宣言通り宇治平の元で浩司が臨時のアルバイトを始めてから今日で五日目。コンビニを出たところで冷たい北風が吹き抜け、黄色いイチョウの葉がカサカサとどこかへ飛ばされていった。薫と離れてからのたった五日で、季節は急速に秋から冬へと変わっているような気がする。赤や黄色に色付いていた葉はどこへともなく消え、色のないモノクロの冬がやってきた。このまま自分の世界には色が戻ってこないような気さえしてくる。
ジーンズのポケットに手を突っ込み、足早にアルバイト先のビル内へと逃げ込んだ。コンビニで買ったおにぎりを持って向かった休憩スペースには誰もいない。いつもなら喜ばしいことだが、今は誰かと会話でもして気を紛らわせたいところだ。
「あんな酷いことされて、好きだなんて言われても困る。最悪。むしろ絶交だろ」
頭の中にあの時の薫の言葉が反響して、思わず長い長い溜息をついた。
薫と喧嘩をするのは何も初めてのことではない。彼は喧嘩のたびに絶交だと言うものだ。しかし今回の拒絶はやはり大きなショックとなって浩司を打ちのめした。ノンケの彼がいい反応をしてくれないことも分かっていて、たとえ嫌われても構わないから一度だけ――そう思っていたはずなのに駄目だった。事前に受け身を取っていても痛い時は痛いのだ。
「やっぱり後悔してるんだ?」
不意に呼びかけられて顔を上げると、機材を担いだ宇治平が立っていた。
「あ、何か急ぎの仕事が――」
「ううん、撮影終わったから休憩の後で片付け手伝ってって言いに来ただけなんだけど、すごーく大きな溜息が聞こえちゃったから、やっぱり例の彼とのことかなーって」
「う、そうです、すみません」
「謝らなくていいよ。僕も計画に加担したわけだから、その後のことは気になってるしね」
あの日の朝別れて以来、彼には一切連絡を取っていない。大学のキャンパスは同じでも、学部が違うため大学で顔を合わせることもなかった。今まではサークルや昼食の時間に会っていたが、それをやめてしまえば彼との接点はほとんどないと言っていい。そんな自分たちの関係の危うさに浩司自身も愕然としているところだ。
「まあ、中高生時代の友達と大学以降も付き合い続けるのって元々難しいしね」
話を聞いた宇治平の言葉がグサリと刺さる。今回こそ本当の絶交かと思っているところに、それは酷く生々しい現実のように思えたからだ。
「確かにそう、なんですけど、俺はまだ諦めきれてなくて、やっぱり俺のところに帰ってくるんじゃないかと毎日毎日期待してて」
「帰ってくる?」
「あいつ、俺がいないとダメなんです。気温も天気予報も無視だし、レポート提出のスケジュールもすっぽ抜けてるし。別に頭が弱いわけじゃないんですけど、あいつ色々なことに無頓着というか大雑把というか……。俺がいなくなって今すごく不便だと思いますよ」
天気も、季節も、彼の友人も、家族でさえも、薫を取り巻くもの全てが彼に冷たく当たればいいのに。そうすれば彼は必然的に自分の元へ来るだろう。そうやって手を回してきた。ずっと前から。
「君がいなくなって不便だから、また友達に戻ってくれるかもしれないってこと? それで五十嵐君は満足できる? その関係に満足できなかったから、僕のところに来てぶっ飛んだことやらかしたんでしょ?」
鬱々とする浩司とは真逆に、宇治平はあっけらかんと痛いところを突いてきた。
「あの時は友達じゃなくなってもいいから一回ヤりたいって思ってたけど、今はただの友達でもいいからまた元に戻りたいって思ってて……確かにおかしいですよね」
友達に戻れたら戻れたで、自分はまたいつか今回のようなことをしでかすだろう。同じところをグルグル回っているだけで、ループを抜ける道が見つからない。いや、今回の絶交が本当になったら、このループも終わりだ。それに気付いてゾクリと震えた瞬間。
