定で使っているが、学部生は手持ちのノートパソコンを持ち寄り、都度空いている席を使う。
先に志田がいる場合、結以斗はいつも決まって彼の隣の席を確保した。とは言っても、谷口先輩の指示でデータを収集、分析するためのプログラムを作っているだけなので、隣に座ったところで大した会話はない。
「作業進んでる?」「難しくない?」「何か面白い結果出た?」――結以斗は懸命に隣の志田に話しかけてみるも、「ああ」とか「まあ」といった素っ気ない返事ばかりが返ってきた。
しかしどうやらそれは全くの無駄でもないらしい。研究室の先輩にとっては。
「あいつ何も報告してこないからさあ、問題なく進んでるのかどうかが分かるだけでも十分だよ」
結以斗の懸命のコミュニケーションに、谷口先輩は半泣きでそう感謝した。頼りない先輩に見えるが、彼の研究プロジェクトは大手通信会社との共同研究だ。彼から支給されるプログラムを見れば、優秀な学生であることは明らかだった。
インターネット上にユーザーが投稿した多数の行動ログを取得し、データベースに格納し、解析する。先輩から渡されたプログラムを組込みながら、割り振られた担当のSNSに対応したシステムを作らなければならない。ゼミでの研究と言うよりも、プログラミングの授業の課題をしているような雰囲気だった。
ゼミでの活動にも徐々に慣れ始めた五月の下旬。結以斗は隣の志田からいつもとは違う空気を感じた。机を指でトントンと叩いたり、足を何度も組み替えたり、どことなくイライラした感じだ。気になって横目で彼のパソコンの画面を見ていると、プログラムを実行しても何かが上手くいっていないようだった。
「エラー?」
恐る恐る話しかけると、彼は少し迷ってから「エラーは出ないんだけど」と首を捻った。
「問題なく実行されたように見えるのに、何も起こってないって時が一番面倒だよな」
結以斗の言葉に、彼は「まったくだ」と溜め息をついた。時刻はもう十八時過ぎ。ゼミに該当する五限は終わっている。
「まあ、来週に持ち越せばいいだろ」
志田が作業を終えようとしたその時、結以斗は思い切って口を開いた。
「あのさ、そのプログラム、良かったら俺にも見せて。デバッグは得意だし」
プライドの高そうな彼が、それを承諾するとも思わなかったが、彼の力になりたいという意思だけは見せておきたかった。
「そうそう、結以斗はデバッグ大好きだもんな。プログラムの中もコメント文とプリント文が一杯で」
なぜか菅原が助太刀に入る。志田は眉間に皺を寄せて結以斗と菅原を見てから、「それなら」とUSBメモリにプログラムを入れて渡してきた。すぐに自分のパソコンにプログラムだけコピーさせてもらおうとしたが、志田はさっさと席を立ってしまう。
「待って、このメモリ」
「大したもん入ってないし、メモリごと持ってていい。これから飲み会だから」
彼はそう言うとスタスタと研究室を出て行った。
自宅に帰って早速彼のプログラムファイルを開いてみれば、それは意外と几帳面な書き方だった。規則性や統一性もなく、コメントすら書かないようなイメージだったが、それは大違いだったようだ。おかげでどの箇所が何をしているのか分かりやすく、他人のプログラムを解読する時に特有の煩わしさがあまりなかった。
「ここまではちゃんと動いてる……ここだ」
三十分ほど格闘するだけで、異常の原因はすぐに突き止めることができた。来週のゼミの時間にでもUSBメモリごと渡そうかと思っていたが、彼も自宅で作業をするのであれば、早めに教えた方がいい。
メールにプログラムを添付し、簡単なメッセージと共に送ったが、彼からの返信はなかった。飲み会だと言っていたからまだ帰っていないのだろう。
プログラムを編集していたエディタを閉じ、パソコンからメモリを抜こうとした結以斗は、あるフォルダに目を留めた。このメモリに入っている唯一のプライベートなフォルダだ。名前は実に分かりやすく、photoと書かれていた。
大したものは入っていないと言われていた。見られて困るものでもないのだろう。結以斗はカチカチとそのフォルダを開き、中に並んだ画像を開いてみた。
