Under the Blue Sky 4 | fDtD    
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4

 庭付きの一戸建てに初夏の日差しが柔らかく差し込んでいる。庸太郎は庭の隅に落ちていたサッカーボールを拾い上げた。
 するとその時、二人の子供が玄関から走り出てきて、続けて旭が顔を出す。
「こら、自分たちだけで勝手に行くなよ」
 小学生くらいの子どもたちは元気よく「はーい」と返事をしてから庸太郎の方へとやってきた。
「パパー、そのボール貸してー?」
「え……と」
 旭にそっくりなその子は庸太郎に向かって両手を出す。
「ダメだってば。道路で歩きながらボール蹴るんだから」
 少し大きめの鞄を持った旭は、男の子を庸太郎から引き剥がした。
「庸太郎はこっち持って。お弁当入ってるから気を付けろよ」
 旭は鞄を庸太郎に押し付けると、二人の子供に声をかけて門へと向かう。
 そう、確か家族で公園に遊びに行くのだ。少し平凡顔の長男と、旭にそっくりな次男を連れて。
 この鞄の中にあるのは、旭が夫の庸太郎と子供たちのために作ってくれた弁当だ。その重みを確かめていると、先を行く子供たちから「パパ遅い!」と叱られた。その隣で旭が怪訝な顔でこちらを見ている。
「何ニヤニヤしてんだ?」
「いや、俺たちの子は元気でかわいいなって」
「……え? お前の子じゃないだろ。だってお前、俺のこと妊娠させられなかったじゃん」
 その瞬間、自分似の平凡顔だと思っていた長男の顔がぼやけて見えなくなり、目の前が暗転した。

 ベッドの中でビクリと足を震わせた衝撃で目が覚める。
 なんだ、夢か――庸太郎はほっと胸を撫で下ろした。途中までは本当に理想の未来だったのに、酷い悪夢になってしまった。
 しかし実際、このままでは旭との間に子供はできない。思い描いた未来は来ない。彼の不妊体質の原因を明らかにしない限りは。
 今頃旭はどうしているだろうか――庸太郎は目を閉じて彼のことを考えた。ゴールデンウィーク中はインターンも休みで、例の発情期以降会えていない。再び眠りに落ちるまでの間、別れ際に見た旭の傷付いた顔が瞼の裏にこびりついて離れなかった。

***

 ゴールデンウィーク休暇明けに研究所へ行ってみると、旭はいつもの監禁部屋から治療室に移されていた。監視カメラも止まっており、あの部屋では今一条新が一人で生活しているらしい。
 旭に会いたいと申し出たが、崎原という医師から丁重にお断りされてしまう。代わりに状況説明のため林の研究室に呼ばれた。
「聞いてはいると思うが、しばらく篠原旭の面倒は見なくていい。彼は今治療室でケアされている」
「そんなに悪いんですか?」
「いや、ほとんど心の問題だ。精神科医をつけて徐々に回復はしている」
 旭があの男を嫌いになってくれればそれで良かった。まさかここまで大事になるとは思ってもいなかったのだ。つまり、こんな酷い状態になってしまうほど、旭の中で一条新の存在は大きかったということだろう。自分自身の行動でそれを思い知らされてしまった。
「申し訳ありません。私が、あんな――
「いや、君の試みは悪くなかった。それにふと思いついたんだ。奴が性行為中にいつも抱いているのは怒りや憎しみ、悲しみだろう。逆に今後はそういったネガティブな感情のない状態になるよう試してみたくなった」
 それはおそらく無理だ。旭の中にあるαへの怒りを消せるはずがない。しかし一条新なら……?
 庸太郎がそう思ったのと林が口を開くのは同時だった。
「本当は、一条さんなら奴を妊娠させられるような気がするんだが」
「旭は今、一条さんのことをどう思ってるんでしょう」
「まだ愛しているんじゃないか? はっきり嫌うことができたなら、今頃奴は元気に悪態をついていたはずだ。それができないということは、彼への愛を捨てられずに葛藤していると考えていいだろう」
 この男は冷酷なようでいて人の心をよく分かっている。そういえばかつては精神科でカウンセリングもしていたらしい。
「一条さんにも話してあるが、この後はしばらく奴を甘やかす方向でいく」
 甘やかすというとあの一条新が旭を口説いて甘い言葉を囁くイメージだが、実際は棒読み演技の無表情だ。
「でも、発情期に一条さんがラット状態にならなければ、結局相手をするのは私なんですよね?」
 どれだけ普段が幸せな生活でも、発情期にやってくるのが一条新ではないなら意味がない。
「自信がないなら他の者に代わってもいいが」
 他の人間に触られるのは嫌だ。そう思った時にはもう口が動いていた。
「いえ、やります。私も彼に好かれればいいんですよね」
 旭に何の負の感情も与えず、幸せな気持ちで満たすことができた時、きっと彼は自分を受け入れてくれる。妊娠してくれる。
 そう信じるしかなかった。