「ふーん。でもさ、彼は物事に頓着しない性格だからズボラなんでしょ? だったら君がいなくなって不便でも、それはそれでサバサバ受け入れるんじゃないの? 寒いけどまあいいか、みたいな」
ちょうど自分でも考えていたことを宇治平に言葉にされると、それが本当に実現してしまうような恐怖が増した。どう返事をしようか迷っていると、パタパタとこちらに向かう足音が聞こえてきた。
「浩司君! ……ゲッ」
顔を出したのは、ここでAVの出演者として働く一ノ瀬環という男だった。透き通るような金の髪に中世的な顔立ち。その綺麗な顔は、宇治平を見るなり何の躊躇いもなくグシャリと顰められていた。
「人の顔見るなり酷いよ、環君。五十嵐君は今休憩中」
「なーんだ、撮影終わったから一緒に帰ろうと思ったのに」
「僕たちはまだ仕事があるんだよ。待っててくれたら僕も一緒に帰るよ」
「お断りします。ていうか宇治平さんいつも帰宅深夜だし」
彼はべっと舌を出してから、浩司にだけ手を振ってまたどこかへと消えてしまった。
「僕には露骨に冷たいなあ」
「演技指導や準備にかこつけていかがわしいことしようとするからですよ。環さんはタチ寄りですから」
環が受けに回っているのは、AVだとその方がギャラがいいからという理由に過ぎない。入れる方が気持ちいい、入れられて本当に気持ちいいと思ったことがないと言っていた。
「そんな人が『自分が受けでもいい!』ってくらい誰かを好きになる展開って萌えない?」
「現実にそういうことがあればまあ」
適当な相槌を打ちながら、薫から向けられた拒絶の意思を思い出す。ノンケはやはりノンケのまま、性指向を大きく変えてはくれなかった。
「五十嵐君は好かれてていいよね。やっぱり今度環君と出演したら?」
宇治平の言葉で我に返る。
「それは無理だって言ってるじゃないですか」
「でもさあ、いつも温厚な雰囲気のイケメン五十嵐君が、急に欲望渦巻く腹黒ーい顔を見せるあの瞬間、絶対いいギャップだと思うんだよねえ。病んでて」
そう言われても、あれは意図的にやっているものではないため演技では再現できない。ただ溜め込んだマグマを噴火させているようなもので、自分で制御できるわけではないのだ。
それに……と環の顔を思い浮かべる。彼とそういうことをする想像をしようとしたが、どうにも上手くできなかった。
「相手が薫じゃないと俺なんてタチ役として使い物にならないと思いますよ。薫以外に対してはまだ童貞です」
「その童貞ネタって五十嵐君の持ちネタ?」
宇治平の苦笑いを見て、はたと気付く。
「ああ……こうやって自虐すると薫が笑ってくれたので、つい」
自分は薫とのコミュニケーションにカスタマイズされている。こんなことになってもまだ、それが抜けきっていない。
ふと唐突に彼と話がしたくなったが、その手は携帯を持ったところで止まってしまう。また拒絶されるかもしれない――その恐怖が蜘蛛の糸のように指を絡め取っていた。
***
結局それから土日を挟んでさらに四日、相変わらず薫には連絡を入れることができなかった。
本当は自分の方から粗品でも持って土下座のお詫びに行かなければならないのかもしれないが、最近そこに迷いが生じている。宇治平に言われた通り、友達に戻ってもまたいつか我慢できなくなるに違いない。薫と元通りの関係に戻りたい気持ちと、友人という立場にはもう戻りたくない気持ちが戦い続けていた。両者抜いた剣を納めることはなく、どちらも血塗れだ。
