王座を君に 後編 | fDtD    
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後編 ―志田雅哉―

 志田雅哉には二つの顔がある。
 外ではいつも怖いしかめっ面をして、人との会話は素っ気なくあしらう。傍から見ればそれは傲岸不遜そのものだろう。顔がいいからといってチヤホヤされているだけの偉そうな奴だ――そう嫌われているのも知っている。
 周囲にこんな態度を取り始めたのは高校生になってからのことだ。女子から話しかけられるようになり、自分の見た目がそこそこいいことを自覚した頃、彼女らの相手をするのが面倒で冷たく当たってみた。
「うるせーな、どけよ」
 するとどうだろう。相手を威嚇するような強い態度に出れば出るほど、周りは皆雅哉に気を遣うようになった。女だけでなく男も、ビビらせれば相手は下手に出るということが分かってしまったのだ。女は相変わらずうっとおしいが、冷たくされて怒ることもなく、付き纏いも少し軽くなった。
 これは便利だ。きつい顔と態度は、雅哉の人生を楽にする魔法の道具になった。半ば脅すようにして他人からの気遣いを得るこのやり方が、我儘な子供の振る舞いだということは分かっている。それでも、楽な方へ一度落ちてしまえば元に戻るのは難しい。
 傲慢な顔の裏にある本当の雅哉は、人付き合いが下手で逃げているだけの臆病者だった。いつかは自分も表の仮面を脱ぎ捨てて、真正面から誰かと向き合える日が来るだろう。そう思い続けてきた。
 しかし、長いこと付けたままになっていたこの仮面は、顔にくっ付いてしまって離れる気配がなく、まだこんな生活を続けている。

 そして今もまた、雅哉は逃げていた。もう終電もなくなった真夜中、セミがまばらに鳴く夜道を早足で。
 電車がなければ家に帰ることはできない。タクシーに乗れるだけの金は財布の中に入っていない。サークルの知り合いの家は大学の周りにいくらでもあるが、自分から彼らの家に転がり込んだことは未だかつてなかった。
 女はどうせ雅哉を自分のアクセサリー程度にしか思っていない。彼女らは見た目のいい雅哉を手に入れることで、他の女からの優越感を得たいだけなのだ。恋人になれば優しい素顔を自分だけに見せてくれると勝手に信じている。
 そして、男は雅哉が相手にしなかった女のことしか見ていない。そんなおこぼれがなければ、彼らは愛想のない雅哉と関わろうとは思わないだろう。
 だからこそ、あの桐崎結以斗という男は不可思議だった。雅哉の周囲にいる男とは違い、彼の見た目は女受けなどまるで気にしていない。どれだけ冷たくしても、まるでゾンビのように何度も向かってくる様は、雅哉の周囲にいるしつこい女と似ているが、桐崎は男だ。何が目的で雅哉と親しくしようと思ったのか、その理由は皆目見当がつかなかった。
 だが、それも分かってしまえば何てことはない。桐崎の行動原理は、あの女たちと同じ色恋だった。女たちの行動パターンと似ていて当たり前だ。
 もしかしたら、あの男こそきちんと向き合える最初の友人になるのかもしれない。そんなことを考えていた自分が馬鹿みたいだった。わざと変な格好をして、下心を隠してゼミの手助けをして。全部、騙していたのだ。
 ただでさえイライラしているのに、追い打ちをかけるように汗が吹き出して不快感を増幅している。雅哉は駅の近くにあるネットカフェに入り、個室ブースでやっと一息ついた。
 パソコンを使うわけでもなく、リクライニングチェアを倒して目を瞑る。もう冷房の効いた室内だというのに、まだ身体の奥に熱が残っているような気がした。
 駄目だ。思い出すな。
 もう一人の自分が警鐘を鳴らす。だが、雅哉の瞼の裏に、先ほど見た光景が勝手に再生され始める。
 桐崎結以斗。大学での姿にしろ、さっき知った本当の姿にしろ、彼はどこからどう見ても男だ。雅哉程ではないが平均よりも高い身長を持ち、触った感触も明らかに男の骨格だった。
 それなのに、たまに見せる表情がどこか中性的で、思わず目を奪われた。これまで自分がゲイだなどとは微塵も思ったことがないのに、そちら側へ引きずり込まれそうになるほど。いや、彼の中で射精できてしまった時点で、もう引きずり込まれたと言っていいだろう。
 嫌なら出て行っていいと言われたのに、なぜあの部屋に残ってしまったのか。
 一回してくれたらもう話しかけない――あんな交換条件は最初から眼中になかった。同じゼミであと一年半過ごすなら、何をしようとどうせまた話しかけられるに決まっているのだから。
 なら、なぜ彼との行為を受け入れたのか。
 セックスすることで、あの男が他に隠している顔を暴きたかったから?
 手酷く犯すことで、騙されていたことへの怒りをぶつけたかったから?
 分からない。どちらの目的も達成できていないどころか、むしろ雅哉の隠していた無様なセックスを彼に見せる結果となった。
 別れ際に投げ付けた酷い言葉で、彼を傷付けた。前髪も眼鏡もないせいで、彼の怯えたような目がよく見えてしまったのだ。今はただ、その苦味だけが強く残っている。


***

 翌火曜の夕方。
 いつも通り研究室入り口近くのテーブルに座り、ミーティングの開始を待つ。奥のデスクにいる谷口という先輩は、雅哉に話しかけることもなくカタカタとキーボードを打っていた。世間話は好きではないので、新歓で嫌味を言っておいて正解だ。
 開始時刻を二分ほど過ぎた頃に、桐崎と菅原が部屋にやってきた。この前見た姿とは全く違う、ぼさぼさの長い前髪に変な眼鏡。その姿になぜかほっとする。
「おつかれさまです」
 彼らの挨拶に合わせて、谷口はやっとこちらのテーブルに来た。
 いつもなら桐崎は雅哉の隣に座る。しかし、今日の彼は雅哉から少し離れた斜め前に、菅原と並んで座った。もちろん、彼は一切雅哉に視線を寄越さない。というより、前髪と眼鏡のせいでどこを見ているのか分からないのだ。
 いつもと違う布陣に谷口が少し戸惑う気配がした。菅原には驚いた様子がないが、桐崎から事前に何か聞いているのかもしれない。
 悶々とする中、谷口はそれぞれに現在の進捗を聞き始めた。

 結局ミーティングの間中、桐崎は完全に雅哉を無視していた。もう二度と話しかけない――あの約束通りに。
「おつかれさまでしたー」
 挨拶と共に桐崎は菅原と席を立つ。雅哉もガタリと立ち上がったが、彼らは先に部屋を出た。谷口から何か言いたげな視線を感じ、どこか居心地が悪くなる。何かあったのかと聞かれるより先に、雅哉は研究室を後にした。
 廊下に出ると、素肌にムッとした暑さが絡みつく。生温い空気の向こうに、桐崎たちがのんびり歩いているのが見えた。
「拓、今日この後一緒に作業しない? さっき言われたやつ、一人でできる気がしない」
「自分で作らないとならないとこ、結構多そうだしな」
「じゃあ拓の部屋で」
「もしかして結以斗の部屋、また散らかってんの?」
「うっさい!」
 菅原とじゃれ合う桐崎は、楽しそうでリラックスしている。雅哉と話す時の彼は、いつも言葉を選ぶように慎重だった。毎回冷たく接していたため、彼がそんな態度になるのも当たり前のことだ。
 あれが本当の友達同士というものなのだろう。彼と雅哉の関係は、あの親密さに遠く及ばない。彼と友達になれるかもしれない――そんなことを考えていた自分が酷く惨めだった。
 その時、携帯が振動して思考が中断される。
『この後真吾たちと飲みに行くけど、一緒に行かない?』
 メッセージの主は今井という同じサークルの女だ。まだ二年生だが、彼女は一浪したので同い年。雅哉は即決で『行く』とだけ返した。
『メディア前集合だけど今どこ? 家?』
 それにはもう何も返さず、指定されたメディアセンター前を目指して歩き始める。すぐ着くのだから、わざわざ事前に返信してやる必要もないだろう。
 理工学部のキャンパスから十分ほど歩けば、学部一、二年生のキャンパス内にある待ち合わせ場所に辿り着いた。
「あ、雅哉、久しぶりー」
 そう言いながら同じ三年の柏木という女が駆け寄ってくる。文系の学部は三年に上がってから遠く離れたキャンパスに移動しているため、会う頻度が下がっていた。
「ああ」
「そんだけ!?」
 彼女がまだ何か言おうとした時、輪の中から先ほどメッセージのやり取りをした今井が声をかけてきた。
「里奈ー、他の皆は? まだ電車?」
「え、ちょっと待って」
 今井の指示で柏木は携帯を確認し始める。どうやらまだ合流予定のメンツが集まり切っていないようだ。柏木が少し離れて電話をかけ始めたのをいいことに、今井が雅哉の隣に来る。
「今日どこいたの? 家にしては早いね」
「ゼミ」
「夏休みじゃん! 真面目~」
 背中を叩いてからかう振りをしながら、彼女はしっかり雅哉の腰にタッチしてくる。そこに電話を終えた柏木がやってきて、雅哉の身体を引っ張った。
 女たちが自分を取り合う様子を見ているのは、やはり少し気分がいい。ただし、この女たちを真剣に相手にしようという気は毛頭なかった。雅哉の好みはもっと賢くて落ち着いた女性だ。しかし、そういう女は絶対に雅哉のところへは回ってこない。頭がいい女ほど、こんなクズ男には見向きもしないのだ。
 その時、生協の方からポリ袋をぶら下げた男二人が歩いてきた。菅原と桐崎だ。結局どちらかの家で作業するのはやめて、このメディアセンターを使うのかもしれない。
 一瞬だけ、桐崎の前髪の奥から視線を感じた気がしたが、すぐに彼は何も見なかったかのように菅原に笑いかける。
 なぜだか無性に腹が立った。雅哉は彼に何も悪いことはしていない。勝手に告白されて、彼の望み通りセックスに付き合ってやっただけだ。それなのに、なぜこんな透明人間のような扱いを受けなければならないのか。
 俺のことが好きだったんだろ? 今まではどれだけ冷たくしても、諦めずに話しかけ続けたじゃないか。俺が話しかけるなって言ったから? なんであんな約束だけでそんな簡単に離れられるんだよ。今だってまだ未練があるくせに。
 行き場のない憤りが、雅哉の身体を勝手に動かした。
「雅哉、そんなガチのゼミでついていけてんの~?」
「ゼミの中の落ちこぼれになってたりして」
 腕を上げて、すぐ隣でキャッキャッと話している柏木の髪に触れる。普段雅哉からそんなことをしたことがなかったため、彼女はびっくりしたように雅哉を見つめた。
「誰が落ちこぼれだ」
 そう言ってちらりと桐崎の方を見ると、想像通り彼の顔はしっかりこちらを向いていた。
 嫉妬しろ。悔しかったら、また前みたいに必死に声をかけてこい。
 心の声を彼にぶつけるが、もちろん応答はない。彼は菅原に話しかけられて、すぐに建物の中へと消えて行った。