***

 それから少しして、旭はあの部屋へ戻ることになった。その日の映像は録画で見たが、側から見ていてもそれは茶番だった。
 突然旭にベタベタと求愛する一条新に、旭も最初は戸惑っているようだった。しかし徐々に絆されてしまったのか、特に夜二人でスケッチブックを覗き込んで以降は、旭も一条新を前のように受け入れていた。
 意味が分からない。こうやって監視されながら、作り物の愛情を与えられて、幸福感を得て、そんなものはただのディストピアだ。一条新は研究所の指示で態度をコロコロ変えているだけだと旭も分かっているはずなのに。あの旭がなぜそれを受け入れられるのか、心底理解不能だった。

 それから彼らの蜜月は始まった。陳腐な表現をするとラブラブというやつだ。
 しかし、実際はそうではない。
「一条さん、あいつもうメロメロじゃないですか」
 コミュニケーションルームで昼食におにぎりを食べているところに、どこからかそんな会話が聞こえてくる。すぐに何人かの研究員と一条新が現れた。
「私としても少し驚いています。インターンの彼に母の話をされた時はどうなることかと思いましたが」
 庸太郎は彼らの席に背を向けているが、チラリとこちらに視線を向けられたような気がした。
「一条さんに恋人がいても、一条さんの母親が親の仇を無罪にした弁護士でも、それでも好きってすごいですよね」
「すごいというか、馬鹿なんだろ」
 研究員らの下品な笑い声が響く。
「彼にはきっと愛された経験がないんでしょう。唯一愛してくれた肉親はもういない。彼はもう私しかいないと思い込んでいる」
 旭を愛している人間ならここにいる、そう名乗り出てやりたかった。ぐっと堪えると、まだ半笑いの研究員が先を続ける。
「しかし、一条さんは研究協力が終わったらここを出ていくわけですよね。その時、奴はどうなるんでしょう」
「この前のように身体を壊して実験体として使い物にならなくなっては困りますからね。私は先に外に出るがいつまでも彼を愛している、ということにして、たまに手紙でも送るのはどうでしょう。書くのはもちろん法律事務所の事務員か誰かにやらせますが」
 そこでまた研究員たちから笑いが起こる。
 何もかもが許せなかった。
 旭を騙す連中も。偽の愛情だと知りながら一条新を思い続ける旭も。
 まともな思考を持っているのは自分だけ。旭をこの狂った空間から助け出して目を覚ましてやれるのは自分だけ。
 庸太郎の中の怒りと決意は青白い炎のように揺らめいていた。