毎晩彼との喧嘩の思い出を詰めた箱を眺め、仲直りしたい気持ちが少し勝ったところで眠りにつくのが日課になった。そして謝罪用のケーキを買って冷蔵庫にしまい、消費期限ギリギリに自分で食べるのを繰り返している。つくづく卑怯で臆病な自分に少し呆れた。
携帯が震えるたびに薫かと期待するが、それは大抵同じサークルのミカという女だった。携帯は登録した名前が表示されるので、名前は間違っていないはずだ。
今日もアルバイトの合間に携帯を確認すれば、彼女からのメッセージが入っていた。
『今日もサークルに来ないの?』
いつも通りの内容に、いつも通り「行かない」とだけ返事をする。彼女は浩司から返信があるというだけで満足らしい。全くもって女の心は分からない。
彼女には既にボランティアで忙しいとだけ伝えてある。この前の三十六万円はなぜか結局もらえたので、タダ働きではなく給料先払いのアルバイトになったのだが、詳しいことを聞かれては面倒なので適当にぼかした。
彼女に「ボランティアで忙しい」「サークルに行けない」と連絡をするたびに、なぜか薫に言い訳しているような気持ちになった。忙しいから連絡を取れないだけで、この状況をなんとかしようという意志を捨てたわけじゃないんだぞ、と。
携帯をポケットに入れてジャケットを羽織ると、ついさっきまで一緒だった環が寄ってきた。
「浩司君どこ行くの?」
「飲み物の買い出しに」
「俺も連れてってくれない?」
彼の言い方でなんとなく察しがついた。撮影前の準備のこの時間、彼は宇治平に狙われているのだ。別室で一人準備をしていると、どこからともなく宇治平がやってくるのだという。中をほぐしてもらうくらい別にいいだろうに、「あの人準備って言いつつ本番始めそう」だの「見た目が好みじゃない」だのと難癖をつけては浩司のところへ逃げてくる。
「いいですけど、準備は?」
「まだ時間あるから、買い出し終わってから浩司君とする」
言われてみれば確かに、彼が来るのが少し早かっただけでまだまだ時間はある。彼にとっては避難兼暇つぶしといったところか。
「買い出し手伝ってくれるならありがたいですけど、環さんの準備を俺が任されるかどうかは指示次第なんで」
とはいえ環は最近売れっ子だから、彼が浩司を指名すればその願いは叶うだろう。
連れ立って外に出ると、夕方の冷たい風が頬をくすぐった。後二十分もすれば日が沈んでさらに気温は下がるだろうし、この後の予報は雨だ。ジャケットと折りたたみ傘を持ってきていて正解だった。
「浩司君、臨時バイトなんて大変だね。大学はどうしてるの?」
「今日は三限までだったし、基本的に授業がない時に入ってるので。環さんが思うほど宇治平さんは極悪ではないです」
むしろ人が良すぎて申し訳ないと思うくらいだ。
「浩司君、AV監督なんてそんなに信用したらダメだよー」
これまで他で受けてきた様々なセクハラについての愚痴を聞きながら、コンビニで適当に飲み物を買い込む。コンビニのレジ袋に入れられた飲み物はずっしりと重く、袋が破れないかヒヤヒヤしながら店を出た。
「さっき浩司君のカゴの中に麦ソーダってやつ混ぜたから、それ監督にあげようよ。絶対不味い」
環が腕にくっ付いてきてケラケラ笑う。さっき何かカゴに入れていたと思ったらゲテモノ飲料だったらしい。それを飲む宇治平を想像すると、フッと笑いそうになってしまった。
そういえば、こんな風に誰かとふざけあって会話をするのは久しぶりかもしれない。薫以外と話す時は大抵作り笑顔だった。宇治平も環も、皆親切で楽しい人たちだ。薫と絶交したって、また新しく交流する人はすぐ見つかる。
赤信号で立ち止まった時、くっ付いていた環がクシュッと小さく震えた。その姿に薫の面影が重なり、無意識に身体が動く。重い荷物を地面に下ろし、ジャケットを脱いで彼の肩へ。
