Under the Blue Sky 5 | fDtD    
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5

 旭と一条新が両思いだと知ってからは、とにかくやりにくかった。
「旭、大丈夫か」
「ん〜……やだなあ」
 発情前の気怠さでベッドに横たわる旭とそれを甲斐甲斐しく見守る新は、本当に夫婦のようだ。庸太郎が声をかけると「いたのか」と言わんばかりにダブルで不満そうな顔をされた。
 なるべく旭のストレスを排除するため、今回は一条新にはリビングへ退散してもらう。彼が部屋を出て行く時、旭はじっとその背中を見つめていた。
「今月は何すんの?」
「リラックスできるような薬を飲むって」
「発情期なんて興奮状態でリラックスもクソもないだろ」
 悪態をついてはいるが、旭の顔はもう赤らんでいて、声に力強さはなかった。
「旭は目を閉じて。今回は何も話さないから、俺じゃなくて一条さんにされてるって思えばいい」
 想像してしまったのか、旭の顔がさらに真っ赤になる。それを隠すように枕に顔を埋めてから、彼は小さく首を振った。
「……無理。だって俺、もうあいつの匂いまで覚えてるもん。お前とは全然違う」
 一条新が羨ましい。彼にこんないじらしい発言をさせられるあの男が妬ましい。
「やってみないと分からないだろ」
 彼が抱えている枕を奪い取り、代わりに隣にあった別の枕を押し付ける。一条新が普段使っている枕――彼の匂いがついたものだ。
 その瞬間、旭から出るフェロモンの量が明らかに増幅した。庸太郎の理性を飛ばすには十分なほどに。
 今回は優しくしよう。一条新なら旭をどんな風に愛するか想像して、彼を大事に抱いてみよう。
 そんなことを予定していたはずなのに、このフェロモンはどんどん庸太郎の思考力を奪っていく。しかしここで「Ωのフェロモンに負けるのはαだから仕方ない」と思ってしまったら、あの男に勝てない。
 孕ませたいという生殖の本能に抗いながら、当初の計画を思い出そうと試みる。確か最初はキスから始めようとしていたはずだ。しかし旭は枕に顔を埋めてしまっており、これを引き剥がすのは困難だろう。
 というより、今回に限らず庸太郎は旭にキスすることを恐れていた。彼が自分を受け入れてくれていないのは、発情中であってもその目を見れば分かる。その状態で唇など合わせようものなら噛みつかれるに決まっているのだ。生殖行為にキスは必須ではないため、ラット状態の庸太郎は無意識にその行為を避けていた。
 だから結局彼から反撃を受けにくそうなところ――即ち無防備に開いている下の穴に突っ込むことしかできない。防衛本能と生殖本能がそうさせるのだ。
 彼の中に自身を埋め込むと、いつもよりきつく絡みついてくる。言われた通り一条新に抱かれていると思い込むようにしているのだろうか。そう思ったまさにその時、旭の口から小さく「アラタ」という言葉が聞こえた。
 何か酷い言葉をかけて、今旭を犯しているのはあの男ではないと知らしめてやりたい。その嫉妬と欲望を何とかセーブする。旭を妊娠させるにはこのままでないといけないからだ。
 新に抱かれているという妄想で旭に幸福感を与え、彼を妊娠させる。ただし生まれるのは庸太郎の子だ。林が立てたその計画が成功すると信じて、庸太郎は黙ったまま旭の中に精を流し込んだ。
 目の前に旭の白いうなじがある。ここを噛んでしまえば、旭と新が両思いだろうが、全てをぶち壊すことができるだろう。フェロモンが庸太郎にしかきかなくなった旭は、実験体として欠陥品になり、彼をここから出してやれるかもしれない。
 しかしその先は?
 旭は決して許してはくれない。旭は庸太郎の子を産むこともない。結婚すらしてくれないだろう。
 そうなることを分かっていて番になる意味などありはしない。
 卑怯な手を使ってしまったら旭の心を振り向かせることはできないと、ラットの暴走状態になった頭でも分かっているのだ。
 だからまずは彼を妊娠させてここを出てから、旭に愛してもらえる人間になれるように頑張ろう。そこで旭に認めてもらってやっと正式な番になれるのだ。