***

 夏休み中のゼミでは、結局あれから桐崎に話しかけられることはなく、九月末になると新学期が始まった。
 ゼミのある火曜日は大学に来ることが決まっているため、その前に何か授業を取ろう。そんな気持ちで授業を選び、小さな教室に入る。
「え!? 桐崎何それ!」
 部屋に足を踏み入れるなり、そんな声が聞こえた。並んだ机の端の方、座った誰かを囲んで何人かの男が集まっている。輪の中心に座っているのは、桐崎と菅原だ。
「んー、イメチェン?」
「いや、チェンジしすぎだろ。眼鏡は? コンタクトにした?」
「うん」
「髪は切ったのか?」
「前髪を後ろにやってるだけ」
 ここからでは桐崎の後ろ姿しか見えない。しかし会話の内容から何となく察しがつく。彼はやめたのだ。あの変な前髪と眼鏡を。
 あいつは俺たちを騙してたんだぞ。なのに何で。
 楽しそうに桐崎を囲む男の集団を睨む。見るからにオタクっぽい者、垢抜けた者。皆桐崎を遠巻きにするでもなく、怒るでもなく、笑っている。
 顔も良くて人当たりもいい桐崎の周りには、たくさんの友人。
 顔は良くても態度が最悪の自分の周りには――
「雅哉、座んねーの? な、金曜の飲み会来るよな? お前が来ないと今井ちゃん来ないんだよ」
 耳障りな音を立てて椅子に座りながら、同じサークルの男がそう言う。俺は女を釣るための餌じゃない――そんな文句を喉の奥へと押し込んだ。

 授業が終われば、次の五限はゼミの時間だ。今までなら、桐崎がおずおずと近付いてきて「良かったら一緒に行こう」と声をかけてきたことだろう。
 だが今はもう違う。桐崎と菅原はさっさと席を立って、他の友人たちと共に教室を出て行った。
 別にトイレに連れ立って行く女みたいなことがしたいわけじゃない。それでも、ここまであからさまに無視されるのが、雅哉のプライドを傷付けていた。
 自らの意思でこんな横柄な態度を取り、一人で過ごしてきたのに。もう話しかけるなと言ったのは自分なのに。今更何がそんなに気に入らないのか、自分で自分が分からない。
 学期始めのゼミは、研究室ではなく教室に集合だ。目的の教室前に行くと、春にここで桐崎と会った時のことを思い出した。
 今日は既に鍵が開いている。中に入ると菅原だけが先にポツンと座ってノートパソコンを見ていた。桐崎どころか、他の学年の学生も誰もいない。皆どこに行ったのかと聞きたかったが、菅原はこちらを一瞥しただけで何も言わなかった。
 また、胸の奥がムカムカしてくる。
 こいつは桐崎の本当の顔を前から知っていたのか? 俺と桐崎の間に何があったかも聞いてるのか?
 雅哉は彼に近い机の上に、バッグをドサッと置いた。
「おい」
 話しかけても返事がない。
「おい、聞こえてんだろ」
「俺に話しかけてる?」
 彼はディスプレイから顔を上げて、わざとらしいほど戸惑った顔を作った。
「この部屋お前しかいないんだから、そうに決まってんだろ? どうかしてんな。このお洒落眼鏡」
「そういう態度で人と話そうって方がどうかしてると思うけど」
 彼は嫌味ったらしく肩を竦める。同い年のくせにどこか老成しているような、見下されているようなこの感じが、以前から気に食わなかった。
「あいつ、どうして急にあんな格好になったんだ?」
「あいつって誰のこと? ちゃんと名前を呼ぼうよ。ちなみに俺は菅原って言うんだけど」
「桐崎のことだよ!」
「結以斗のことなら、自分で直接結以斗に聞けばいいのに」
「お前がずっとへばり付いてて聞けねーんだっての」
「俺がいると話せないようなことなのか? 二人きりで今更何を話すんだよ」
 やれやれとでも言いたげな空気にカチンときた。
「今更って……お前どこまで聞いてんだよ」
「結以斗のことなら大抵は」
「……はっ、お前ら友達じゃなくてホモ達なんじゃねーの」
「そう思いたいなら思えばいいよ。こっちは何も不都合ないからさ」
 高圧的な態度を取れば、いつも周りは下手に出た。しかし、この男にはそれが効かない。何か言い返してやろうとした時、廊下から賑やかな声が聞こえ、ドアがガラリと開いた。入ってきたのは、桐崎とそれを囲む先輩たちだ。
「菅原君、桐崎君のこれ知ってたの?」
 彼らの中心で、整った桐崎の顔が苦笑いになる。
「友達なんだからそりゃ知ってますよ」
「会って最初の一年は隠してたくせに」
 桐崎と菅原が軽口を交わすと、周りも和やかに笑った。大学のこの景色の中で、桐崎の顔がしっかり見えているのが変な気分だ。あの夜の出来事を無意識に思い出してしまう。
 入ってきた集団が散って席に着いていく中、桐崎はやはり菅原の隣、雅哉から遠い方に座った。
「桐崎と菅原は、先月のアレもうできてる?」
 夏休み中に出されたタスクに関して、谷口が彼らに声をかけている。
「はい、二人で一緒に何とか」
「いやー、今年の三年は優秀だ」
 そこで谷口の視線が雅哉に向けられた。だが、彼はこちらに話しかけてはこない。聞かれたところで、どうせ「まだできていない」と答えなければならないので、恥をかかずに済んだと言える。
 しかし、そもそもあの二人の作業スピードが早すぎるのだ。そのせいで、今後も雅哉だけが遅れを取ることになるかもしれない。
 今日桐崎があの顔を出したことで、雅哉の持つ外見というアドバンテージはなくなった。もしこの先、自分だけが作業に遅れるようになるなら、研究室での自分の立場はどうなるだろう。顔もよく、社交性があって優秀な桐崎と比べられて、自分が誇れるものはもう何もない。
 雅哉は自分に劣等生のレッテルが貼られることを恐れていた。