「あ、浩司君、俺知ってるんだからね。浩司君がどういう経緯で臨時アルバイトになったのか」
ちゃっかりジャケットにくるまりながら、環がニヤリと笑う。
「俺はその誰かの代わりにはなんないと思うよ」
ああ、見透かされている。今環を薫に見立てたことも、その結果何も心が動かなかったことも。彼らがどんなに楽しくていい人でも、彼らは薫の代わりにはならないのだろう。自分の心を強く揺さぶってくれるのは、薫しかいないのだ。
浩司は瞬時にそう悟った。しかし失ったものがどれだけ貴重だったか今更分かったところで、胸の痛みは強くなるばかりだ。
今にも雨粒が落ちてきそうな曇天の灰色は、自分の心の空模様によく似ている。しかしこの後空から降ってきたのは雨ではなく幸運だった。なくしたと思っていたものが帰ってきたのだ。
***
降り出した雨は土砂降りでもなく冷たいわけでもなく、生温くしとしと降り注いでいた。その中、薫と一つ傘の下で寄り添いあって歩いている。
どうしてこんなことになっているのか、まだ頭の整理がうまくついていない。買い出しから戻ったら、事務所内に薫がいたのだ。最初すれ違った時は幻かと思ったが、宇治平を呼びにいった先で対面した彼は本物だった。
宇治平によると薫は「話がある」らしい。話の内容はおそらく、浩司がいなくなって不便だから仲直りしようというものだろう。薫の纏う空気にあの朝のような嫌悪感はなく、分かりやすく追い縋るような目をしているからだ。
元の関係に戻りたいという気持ちが強まっていたはずなのに、いざこうして戻れそうな気配になると胸の奥がずしりと重くなった。これからもまた「友達」という名の関係に耐え続けなければならないこと、卑怯なやり方で彼を自分の手元に引き留め続けること――これらは本当に喜ばしいことだろうか。毎日眺めていた彼との喧嘩の思い出箱は、もう一生開かない方がいいのかもしれない。
自分の中で繰り広げられる「仲直り」対「絶交」の戦いは、今になって急にまた拮抗し始めている。言いようのない何かが胸の奥で暴れていたが、口には何も出せないまま無言で歩き続けた。彼のために傘をさすという、ただそれだけの行為に集中しながら。
嫌がるかと思ったが、薫はあっさり浩司の家についてきた。想定外の事態に多少戸惑いつつも、先に室内の明かりを点けながら部屋の奥へと進む。
「うあー、めっちゃ濡れた」
背後から聞こえた薫の声は至って普段通りだ。いや、意図的に普段通りにしようとしているのかもしれない。やはり、これからも今までと変わらない関係を望んでいるのだろう。
また元通り。薫には入れ替わり立ち替わり彼女ができて、自分はその移ろいを眺め続ける。
それは嫌だ。やっぱり無理だ。
そう感じた瞬間、衝動的に振り返った。
「薫、こんなとこ来て良かったの? また俺にハメられるかもしれないのに」
わざとあの夜のことを思い出させるようなことを言った。軽々しく「友達に戻ろう」なんて言わせないように。冗談っぽく言ったつもりだが、声や表情をうまく作れているかは分からない。
「だって――」
コージがいないと不便だから――続く薫の言葉を先読みして彼との距離を詰めた。彼が何も言えないように、そのまま抱き締めて閉じ込める。
「分かってるよ。薫は俺無しじゃまともに生活できないんだよな。夜は寒くなるのに上着も持たずに出かけたり、雨が降るのに傘も持たずに出かけたり」
そのたびに浩司はこれ幸いと彼を甘やかした。それは決して、純粋な親切心ではなく。
「薫が俺から離れられないように、俺がそうしたんだ。少し離れても、またすぐ俺のところに戻ってくるように。もう分かってると思うけど、俺ってそういう卑怯な奴だから」