どうやらサークルの合宿か何かのようだ。テニスサークルのはずなのにテニスコートが写っていないが、彼らの荷物にラケットらしきものが入っていた。数人で並んだ写真もあれば、集合写真もある。志田の写ったものには、どれも必ず両脇に女の子がいた。サークルの仲間と一緒にいれば志田も楽しそうにしているのだろうと思っていたが、教室やゼミで見るのと同じクールな表情だ。
かっこよければどんなに無愛想でも許されるんだから得だよな。
そんな不公平を感じつつも、やっぱり彼の顔は結以斗の好みど真ん中だから困る。
今も彼はこのサークル仲間と一緒にいるのだろう。そして、この女の子の内の誰かを選んで連れ帰るのかもしれない。
志田が女と並んでいる写真を睨む。彼と近付いてどうこうなるつもりはないと思っていたはずなのに、ゼミという接点ができてしまってから、彼への気持ちは大きくなるばかりだ。こんな嫉妬、できればしたくない。しかし、止まらない。
気が付けば、結以斗は志田の写った写真だけをカチリカチリと選択していた。
別に減るもんじゃないし。
そんな言い訳で罪悪感を誤魔化す。急ぐ必要もないのに、まるでコソ泥のように慌ててデスクトップに画像をコピーした。
その瞬間、まるで咎めるように携帯がブルっと振動する。
『助かった。家に帰ったら確認する』
たったそれだけの簡潔なメッセージに、結以斗の心臓は馬鹿になったみたいに早鐘を打つ。
引き返せない重症まできている。気付いた時にはもう遅かった。
翌日の二限、授業のため教室に入った結以斗は、いつも通り菅原の姿を探す。しかし彼はまだ来ていないようだ。
先に一人で席を確保しようとしたその時、視界の端に志田の後ろ姿を捉えた。不機嫌そうにノートパソコンを開く彼を見て、結以斗はカバンの中をゴソゴソと漁る。目当てのものの感触を手で確かめてから、思い切って彼の所へ向かった。
「志田、あのさ、これ」
カバンの中からUSBメモリを握り締めた手を突き出す。
「えっと、早く返した方がいいかと思って」
メモリの返却を口実にお礼を強要しているように見えたら嫌だな――そんなことを考えてしまい、なぜかしどろもどろになった。
「ああ……どうも」
余計な心配をせずとも、彼の感謝は実にぶっきらぼうなものだった。その場を離れようとしたが、一人ぽつんと席に座る志田を見ていたら、なぜか身体が勝手に動いた。
「あ、ここ、空いてるよな」
椅子一つ分空けて志田の横に座る。まさか側に居座られるとは思っていなかったのか、志田の眉がピクリと動いた。
「この授業って出席取らない分、毎回課題やらないと単位来ないから大変だよな」
「まあな」
「今週の課題すぐできた?」
「ああ」
「俺高校の頃から行列ってどうも苦手でさ」
「へえ」
素っ気なくされても懸命に声をかける。
同じだ。志田に群がる女たちと同じことをしている。それを分かっていても、結以斗は結局その席で授業を最後まで受けた。
それだけでなく、授業終了後も彼と共に校舎を出る。
「なあ、志田は昼どこで食べる?」
「学食」
「じゃあ、一緒に――」
そう言いかけた時、数人の男女がこちらに近付いてきた。
「雅哉、お昼行こうよ」
「言われなくても行くところだっつの」
「言わないと一人で行くくせに」
「気が付くとぼっち飯してるもんね」
「一人で飯食って何が悪いんだよ。うるせーな」
「キレた。ウケる」
愛想のない志田の答えにも、彼女たちは笑いながら返す。その健気さを、結以斗は先ほどの自分と重ねた。視線に気付いたらしい女の一人が、結以斗をちらりと見る。もっさりとした前髪や眼鏡を一瞥し、彼女はすぐに結以斗を視界から追い出した。
歩いていく彼らについていく気にもならず、結以斗はその場で立ち尽くす。ぽんと肩を叩かれ振り向くと、カバンを肩にかけた菅原がいた。
「あれ、拓だ。今日授業いなかったのに」
「いたよ。邪魔しちゃ悪いと思って後ろの方にいただけ」
菅原は遠ざかっていく志田の後ろ姿を見る。その瞬間、志田がふとこちらを振り返った。隣の女に話しかけられ、彼はまたすぐに前を向いてしまったが、一瞬でも自分の方を気にかけてくれたのだと思うと胸が苦しくなった。
「やっぱり、結以斗あいつのこと好きだろ。どこがいいのか俺には分かんないけど」