***

 それから約3ヶ月は変わりのない日々が続いた。
 あの部屋の中で旭と一条新は新婚のように生活し、発情期で一条新がラット状態にならなければ庸太郎が旭の相手をする。その時の庸太郎ははっきり言って邪魔者以外の何者でもなかった。
 不思議なのは、旭だけでなく一条新からも庸太郎を疎ましく思う空気が出ていることだ。これは前からもたまにあった。冷たい空気が圧縮されてのしかかってくるような、殺意すら感じられるほどの視線。
 一条新は本気で嫉妬しているんじゃないか――庸太郎でさえそう思ってしまうのだから、旭が彼に騙されるのも仕方ないのかもしれない。
 研究所内のパソコンからは、旭の部屋のリアルタイム映像もアーカイブ映像も自由に見られる。庸太郎はいつも共同研究室でそれらをぼんやり見ていた。
 どうやらこれは昨夜の映像だ。リビングのソファに座った二人は、支給されている商品カタログを仲良く覗き込んでいる。
「今頃世間は夏休み真っ盛りか。ここプールとかないんだよなー」
「風呂場に水を張ってプール代わりにするのはどうだろう」
「なるほど、それで水着も着る感じ?」
「水着はなくてもいい」
「何でだよ。プールの気分になるなら気持ち的に……あ、お前エロいこと考えてんな」
「いや、そういうわけでは……旭、この水着はどうだろう」
「は!? なんだよこの布面積、しかも後ろ丸見えだし! ムッツリエロ魔神!」
 怒った旭はクッションを新にぶつけてどこかへ行ってしまう。しかし新は懲りずに彼の後ろをついていった。
 どんな水着が提案されたのかは見えないが、正直、セクシー水着の旭は庸太郎も見てみたい。あんなイケメンが、下半身には男を誘ういやらしい水着を付けている姿を想像する。平均以下のサイズのもっこりを包んでいるだけで、後ろの穴はノーガードなんて最高だ。
 リビング外の廊下の方のカメラに現れた二人は何かをコソコソ耳打ちしている。まさか、「今度着てやるから」なんて約束をしているんじゃないだろうな――赤くなっている旭を見てそんなことを考えてしまう。
 まるで彼らが庸太郎に見せつける目的でイチャついているような被害妄想になりそうで、それ以上見るのは精神衛生上やめにした。
 時刻は夕方の六時半過ぎだ。特に仕事も頼まれていないのでさっさと帰宅してしまおう。と、共同研究室を出た先のエレベーターホールに三人の男がいた。二人は白衣を脱いで帰宅モードの研究員、もう一人は一条新だ。最近彼は研究員たちとよく食事に行っているらしい。
「中宮君、今日はもう帰るの?」
「はい、皆さんはお食事ですか?」
「そう、軽く飲みに行こうかって」
 庸太郎と一人の研究員がそんな会話をしている後ろで、もう一人の研究員は新の身体検査をしていた。
「一条さんなら問題ないはずなんですけど、一応規則なんで」
「構いませんよ。財布しか持ってませんから」
 本人が言う通り、彼は白いシャツと黒のスラックスで手ぶらだ。ポケットに入った財布以外は何も持ち出せないだろう。
「中宮さんも良かったらご一緒にどうですか?」
 一条新から思ってもみない誘いが飛んできた。
「たまにあの部屋にいらっしゃった時に話をする以外、プライベートでお話ししたことがなかったので、あなたに興味があります」
 口調は柔らかいのに、その目の奥には相手に拒否権を与えない強い意志が見えている。庸太郎は気圧されるようにしてつい頷いてしまった。