最低だと罵られて縁を切られるか、それでもいいから友達に戻ろうと言われるか、もうどっちでも良かった。ここ数日迷いに迷ったが、もう決定権は薫に委ねてしまおう。どちらの道に行っても、苦悩が永遠に続く地獄に繋がっていることに変わりはない。
しかし聞こえてきた声はそのどちらでもなかった。
「俺のこと分かってるって言っといて、肝心なとこだけ鈍いんだな」
単語はぶつ切りで認識されるものの、彼が何を言ったのか分からない。鈍い? 確かに自分は鈍いが、薫のことなら分かる――そう思っていた。
腕の中で彼が身じろぎして、二人の間に隙間ができた。まっすぐに見上げてくる彼の双眸の美しさに、思わず息を呑む。彼の形のいい唇が動き始め、そこから紡ぎ出される言葉に心を殺されても悔いはないとさえ思えた。
「コージがいなくたって、多分俺生きていけるし。寒くたって雨が降ったって、ちょっと不便なだけで死にやしないだろ」
今まで彼に尽くしてきた努力は全否定だ。しかし薫の声色は明るく、その頬は僅かに色付いている。その意味を量る前に、彼は「でも」と先を続けた。
「でも、コージが俺以外の誰かにそういうことするのは嫌だ。女の子と別れるのは何とも思わないけど、お前と別れるのは嫌だ。なんか、今まで付き合ったどの女の子よりも、コージと一緒の方が……楽? 居心地がいい? って急に気付いたから」
どんどんたどたどしくなっていく言葉と、真っ赤に茹で上がっていく顔。去る者追わず、次々に相手を変えていたあの薫が、嫉妬も露わに自分へと執着を向けている。今まで散々優先してきた恋人よりも、自分を上に置いてくれている。
「そんなこと言われたら、純情な童貞は勘違いするんだけど。薫は俺が好きなの?」
言葉にするとそれは確信に近付いた。友達に戻る道でもなく、絶交する道でもなく、苦悩のループを抜けて天国へと続く階段が目の前に急に現れたのだ。心も身体も浮ついて、思わず薫へと詰め寄っていた。
「……も、もう童貞じゃないんだから、そのネタは禁止」
ぷいと顔をそむける薫は、拗ねているのか照れているのか分からない。ただしかわいいことだけは確かだ。
「うん。とにかく、絶交は終わりってことでいい?」
「ま、まあ……ムカつくけど、気持ち良かったのは事実だし……俺が誘ったところもちょっとはあるし……」
本当にこれは夢ではなく現実なのだろうか。あんなにぐちゃぐちゃに濁りきっていた心が、今は嘘のように澄みきっている。
「良かった」
まだ何か言いたげな薫を思わず抱き締めそうになってから、ふとあることを思い出してクローゼットへ向かった。
「よし。じゃあ封印しないと」
缶の箱を手にベッドへ向かうと、薫が中を覗き込んできた。
「何だよ、その箱」
説明するより見せた方が早い。ベッドの上に置かれた箱を丁重に開ける。
「薫との喧嘩の思い出ボックス。ほらこれ、昔喧嘩になったアイスの当たり棒。こっちは、高校の時のテスト。薫が最低点取って、俺が慰めたらなぜか喧嘩になったやつ。で、これが――」
「そ、そんなの全部取っといてんのか!?」
「うん」
「ゴミだろ。何のために――」
「薫って喧嘩するたびに絶交って言うんだけど、毎回毎回仲直りできたよな~って、喧嘩中はこの箱を見て安心するんだ。今回はもう本当にダメかと思ってたんだけどさ」
ついさっきまで、もうこの箱を開けるべきではないと思うほど追い詰められていたくせに、今はホッと気が抜けて頰が緩んだ。
これからもまだまだこの箱には思い出を詰めていこう。あることに思い立って、机の引き出しに入れておいた例の賞金を持ってきた。
「おい、それ……!」
「三十六万円」
「AV化ブッチしたのに貰えたのか!? 太っ腹すぎんだろ」