「んー、どうなんだろうな。親切にしてやっても感謝らしい感謝もされないし、会話を続けようともしてくれないし、明らかに嫌な奴なんだけどなあ」
「ま、結以斗がいいならそれでいいよ。飯行こう」
菅原と共に歩き出すが、前を行く志田たちの姿はもう見えなくなっていた。
***
七月末ともなれば暑くなるが、バーの中はひんやりとした空気がスモークと共に流れている。
「ほんと、なんであんな奴好きなんだろ」
結以斗はカウンターに肘をつき独り言を漏らした。すると、三十代の若いマスターが振り返る。
「例の大学の友達?」
「友達って言えるかな、あれ。俺が一方的に話しかけてばっかりで」
あれからというもの、春学期が終わるまでずっと結以斗は志田を追いかけ続けた。ゼミでは相変わらず彼の進捗を確認し、困っていたら手助けする。被っている授業では極力彼の近くに座り、課題や試験について話しかける。
我ながらよくあんな追っかけのようなことをするものだと呆れているところだ。
「あんなの、あいつの周りをウロウロしてる女たちと変わらないのにさ。まあ、あの女どもにイラつくのも同族嫌悪ってやつなのかな。俺、何がしたいんだろう」
はあーっと特大の溜め息をつくと、マスターがグラスを拭きながら笑った。
「その人を落としたいんじゃないの? ユイって一度落として連れ帰った人と二回目はないよね」
マスターの知的な切れ長の目が、結以斗をしっかり捉える。
「そうなのかなー。でも難易度ハードすぎるって。ここなら同類の男しかいないし、こんなキメたカッコしてるけどさ、大学なんて周りほとんどノンケで、俺もあそこではダサダサ男子で……」
「大学でもその格好したら?」
「やだよ。女が寄ってくるのめんどくさい」
「じゃあやっぱり、わざとハードモードにしてゲームを楽しんでるんだ」
「マスターの意地悪。俺があいつに構うのは純粋な優しさだって思わないの? そんな下心じゃなくて」
冗談めかして言ったが、結以斗はかなり本気で考えていた。優しくしたところで付き合える見込みなどほとんどないのに、なぜか放っておけない理由。結以斗にとって彼は王様で、その彼が孤立しているところや、課題に手間取る姿を見たくないがために、彼をサポートしているのかもしれない。まるで彼のための王座を必死に磨く従者のように。
「知ってるよ。ユイが優しいのは。真面目で純情で献身的なのも、よく知ってる」
マスターは急に真面目にそう言って、穏やかに笑う。結以斗にとって、彼は今や兄のような存在だ。大学に入ったばかりの春、「お酒飲めないけどいいですか」とこの店に入り込んだ時から、ずっと見守っていてくれる。
その時、入り口のドアが開いて一人の男が入ってきた。威風堂々とした立ち居振る舞いに、結以斗の目が男に釘付けになる。じっと見つめていれば、男は必ずこちらに来るはずだ。結以斗の目論見通り、彼はカウンター席へと近付いてきた。
男が結以斗を落とすために雄の顔を見せる最初の瞬間が好きだ。男を自分の中でイカせる最後の瞬間も好きだ。その最初と最後の高揚を何度も味わいたいがために、毎回毎回違う男と寝ているのかもしれない。
なら、志田のことも一度落としてセックスしてしまえば、もう執着しなくなるのだろうか。
隣に座った男を値踏みするように見ながら、結以斗は志田のことを考えていた。
***
夏休みに入ったと言えども、毎週一回は先輩に招集されて研究室へと出向く。進捗確認や作業指示のミーティングが行われるからだ。最初に言われた通り、この研究室は学生間の連携が多く必要だった。
通常なら文句の一つも言いたくなるところだが、志田に会う口実ができるため、結以斗にとってはむしろ僥倖だ。
汗ばんだTシャツの彼は、しょっちゅう暑さに舌打ちをする。季節にまで不遜に悪態をつくのが、いかにも彼らしかった。
しかしゼミのミーティングも、八月中旬のお盆ばかりは一旦休みとなる。
結以斗もその期間を利用し、千葉にある実家マンションへと帰ることにした。土曜の夜のように飾りすぎず、大学に行く時のようにわざとダサくすることもなく、眼鏡を外して前髪を適度に後ろに流した自然体で。
そこで、少し驚きの話を聞くことになる。
「そういえばお父さん、再婚するんだって」
本当に世間話のように、夕食の席で母がそう言った。