***

 十月頭の土曜夕方、雅哉は大学の前を通り過ぎて桐崎の家を目指していた。彼とあんなことがあってからもうすぐ一ヶ月。自分から折れるのは癪だが、このままだとゼミ内の人間関係や作業進捗で恥ずかしい思いをするかもしれない。これはやむを得ない判断だった。
 学生マンションの三階に上がり、先月訪れた部屋の前で一度深呼吸する。いざチャイムを押そうとしたその時、玄関ドアがガチャリと開いた。
「え……志田?」
 出てきた桐崎はまさにこれから出かけるといった様子だ。チャイムへと中途半端に手を上げた状態の雅哉を見て、彼は目を丸くしている。
「ちょっと、話があるんだけど」
「もう話しかけるなって――
「うるせーな。俺がいいって言ったらいいんだよ」
 半分開いているドアをガッと掴む。中に押し入ろうとするが、桐崎が行く手を阻んだ。
「これから出かけるとこだから」
「毎週行きつけのバーに? 目的は男漁りなんだろ?」
「……だったら何だよ。志田には関係ないし、志田に迷惑かけてるわけでもない」
 彼は唇を噛んで俯いた。その瞬間、彼の髪からふっと甘い匂いがした。これから男を誘いに行こうとしていたのが生々しく伝わってきて、また胸に不快感が湧き起こる。
「性欲解消なら俺が相手してやる」
 そう言った瞬間、桐崎がハッと顔を上げた。彼の大きな瞳に、雅哉自身が映る。偉そうな口調と堂々とした態度の割に、心の中は緊張でガチガチに固まっていた。
「ホモの変態性欲には付き合えないんじゃなかったのかよ」
「交換条件だ。お前を抱いてやる代わりに、ゼミのこと手伝え」
「え……?」
「お前がいた方が早いんだよ」
 悪魔の取引に、桐崎が葛藤しているのがありありと分かる。
「……とりあえず、中で話そう」
 迷った末に彼はドアにかけていた手を離し、雅哉を招き入れた。彼は「とりあえず」と言ったが、雅哉はこの時点で勝利を確信していた。
「俺に身体を売らなきゃならないくらい進んでないのか?」
 部屋に入るなり彼は振り返って尋ねた。
「お前たちが早すぎるんだ。俺は一つ関数を作るたびに、何かしら思い通りに動かないところが出てくる」
「そんなの俺たちだって同じだ。分からないことがあるなら谷口先輩に聞けばいいのに――
「御託はいいから、乗るか乗らないか、どっちだ。お前、俺のことまだ好きなんだろ?」
 我ながら自惚れたことを言っているのは分かっている。しかし桐崎には前回のセックスで格好悪いところを既に見せているため、今更体裁を繕っても仕方がない。
 早く、俺の身体が欲しいと縋ってこい。プログラムを一部直すだけで俺に抱いてもらえるんだぞ。
 目を彷徨わせる桐崎をじっと睨んでいると、彼は意を決したようにコクリと頷いた。
 勝った――彼の赤い顔を見ただけで、ここ最近のイライラが全部吹き飛ぶ。彼に縁を切られたという劣等感は、彼に愛されているという自尊心へと塗り替えられた。
「シャワー、使う? 俺はさっき風呂入ったから」
「男漁りの前に身を清めてたってわけか」
 消えたと思った靄がまた胸の中に戻ってきそうで、慌ててそれを追いやる。
 何も考えないように彼をベッドに押し倒すと、さっき一瞬嗅いだ匂いが強くなった。赤い顔で見上げられると、その色気にクラクラする。まるで自分が本当にゲイになってしまったような気がして、慌ててそれを否定した。これは取引で身体を売っているだけなのだと。
 さっき着たばかりであろう彼のジャケットやスキニージーンズを剥ぎ取っていく。
「あ……、ゴムはちゃんと使って」
 そんなものを持ち歩く習慣はない。黙っていると、下着一枚に剥かれた桐崎が怪訝な顔をした。
「え? 持ち歩いてないの?」
「だったら何だよ」
「いつも生でしてるとか? それ、女の子嫌がらない?」
「お前には関係ねーだろ」
「いや、生でしてるなら余計ゴム付けてほしい。どんなビョーキ持ってるか分かったもんじゃない」
 まるで汚いものを見るかのように言われ、咄嗟に口を開く。
「人を勝手にヤリチンの性病持ち扱いすんな」
「だって、あんなサークル入ってるのって、そういうことだろ?」
 彼はムクリと起き上がってベッド脇にあったカバンを引き寄せる。コンドームを探そうとする彼の手を思わず引き止めた。
「何か勘違いしてるようだから言っとくとな、俺があのサークルに入ってるのは、酒が飲めるからだ」
「酒が飲みたいなら他にちゃんとお酒の同好者が集まるサークルがあるだろ」
「もちろんアルコール研究会とか言うところに最初は行った。でもあそこの奴ら、やたらと薀蓄ばっかり語りやがって、散々話し相手にさせられた後、成人してから来いって言われて……クソ、誰があんなとこ行くかよ」
「だからって、飲みサー?」
「大学一年だった俺には、どうしても居酒屋に紛れ込むための団体が必要だった。成人したって、一人で飲み放題できる店なんて限られてる」
 何をそんなに真剣に弁明しているのか、自分でもよく分かっていない。桐崎の方もビックリしたように雅哉の話を聞いていた。
「それは、分かったけど……飲みサーなんて言ったって、どうせその先もあるヤリサーなんだろ? 女の子侍らせて、飲んで、お持ち帰りして――
「違う!」
 彼の手首を掴む手に思わず力が入った。
「確かに変な期待してくる女はいるし、途中まで送ってやることもあったけど、俺は――
 雅哉はそこで言葉を詰まらせ、いつもの情景を思い浮かべた。
 居酒屋で最後に一番雅哉に近い席にいた女が、店を出た後に一緒に帰ろうと言い出す。女たちの間で何かルールがあるのではないかと思うほど、それはきっちり決まっていた。仕方なく一緒に歩きながら、「ああ」とか「うん」とか適当に返事をして、最後は期待のまなざしを無視して別れる。いつも女を侍らせていると言われる雅哉だったが、これまでに女との経験はゼロだった。
 普段あんなに偉そうにしているくせに、性行為で失敗したら恥ずかしい。もしもそれを言いふらされたら――。臆病でプライドだけは高い自分が、たまに嫌になる。
「志田……?」
 桐崎の綺麗な顔が目に入り、雅哉は我に帰った。
「とにかく、俺はそんな性病持ちじゃない。でもお前がゴム使えってんなら使う」
 ふてぶてしくそう言って、桐崎の手を解放する。彼は小さく首を傾げながらも、自分の手持ちのコンドームを取り出した。
 そうだ、こいつを抱くついでに、これをセックスの練習にしてしまえばいいんだ。
 雅哉の中にふとそんな案が思い浮かんだ。
「今日は俺、ちゃんとイカせてもらえんのかな。三擦り半はさすがに――
「うるさい、黙れ」
 恥ずかしい初体験の話をほじくり返されそうになり、雅哉は慌てて彼の下着を下ろした。出てきたそこは、やはり男のモノだ。前と同じように、彼は自分のそこを隠すようにうつ伏せになった。
「あ、これ使わないと多分入らないから」
 桐崎はベッドの下に手を伸ばし、散らかった荷物の中からローションを持ち出した。彼はそれを雅哉には渡さずに、自分の手に垂らして後孔へと塗り込んでいく。
 こちらへ尻を突き出して穴を広げていく様は、まるで早く入れてくれとねだっているようだ。この前は彼に無理矢理勃たされたが、今日は勝手にジーンズの中がきつくなっていく。
 カチャカチャとベルトを外して前を寛げると、振り返った桐崎が赤くなるのが見えた。
 違う。これはそんな甘いものではなく、単なる取引だ。
 手早く自身の中心を擦って完全に固くすると、彼の用意してくれたゴムを付けた。
「もういいよな?」
 その言葉に、桐崎がこくんと頷く。許しが出るや否や、雅哉は彼の中にゆっくり自身を埋めていった。一ヶ月ぶりのキツい締め付けに、また思わず吐精しそうになる。
 早漏だと馬鹿にされないように――そんなプライドばかりを守ろうとするせいで、今日もぎこちなくゆっくり彼の中を出入りした。
 ふと気が付けば、桐崎は右手を自分の股間に持っていって、モゾモゾと動かしている。自分で自分のそこを扱いているのだ。男なら誰でもする自慰行為と同じなのに、なぜか酷くいやらしいことのように思えた。彼の背中で前が見えない分、余計淫靡な妄想を掻き立てられるのかもしれない。
 今、彼のそこはどうなっているのだろう。自分のこのピストンで、カウパーを漏らしながら感じてくれているのだろうか。
「っ、あ……」
 おかしな想像のせいで、また早々に達してしまう。彼の中から果てたモノを引き抜いて腰から手を離しても、彼はまだそこを擦っていた。
「ん、見な、いで……」
 そう言われても、視線を外すことができない。彼の足がひくっと突っ張って、彼の指の間から僅かに液体が溢れるのが見えた。
「いつまで見てんの?」
 起き上がった彼がティッシュで手を拭いながら言う。彼はぽいっとそれをゴミ箱に放り投げてから、額にハラリと落ちていた前髪を後ろに掻き上げた。そのまま横目で見られると、その色っぽさにどぎまぎしてしまう。
「あの変な前髪と眼鏡、何でやめたんだよ」
「んー、失恋のけじめ?」
「ふざけるなよ」
「ふざけてないけど。見た目ちゃんとしたら、志田に代わる新しい誰かが俺を見つけてくれるかもしれないじゃん? 三年になったら周りも落ち着いた理系女子だけになったから、女が集まってうっとおしいなんてことはないだろうしさ。拓……菅原と相談してそう決めた」
 やはりあの男とは込み入った話もするらしい。今さっき彼と深く繋がったにも関わらず、雅哉と彼の心の距離ははるかに遠かった。


***

 それから毎週土曜になると、雅哉は彼の家に通った。その代わり、ゼミでは以前のように桐崎が話しかけてくれるようになり、詰まったところがあれば一緒にプログラムを検証してくれる。少しずつセックスにも慣れ、雅哉にとっては至れり尽くせりだ。
 十月、十一月、十二月。季節が巡り、世間はクリスマスのイルミネーションで彩られる。
「二十四日、飲み会やろーよ」
 冬休み目前に、サークルの飲み会でそんな話が持ち上がる。カレンダーを確認すると、今年のクリスマスイブは土曜日だった。
「雅哉も来るよね?」
「いや、俺は……」
 口籠ると周囲の視線が一斉に雅哉へと集中した。
「なんでー? 他の誰かと用事?」
「女!?」
 両脇の女がブーブー文句を言う。
「そういうんじゃない」
「じゃあ何ー? 女じゃないなら……男?」
 ギクリとしたところに、畳み掛けるように斜め前の男が話に入ってきた。
「そういえば雅哉、最近同じゼミのイケメンとすげー仲良いんだよなあ」
「イケメン? 嘘、紹介してよー」
「いや、もう女の入る余地がないくらい、相手のイケメン君が雅哉大好きビーム出してっから」
 そこで酔った集団が爆笑する。まずいことになった。雅哉は慌ててビールを煽って、グラスをダンとテーブルに下ろした。
「そんなんじゃねーよ。分かった、二十四日行けばいいんだろ?」
 低い声でそう言うと、皆雅哉をからかうのをやめて、「良かった」と口々に零した。
 一週間くらい桐崎の家に行かなくてもいいだろう。幸い年末年始休みにまで、谷口は大きなタスクを課しはしなかった。
 それに、そろそろ女で試してみてもいいかもしれない。このままだと本当にゲイになってしまいそうで、雅哉は少し焦りを覚えていた。
 クリスマスイブの夜、一緒に帰ることになった女と試しにやってみよう。相手が誰になるかは分からないし、そんなことはどうでもいい。周りにいる女たちを眺めながら、雅哉は密かに心を決めた。


***

 これまで雅哉は普通に男女のAVを見て自慰をし、女との性行為を思い描いて生きてきた。だから、柔らかな女の身体や豊満な胸を前にして、そこが萎えるということもなく、順調に事は進んでいた、はずだった。
「雅哉?」
 ホテルに入り、服を脱がせてまさにこれからというところで固まっていると、今井が首を傾げた。
「ちょっと、やめてよ。私どっか変?」
 彼女が胸を手で隠しながら文句を言う。しかし雅哉の瞳は、目の前の彼女のことなど見てはいなかった。
 今日、自分が桐崎の家に行かなかったことで、彼はどうなっただろうか――なぜか急にそんなことを考えてしまったのだ。雅哉との取引がなければ、彼は土曜の夜にバーへ行く。そんな簡単なことになぜか今更思い当たり、見えもしない今の桐崎の状況を考えたら、身体の熱がスッと冷めた。
「悪い、酔ってるのかも」
 雅哉の萎えたそこを見て、今井は信じられないと言わんばかりに首を振った。
「雅哉お酒強いでしょ。嘘吐き。いっつもそうやってクールに誤魔化して、こうやってホテルに来れば私にだけ優しい顔見せてくれると思ったのに、何も変わんないじゃん」
 怒った彼女はクリスマス用のワンピースを手早く身に着けて、バタバタと部屋を出て行った。終電もない時間だが、彼女がこれからどうするのか――それすらどうでもいい。ベッドの上に裸で取り残された雅哉は、自分の状況を惨めに思う余裕すらなかった。
 のろのろと服を着てから、ベッドサイドに置いてあった携帯を手にする。これから自分が何をすべきか、そもそもなぜこんな気持ちになっているのかも分からず、頭の中がひっくり返ったようになっている。
 今からでも彼の家に行ってみようか。いや、彼が既に家を出ているなら無駄足になる。先に電話で確認した方がいい。
 血の気が引いた指を何とか動かし、彼の連絡先に電話をかける。コール音が一回、二回……しばらく鳴らしても出る気配がない。諦めかけたその時、プツッと回線が繋がった。
『はい……?』
 寝ぼけた低い声は、明らかに桐崎のものではなかった。途端に身体が固くなる。
「あの、桐崎の携帯じゃ……」
『あ、これ俺のじゃないのか。少々お待ちを』
 腰に響くような低音の声。冷や汗が背中を伝う。
『おい、ユイ。電話だ。起きろ』
 電話口の向こうから、聞きたくもないのに会話が聞こえてくる。
『んー、コウさん、まだヤるの?』
『違う、電話だ。こら、どこ触って――
『性夜だから特別サービス』
 耐え切れずに、雅哉は素早く電話を切った。
 年上の男に全てを委ねるような甘えた声。桐崎のあんな声を、雅哉は聞いたことがなかった。どんなに毎週身体を重ねていても。
 しばらく呆然としていたが、時間が経つにつれて怒りの方がふつふつと沸騰し始める。
 俺のことが好きだって言ってたくせに。男なら誰でもいいのか。裏切り者。ビッチ野郎。
 暖房が効きすぎているわけでもないのに、身体中が熱い。次々と湧いてくる怒りの感情をぶつける先もなく、雅哉は一人その熱を抱えて夜を過ごした。