自分もそう思って一度は断ったが、アルバイト代ということで押し付けられたのだ。
「宇治平さんのお腹は太くないしデブ専でもないんだけどね。あの人若くて細いイケメン好きだし。環さん狙ってちょっかいかけてるらしいんだけど、環さんプライベートだとタチ寄りだから、俺が環さんの避難先にされてるみたいで」
宇治平がいい人であることは間違いないだろうが、環との関係は目下の悩みのタネだ。もっとも、薫とうまくいきそうな今となってはそれも些細なことに思える。
「今回の喧嘩のきっかけとして、三十六万はこの箱に納めようかと。あと、これも――」
お世話になった一枚のDVDパッケージをじっと見つめる。これを薫とヤりたいという妄想で数えきれないほど抜いた。
ふと隣を見ると、薫の視線もパッケージに釘付けだ。
『男子大学生の無限性欲! 驚異の連続中出し!』
『ヤリチンノンケが絶頂メス堕ち!』
『友人相手に我を忘れてガン掘り!』
言われてみれば、この前の自分と薫はこの謳い文句通りのことをしたかもしれない。彼はこれを見てあの日のことを思い出しているのだろうか。その想像で、浩司の奥に潜む欲望に火がついた。
「何? またしたくなった?」
「ちが……っ」
「あ、濡れた服、脱がせてあげようか?」
彼の服はほとんど濡れていないのだが、有無を言わせずベッドに押し倒した。ここで確実に自分のものにしてしまわなければ――その使命感が頭の中を支配する。手放そうと思っていた大事なものが、せっかく自分の腕の中に戻ってきてくれたのだから。
「薫、好きだよ。あ、なんか媚薬が無い時の薫のエロい顔も見たくなってきた」
「……なっ」
早く、早く彼の全てを手に入れたい。心が急いて、何か言おうとする彼の唇を自分のそれで塞いだ。中までマーキングするように、彼の口腔内全てを舌で撫でる。舌を噛まれ、拒絶されるかもしれないという恐怖はもうなかった。
「抵抗しないってことは、OKってことでいい?」
許可を求めるような聞き方をしたが、彼の回答に関わらずもうこの先を止められそうにない。一度スイッチを押されると暴走を始めてしまう壊れた機械のように。普段は薫に尽くす執事ロボットとして正常に機能しているのだから、たまの暴走は許してくれるだろう。
薫は横に転がったままのDVDパッケージをまた見ている。
『仲良し男子大学生二人を一晩ラブホにお泊まりさせたらどうなるか』
彼の身体だけでなく、ずっと欲しかった彼の心まで手に入った。
もっとも、今の彼は浩司よりもDVDに心を集中させているようだ。それが面白くなくて、彼の視界から追い出すようにDVDを払い除けた。これは例の箱に封印して、代わりに全く同じタイトルの自分専用AVを作るつもりだ。宇治平からもらったあの夜の映像データで。
***
さすがにもう出ないというくらい散々愛し合った後も、浩司はしばらく薫の身体を抱き締め続けていた。彼がまたどこかへ行ってしまわないように。
「薫って媚薬がなくてもあんな声出すんだな」
彼はどうやら元から快楽に弱いらしく、理性が飛ぶとすぐに舌ったらずな喘ぎ声を漏らした。
「うるさいな、もう。そんなことよりお腹空いたんだけど!」
くっ付いた状態で、薫は額をグリグリと肩口に擦り付けてくる。抗議をしているつもりなのかもしれないが、ただ可愛らしくすり寄っているようにしか見えない。
またいたずら心が疼きかけたところで、薫のお腹がぐぅと鳴った。確かに時刻はもう二十一時近い。
「……カップ麺で良ければ買い置きしてあるけど」
せっかく両思いになれたのに、ムードも何もない夕飯だ。しかし薫が「食べる」と仰せになった以上、浩司は粛々と湯を沸かす準備を始める他なかった。