***

 それから少しして、この研究所は会社の経営判断で大きく変わることになる。庸太郎がいつも仕事のない時に使っていた共同研究室もなくなるとのことで、暇な時はコミュニケーションルームで待機することになった。
「あ、中宮君。一条さんがパソコン使いたいらしいからお願い」
 研究員からの依頼であの二人の愛の巣へと向かう。共同研究室が無くなったため、一条新も仕事の関係でパソコンを使いたい時は臨時で作った空室を使っていた。
 そしてさらに、彼は旭の次の発情期を最後にここを去ることになっていた。しかし、旭の救出作戦がどうなるのか、庸太郎は何も聞かされていない。
 チャイムを鳴らしてから二重扉を抜けると、部屋の中は甘い匂いで満ちていた。
「うーん、甘すぎたか?」
「これくらいでいい」
「お前が好きな味ってことは子供向けか」
 中から聞こえる会話から察するに、どうやら何か料理を作ったらしい。
「一条さん、迎えに来ましたよ」
 キッチンに顔を出すと、二人は皿一杯のクッキーを摘んでいるところだった。
「何を作ったんだ?」
「カボチャのクッキー。外の世界はそういうシーズンだろ?」
 こんがり焼けた山を見ていると、不意にその視線を遮るように一条新が立ちはだかった。お前には一枚もやらないぞ、という意思表示らしい。
「とにかく行きますよ」
 名残惜しそうにクッキーを振り返る新に、旭は「残しといてやるから早く行け」と声をかける。そもそも呼び付けたのは新の方なのに、まるで二人を引き裂く悪人のような役回りにされるのは不本意だ。
 渋々といった様子の新を部屋の外に連れ出すと、彼は急に澄ました顔で話しかけてきた。
「お呼びしてすみません。どうしても確認したいメールがあったので」
「……いえ」
 彼のこの変貌を見るたび、まるでサイコパスだと思う。魅力的でスマートな人物の仮面を被っているが、その本体はアレなのだから。
「そういえば今夜、何人かの方と夕食に行く予定なんですが、中宮さんも久々にどうですか?」
 これはつまり「話したいことがある」という意味だ。彼がここを去る日が近付き、いよいよ何か動きがあるのだろう。
 庸太郎は神妙な面持ちになりそうなところを堪え、「そうですね」となるべく軽く応えた。

***

 夕食の席の話題は会社への愚痴で持ちきりだった。やれ予算を削られるだの、やれ個室がなくなるだの、皆会社への不満が爆発している。一条新はそんな話をうまいことあしらいながら、彼らのグラスに酒を注ぎ足していた。
 案の定、酔った彼らは一条新の送り届けを庸太郎に任せてふらふらと帰っていった。