***

 連れて来られたのはチェーン店の居酒屋だ。研究員と一条新は最近のニュースや新薬の治験情報等を肴に料理とビールを楽しんでいる。まだ学生の庸太郎にとっては分からない話も多かった。
「そういえばこの前Ωの軽度フェロモン過多症に対するうちの薬がやっと承認申請に進んだんですよ」
「ああ、確か例のΩが研究所に来た初期に投与してたあれか。あいつにはかなりの量を使ったんだけど結構副作用で吐いてたから、治験では軽度フェロモン過多症の対象に絞ったんだっけか」
 さらりと恐ろしいことを話している。予想していた通り彼らは正式な治験より前に旭の身体を実験台として使っているのだ。国に何の届出もされていない、審査もされていない危険な人体実験で、動物に近い扱いを受けている。法律も省令も何もかも無視だ。
「それは彼にも是非報告しておきましょう。薬が市販されるまでは長い道のりなのに、7年待っても進捗がないといつも怒っていますから」
 一条新はそう言いながら研究員たちのグラスにビールを注いだ。
「まあ無知な方が便利なところはありますがね。彼は自分の飲んでいる薬が治験中のものだと思ってくれていますが、まさか治験開始前の物とは思ってもいないでしょう」
「知識のある人ならすぐ分かるんですよ。説明もしない、同意も取らない、途中でやめる権利もない――そんな治験はあり得ないってね」
 研究員はかなり酔っているのか饒舌になってきたが、幸い周囲のテーブルに他の客はいなかった。
「しかし安全性の確認が取れていないからこそ、あの部屋にカメラを付けてきちんと見守っている訳ですから、その点はしっかりしていると思いますよ」
 一条新のその言葉で、あのカメラの意味を理解した。逃亡や自殺を防止するためだとか、晒し者にして彼の尊厳を踏み躙るためだとか、それ以前の目的があったのだ。薬の副作用で何か異常が起きたらすぐ、上階にある病院の集中治療室に運び込めるように。
 旭をこのままあそこに置いておくのは危険だ。かつての庸太郎は、旭を誰かに取られるくらいなら、ずっとあそこに閉じ込めておくほうがマシだと思っていた。しかしそんなことを言っていられる状況ではない。
「中宮さん、大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが」
 ふと気付くと横に座った一条新が庸太郎を窺っていた。
「ああ、飲ませすぎたかな?」
「彼は車通勤なので飲ませてませんよ。でも、そろそろお開きにしますか」
 そうして店を出た後、研究員二人はそのまま近くの社宅へと帰ってしまった。本来はこの一条新を研究所に連れ戻す責任があるはずだが、庸太郎の車が研究所の駐車場にあると聞き、一条新を送り届ける任務を庸太郎に丸投げしたのだ。どうやら彼らは一条新が逃亡することはないと確信しているらしい。
 仕方なく二人で研究所へと歩き出そうとしたその時、背後から呼び止められる。
「中宮さん、もう一軒付き合っていただけますか」
 まただ。お伺いを立てているようで、こちらから断る余地はない空気になる。
 そのまま連れていかれたのは小さなダイニングカフェだった。隅にある二人がけのテーブルにつくと気まずい沈黙が流れる。
 目の前の男はコーヒーを二人分頼んでから庸太郎をジッと見つめてきた。
「あなたは本当にあの篠原旭が大事なんですか?」
 想定外の話題に一瞬戸惑う。もっと小難しい話をされるのだと思っていたから。
「どうして、そんなことを……?」
「発情期中あなたは彼に酷い仕打ちをするのに、私や研究員が彼の話をする時は苦い顔で黙っているので、彼を大事にしたいのかそうでないのか不思議で」
 一条新が軽く首を傾げる。その澄ました顔になぜだか無性に腹が立った。
「大事に決まってるじゃないですか。幼馴染で、ずっと憧れてきたんです。でも、発情期のあのフェロモンだけはどうにも駄目で……頭がおかしくなる。独占欲と支配欲と嫉妬で、自分でも制御できない」
「それは彼のフェロモンが悪い……そういう認識ですか」
 淡々とした口調なのに、何となく責められているような気がしてさらに苛立ちが募る。
「旭のフェロモンでも反応しないあなたには分かりませんよ。生まれつきの体質であなたは旭を襲わない。だから好かれている。でも俺にそんな特殊能力はない。不公平じゃないですか」
「もし私と同じ体質であったなら、あなたは篠原旭に好かれていたと思いますか?」
「そんなこと、何度も夢見ましたよ。あの日――そういえばあなたもいましたよね。あの養護施設で旭をレイプせずに済んでいたら、彼との関係はどうだっただろうと。いや、もっと前に時間を戻して、旭がΩだと分かった時からずっと彼を支えていたらって……」
 無意識の内に、涙が一つポロリと溢れていた。目頭を押さえて俯いたその時。
「……分かった。君がそう言うなら信じる」
 目の前にいる男の雰囲気が急に変わった。いつも旭とあの部屋にいる時の彼だ。
「正直、君の言い分にはいくつか言いたいこともある。が、旭を想う気持ちは確かにあるようだ」
「何なんですか、急に……まるで、あの部屋にいる時のような……」
「ああ、疲れるんだ。Ω嫌いの澄ましたαを演じるのは。元々コミュニケーションは苦手だ」