***

 翌土曜日は大晦日。そんなことも気にせずに桐崎のマンションへ行った雅哉だったが、いくらチャイムを押しても彼が出ることはなく、電話も全然繋がらなかった。
 マンション前でイライラしているところに出てきたのが、あのお洒落眼鏡こと菅原だ。彼を見た瞬間に雅哉は舌打ちをした。
「結以斗なら帰省してるけど、そんなことも聞いてないのか?」
 その一言がまた嫌味のように聞こえて、雅哉は自宅に帰ってもまだムカムカしていた。三が日が明けてすぐにゼミでミーティングがあるが、あんな場所では突っ込んだ話もできない。そもそも突っ込んだ話をする必要がなぜあるのかと問われても、答えは出せない。とにかくこの遣る瀬無い怒りのようなものを彼にぶつけたいだけなのだ。
 そんな雅哉とは反対に、久々に研究室で会った桐崎はケロリとしていた。
「志田ー、あけおめことよろ」
 彼は隣に座って普通にパソコンを開く。
「年末は色々あって、土曜は、その――
 しどろもどろに言うと、奥にいる谷口や他の先輩から視線を感じた。大学でこんな姿を見せてはいけない。雅哉は気を引き締める。
「うん、別に毎週って約束でもないしな。大晦日着信履歴あったけど、出られなくてごめん。母さんに大掃除やらされててさ。クリスマスも何か通話記録あったけど、あれは何だった? 酔ってて記憶なくて」
「……ただ、今日は行けないって言っただけだから」
「なら良かった」
 彼はそのままパソコンに向かってしまう。この程度の会話で済んでしまうことなんだろうか。釈然としないが、これ以上ここで話すことはできなかった。

 桐崎とそのおまけの菅原と共に校舎を出た時、見知ったサークルの男が声をかけてきた。あのクリスマスイブ以来、雅哉は彼らの飲み会に参加していない。桐崎たちがいる時は、彼らもあまり話しかけてこないが、今はどうしても話したいことがあるようだ。
「なあ、イブの日、お前今井ちゃんとホテル行ったってマジ?」
「なんで、それ知ってんだ」
「今井ちゃんが、ついに雅哉を落としたって言って、柏木とバトってた」
 女同士の見栄の張り合いで、どうやら雅哉は今井と最後までしたことになってしまったようだ。
「で、お前ら付き合うの? お前がサークルの女と最後までヤるのって珍しいじゃん」
 何と答えていいか迷っていると、斜め後ろにいた桐崎が「先帰るから」と歩き出す。一瞬見えた横顔が、今にも泣き出しそうに見えた。
 目の前の男との会話は面倒以外の何物でもない。だが、あからさまに嫉妬で涙目になった桐崎を見られたのは収穫だった。彼の気持ちはまだ自分に向いている。たとえ他の男と寝ていたとしても。

 いい気分のまま帰宅し、コンビニに夕飯を買いに行こうとした矢先、携帯が電話の着信を告げた。ディスプレイに出ているのは、桐崎の二文字。彼からの電話は初めてだ。少し焦らしてから、ゴホンと咳払いをして電話に出た。
「何か用?」
 雅哉の不躾な一言に、彼が息を呑むのが伝わった。
『用っていうか、話したいことがあって』
 てっきりクリスマスのことを嫉妬で責められると思っていたのに、彼の声の調子には怒りも覇気もない。
『あのさ、土曜のアレ、もうやめよう』
「……は?」
『もちろん、プログラムで分かんないとこあったらこれからも協力するし、ゼミでも普通に話しかける。でも、その代償にセックスは……もういらない』
 急な話に頭がついていかない。桐崎の声はハッキリ澄んでいて、決意が固いことが窺える。
「何……お前が勝手に決めてんだよ。あの取り引きは俺が決めたもんで――
『じゃあ言い方を変える。ゼミのこと色々協力するから、その代わりもう土曜は来ないでほしい。そういう取引にしたい』
「な……」
『もうすぐ期末でレポートや試験だろ? それに、院に行くのかもしれないけど、就活だって一応始まる。ゼミの作業に使える時間が減るけど、俺の助けがなくていいわけ?』
 その点については返す言葉もない。雅哉は必死に反撃の糸口を探した。
「何だよ……それ。お前、俺のこと好きだったんじゃないのかよ。俺が女と寝たって聞いて嫉妬したんだろ? それとも、やっぱり男なら誰でもいいってか? だからクリスマスも、俺の代わりの男とヤリまくってたんだろ?」
『志田が何を言いたいのかよく分からないんだけど、俺と志田は取引でセックスしてただけで、恋人でも何でもないだろ? だから、俺にはお前が女と寝るのを止める権利もないし、俺が他の男と寝たのを志田に責められる義理もない。俺、何か間違ったこと言ってるか?』
 正論だが、面白くない。女と寝たことを怒られて、毎週セックスしに来いと束縛されることを想像していたのに、桐崎の反応は真逆だ。
 突き放された。いや、愛想を尽かされた?
『とにかく、そういうことだから』
 ツーツーという音が耳の中でこだまする。会話が終わったことを認めたくなくて、雅哉はそのまましばらく携帯を耳に当てていた。


***

「志田、おつかれ」
 冬休み明けに大学で会った時、桐崎は前と何ら変わらず声をかけてきた。
「今週のゼミは休みだってさ。卒論と修論で皆バタバタしてるらしい」
 桐崎がそう言うと、隣の菅原が「来年は俺たちが卒論かー」とぼやいた。まるで雅哉も彼ら友人グループの中の一人になっているような、変な感じだった。
 そう、あの土曜の逢瀬がなくなった今、雅哉と桐崎の関係はついに「普通の友達」になったのだ。何も問題はない。最初に雅哉が望んだ通りだ。そのはずなのに、冬の寒さとは違う何かが、雅哉の肌をヒリヒリと痛めた。

 二月になればレポートも試験も終わって冬休みだ。桐崎と会うのも、毎週火曜日のゼミミーティングだけ。このまま、彼とは普通の友達になっていきながら、裏で彼は新しい男を探しているのだろう。
 そんな想像にすぐ耐えきれなくなり、雅哉は彼のマンション付近へと向かった。しかし彼の家の前には行かず、少し離れた場所から建物を見張る。今日は二月最初の土曜だ。彼はきっと出かける。
 想定通り、五時半頃に彼が出てきた。ダークグレーのトレンチコートに身を包む彼は、着膨れする冬でもスラリとして見える。バーに行くには早すぎる気もしたが、雅哉は彼の後をそっと尾けた。
 上り電車に乗って、急行で二十分。作年夏、絡まれていた彼を助けた駅で降りる。やはり目的地はバーだろう。そう思ったが、彼が向かったのは大型雑貨店だった。
 この季節はバレンタイン商材が多数並べられている。若い女性ばかりが群がるコーナーに、普通の男なら近寄らない。しかし、桐崎は何食わぬ顔でその界隈へ入っていった。
 型やチョコレートが並ぶ棚、アルミのカップが並ぶ棚、ラッピング材が並ぶ棚。彼は順にそれを見ながら、吟味して商品を手に取る。冷やかしではなく、明らかに何かを買うつもりだ。
 見た目のいい男が真剣にバレンタイン用商品を選ぶ様は、周囲の女性の注目を集めていた。何も言わないが、皆チラチラと彼を見ている。
 その時、背の高い別の男が売り場へと近付いた。
「あ、タツミさん。今ちょうど選んでたとこ」
 桐崎は男にそう言って微笑みかける。
「おい、初心者でも作りやすいのにしろよ。不味いもの食べる方の身にもなれ」
「トリュフは?」
「ユイに作れるとは思えないな」
 男は高そうな黒のロングコートを着ており、足元にはこれまたしっかりした生地のスラックスが見えている。桐崎と並ぶと、品の良さそうないい男が二人。周囲の視線はさらに露骨なものになっていった。
 彼らを見ていたら、何故だか急に自分の着ているモッズコートが安くて陳腐なものに思えた。女を侍らせて自分の外見を過大評価している、みっともない子供。それが自分だ。
 桐崎が離れていったのは、愛想を尽かされたからだけでなく、他に好きな男ができたからだ。その人のために、こうしてバレンタインのチョコレートを手作りしようとしている。その相手は、今彼と共にいるあの男だろう。雅哉よりもずっと大人で、見せかけではない男らしさがある。
 アウトドア用のバッグが並ぶ中、俯いて品物を選ぶフリをして、彼らの買い物が終わるのを鬱々と待った。
 店を出る頃にはもう八時近くなり、外の寒さも一層増していた。彼らは肩を並べて駅前の賑わう街を抜け、洒落た飲食店がポツポツ並ぶ静かな道へと入り、一つの店の中に消えていった。黒を基調とした外壁の、落ち着いた店だ。窓はなく、中は見えない。
 おそらくここが、毎週桐崎が通っているというバーなのだろう。普通の店なのか、ゲイ専用なのか、それすらよく分からない。
 雅哉にはそのドアを開ける勇気はなかった。今夜桐崎とあの男がどうするのか――そんな想像を振り切るように、寒さの中を一人トボトボと引き返す。雑踏の中を歩いていても、孤独感で身体の内側から冷えて、心まで凍りつくような気がした。