「来週の金曜日に旭を外へ出そうと思う」
 歩きながら新は唐突にそう言った。
「……あなたは?」
「残るつもりだ。残念ながら証拠が全然揃っていない」
 ちょうど研究所のフェンス越しに駐車場が見えてくる。
「夕方、普通に退勤してから駐車場で待っていてほしい。停電が起こって少ししたら、旭がメンテナンス用の通路から地下の堀の外へ出て、駐車場近くで地上に上がってくるはずだ」
 彼は研究所の建物脇の辺りをじっと見ている。おそらくその視線の先が旭の脱出予定ポイントなのだろう。
「あそこは入り口とも非常口とも離れているから監視カメラはない。しかし駐車場の出口はカメラも守衛もいるから、そこは旭を伏せさせるなりトランクに入っててもらうなりしてくれれば」
「その後はどうすればいいんですか? 俺の家に連れ帰っていいんでしょうか」
「それは絶対駄目だ。旭の家や旭の伯父さんの家ももちろん駄目だ。晴海法律事務所というところに連れて行って欲しい」
 彼は庸太郎に何かメモとペンがないか聞いてきたので、鞄の中にあった大学のノートの切れ端とボールペンを渡した。
「住所はこれだ。いつも俺に弁当を持ってきてくれるあの女性が晴海さん。俺の母の友人で弁護士だ」
 どうやらあの恋人役はかなり歳上だったらしい。
「旭はこの事務所で寝泊まりするんですか?」
「いや、同じビルの上階に俺の部屋があるからそこへ」
「あなたの部屋って研究所の奴らが探しに来ませんかね」
「研究所には俺の住所として違う部屋番号を伝えてある。亡くなった母が使っていた部屋で、今は晴海さんがいる」
 一条新の家を訪ねると恋人役の彼女が出てくる仕掛けとは、実に用意周到だ。
「それにあの監視カメラの記録を見れば、今まで俺が旭に居住地を教えていないことは明らかだ。旭が俺の自宅を知る術はないと踏んで、あのビル自体追手が行く可能性は低いだろう」
 確かにそれはそうだ。というか旭はおそらく一文なしで逃げ出すことになるわけで、その状態で東京まで行けると考える方が難しい。
 そう考えると、旭を車で運ぶ役割というのは非常に重要だ。その間旭が頼れるのは庸太郎だけになる。
 そこでふと、一条新はいつ旭の元に戻るのだろうと気になった。
「あなたの証拠集めというのは大体どのくらいかかりそうなんですか?」
「分からない。そもそも旭がいなくなれば実験終了で俺も家に帰される可能性があるが……。なんとかあそこに居座って、まずは体調不良を言い訳にして崎原という医師に近付くつもりだ。それで一つ証拠を取り返せる」
 彼が集めている証拠は二つと言っていた。二つ目は確か、あの研究所がΩ差別思想を教育している証拠だ。しかしあそこは外部の学会参加を研修時間に換算していて、社内研修などはほとんどやっていないように見える。
 つい最近の記憶を掘り起こしていると、一つ思い出した。
「そういえば、この会社は4月から9月までの上半期の人事評価を10月にやってるみたいなんですが」
 いつもきょろきょろと辺りの様子を窺っている新が、今日はゆっくりと庸太郎に視線を向けた。
「一部の人は林主任と1対1の面談が組まれているようです。研究所を追い出されるか居残るか、決めているのはここだと思いますよ」
 新は「なるほど」と独りごちた。
「なら崎原医師の次は林主任にアプローチする。年内には研究所を離れたい」
 そうなると2ヶ月――結構長いな、というのが庸太郎の印象だった。そもそも、彼は旭を逃した後この研究所内を自由に捜査できると思っているようだが、旭を逃した共謀者として疑いの目を向けられた場合、最悪二度と出てこられない可能性もある。
 旭は長期間彼と離れても精神的に大丈夫だろうか。彼の帰りを待つことができるだろうか。
 そう考えた直後、なんでそんな心配をしているんだと我に帰る。旭と彼が長期間離れ離れになるなら、彼から旭を奪うチャンスのはずなのに、そんな思考は微塵も思い浮かばなかったのだ。
 心のどこかでは認めてしまっていたのかもしれない。旭を助けようと裏で努力している一条新の思いの大きさを。