 演じる――あの部屋にいる時の方が演技だと思っていた。しかし、コインの表と裏を間違えていた。こっちが本当の一条新で、研究所内で研究員と話をしていた時の方が偽物だった、ということだろう。何時間か前に見た監視カメラの録画の中で、旭にセクシー水着を提案していた姿がこの男の実態らしい。
 テーブルに運ばれてきたコーヒーに、彼は大量の砂糖とミルクを入れた。あのコミュニケーションルームではいつもブラックで飲んでいたくせに。
「一条さん、あなたの本心はどっちなんですか。旭を……愛しているのか、Ωとして見下しているのか」
「俺はここに来る何年も前から旭を愛している。運よくΩのフェロモンに反応しない体質だったおかげで、旭を助けるためにここに来て、研究所から信頼を得るためにΩ差別主義者のフリをしているんだ。君の反応を見ると、案外俺は上手く演じられていたようだ」
 彼はどこか得意気にそう言ってコーヒーを口にした。
「俺にそれをバラして何の目的があるんでしょうか」
「そう、その話がしたい。単刀直入に言うと、旭をあそこから逃がすために協力してほしい。君が旭のことを本当に愛しているならば」
 この男は気に食わない。しかし、旭をあの環境から助けたいのは同じ気持ちだ。先程の居酒屋での会話を聞いてその気持ちはさらに強まっていた。
 それにうまくいけば旭との仲を修復できるかもしれない。旭に感謝されて好きになってもらえるかもしれない。
 そんな下心も抱えつつ、庸太郎は恐る恐る頷いた。
「俺も、旭を助けたいのは同じです」
 新はまるでこちらの真意を見定めるように庸太郎を観察してから、徐に口を開いた。
「ターゲットは二つある。一つは旭があそこで軟禁生活を強いられている証拠。それはもうこちらで準備ができている」
「証拠?」
「映像だ。ちなみに無駄だと思うが聞いておくと、君は研究所に出入りする時どんな手続きをしている?」
「一階の病院の受付で荷物を預けて、カードキーと白衣を受け取ってます。一緒に持ち込めるのは財布とその日の食事関係だけ」
 企業秘密も多数ある研究所だからだろうか。カメラ付きの携帯電話は持ち込ませてくれない。
「帰りも同じように何か変な物を持ち出していないか身体検査を受けてから、カードキーを返して荷物を受け取っています」
「やはり、君にあの証拠を持ち出してもらうことはできないようだ」
 彼は独り言のように呟いた。その証拠とはどのようなものなのか、こちらに教えるつもりはなさそうだ。
「もう一つの目的は、あの研究所が行っているΩ差別の教育について明らかにすること。あそこは過激派のΩ団体と繋がりがあるかもしれない」
「旭を助け出すことと何の関係が――
「それについてはいずれ話す。正直、君のことはまだ百パーセント信用していない。旭を助けたいという割に、君は彼の窮状を外部に告発することすらしていないんだからな」
 疑いの眼差しを向けられて庸太郎もついムキになる。
「証拠もないのに騒ぎ立てたって誰も信じないでしょう」
「まあ、そうかもしれないが。ちなみにこの二つ目の目標を達成するまで、旭の軟禁について外で騒ぎ立てるのはやめてほしい」
 協力するとは言ったが彼の指示を受けるのは少し癪で、つい嫌味を言いたくなった。
「俺を信用していないと言うなら、あなたが旭を助けるために潜り込んだスパイだと、俺が研究員たちにバラす可能性も考えたんですよね?」
「Ωに同情的で怪しまれている君と、Ωを徹底的に見下して彼らの信頼を得ている俺と、どちらの言い分が聞き入れられると思うんだ?」
 それには確かに何も言い返せない。この男があそこの研究員とアンチΩ思想で固く結ばれているのはよく見てきたからだ。
「そこで話を戻すと、あそこの研究員たち、少しおかしいと思ったことはないか?」
 質問の意図が釈然としないが仕方なく応える。
「もちろん変だと思ってますよ。初期の頃から旭への風当たりが強くて違和感がありましたけど、明らかにおかしいと確信したのは旭がエクササイズルームで強姦されていたのを見た時です。あなたもあの研究所の仲間だと思ってましたけど」
「おそらく、そういう性質の研究員が集められているんだ」
 彼の瞳には冷たい怒りのようなものが見える。この男は本当にあの研究員たちの仲間ではなかったのだ。
「そういえば前に研究員から聞きました。俺が少し旭に同情するような態度を取った時、『それだとここを追い出される』と」
「そう、元々Ωへの差別意識が強い者だけが残るようになっている。問題はそれをどう増幅させているのか。君はこれまでそういったΩ差別に関する話をされたことは?」
「ないです。いつも資料整理や実験の補助を頼まれるくらいで」
「資料整理……その中に何か気になるものはなかったか? 各研究員への教育記録だとかプランだとか」
「ありませんよ。単なる先行研究の論文や実験のデータばかりです」
「……使えないな」
 彼は無表情でボソッと呟いた。
「聞こえてますけど」
「まあいい。とにかく、あの研究所が組織的にΩを差別していると思われる教育か何かがあったら報告してほしい」
「それだけ、ですか? それで本当に旭は助けられるんでしょうか」
 少し身を乗り出すと、テーブルが揺れてコーヒーの上に波紋をつくった。