***

 今年のバレンタインは平日だ。それも、ゼミのある火曜日だ。
 研究室に来た桐崎は、片手にさり気なくクラフト紙の小さな紙袋を持っていた。普通に考えれば、イケメンが女の子からチョコか何かをもらったところだと思うだろう。しかし彼はチョコをあげる側なのだ。
「そんじゃ、今日もおつかれー」
 暗くなった夕方、駅へ向かう雅哉だけが先に二人から離れる。
「結以斗、今日飯食ってく?」
「悪い、俺これから用事」
「ああ、いつものバー?」
 背後で桐崎と菅原がそんな話をしているのが聞こえた。やはり、土曜日ではないが彼はあそこへ行くのだ。まだ何やら話し込む彼らの会話はすぐに遠ざかり、十五分ほどで駅に着いた。
 自宅へ向かういつもの下りホームに行きかけて、雅哉はピタリと足を止める。通行人から邪魔臭そうに睨まれる中、雅哉は踵を返して反対側のホームへと降りていった。

 何がしたいのか、自分でもよく分からない。ただ、引っ掻き回してやりたかった。桐崎の思い描く今日という日を。
 この前と同じ道を進んで、黒い小さなバーの前に立つ。この前開けられなかったそのドアは、押してみれば意外と軽かった。
「いらっしゃいませ」
 中はカウンター席がいくつかと、テーブル席が二つ。さらに奥に個室があるようだった。ちょうど開店したところなのか、客はカウンターに一人しかいない。値踏みするような視線に怖気付くが、カウンター客の顔を見てハッとした。この前、桐崎と一緒にここへ来た男だ。
 雅哉はさり気なくカウンター席に座り、手始めに一杯ジントニックを頼んだ。もっとニューハーフのようなママがいて、男たちがオープンにベタベタしているような世界を想像していたが、今は一見普通のバーだ。
「初めてのお客さんですね」
 バーテンの男に声をかけられ、雅哉は曖昧に「ああ」とだけ答えた。バーテンは三十歳前後だろうか。黒髪をオールバックにした、どこか知的な男だ。一人で飲みたいという空気を出せば、彼は雅哉に酒を出してもう一人の男と話し始める。
「今日、ユイは一緒に来なかったんですか?」
 出てきた名前に、グラスを持つ手が震えた。
「どうして?」
「最近毎週ユイがあなたといるから。彼が一人の人と何度もっていうのは珍しいんですよ」
「まあ……マスターにはすぐにいい話ができると思いますよ」
「いい話? あの子についに正式な恋人ができるなら、私としても喜ばしいですが」
 喉を通る酒が、ただ苦いだけの薬品のような味に変わる。グラスを乱暴にカウンターに下ろすと、二人の視線がこちらに向けられた。
「あんた、そのユイって奴とどんな関係?」
 いつもするように、脅すような低い声を出す。恐れをなす者はすぐにヘコヘコしてくれる便利な技だ。
「もしかして、あなたがシダ君、ですか?」
 カウンターの中の男は表情一つ変えずにそう言った。
「マスター、知り合い?」
「ほら、この前のクリスマスイブ、ユイが久々にここに来た時に話を聞いたんです」
 雅哉を無視して彼らの会話が始まり、慌ててカウンターにドンと拳を置いた。
「俺のことじゃなくて、そいつが桐崎の何なのかを聞いてんだよ」
「ユイはキリサキって言うの? 何って言われても、ここで知り合った友達だけど?」
 最大限の力で睨んでいるはずなのに、男は余裕の笑顔を見せた。彼らには、いつもの方法が通用しない。本当は分かっていた。自分が猿山の大将に過ぎないことを。小さな猿の群れを出れば、こんな態度で誰も相手にしてくれないことを。
 雅哉が焦って黙ると、マスターが喋り出した。
「志田君とはもうやめにした、とユイから聞いたんですが、志田君の方にはまだ未練があるようですね」
「……んなんじゃねーよ」
「じゃあここに来たのは、新しい出会いのためですか?」
「俺はホ……ゲイじゃねーっての」
「なら料金は一割増しですので」
 彼はそう言ってニコリと笑った。完全に弄ばれている。イライラする。
 酒を飲んでいた男は、憐憫とも取れる顔で雅哉を見た。
「マスター、この後ユイここに来るんだけど、彼大丈夫?」
「大丈夫じゃないですか? 志田君がユイに用があるわけでもないなら、ユイだって彼とはもう無関係なわけで」
 無関係じゃない。友達だ。いや、友達では不十分だから、最近こうして悶々としているのだ。
「心配しなくても、タツミさんはユイの好みですよ、間違いなく。あの子は絶対に威厳のある大人の男性を選ぶんです」
 その言葉に、雅哉は思わず椅子を飛び降りた。
「嫌味か! どうせ俺は子供だよ!」
 カウンター周りが険悪になったところで、カタンと入り口のドアが音を立てて開いた。そこにいたのは、まさに今話題になっていた人物。
「桐、崎……」
「えっと、どういう状況?」
 桐崎は入り口に立ったまま目を白黒させていた。その手には例の紙袋が所在なさげにぶら下がっている。最早恥も外聞も捨てた雅哉は、ツカツカと彼に歩み寄って紙袋を奪おうとした。
「ちょ、何……!」
「うるせーな、寄越せ!」
 揉み合いになっている二人を見て、カウンターの中でマスターが笑った。
「こ、子供だなあ……」
「マスター、笑ってないで助け……おい、志田、やめろって」
 桐崎を壁際に追い詰め、ついにその手から紙袋を奪う。目的を達成できたのはいいものの、この後どうするかは何も考えていなかった。
「何で志田がここにいるんだよ」
「ユイに未練があるんだって」
「ちげーよ! 未練じゃなくて、そんなんじゃないけど……お前の方から切られたのがムカついてるだけで……」
 言葉を発すれば発するほど、自分の未熟さが露呈していく。
「だからってユイの新しい恋の邪魔? ユイ、こんな子供は絶対やめた方がいいよ。偉そうな態度を取れば、皆が思う通りにしてくれると勘違いしてるガキなんだから」
 横槍を入れてくるマスターをギロリと睨んだ。
「おい、客に対してさっきから何なんだ」
「常連客のユイの方が一見さんの志田君より大事なのは当たり前じゃないか」
 完全に四面楚歌だ。そもそも人数ですでに分が悪い。
「俺は桐崎と二人で話がしたいんだよ。部外者は黙れ」
「俺は、マスターと話がしたい。それ返せよ」
 当の桐崎から冷たく言われ、ガツンと横っ面を殴られたようなショックに襲われる。呆然とする雅哉の手から紙袋を取り返し、彼はさっさとカウンターへ向かった。
「これ、マスターに。手作り」
「どうして急に?」
「急じゃないよ。去年マスター言ってたじゃん。俺の手作りチョコが食べたいって。だからこれ、日頃お世話になってるお礼」
 お礼。つまり、義理チョコだ。手作りなのに、本命ではない。そんなことがあるのか。
 雅哉の頭の中には、言葉の断片のようなものしか浮かばない。
「タツミさんに教えてもらったから、味は大丈夫なはずだよ」
「じゃあ最近タツミさんとよく一緒だったのは――
「うん、タツミさんプロのパティシエだから」
 桐崎がカウンター席の男に笑いかける。
「だからさっき言ったでしょう。マスターにはすぐにいい話ができるって」
「本当にすぐだな」
 彼らが和やかに話すのを、雅哉はポカンと聞いていた。すると、桐崎がちらりとこちらを振り向く。彼が何か言おうとした時、マスターが彼を止めた。
「ユイ、チョコは嬉しいけど、あの男はやめた方がいい。ほっときな」
「……でも」
「ユイは大事な弟みたいなもんだ。あんな物の頼み方も知らないようなガキ大将じゃ、絶対泣かされるよ」
「マスターは手厳しいなあ」
 タツミと呼ばれた男が肩を竦め、桐崎はチラチラとこちらを見ている。雅哉の中に、また怒りの炎が再燃した。
「なんであんたにそこまで言われないとならないんだ」
「ほら、こうやってキレるしかできない。本当に欲しいものを手に入れるためには何をすべきか、あいつは分かってないんだよ」
 マスターの言葉に、桐崎はじっと聞き入っているようだ。このままでは、彼はあの男の話術に説得されてしまう。
「じゃあ何をすべきか教えろよ」
 舐められないように大きな態度を崩さず、ズカズカとカウンターへ近付く。
「ほら、またこんな態度だ。人にものを頼む時は、丁寧に頭を下げたらどうだ? ユイに頭下げて、話を聞いてくださいって言うのが筋だ」
「……な」
「頭一つ下げられないほどプライドが高くて、恥をかきたくないから偉そうなフリだけしてるんだ。今の君、ハリボテなのが丸見えで、ユイの好みの正反対だ。頭下げようが何しようが、これ以上印象下がりようがないから、安心して」
 こちらを見るカウンターの三人の目が、雅哉の動向を見守っている。プライドと桐崎を天秤にかけ、ゆっくりと呼吸する。この仮面を保持するために、釈然としない友人関係を続けるのか、自尊心を引き換えにして何かを変えるのか。
 桐崎の目が照明を反射してキラキラとまっすぐに向けられている。
 雅哉は一歩踏み出して、彼の腕を掴んだ。
「話が、したい。頼む……頼むから」
 頭を下げるというより、項垂れるようにがっくりと肩を落とす。このまま彼に縋り付いて膝をついてしまいそうになるのを踏みとどまって。
「ユイ、こんなしおらしくしてるのも、一時的なものかもしれないよ」
 違う、と無言で首を振る。すぐそばで、桐崎が息を吸う音が聞こえた。
「うん……そうかもしれない。マスターが心配してくれてるのも分かってる。けど……俺も子供なんだ。初めてここにきて、オレンジジュース飲んでた時と、あんまり変わってないんだよな」
 桐崎の言葉に、マスターはふうと息を吐いて、「奥の部屋使っていいよ」と言ってくれた。
 桐崎に引っ張って連れて行かれたのは、奥の個室だ。壁際にL字のソファがあり、その前には大きめの四角いテーブルがある。しかし桐崎はそちらに座ることなく、すぐにこちらを振り返った。
「あのさ、志田は何がしたいの?」
 何の衒いもなく彼ははっきりとそう言った。
「どうして……やめにしたいなんて言い出したんだ?」
「毎週土曜日のこと? それより先に、志田のこと話せよ。どうしてそんなこと聞くためにここまで来たんだ? どうしてここを知ってる?」
 うるさい、いいから聞かれたことにだけ答えろ。
 いつもの雅哉なら、そう言って脅していた。しかし、それでは駄目なのだとさっき散々言われたばかりだ。きつく結んでいた唇を開き、言葉を絞り出す。
「お前が俺を切ったのが、すげーむしゃくしゃして、お前が何してんのか見に行ったら、知らない男とバレンタインの準備なんかして、このバーに入って、それ見てまたイライラして……」
 情けないことに声が震えた。笑われるかと思ったのに、桐崎はびっくりしたように目を見開いている。
「えーっと……色々聞きたいところはあるけど、そもそも俺、志田のこと切ってないだろ。ちゃんとゼミでは――
「ゼミだけじゃなくて! それだけじゃ足りなくて、何でか分からないけど……」
 俯き加減になった雅哉を、桐崎が至近距離で覗き込んだ。
「志田は、俺が好きなの?」
「ち、違う! 俺はホモじゃない。女で抜くし、いつか黒髪でそこそこ頭良くて貞淑な女の子と結婚するって決めてるし」
「うわ、夢見てる」
「うるせーな。とにかく、俺はゲイじゃないから、このイライラは違う何かのはずなんだ。でもそれが何なのか分からなくて、ずっと考えてんだよ」
 ついついいつもの癖で乱暴にそう言うが、目と鼻の先で桐崎は顔を赤らめたまま引き下がらない。
「でもさ、俺とセックスしなくなって、イライラするんだろ? 俺が他の男と仲良くしてるのも嫌なんだ。それってやっぱり嫉妬だし、志田がどんなに否定したって、志田はバイなんだよ」
「おれ、俺は……」
「志田がそれを認めないなら、これ以上話しても仕方ないんじゃないかな」
 彼の気持ちが離れていくような気がして、雅哉はその場にしゃがみ込んだ。おもちゃ売り場で我儘を言って座り込む子供になったみたいで、恥ずかしい気持ちはあるが、もうどうしようもなかった。
「お前が、同じゼミになって一生懸命話しかけてきてくれたのが、いつも周りにいる連中とは違う気がして、嬉しくて、友達になれたと思ってたのに、やっぱりお前もその辺の女と同じ動機だったんだって分かったら腹が立って、もう嫌いになれるかと思ったのに、なんか駄目で」
 モゴモゴと言い訳を連ねると、桐崎が膝をついて優しく目線を合わせてくれた。
「俺だって、志田は好みのタイプだと思ってたのに、セックスしてみたらイメージと全然違って、さっきもホント子供みたいに駄々捏ねて……幻滅して嫌いになれると思ったのに、まだ気になるんだ。お前が女とクリスマス過ごしたって聞いた時、どうせ見込みなんてないんだから、さっさとケジメ付けようって決めて、土曜の取引も断ち切ったのに……こんなとこまで来るから」
 彼が照れたようにはにかむ。同じ男なのに、その顔がとにかく愛おしくてたまらなくなった。
「もう、愛想尽かされたんだと思ってた」
 彼が優しく首を振る。
「いつもみたいに取引の言い方をすると、お前がバイだって認めて俺と恋人になってくれるなら、俺はお前とセックスするし、他の男とはセックスしない。認めてくれないなら、俺はやっぱりお前を忘れるために距離を取るし、新しい誰かを探す」
 腰を上げた彼がそのままフラッと出て行ってしまうような気がして、雅哉も慌てて立ち上がった。
「嫌だ。お前が他の誰かと俺以上の関係になるのは絶対嫌だ。あの菅原とか言うやつも、さっきのバーテンも、どいつもこいつも気に入らない」
 他の誰にも触られないように、桐崎の身体をぎゅっと抱き締めて閉じ込めた。
「はあ……そこまで分かってて何で認めないかな」
 雅哉の肩口に顔を埋めた彼が、呆れたように呟く。
「お前はそんなに簡単に認められたのかよ」
「俺は男でしか勃たなかったから」
 間近に見上げてくる彼の顔が、ほんの僅かに色欲を帯びた。湧き起こった劣情や、彼の過去の男への嫉妬が、雅哉の身体を支配する。彼の形のいい唇に自分のそれをぶつけるようにキスをして、まだコートを着たままの彼の腰を、自分の下半身へグッと引き寄せた。
 キスは最初の夜に桐崎からしてもらって以来、一度もしてこなかった。大人のキスの仕方も分からずに、ずっと唇を合わせていると、桐崎の方から舌を入れてきた。熱くぬめった彼の舌が、明確な意思を持って動き回って、雅哉の舌を懸命に吸う。それだけで舌がじんじんと痺れて、血液が下半身へと向かっていった。
 本格的に欲情する少し手前で、桐崎はちゅっと唇を離す。まだぼんやりする雅哉を見上げて、彼は頬を赤らめたまま小首を傾げた。
「ここ、キス以上のことするとマスターに怒られるから」
 この先どうしたい?
 そう言わんばかりに彼は雅哉の判断を待っている。悩むことなど何もない。雅哉は彼の手を引いて個室を出た。
 店内はいつの間にか客が増えている。男たちの視線がこちらに集まり、何人かは「土曜じゃないのにユイがいる」と驚いた。桐崎はそんな視線を華麗にすり抜けて、雅哉をカウンター前に引っ張っていった。
「お騒がせしました。ほら、志田も」
 マスターは分かっていたと言わんばかりに苦笑している。
「すみません、でした。あの、支払いはゲイ価格で」
 財布を出していると、側にいたタツミという男が吹き出した。ムッと睨むと、彼はヒラヒラと片手を振った。
「言っとくけど俺、ユイとはチョコ作る以上のことしてないからな」
 現金にも少しホッとしていたら、今度はタツミとマスターの両方に笑われてしまった。