***

 決行の日は予想より遥かにスムーズに事が進んだ。
 頃合いを見計らって退勤し、ちょうど病院の受付で預けていた荷物を受け取ったところで電気が消えた。
「停電でしょうか。大丈夫ですか?」
「ええ、生命維持に関わる機械は瞬時に別の電源に切り替わっているはずです。この辺りは復旧に時間がかかるかもしれませんが……」
 受付の女性とそんな白々しい会話を少し続けて時間を潰してから、まだ暗い病院を後にし、予定の場所で待つ。すると、本当に旭が梯子を登って出てきた。庸太郎に驚く旭を連れ、監視カメラの範囲外に停めた車に乗せればあっさりと研究所から離れることができてしまう。トントン拍子で怖いくらいだったが、これも全て一条新が計画していたからこそできたことだ。
 バックミラーの中で、旭は流れゆく景色を見つめている。夜の灯りを反射してその瞳がキラキラ輝いているかと思ったら、彼は不意にこちらを向いた。
「お前はどこまで知ってるんだ?」 「一条さんからは先々月あたりから、協力者になってくれないかって頼まれてたんだ。部屋の外で二人きりになれた時に話をしてて……最近一条さんは研究員の誰かと食事に行くのも許可されてたから」 「協力者?」  旭から疑いの眼差しを向けられる。 「あの研究所が、過激派の反Ω団体と繋がりを持ってるんじゃないかって。職員に対してどんな教育がされているのか、インターンの俺を通じて確認したいって言われた。俺も旭がレイプされてるのを見た時から、あそこは何かおかしいとは思ってて、旭のためって名目であいつと俺は一致したわけだ」 「確かにここの研究員たちは俺に冷たい奴が多かったけど、反Ω? 教育? そんなこと、あり得るのか?」 「さあな。俺はインターンで学生だから、この研究所に入り浸ってるわけじゃない。特に教育って言われるほどのことも、まだ何もされてないんだ。教育する対象を選んでるのかもしれない」  おそらく、庸太郎は選ばれなかった。最初の面接ではΩ差別者として見込みありと判断されたのだろうが、結局彼らの思想に染まり切れず、旭への同情的な態度をたまに見せてしまっていたから。 「あ、アラタの母親が弁護士で、その人が追ってる別件っていうのが、その話……?」  現在進行形でそう言われ、何と答えるか迷った。旭は彼の母親について何も知らないのだろうか。ちょうど赤信号になったのをきっかけに、庸太郎は慎重に言葉を選んだ。 「一条さんの母親なら、ちょうど一年くらい前、去年の今頃に亡くなってる」 「えっ!?」 「旭はニュースは見ないんだったか。路上で刺されたんだよ。旭の両親が亡くなった事件で、彼女は犯人を無罪にしたせいで恨みを買ってた。犠牲者の遺族だったΩに刺されて、その時ちょうど一緒にいた彼女の息子も怪我をした」 「アラタが怪我で病院に行ったらαだって分かったって言ってたのは――」 「おそらくその時の怪我だろうな」 「何で、黙ってたんだろう」  彼の思考回路が庸太郎には何となく分かる。あの男は旭が傷付く可能性を恐れたのだ。 「弁護士を恨んでる遺族のΩ――旭と同じ境遇の人間が罪を犯したってことが、言いにくかったんじゃないか?」 「母親殺されてんのに、俺だってその犯人と同じようにあいつの母親を憎んでるのに、わざわざ俺を助けにくるって、ホント馬鹿じゃねーの」
 言葉は辛辣でも、その声は細く震えている。 「そんなこと、心にも思ってないくせに」  今の旭の言葉を訳すと「そんなにまで自分を想ってくれてありがとう」だ。互いを想い合う彼らのことを考え、庸太郎は思わず呟いた。 「旭がΩだろうが、自分の母親を恨んでいようが、あの人には関係なかったんだ。そんなにまで一途だったからこそ、あの人は旭の心を……手に入れた」 「お前、何、言って――」 「俺、自分で決めてたんだ。もし旭が俺の子供を妊娠したら、何が何でも旭を振り向かせてみせるって」  順番は違ってもいい。子供ができた後でいいから彼に好かれる人間になろう。そう開き直ってここ2ヶ月ほどやってきたが、旭の心が完全に新の方を向いていることを今改めて認識してしまった。 「悪いけど、もう無理だから」
 少し恥じらいながら首筋を抑えた旭を見て、庸太郎は全てを悟った。彼らは番になったのだ。
「は……あの人は、旭に子供ができるかどうかも気にしなかった。俺に勝ち目なんか最初からなかったんだな」
 庸太郎は躊躇ってできなかった。彼と番になって、子供を産んでもらい、家庭を作る――そんな未来予想図が本当に叶うのか不安だったから。
 結局自分にとって旭は、理想の未来を形作るためのパーツに過ぎなかったのかもしれない。
 しかし一条新は違った。彼は未来がどうなるか、子供ができるかどうかなんてどうでもよくて、ただ今目の前にいる旭を、ありのままの旭を愛していた。
 いい勝負をしていると思って諦めずに粘ってはみたが、最初から勝負にすらなっていなかったようだ。