「逆に聞くが、それなら君のプランは? 旭を助けたいと言ったが、どうやって助けるつもりだった?」
「それは、旭の不妊体質の仕組みが明らかになれば、出られると思って――
「それで、毎月子作りに励んでいる、と」
 彼の言葉には棘が含まれていた。というか360度どこもかしこも棘しかなかった。
「嫉妬ですか?」
「そんな単純な言葉では表せない。俺は君が嫌いだ」
 彼は一度こちらを睨んでからふいと目を逸らした。
「いい大人が言うセリフじゃないですね」
「旭もきっと君のことは好きじゃない」
「な……それは旭が決めることで、あなたが勝手に代弁することじゃない」
 そう言い返すが、彼は子供のように大きく首を傾げた。
「代弁? 本当のことだ。旭が好きなのは俺だから」
「なんで、そんな……」
「旭には大体伝えてある。あのスケッチブックを介して。俺が旭を助けるためにあそこにいることも、弁当を持ってくる恋人なんて偽装に過ぎないことも、俺が旭をどれだけ愛しているかも、旭は全部承知の上で俺が好きだと言っている」
 確かに、彼らは夜ベッドに座って二人でスケッチブックをシェアしていることがあったが、まさかそんな意思疎通に使っていたなんて。いつも研究員たちに恋人ごっこと揶揄されていたものが、ごっこではなく本当に両思いだったのだ。
「つまり、旭を助けるために協力しても、あそこから出た旭はあなたのところへ行くわけですよね。こちらに協力するメリットはない、と」
 結局彼ら二人をハッピーエンドに導くサポートでしかない。
「だから最初に聞いたんだ。旭を本当に愛しているのかと。本当に愛しているなら見返りは求めずに助けようとするはずだ」
 彼との会話はいつも何か責められているように感じる。だからつい反抗したくなるのだ。
「そういうあなたはどうなんですか? 旭からの見返りを求めていないと言い切れますか?」
 彼はコーヒーカップを持ち上げようとした手を止めて、じっと考え込んでからやっと話し始めた。
「確かに言い切ることはできない。が、自分の利益よりも旭の安全と解放が最優先だ。そのためなら、君に協力を求めることも自分を犠牲にすることも厭わない」
「どうして、そこまで……」
「旭も君も不思議がるが、何がそんなに変なのか分からない。俺にとって旭は神に等しい存在だ。旭が一番で自分は二の次に考えるのは当たり前だろう」
 表情一つ変えずにそう言った彼を見て、庸太郎はようやく理解した。旭を求めて自分と競い合っているこの男が、かなり「ヤバい奴」だということに。
 この男に勝ち目なんてないんじゃないか。頭の中で黄色信号が点滅し始める。しかしまだ負けたくない。こいつに何か一矢報いたい。
 庸太郎は確実に彼の穴を狙うことにした。
「そこまで旭を崇拝している割に、あなたの作戦は旭を傷付けたじゃないですか。あなたに恋人がいると思って旭がどれだけ胸を痛めたと思いますか? 旭が研究員にレイプされて俺が助けたあの日、何があったのか結局あなたは知らないままだ」
 予想通り、彼はそこで僅かに眉間に皺を寄せた。
「何があったのか知りたいのはこっちの方だ」
「旭はあなたのために弁当を作っていたんですよ。しかしあなたは旭の提案を蹴った。誰にも食べてもらえずに捨てられそうになっていたのを偶然俺が回収したんです。そして旭は気晴らしにエクササイズルームへ行った。予定外のことできちんとした見張りもなく、そこであの事件が起きた」
 旭からは言うなと言われていたが、もうそんなことは関係ない。言葉が次から次へと溢れ出る。
「まだありますよ。あなたは自分の母親のことも旭に隠していた。最初から知っているのと後から知らされるのではダメージが違うんじゃないですか? そして今も旭はずっと研究員たちの笑い物にされている。嘘の愛情に喜ぶ馬鹿なΩだという扱いに彼はじっと耐え続けている」
 研究員たちが旭を嘲るたびに、庸太郎も嫌な気持ちになっていた。それが旭本人ならどれだけの痛みだろうか。
「あなたの旭救出作戦は、旭を傷付ける前提で計画されていて、旭の強さに甘えている。そんな人間に『本当に旭を愛しているのか』なんて説教される筋合いはないと思うんですけど」
 何も反論することなく黙って聞いていた一条新だったが、その表情は明らかに暗くなっていた。
「それは、全く君の言う通りだ」
 悪あがきのつもりでちょっと文句を言ってやっただけのつもりなのに、かなりのクリティカルヒットだったらしく、彼は俯いて何かを考えている。
「俺が旭を助ける過程でしてしまったことについては、旭を助けた後で旭が審判を下すだろう。俺はそれを受け入れる。そして旭に付けた傷を癒やす義務を自分自身に課して負い続けるつもりだ」
 言い返す言葉は他にいくつもあるはずなのに、彼は何の言い訳もしなかった。
「旭がΩである以上、ある程度傷付くことがあるのは仕方ないとは思わないんですか」
 項垂れていたはずの一条新は、庸太郎の言葉に対してはっきりと首を振った。
「旭はその思考が嫌いだ。αだから仕方ない。Ωだから仕方ない。生まれつきこうだから仕方ない。旭はいつもそんな思考に抗おうともがいている」
 庸太郎の中で点滅していた黄色信号は、いよいよ赤になってけたたましく警鐘を鳴らし始めた。