食後ふと冷蔵庫の中にしまっておいたものの存在を思い出し、カップ麺のデザートとしてケーキを食べることにした。
「これ持ってって土下座しようとしてたんだ」
皿にケーキを乗せ、フォークと一緒に薫の前に出してやる。
「土下座?」
「だって一応ほら、俺が悪いことしたわけだし」
親友を騙してゲイビデオの素人盗撮企画に参加させたのだ。普通なら許されることではないが、薫への執着心で盲目になっていたが故にフラフラと道を間違った。
「んー、でもあれがなかったら俺、まだコージと友達同士で、永遠に女の子と付き合って別れてを繰り返してたかもしれないじゃん」
テーブルの向かいで薫はけろりとそう言って笑った。……笑ってくれた。
「うん、俺やっぱり薫のそういうとこが好きだよ」
薫はちょろい。でもそれはきっと、薫の心が無自覚な「善」の塊だからだ。彼の頭は何事も良い方へ考えるようにできている。自分が腹黒い闇属性だとすると、彼は心の綺麗な光属性。自分がモノクロだとすると、彼はカラフル。どんなに汚しても彼は鮮やかで眩しいままだろう。
じっと見ていると薫の顔はどんどん真っ赤になっていき、「そんなことよりケーキ」と話題を逸らされた。
買ってきたのはオーソドックスなショートケーキ。側面を覆う透明のフィルムを慎重に慎重に剥がしていく。
「ケーキって確かにうまいけどさ、最初にこれ剥がす瞬間だけは嫌いなんだよな」
そうぼやくと、自分のケーキに手を伸ばしかけていた薫が「えっ」と顔を上げる。
「ウソ、俺これを剥がす瞬間が一番好きなんだけど」
「だってクリームが一緒に剥がれてってさ、勿体ないなって」
「いやいや、これから食べる本体にたっぷりクリーム付いてんだから、そっちの方が楽しみじゃん!」
フィルムと共に失われていった生クリームを見てしまう自分と違い、彼は前向きな方に考えることができる。こんないい子が今までどの彼女とも長続きしなかったなんて、にわかには信じがたい。しかし誰ともうまくいかなかったからこそ、今こうして彼を自分のものにすることができたのだ。なんと奇跡的な幸運だろうか。
浩司がそんなことを考えている間、薫はずっと自分の皿をクルクルと回して側面のフィルムの縁をなぞっていた。
「んー……どこから剥がした? 切れ目が見つかんない」
彼はちらちらと浩司のケーキを見ながら、無言で何かを訴えている。すっかり忘れかけていたが、これこそ彼がどの彼女とも長続きしなかった理由だ。
「ほら、俺のと交換」
苦労して丁寧にフィルムを剥がした自分のケーキを差し出すと、彼の困り顔がパッと笑顔に変わる。どうしようもなく手のかかる我儘体質だが、この笑顔を見ると自分まで幸せになるから不思議だ。彼に優しくするのは親切心ではなく打算――そのはずだったのに、もしかしたら本当は……。
「コージ? 食べないの?」
ちゃっかりフォークをイチゴに刺しながら薫が首を傾げた。
「食べるよ」
薫が苦労していたケーキのフィルムをペリペリと勢いよく剥がす。減ってしまった分を未練がましく見ないように。
彼が自分の色に染まることは決してないが、逆に自分は彼の色に染まりつつあるのかもしれない。その進行にはもう少し時間がかかるはずだが、これから先、彼と共に季節はいくらでも巡る。色のない冬にはやがて、色とりどりの春と夏がやってくるだろう。
本編を出してからもう十ヶ月くらい経過してしまったのですが、同人誌化を期にずっと書きたいと思っていた攻め視点番外編を書きました。
時間が経ってしまったので本編の軽いノリを忘れて、いつもの私の湿っぽいトーンになってる気がします…。
紙媒体用に書いたものなので、ネットで見るといつもより改行が少ないかもしれません。