「ど、どんな人と?」
戸惑う結以斗の隣で、実家に住む浪人生の妹、結以華がもごもごと喋り始める。
「きれーな人だったよ」
「お前、会ったの?」
「うん。だって私、前からたまにお父さんに会いに行ってるし」
「あんたもたまには会いに行ってあげたら?」
母はのんきにそう言って味噌汁を啜る。離婚した夫と会うように息子に勧められるほど、彼女はもう吹っ切れている。昔からどこかドライなところがある人だった。
両親の離婚後一度も会っていない父。記憶の彼方の彼は頼りなさげに笑っているが、その顔すらも実は曖昧になっている。
「私が連絡先教えてあげるよー」
妹の声に、結以斗はごくりと口の中の白米を飲み込んだ。
***
九月に入ったというのに猛暑は全く和らがない。うだるような暑さの中、結以斗は人ごみに流されながら、いつものバーへ避難した。
「あれ、今日は早いね」
カウンターの向こうで、ボトルを持ったマスターが微笑む。
「うん、人と会ってたから」
「男の人? ここに同伴はしなかったんだ?」
「男は男でも……父親だし」
「あれ? でもユイのところって」
「うん、離婚してる。父さんが再婚するって聞いて、久しぶりに会ってきた。再婚相手の女の人も一緒で、まあ、幸せそうだったよ」
いつも通りマスターのおすすめを注文し、カウンターへ突っ伏した。
「そう言う割に、あんまり調子良くなさそうだけど。お父さんが自分たち以外の誰かと幸せそうで寂しい?」
「んー、違う。なんていうか、思ってたのと違って、戸惑ってるっていうか」
十年以上ぶりに会った父は、全く知らない人のように見えた。年を取ったからと言えばそうなのかもしれないが、あの頃感じていた頼りない空気がほとんどなかったのだ。
バーに直行することを決めていたので、前髪を綺麗にあげて洒落た格好をしていたら、彼は「イケメンになったなあ」と驚いた。
結以斗は照れながら、彼の隣に座る女性をちらちらと観察していた。会社の取引先同士で知り合ったという再婚相手の彼女は、「この人の息子とは思えない」と結以斗に笑いかけてから、父のことを「でもこの人も、いざとなったら頼れる人だから」と褒めた。
いつも母の前で言うことを聞くだけだった父が、あの温厚そうな女性相手だと頼れる人に変わるらしい。それがなぜか衝撃だった。
「俺たちの知ってる父さんって、父さんの一面でしかなかったのかなって。相手次第で全然違う顔になるのって、なんか不思議な感じだよな」
「大学でいつも全然違う格好してるユイがそれを言う?」
マスターの苦笑いに結以斗は「まあね」と曖昧に返した。
家では孤独になり、仕事の成績もままならなかった父と、今日会った血色のいい彼を比べる。
「どうして母さんに言い返さないの?」
「だって喧嘩するの面倒じゃないか。母さんに任せてた方が楽だよ」
子供の頃、彼は結以斗にそう言って、頼りになる姿など見せてくれなかった。なぜ、あの再婚相手にはそれができるのか。
胸に溜まった重い気持ちを流すように、結以斗は次から次へとアルコールを口に運んだ。
カウンターでマスター相手に父についての愚痴を零していたはずなのに、気付けば知らない男に腕を引かれて夜の街を歩いていた。
「どうしたの?」
駅の近くで立ち止まった結以斗に、男が首を傾げる。三十歳前後だろうか。結以斗を心配そうに見てから、彼は周囲の視線をキョロキョロと気にした。明らかに好みの男ではない。
なぜこの男と店を出たのかも覚えていないが、無茶な誘いには必ずマスターが仲裁に入ってくれるはずだ。それがなかったということは、結以斗自ら承諾して彼とここまで来たのだろう。普段の結以斗なら絶対にありえないことだが、今夜は父のことで飲みすぎてしまったようだ。
「その、やっぱり今日はあまりそういう気分じゃなくて」
「え、でも、店では乗り気だったじゃない」
「今日はちょっと飲みすぎてたから」
そんな押し問答を、その場でかれこれ十分ほど続けた。通行人がすわ揉め事かとコソコソ視線を送ってくるが、そんなことは気にしていられない。今日はさっさと帰りたかった。と言うより、時計を見ればもう終電が近い。このままだと、電車がなくなったことを理由にホテルへ連れ込まれるだろう。