 外に出て寒さに縮まりながらコートを羽織っていると、横から桐崎が顔を覗き込んでくる。
「まだ余裕で帰りの電車ある時間だな」
 腕時計を見るとまだ九時前だ。
「で、どこ連れてってくれんの?」
 自分の家を思い浮かべるが、かなり散らかっていたのを思い出してしまった。どこかいいホテルを探すしかない。今まで桐崎を抱いた大人の男たちに負けないような場所を選ばなければ。
「ホテル行くなら、男同士だと入れてくれないとこあるから気を付けろよ」
 彼からアドバイスされて、雅哉は慌てて携帯で近場のホテルを調べた。

「お風呂ガラス張り? ヤダなぁ」
 そこそこ高くてモダンなラブホテルを選んだつもりだったのに、部屋に入るなり桐崎から駄目出しされた。
「何でだよ」
「あのさ、受け入れる側は色々準備があるわけ。丸見えじゃん」
 ムスッとした雅哉を置いて、桐崎はコートをするりと脱いだ。一枚薄着になっただけなのに、ゴクリと唾を飲んでしまう。
「先シャワー使うけどいい?」
 バスルームへ向かう桐崎は、こういう場所にかなり慣れた様子だ。彼は脱衣所でこちらに背を向けて、まずは白のニットを豪快に脱いだ。その下に着ていたシャツの前ボタンを外して上半身裸になると、次はブラックジーンズを足から引き抜いていく。そしてついに彼の手がぴったりとしたボクサーパンツにかけられ、少しずり下ろせば白くて形のいい谷間が見えた。
 これではまるでストリップショーだ。駄目だと思いつつ釘付けになっていたら、全裸になった彼がこちらをちらりと振り返った。
 違う。別にお前のことをじっくり見てたわけじゃない。
 つい心の中で無茶な言い訳をする。てっきりまた笑われるか挑発されると思っていたのに、彼は真っ赤になってバスルームへと移動した。
 男にもラブホテルにも慣れているような態度で油断させておいて、その初心な反応は反則だ。
 雅哉は着たままだったコートをベッドに放り投げて、彼のいるバスルームへ向かった。ガラスの向こうでシャワーを浴びていた桐崎がびっくりしているが、無視して服を全部脱ぎ捨てた。
「どうせ丸見えなら一緒に入ればいいだろ」
 かっこよくそう言ったつもりだったのに、グシュンと思い切りクシャミをしてしまい、桐崎に慌てて温かいシャワーをかけてもらう羽目になった。