 俺は今までどんな思考で生きてきた?
 旭をレイプしてしまったのは俺がαだから仕方ないことで。
 俺が薬学の道に進んだのは、俺が理系科目――特に化学が得意だったからなんとなくで。
 俺がΩのためになる職を目指しているのは、親が親Ω派の政治家だからで。
 生まれつきの性別と能力と家庭環境が敷いたレールの上を進んできた。何に抗うこともなく。

 小学生の頃、庸太郎は地味キャラとしてクラスメイトから弄られるがままだった。平凡に生まれたのだから仕方ないと受け入れていた。あの時旭が何かに苛立っていたように見えたのは、他の誰でもない、庸太郎のその態度が気に食わなかったのだ。
 一条新さえいなければ、旭を手に入れられると思っていた。しかしこの男がいようがいまいが、自分が旭に好かれる可能性は最初からなかったのではないか。
 しかし、生まれつきの能力や性別も込みで選択することはそこまで嫌われるほどの悪だろうか。文系だとか、理系だとか、運動神経がいいだとか、そういった理由で進路を決めるのは至って普通のことだ。恋愛ものの物語のまだ序盤で、αとΩが事故で身体の関係を持ってしまい、お互い「仕方なかった」と許し合うのも普通によくある展開だ。
 そこまで考えて庸太郎はやっと気付いた。