その時、通行人の中に見知った人の姿を見つけた。
志田。どうしてこんなところに。
その疑問は彼の周りにいる人間を見ればすぐに解決した。サークルの飲み会がこの辺りであったのだろう。駅に向かうために数人でやってきたというわけだ。
ノースリーブから素肌を惜しげもなく晒した女が、べったりと志田にくっ付いている。
今日再会した父のこと。目の前にいるしつこい男のこと。そして志田に纏わりつくあの女。
酔った頭の中に色々なものが押し寄せて、結以斗の中の糸がプツリと切れた。手首を思い切り振り回して男の拘束を逃れると、一目散に志田の元へ駆け寄る。
「志田!」
くっ付いていた女を引き剥がして彼の腕を掴んだ。
「志田、頼む、助けてくれ」
「は? あんた、誰?」
「このイケメン、雅哉の知り合い?」
そんなことを話している間に、背後からあの男が近付いてくる。それを見て志田も何かを察してくれたらしい。
「あの、し、知り合いがいたから」
男に向かって結以斗がそう言うと「こいつに何か用?」と志田が凄んだ。明らかにノンケの集団を前に、男はオドオドするばかりで何も言えず、その場を離れていった。
「ありがとう。あの、俺――」
「桐崎だよな? その声」
「う、あ、よく分かったな」
「いつも話しかけられてるから嫌でも声覚える」
結以斗は「だよな」と笑いながら、彼を掴んでいた手をパッと離した。気が付けば、サークル仲間全員の視線が結以斗に集中している。
「雅哉、その人も次の店一緒に連れてく?」
どうやら彼らは帰るところではなく店を変えるところだったようだ。今夜はオールのつもりだったのだろうか。
そこで慌てて腕時計を見る。
「あ、終電の時間だから、俺は――」
その場から逃げようと歩き出したが、手首を思い切り掴まれて身体が止まる。
「おい、助けたんだから説明しろよ」
「電車なくなるから、今度ゼミで――」
「じゃあ俺も帰る」
志田の言葉に、傍にいた女が「ええ〜っ」と不満の声を上げる。
「んだよ、うるせーな。酒飲むのに俺がいようがいまいが関係ねーだろ」
彼女たちにとっては大いに関係あるはずだが、志田はそれを無視して結以斗の手を引っ張る。
「電車なくなんだろ? 早く歩けよ」
どうして急にこんなことに。彼に引きずられるようにして駅へ向かいながら、結以斗は酔った頭で懸命にこの状況について考えた。
説明しろと言われても、そのためにはまずカミングアウトが必要だ。そんなことできるわけがない。
幸いにも電車は満員で、会話をするどころではなかった。人ごみに流され、意図せず志田と身体が密着する。車内は冷房が効いているはずなのに、彼と触れ合っている部分が燃えるように熱い。彼を誤魔化すためのうまい説明を考えなければならないのに、緊張と酒のせいで頭が働かなくなっていた。
「お前、酔ってんのか?」
「え……?」
「顔真っ赤だから」
俯いた瞬間、さらに人が圧縮されてくる。これ以上は無理だと思っても容赦なく押し潰され、結以斗は志田の肩口に顔を埋めるようになってしまった。今ここで顔を上げたら、彼と至近距離で見つめ合うことになってしまう。結局結以斗はそのままの姿勢で電車に揺られ続けた。
やっと人が減り始め、身体が軽く触れ合う程度になった時には、もう結以斗の降りる駅が近付いていた。志田が住んでいる場所は結以斗の降りる駅の先だ。「じゃあな」と先に電車を降りれば今夜はそれで終わり。そう思っていた。
「なんで……」
降車した駅のホーム。一緒に降りた志田を前に結以斗はそう呟いた。
「説明しろって言っただろ。何だよ、その格好。騙されてたみたいでスゲームカつく」
「でも、この電車、これが最後――」
そう言った瞬間、無情にも電車のドアがプシューっと閉まった。
「は? お前と話するんだから、お前の家に行けばいいだろ。まさか助けてやった恩人をここに置いてく訳ねーよな?」
傲慢な彼の言葉は、甘い酒のように結以斗を酔わせる。王様の言葉に結以斗が逆らうはずもなかった。
蝉の声をBGMに夜道を歩いている間から、志田の尋問は既に始まっていた。
「大学でダサい格好してんの、あれわざとやってんの?」
「うん」
「じゃあそっちが本当の顔なわけか」
「まあ、髪とかちょっとセットしすぎだけど、こっちの方が素に近い」