 寒さを凌ぐためにバスタブに湯を張ることにし、雅哉はまだ半分ほどしか溜まっていないお湯の中で丸くなっていた。
 洗い場ではやけに入念に身体を洗う桐崎がいるが、彼は完全にこちらに背を向けている。
「何でそんな前隠すんだよ」
 変にコソコソする後ろ姿に文句を言うと、彼はムッとした顔だけをこちらに向けた。
「あそこまでゲイじゃないってノンケ主張してた奴に、前なんて見せられるわけないだろ」
「お前にちんこ付いてることくらい知ってるっての。俺の使用済みゴムで盛大にオナってたの見せられてんだ。もう今更驚かねーよ」
「変態呼ばわりしたくせに」
 彼はプイとまた前を向いて、シャワーで身体に付いた泡を落としていく。ザーザーと水が流れる音の中、彼がまたボソッと呟いた。
「それに、今まで志田が抱いた女と比べられたくない」
「比べねーよ」
 水面に手を叩きつけると、バシャンとお湯が跳ねる。
「俺とのこれまでのセックスだって、志田は全然乗り気じゃなさそうだった」
「は!? どこが?」
 思わず大きな声を出して、バスタブの淵に手をかけた。
「だって志田のセックスってホント、入れて出すだけだったじゃん。エロくないっていうか、事務的っていうか、早く終わらせたいんだなって感じでさ。動くのもやけにノロノロしてて、やる気なさそうで」
「ちょっと待て。どこから訂正すりゃいいんだ」
 桐崎の口撃にストップをかけて考える。彼はもう泡も流し終えたのに、出しっ放しのシャワーを握り締めて雅哉を待っていた。
「前も言ったけど、俺はあのサークルに飲み会のために入ってて、女とは一切ヤってない」
「この前のクリスマスイブ――
「あれは、萎えたから途中でやめた」
「だから?」
 こんな遠回しな言い方では伝わらない。雅哉は自分の中に残っていた最後のプライドの欠片を手放した。
「その……お前とするまで女としたことがなかったっていうか、今もお前以外としたことないから、そもそも女と比べようがない」
 肩まで溜まった湯の中にブクブクと沈みそうになる。茹で蛸になってしまいそうなほど熱くて、自分の顔もきっと真っ赤なんだろうなと容易に想像できた。
「……え? 志田、女の子に囲まれてあんな偉そうにしてて、ど、童貞だったの?」
「うるっせーな、クソ」
 彼を黙らせるためにザバッと湯船から上がる。
「じゃあ俺とのセックスがなんか変だったのも――
「もういいからこっち見せろよ」
 彼の肩を掴んでグイッとこちらを向かせる。シャワーを奪い取って彼の頭からかけてやり、無防備になった彼の股間にもう片方の手を伸ばした。
 もう何度も彼とは身体を重ねているのに、彼のそこを触ったのは初めてだ。思っていたよりしっかりとした質量があるが、自然と嫌悪感はない。彼が肩を押して抵抗してくるので、邪魔なシャワーをフックにかける。片手で彼の身体を壁に押さえつけ、もう片方の手で彼の性器を弄っていると、彼のそこは次第にムクムクと上を向いた。
 自分の手で彼に確かな快感を与えていることが実感でき、雅哉は調子に乗って彼の後ろへと手を移動させた。
「そ、そっちはいいって」
 彼が断るのも無視して入り口に指を這わせる。ヒクヒクと開閉されるそこの感触をしばらく楽しんでから、人差し指の先端を彼の中に入れた。
「っ痛」
「ごめ……」
 いつも彼に事前の準備を任せきりだったため、加減が分からない。一度抜くべきか奥に進むべきか迷っていると、彼が「いいよ」と先を促した。
 解されていないそこは、いつも入れる時よりずっと狭い。肩口で彼がハアハアと浅い息を吐きながら、たまに「んっ」と声を上げる。その健気な姿に、雅哉の身体はブルリと震えた。
「寒いからこっち」
 彼と共にバスタブに戻り、その細身の腰を後ろから抱き締める。もう一度彼の後ろを解そうと、今度は指を二本入れてみた。
「ひゃ、駄目、お湯、入ってくる、から……っ」
 仕方なく彼を立たせ、バスタブの縁に手をかけて尻をこちらに向けてもらった。座っている雅哉の目の前に、彼のぷりっと引き締まった双丘がある。指ではなく、口で思わず彼のそこにむしゃぶりついた。
「っは……ゃ、だ……」
 桐崎の制止を無視して、両手で彼の尻肉を開き、谷間に沿って舌を這わせる。辿り着いた先にある二つの玉も舐めてやると、彼の身体はまな板の上の魚のようにピクピク跳ねた。
 その痴態で緩く勃ち上がった雅哉自身を片手で扱きつつ、彼の後孔に指を入れる。目の前で彼のそこはクパクパと何かを欲しがっているのに、今は指しか入れられないのがもどかしい。
 四本の指が入るようになった頃、雅哉はついに我慢できずに立ち上がった。彼の腰を掴み、突き出された彼の双丘に固くなった自分のモノを擦り付ける。谷間を軽く滑らせてから、孔に狙いを定めたその時、桐崎はバスタブから手を離して立ってしまった。
「ゴム、ベッドの方――
 腰に添えられた雅哉の手を撫でながら、桐崎がそう言う。密着した二人の下半身の間、雅哉のモノが限界にきているのを彼は知っているはずなのに。
 彼を引っ張るようにして風呂から上がり、脱衣所にあるフカフカのバスタオルで適当に身体を拭く。本当は濡れた身体のままベッドに行きたいほどだが、今は我慢だ。
 ワシャワシャと桐崎の髪を強引に拭いていたその時、タオルの中から声が聞こえた。
「まさや……」
 バスタオルを彼の頭に被せたまま、雅哉は固まってしまう。
「……って呼んでいい?」
 タオルから半分顔を覗かせて、桐崎が照れたように笑っている。辛抱堪らなくなって、結局半分濡れたまま、彼を抱え上げた。
 ベッドに彼を下ろし、コンドームを横目で確認する。逸る気持ちでそこに手を伸ばすと、桐崎が小さく笑った。
「雅哉が初心者なら、俺がもっと色々教えてあげないと駄目だったんだな」
 ゴムを付けている間に桐崎はそう呟きながら、ローションの小さなボトルを手に取った。準備を整えて覆い被さると、彼が控え目に足を開く。
 そういえば、正常位は初めてだ。恥ずかしい部分を全部見せて股を開いた桐崎は、先ほど解した蕾の中にローションをたっぷり付けた指を入れた。入り切らなかった透明の液が、彼の後孔からタラリと溢れる。
「はい、今ならヌルヌルで入れ放題」
 テラテラと光るその入り口を、彼は自分の手でくぱっと開いた。そんなことをされて我慢できる者はいない。雅哉は彼の膝に手をかけてさらにそこを割り開き、彼の中へグッと押し入る。
「っあ……キツ」
 いつもと同じく、彼の中は雅哉のそこを締め付ける。
「ん……っ、いつもみたいに、ちょっと抜き差しして出すだけは嫌だから」
 そんなことを言われても、だったらもう少し締め付けを緩めてくれとしか言いようがない。
「エロいセックスには言葉攻めが効果的って知ってた?」
 やっと一番奥まで辿り着いて、締め付けに慣れるまで少し落ち着こうとしているのに、桐崎は勝手にレクチャーを始める。
「雅哉の、俺の中で大きくなって、ドクドクしてる……」
 彼の手が二人の結合部分に伸びる。
「俺のここ、雅哉のせいでこんなんなってるんだけど」
 その手をつつっと少し上へ動かして、勃ち上がった彼自身に触れた。先端をクチクチと刺激すると、ジワリとカウパーが滲む。その光景に、雅哉はゴクリと喉を上下した。
「我慢しないで、滅茶苦茶にしてみて。雅哉の本気が見たい」
 彼の誘惑に、見栄も恥も全部どこかへ消え去った。
 こいつには散々恥ずかしい姿を見せてきたのに、これ以上カッコつける必要がどこにある?
 そう振り切ってしまえば、あとはもう本能の赴くままにすればよかった。
 彼の中は温かい。脈打つように、ぎゅ、ぎゅ、と蠢いている。
 もっと刺激が欲しい。この硬くなった欲望を、擦って、ぶつけて、溜まった精子を吐き出したい。
 雅哉は何も考えず、やりたいように腰をガツガツと振った。
「ゃ、ん……待っ」
 突然激しく突き始めた雅哉に、桐崎の余裕が消える。しかし余裕がないのは雅哉も同じだった。
「待てない」
 掠れ声でそう漏らすと、なぜか桐崎の中がきゅっと締まった。それに煽られて、また彼の中をゴリゴリと擦り始める。
「……んっ、ぁん……っあ」
 桐崎の喘ぎ声に、心臓がドクンドクンと震える。彼を犯して、よがらせて、優位に立っている。そう思うと、雅哉の中にある雄の征服欲が呼び起こされた。
 彼の中に向けて腰を打ち付けるように振ると、心臓だけでなく張り詰めた性器までもかドクドクと脈打つ。
 また早漏と言われるかもしれないが、もうそれでもいい。それでもいいからイキたい。
 一際大きく彼の中にグッと自身を叩きつけると、ゴムの中でビクンビクンと精を吐き出した。
 頭が真っ白になって、彼の中でしばらくハアハアと息を整える。セックスがこんなに激しく疲れるものだとは知らなかった。
 彼の中からズルリと抜け出てゴムを外す。視線を感じて桐崎を見ると、彼はモジモジと太ももを擦り合わせながら物欲しそうな目をしていた。それもそのはずだ。余裕のない雅哉は自分のことで精一杯だったが、桐崎はまだ達していない。
 躙り寄ってきた彼は、雅哉の手からゴムを奪い取る。まさかと思った時には、彼は中の白濁を半分萎えた雅哉自身にかけていた。
「ん、まだ行けるだろ?」
 精液でドロドロになった雅哉のそこを、彼がチュクチュクと擦る。
「少しクールダウンしないと二発目は無理だって」
 雅哉の反論に対抗するかのように、桐崎は雅哉のモノをはむっと咥えた。精液ごと舐めるなんて不味くないのかと思ったが、ミルクの垂れたお菓子を舐めるかのように、ペロペロと舌で愛撫される。
「ほら、勃ってきた。雅哉も変態性欲の持ち主だってことだよな」
 復活した雅哉のそこを指で作った輪でシコシコと完勃ちさせながら、桐崎がいやらしく微笑んだ。
 さっきまであんなに喘いでいたくせに。
 彼への優位を取り戻そうと、雅哉はガバリと彼を押し倒す。桐崎の唾液と雅哉の精液で濡れた剛直を、もう一度彼のローション塗れのそこにあてがった。
「え……ちょ、ナマ……っ」
「駄目なら……」
 ベッド脇のコンドームに手を伸ばそうとすると、桐崎が雅哉の腕を掴んで引き留めた。
「ん……いや、いいよ、バレンタインだから、俺の初めての生セックス、雅哉にあげる」
 雅哉の先端を当てられた彼の入り口が、誘うようにヒクリと震える。気付いたら、彼の最奥までを一気に貫いていた。
「ひぁ……っ」
 二人の間を隔てる薄いゴム膜はもうない。その内壁の熱さを味わっていると、桐崎は恥じらうように顔を赤らめた。
 あんな風に誘ったかと思えば、今度は初心な処女のように震える。小悪魔のようになったり、健気で純情になったり、彼には男を誘う魔性の力があった。
 きっと過去の男もこのテクニックで籠絡してきたのだろう。嫉妬と快感で頭がどうにかなりそうだ。彼を抱いた他の男に負けたくない。そのためには、桐崎を気持ちよくさせてやらなければ。
 見下ろした桐崎の身体、二人の結合部より少し上で、彼のモノがふるふると勃ち上がって揺れている。雅哉はそれをむんずと片手で捕まえた。
「……中っ、キツ……」
 彼に快楽を与えるつもりだったのに、それは間接的に雅哉のモノを刺激した。彼のモノを扱きながら抽挿を徐々に早めていくと、桐崎の口からは甘い嬌声が漏れ始めた。
「ゃ、あっ、あ……あん、まさやっ……ぁん」
 様々な液が混ざり合う結合部からは、ジュプシュプと淫猥な水音が響いている。ピストンをさらに高速にすると、その音はパチュンパチュンと激しいものになっていった。
「まさ、や……ぁ、ん……」
 彼が片手を雅哉の頰に添える。無言の導きで彼の唇に強引にキスをしてやると、彼の中はキュンキュンとときめくように締めてきた。てっきりイッたのかと思って唇を解放するが、見たところ彼のそこはまだ何も出ていない。
「ぁ、まだ、ぁ……もうちょっと……」
 彼の両足が雅哉の腰に絡みついてホールドしてくる。
「結以斗……っ」
 名前を呼んだら、彼はまた射精せずにヒクヒクと身体を突っ張らせた。
 今度こそ出させてやる。
 ガツンガツンと攻撃的に責め立ててやると、桐崎の身体は全身で悦びを示した。
「あ、ぁ……ィく、イッちゃ、ぅ……っ」
 雅哉の手の中で、彼の欲望が律動する。勢いよく飛び出した白濁は、彼の胸まで飛んで汚した。真っ平らの胸にテカテカと光る精液。そのいやらしい光景に、雅哉はズンズンとラストスパートをかけた。
「っあ、まさやの……中で……」
 屹立を脈動させながら、彼の中に思い切り欲望を吐き出す。精液を中に送り込んでいるという感覚に浸りながら、桐崎の細い身体をぎゅっと抱き締めた。
 しばらく二人でくっ付いたままぐったりしてから、ゆっくり彼の中から自身を引き抜く。身体を起こしてそこを見ると、彼のピンク色の蕾から白い液体がつつっと垂れた。
「ホワイトデーのお返しを先払い?」
 彼は自分の谷間を流れる白濁を指で掬い、雅哉に見せつけた。さっきの乱れた姿はどこへやら、彼はもうケロリといつも通りに戻っている。
 雅哉は慌ててベッド脇のティッシュを数枚取り、彼と自分の身体に付いていた汚れを拭った。そしてベッドにゴロリと寝転がり、何か彼を喜ばせるピロートークを考える。
「他の男と比べて……どうだった?」
 声に出してから、こんな話題を選んだことを後悔した。揶揄われるか、お世辞を言われるのが関の山だからだ。
「んー……俺って別に俺様な大人の男が好きなわけじゃなくて、俺の力で男の人の雄の部分を引き出す瞬間が好きなのかなって、なんか分かった気がする」
 予想に反して、桐崎は真面目な顔で雅哉に擦り寄ってきた。
「俺が今まで選んできた人って、最初っから完成されてる大人で、自信満々で、俺を虐める余裕もある俺様で……。そんな人が俺に欲情してくれるのを見るのが好きだったんだけど、どの人も一回で満足だったんだよな」
「何でだ? 一回寝たら飽きるから?」
 自分もいつか彼に飽きられるかもしれない。そう思ったら、無意識に彼の身体を腕の中に閉じ込めていた。
「飽きるって言い方が正しいのかは分からないけど、完成済みの物を外からも中からも全部見たら、それでおしまいって感じ」
 彼はどこか虚ろにそう呟く。
「俺は未完成?」
 声に不機嫌が混じると、彼は困ったように笑った。
「うん。未完成だから、次に見たら変わってるかもしれないし、俺が離れたらまた完成から遠くなる。だから、ほっとけない」
「ほっとけないって、お前は俺の親かよ」
 じっと睨むと、彼は何か躊躇う素振りを見せた。少ししてから、彼は意を決したように口を開く。
「親と言えば、うち離婚してて父さんいないんだけどさ、いつも男らしくないなって思ってたんだ。でも俺は別に、最初からカッコよくて威厳のある新しい父さんが欲しかったわけじゃないんだよな」
 彼が自分の中に隠していた何かを、迷いながらも吐露してくれている。それを邪魔しないように、彼の言葉に耳を傾けた。
「あの父さんにもっと男らしい父親の顔をさせてあげたかった。俺や母さんは、父さんの別の顔を引き出してやれなかったんだって、去年の夏に父さんと会って気付いたんだ。俺は多分、今でもそのことを後悔してるんだと思う」
 彼は少し寂しそうな笑顔を見せた。去年の夏、父親に会ってセンチメンタルな気分になったと言っていたのは嘘ではなかったようだ。
 過去に意識を飛ばしていたら、目の前の桐崎が今の雅哉をじっと見てきた。
「雅哉は確かに、大人じゃないかもしれないし、まだ俺好みの男でもないかもしれないけど、さっきの最中、ドキドキする瞬間はたくさんあって、一度きりじゃなくて、雅哉の中のかっこいいとこ、もっと俺が引き出してあげたいって、そう思った」
 たどたどしくそう言った桐崎が、ぎゅっと抱き着いてきた。
「父親にできなかった代わりに?」
 髪を撫でてやると、彼は気持ちよさそうに目を閉じた。
「よく分からないけど、俺がゼミで雅哉に話しかけてたのも、雅哉がぼっちで、プログラム書くのも遅い奴だって皆に思われんの、何か嫌だったから。雅哉は俺の王様で、理想のタイプで、ダサいとこ周りに見せたくなかった」
 その言葉で、雅哉の中で滞っていた何かが溶けて消えたような気がした。
 周りの女は、雅哉の王妃になるためのティアラを求め、自分にだけ優しい素顔を見せてくれることを望んだ。
 桐崎結以斗は、ただ雅哉が王でいられるように働く献身的な従者だった。雅哉の傲慢な仮面を否定するどころか、それも含めて守ろうとしてくれていた。
 自分に群がる女たちと桐崎は違う――そんな自分の直感は、何も間違っていなかったのだ。外したくても外せなくなってしまったこのどうしようもない仮面を、彼なら丸ごと愛してくれる気がしていた。
「俺も、どうしてお前が特別だと思ったのか、分かった気がする」
「トクベツ?」
 桐崎が上目遣いで尋ねる。
「……だから、好きってことだよ」
 ぶっきらぼうに言うと、桐崎はにっこり笑って起き上がった。
「ちゃんと言えたから、ご褒美をあげよう」
 舌舐めずりをした彼は、既に雅哉の股間を狙っている。
「おい。次上手くできたら……チョコ、俺にも作れ……じゃなくて、作って、ください」
「そんな条件なくても、チョコなんていくらでも作ってやるのに」
 桐崎はそう言ってから、雅哉の性器をペロリと舐める。
 多分彼にはずっと敵わないだろう。その予感通り、その夜は桐崎の思うがままに翻弄されることとなった。