 普通――そう、俺は普通で、旭は普通じゃない。そして目の前のこの男は、普通じゃない旭に追いつくために走っている。
 俺は空の高いところを飛ぶ旭を撃ち落とすことばかり考えていた。この男は、旭と同じところまで自らも飛ぶことを考えた。
 勝てない。無理だ。

 諦めが手足の先からじわじわと浸透していく。しかし、ここで諦めたら今までと同じだ。無理だと思ったことに何も挑戦せず、手が届きそうなものだけを選ぶ人間に、旭は振り向いてくれない。
 変わらなければ、手に入らない。
 庸太郎は意を決して目の前の男を見据えた。
「旭がそう言うなら、俺も抗おうと思います。あなたと旭のハッピーエンドに対して。まだ俺にも逆転のチャンスはあると信じて、旭をあそこから助け出したい」
 たとえそれが、旭と一条新を幸せにするだけだとしても、ここで諦めてしまえば可能性はゼロだ。
 決意した庸太郎を見て、一条新は無表情を僅かに顰めた。
「それだけの執念があるなら、君はやっぱり旭を本当に愛しているのかもしれない。……鬱陶しいが」
「本音が漏れてますよ」
「俺はコミュニケーションが苦手だ」
 旭がなぜこんな変な男を好きでいられるのか、やはり納得がいかなかった。

 店を出て研究所への道を戻りながら聞いたところによると、あの店はオーナーがΩの女性であり、それ故に研究員たちからは避けられているそうだ。
 今後も何かあったら新の方から庸太郎を食事に誘うから、今日のようにうまく研究員たちがいなくなったら二人でこの店に寄ることになった。
 白峰十字病院のフェンス沿いを歩く途中、新は敷地内の駐車場を見ていた。というより、この男は研究所内を歩く時も周りをよく見ている。
「いつも何をそんなに見てるんですか」
「監視カメラの有無、守衛室との距離……ところで君の出勤日は?」
 唐突に話が切り替わった。
「え? 月木金です。大学で授業がある時は午後からこっちに来てますけど」
 彼は曜日を覚えるように「月木金」と小さく復唱した。
「もしどうしてもうまくいかない場合、強行手段に出る」
「というのは?」
「実は風呂場の鏡の裏に穴を開けてある。そこから旭を出す」
「いつの間に……。あなたはどうするんです?」
「その時の状況次第だ。一緒に出るかもしれないし、俺だけ残るかもしれない。だから、もし旭一人を先に出すことになったら、君に頼みたい」
 その状況を想像しているのか、彼の言葉には苦味が含まれていた。
「もしそのままあなたが出てこなかったら、遠慮なく旭は俺が引き受けますよ」
「旭がそれを受け入れるなら」
 まるでそんなことは起こり得ないとでも言うかのように、彼は落ち着いた足取りで病院の門へと向かった。

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