「なら大学で素じゃない格好してる理由は? それと今夜わざわざ髪セットしてまで酒飲んでた理由は?」
一気に聞かれると余計焦る。ゲイであるという部分のみを隠せるように、結以斗はとにかく言葉を探した。
「大学では地味な格好の方が面倒がないから。志田だって、女に話しかけられてうっとおしそうにしてるだろ? ああいうの避けたいし、地味で無害そうな方が男友達も作りやすいし」
もう一つの理由はかろうじて喉の奥に留めた。万が一土曜の夜に男といるところを見られても、大学の知り合いにバレないようにするため。もっとも、今夜は自ら志田に助けを求めたせいでバレてしまったわけだが。
「今日ちょっといいカッコしてた理由は、父さんに会ったから。子供の頃親が離婚して、久しぶりに会うことになったからビックリさせたかったんだ。で、ちょっとセンチメンタルな感じになって、毎週行きつけのバーで飲んでたら、変な人に絡まれた。ホント助かったよ」
一部を隠したが、話はしっかり繋がっているはずだ。志田からの反論が来るより先に、二人は結以斗のマンションに辿り着いた。
「少し散らかってるけど、ちょっと物どかして布団敷くから」
そう言いながらテーブルを寄せ、周りのものをかき集めていると、ノートパソコンが目に入った。
「そうだ、この前志田が文字化けするって言ってたやつ、原因分かったよ」
相変わらず彼のデバッグ担当をしている結以斗は、テーブルに乗せたパソコンを開いた。
「ちょうどいいから今説明する。飲み物はお茶か水かコーヒーどれがいい?」
パソコンにパスワードを入れ、立ち上がりを待たずに廊下のキッチンへ向かう。志田が「何でもいい」と言うので、水のペットボトルを二人分冷蔵庫から取り出した。他に何か出せるものはないか探したが、そもそも深夜一時近い時間に食べるのもどうかと思い直す。
「水でいい?」
聞きながら部屋に戻ると、結以斗のパソコンに手をかけた志田がハッとこちらを見た。その目は大きく見開かれている。パソコンの画面には一枚の写真が映し出されていた。
「デスクトップ、汚いなと思って……何だよ、これ、俺のサークルの――」
言い訳がしたいのか怒りたいのか中途半端な声色で、志田の唇が戦慄く。いつか彼のUSBメモリからコピーした写真。何でもかんでもデスクトップに置く癖が災いした。
「説明しろよ」
「あ、えっと……」
さっきはうまく話を作れたのに、今は完全に思考が停止してしまった。ついさっきクーラーを稼働させたのに、部屋はまだ蒸し暑く、掌にじっとりと汗をかく。
「ストーカーかよ。さっきの男も、つまりそういうことか? 毎週行きつけのバーってそういう場所? 男同士の痴話喧嘩に俺は巻き込まれたんだよな?」
胡座をかいた志田に睨み上げられながら、結以斗は何か言おうと口を開いては閉じる。見かねた志田は、舌打ちしてから立ち上がった。
「反論しろよ。しないなら、お前がホモで俺の写真集めてたってことでいいんだよな? お前、俺のことそういう目で見てたわけ?」
考え得る中でも最悪の事態。彼の言うことに何も言い返すことができない。何を言おうとも、何も言わなくとも、志田との関係はこれで終わりだ。それならば。
「俺は……志田がずっと好きだった。ていうか、好きじゃなきゃあんなに話しかけないだろ」
「……んだよ。あんなダサい格好して、友達みたいなツラして……騙された。サイアク」
彼はどさりとベッドに腰を下ろし、顔を手で覆った。
「もう話しかけてくんなよ、この嘘つき野郎」
これで終わり。いや、まだだ。結以斗の中で何かが暴走する。
「話しかけるの、やめないって言ったら?」
ガバッと顔を上げた志田の顔は、怒りで眉がつり上がっていた。
「は?」
「一つ、お願い聞いてくれたら……もう話しかけるのもやめる」
手に持っていた水のペットボトルをテーブルに置き、音もなくベッドにいる志田に近付いた。
「一回だけでいいから、セックスしよ?」
「な……!?」
「俺、多分一回したら満足すると思うんだ。他の人とも、一回きりだったし」
ベッドにギシリと膝を乗り上げても、目の前の志田は完全に固まってしまっている。今まで数々の男を誘惑してきた全経験を使って、結以斗は彼を落としにかかった。