***

 二月も下旬になれば、ゼミの追い出しコンパの季節になる。飲み会の席についてボンヤリしていると、隣の桐崎からズイッとドリンクのお品書きが回ってきた。
「雅哉は何飲む?」
 その瞬間、向かいに座った谷口の目がこちらに向けられた。
「おい、結以斗……」
「何?」
 彼は全く気にしていないが、雅哉はまだ彼と名前で呼び合うことに慣れていなかった。
「前から気になってたんだけど、桐崎君と志田君っていつからそんな仲良くなったんだっけ?」
 案の定話しかけられた。面倒臭い。
「んなもんどうだっていいだ――
 その瞬間、隣から爪先を踏まれて言葉を飲み込む。
 余裕のあるカッコいい大人たるもの、目上の人にはきちんと対応すべし――それが桐崎の言いたいことだ。
「いや、あの、ゼミのことで共同作業してるんで、その流れで」
 お世話になってます、と言わんばかりにぺこっと頭を下げながら言うと、谷口はポロリとドリンク表を落とした。
「志田君、何か悪いものでも食べた?」
「あ!?」
 思わずドスの効いた声を出すと、谷口は喉の奥からヒッと声を漏らした。
「結以斗はいつも通りカシスオレンジでいいんだっけ?」
 桐崎の向こう側で菅原が知ったようなことを言う。まるでわざと雅哉に聞かせるように。あの男はやっぱりいけ好かない。
 乾杯してしばらく経った頃に、桐崎が話しかけてきた。
「そういえば、雅哉あのテニサーやめたから、久々の飲み会?」
「ああ」
 今まで通り簡素に答える。だが向かいの谷口が「何で?」という顔をしているのを見て、会話を続けることにした。大人の男たるもの、社交性を捨てるなかれ。桐崎の教えだ。
「元々あそこの連中とはノリが合わないっていうか、俺は酒が飲みたいだけで、騒ぎたいわけでもなかったんで」
 落ち着いた口調でそう伝えると、谷口は「なんだ」と笑った。
 今更あのサークルを抜けたのは、桐崎がいてくれるからだ。クリスマス以来あそこでの人間関係に嫌気が差したというのもあるが、桐崎に余計な嫉妬や心配をかけたくないという気持ちの方が大きい。
「雅哉、今度マスターんとこ挨拶行って、これからはあのバーで飲もうな」
 菅原に次いで苦手な男がいる場所だ。あまり乗り気にはなれないが、桐崎がニコニコしている手前、「ああ」としか言えない。
「結以斗、そんな奴のことバーに連れてって接待してやらなくていいだろ」
 菅原がグラスの中の氷をガラガラ転がしながら言う。
「いいんだって。俺が連れてってあげたいだけだから」
 桐崎が笑顔を向けると、谷口がほうっと溜息をついた。
「桐崎君は健気だなあ」
「結以斗は優しすぎるんだ」
 彼らは口々にそう言う。
 周りはきっと雅哉と桐崎のことを、横暴な王様と献身的な召使いだと思っていることだろう。桐崎もそれを望んでいる。
 椅子に置いていた手に、ふと桐崎の指が絡まってくる。大人の男たるもの、恋人が甘えたい時には応えること。その指導通り、彼の手をきゅっと握り返した。


***

 桐崎結以斗と志田雅哉のカップルには、二つの顔がある。
 表では、傲慢で無愛想な雅哉に、健気な結以斗が付き従っているように見せておきながら、実のところ立場は真逆である。結以斗を満足させられる男になるために、雅哉は彼が導く通りに振る舞っているだけなのだ。
 いつか本当に結以斗が思い描く理想の男になれるまで、雅哉はしばらく王座の結以斗にかしずく日々となるだろう。

このサイトの攻めは残念な童貞が多く、受けはイケメンで能力高い子ばっかりです…という当サイトの入門ガイダンス的なお話のつもり。
既にこのサイトに慣れ親しんでいる方は、この攻めを見て「中身は童貞だろうか……童貞だった」というギャグマンガ日和のマーフィー君的な楽しみ方をしてもらえれば幸いです。
「超好みの俺様だと思ってたイケメン同級生が ただのチキンでクズな童貞だった話」みたいなタイトルがきっとイマドキなんだろうけど、そんなティーンぶった若作りはできなかったので、前編後編両方に当てはめられるタイトルを普通に付けました。
タイトルとか文体とかその辺の雰囲気も含めて、このサイトのカラーを伝えるためのお話なので、奇を衒ったことはしないのです。

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