「俺が突っ込まれる方だから安心して。目瞑ってれば女と変わんないって。ちゃんと気持ち良くなれるから」
彼の首筋に息がかかるくらいの距離で囁き、ジーンズの上から彼の股間を撫でる。突き飛ばされて「気持ち悪い」と罵られる覚悟はあった。だが、志田はこの展開に硬直して言葉もないようだ。
引かれてる? やっぱりノンケは無理か。
そんなことを考えると、結以斗も少し冷静になった。
「俺、シャワー浴びてくるから、嫌なら俺が戻るまでにこの部屋出てって」
おそらく彼はいなくなってしまうだろう。分かっていて、最後の判断を彼に委ねた。
生温いシャワーを浴びて汗を流しながら、結以斗はベッドに呆然と座る志田の姿を思い出していた。
騙されただって? 見た目が違うだけで、彼への態度や言葉に嘘はなかった。
友達だって? こちらから一方的に話しかけるだけの関係は、友達どころか彼に言い寄る女と同程度だったはずだ。
彼がなぜあそこまでショックを受けているのか、考えても理解できない。そしてその答えは得られないまま、彼との関係は終わるのだろう。
それでも、最後にもしかしたら楽しめるかもしれないという一縷の望みにかけて、自身の後ろを拡張しておいた。受け入れる準備をしたところで、部屋に戻ればそこはもぬけの殻だろうに。
沈んだ気持ちで洗面所を出て部屋へ戻る。
結以斗の予想に反して、志田はまだそこにいた。さっきから微塵も動いていないようだ。上半身裸のせいで、クーラーの冷気がヒヤリと肌を撫で、背筋がゾクリと震えた。
「……まだ考え中? それとも、いいの?」
彼の目の前まで来て、その頰に手を添える。ゆっくりと顔を近付けても、彼は抵抗しない。そのまま彼の薄い唇に自分のそれをふわりと重ねた。
これまで結以斗が夢想してきた世界では、彼の方から強引に奪うような口付けをされてきた。だが現実の彼は完全に受け身で固まっている。
そっと顔を離し、焦点の定まっていない彼の瞳を覗き込む。
「気持ち悪かった? でも女とキスすんのと変わんないだろ?」
結以斗はそこでベッドから一度離れ、カバンの中をゴソゴソ探る。取り出したのは四角い小さな袋に入ったコンドーム。
「あのさ、無理かもしんないけど、なるべくいつも女にしてるみたいにやってくれよ。なんかそんな無反応じゃ、人形相手にしてるみたいだ」
彼の手にゴムを握らせて隣に座り、期待の目で見つめる。
「いつもみたいにって、言われても――」
男相手は初めてだからか、彼は酷く緊張しているようだ。
「後ろ、さっきシャワー浴びた時解してあるから、女と同じとまではいかないけど、大丈夫なはず」
その言葉に安心してくれたのか、彼は自分のTシャツを素早く脱いだ。薄く筋肉のついた彼の身体についつい視線を持っていかれる。目のやり場に困って少し上を見ると、彼と目が合ってしまった。
彼は小さく舌打ちし、結以斗をベッドに押し倒す。彼はそのまま性急に結以斗のズボンに手をかけた。
抱き合ったり、愛撫をしたりすることもなく、目的だけを達するための最短手順。下着ごとずり下ろされ、結以斗の萎えたモノが暴かれた。
女と違う部位をあまり長々と見せたら、彼の気が変わってしまうかもしれない。結以斗は慌てて彼のジーンズのベルトを外し、同じように脱がせた。
「勃つ、かな?」
男相手に彼が勃たなければどうにもならない。結以斗は彼のそこに指を這わせ、やわやわと扱き始めた。
夢にまで見た、好きな人の性器の感触。彼からの愛撫は一切ないのに、彼のそこを握っているだけで、結以斗の下半身の温度が上がっていく。
「やっぱ、触られたら勃つよな」
固く成長した彼の先端をクニクニと刺激してから手を離す。
「ゴム、付けて」
結以斗の言葉に、志田は慌ててベッドに放り出されていた物体を手にした。さすがにそこは女とする時と同じだろうに、彼はゴムを付けるのでさえどこかぎこちない。彼がもたついている隙に、結以斗は自身の後ろにローションを塗り込んでおいた。
「あ……後ろ向きの方がいいよな」
緩く勃っている自身の性器を志田から隠すように、結以斗は四つん這いになった。彼の手が結以斗の腰に添えられ、その瞬間を待ち侘びる。彼の先端が慎重に結以斗の後孔に当てがわれたかと思ったら、それはじりじりと中に入ってきた。
イメージしてたのとなんか違うな。
それが率直な結以斗の感想だ。彼はもっと無理矢理に近いほど自己中心的なセックスをすると思っていたし、そんな手慣れた扱いを期待していたからだ。
解された結以斗の中は、彼の欲望を根元まで咥え込んでいる。はあはあと震える呼吸を整えた志田は、恐る恐るといった風に腰を前後に動かし始めた。やけに遅い動きに、男同士だからやる気がないのかとも思ったが、彼のモノは萎えるどころかさらに大きくなっている。
ズブリ、ズブリと何度か大きくストロークしたその時。
「……っあ」
呻き声が聞こえ、腰を掴んでいた彼の手が強張った。結以斗の中、抽挿を続けながら彼の昂りがビクビクと脈打っている。動きが止まったかと思ったら、彼は結以斗から自身を引き抜いた。
まさかと思い振り返ると、バツが悪そうな顔をした志田がコンドームを外すところだった。
「も、もうイッた?」
彼の返事を待たずとも、外されたゴムを見れば一目瞭然だった。三擦り半とまではいかないが、はっきり言ってしまえば早漏だ。結以斗の方はまだ完勃ちにすらなっていない。
「あー……クソ」
彼は膝を抱えて顔を伏せる。
「あ……男の方が女よりキツいから、まあ、そういうこともあるよな」
なぜこんな風に彼をフォローする展開になっているのか分からない。男相手に彼が萎えて最後までできないよりはマシだが、これは全く予想外のシチュエーションだった。
そう、期待外れではなく、予想外。今まで結以斗の中にあった志田雅哉という人物像からは、こんなぎこちなくて余裕のないセックスは想像できなかった。
確かに結以斗の好みはセックスでも自分をリードしてくれる傲慢な俺様男で、今の彼は全くそのタイプからは逸れてしまっているのに、なぜか彼のこのギャップが気になった。一度セックスしてしまえば執着は消えると思ったが、彼への気持ちは消えるどころかむしろ大きくなった気がする。
「ちゃんと一回したんだから、もう話しかけるなよ」
彼の言葉に「ああ、そういうことか」と納得し、浮付いていた気持ちが急降下した。彼は早く済ませたかったのだ。快楽を堪えきれなくて早く出してしまったのではなく。
「俺、まだイッてないのに……」
「知るかよ」
彼はさっさと脱ぎ捨てた服を着こもうとしている。結以斗はむくりと起き上がると、放置されていた使用済みのコンドームをサッと回収した。
「じゃあいいよ。一人でするから」
「おい、何して――」
彼の制止を無視して、ゴムの中に溜まっていた液体をトロリと結以斗自身に垂らす。志田の出した精液を潤滑剤にして、結以斗は自らのモノをヌルヌルと扱いた。
「……っ、はぁ……」
志田にわざと見せつけるように自慰を披露する。垂れてくる白濁をもう一度上まで戻すように、茎を上下に愛撫すれば、そこからはクチクチといやらしい水音が響き始めた。
「志田……ぁ、まさ、や……」
名前を呼ぶと、志田の肩がビクリと震える。彼はまだ上半身裸なのに、Tシャツを持つ手を止めて結以斗に見入っていた。
彼の熱い視線も、今この手の中にある白い欲望の残滓も、全て自分が彼から引き出したものだ。そう思うと全身が熱を帯び、屹立を慰める手が早まった。
「……っ」
握り込んだ手の中で、新たに温い体液が漏れる。止めていた息を吐いてから掌を見ると、泡立った志田の精液の中、出したばかりの白濁が目立っていた。
「はは……、混ざっちゃった」
挑発するように志田を見る。彼は結以斗に固定されていた視線を慌てて外すと、立ち上がって服を頭から被った。
「ふざけんな。ホモの変態性欲なんかに付き合ってられるか」
彼は服に腕を通すや否や、床に転がっていたカバンを肩にかける。
ああ、これで本当に嫌われたんだ。
身体の熱が急速に冷めていく。彼は最後に一度だけこちらを振り返ってから、逃げるように玄関から出て行った。
もう彼に話しかけることはできない。彼が孤立していても、作業に手間取っていても、手を貸すことはできなくなったのだ。たとえ彼が裸の王様として転落していくことになったとしても、その様を見ているしかできない。
朝から晩まで家族の誰とも会話せず、仕事からやつれて帰ってきた父の姿をなぜか思い出し、結以斗は丸くなって膝を抱えた。