***

 旭を助け出したあの日からもうすぐ二年になろうとしている。世間にあの研究所のことが明るみに出てからは、庸太郎もしばらく警察からの聞き取りや取り調べに協力していた。
 旭はあの場で起こった性的暴行について、刑事民事の両方で訴えることもできたが、結局発情期に実験として送り込まれたαは全員不問とした。
 発情期外で起こったレイプの内、証拠が残ってしまっている者はなんとか裁判沙汰にならないよう旭に許しを乞い、旭の弁護士――即ち一条新はそこそこの示談金で和解としたらしい。旭への暴行がバレた彼らは職や家族も失ったとのことで、旭が裁判に時間をかけてまで制裁する価値なしと判断したようだ。
 そう、彼らはとにかく幸せな時間が惜しかった。なぜなら二人の間には子供が生まれたから。
 あれだけの不妊体質だった旭が、おそらく一条新と再会してすぐに妊娠している。なんとなく予想していた通り、旭の身体はあの男を受け入れたのだ。
 ここまで完全に100対0で負けてしまっては、もう一条新に嫉妬することすらできなかった。しかし未だに旭を忘れることもできず、当然旭以外の誰かに惹かれることもない。
 あの研究所で新が受け取らなかった旭の弁当を代わりに食べた時、昼食の残りがあると言ってあの弁当箱を持ち帰らせてもらった。あの青いプラスチックのケースは今も捨てられずにしまわれている。
 そうやって庸太郎が歩みを止めている間にも、同級生から結婚の報せが届き始めていた。第一号は小学校中学校が一緒だった太一というバスケ友達だ。彼は当時から女子とよく喧嘩をしていたが、なんだかんだで高校時代の彼女とゴールインするそうだ。
 庸太郎は彼と高校は違ったため、結婚式や披露宴の招待こそ来なかったものの、二次会には呼ばれている。地元なので一旦実家に寄ってから夕方時間通り会場に向かう予定だったが、披露宴に呼ばれたメンツから「二次会まで暇だから早めに来い」とのお達しがきた。
 そんなわけで、土曜日の昼過ぎに中学時代の同級生二人と式場最寄駅で待ち合わせしたのである。一人は麻里という女の子、もう一人は康という中学時代のバスケ仲間だ。
「二次会会場ってどこ? 式場の近く? 皆まだ式場にいるなら一旦俺らもそっち行くわ」
 康が電話で披露宴に参加した誰かと連絡をとってそんな会話をし、三人で式場方面へと歩き出す。
「今日誰が呼ばれてんだろ。二次会は中学の同窓会状態になりそうだけど」
 庸太郎は高校が離れてしまったが、ここにいる康や麻里を含め、中学から高校まで同じだった連中が多い。誰それは来るかどうか、なんて話をしている時、ふと麻里が呟いた。
「旭は……来ないよね」
「ああ、あいつ一回テレビも出てたから隠れ有名人みたいになってんな。Ω同士の有名画家の間に生まれた奇跡の子で、白峰製薬の監禁実験の被害者で、そんで今度は本人も画家として個展開催だってよ。すげーよな」
 康は大仰にそう言ってから少し笑った。釣られて神妙な面持ちだった麻里も僅かに表情を緩める。
「しかもほら、結婚相手の方もあの弁護士さんでしょ?」
「そうそう、あの事件の犯人を無罪にしちゃった弁護士の息子でさ、それが事件の被害者遺族と結婚してんだから話題になるよな」
 あの二人は自分たちのミクロな幸せに浸っていてあまり意識していないのだろうが、彼ら二人が結ばれたことは社会的にも影響を与えていた。αとΩ、弁護士と遺族――あの事件で生まれた溝が埋まり始めている。
「旭と小中一緒だったって言うと結構話のネタになるんだよ」
「まあ、中学行ってからは友達って感じじゃなくなったけどな」
「うん、旭ってカッコいい男の子のイメージが強かったから、どう接したらいいのかよく分からなくなっちゃって……。今更謝っても駄目だよね……」
 康と麻里が溜息を吐いたところで式場の入り口が見えてくる。ぞろぞろと出てくる団体の少し後ろに、他より頭一つ大きい男が見えた。
「なんかでかい人いるな」
 康が呟く。庸太郎はあのくらいの身長の男を知っている。一条新もあれくらいの背であんな感じの黒髪だ。
 まあしかし別人だろうと思いながら距離を縮めて顔が見え始めると、徐々に嫌な予感がしてきた。あの整ってはいるが無表情な一条新がチラつくのだ。しかしあの男がここにいるはずはない。
 その時、人の波の切れ目から男の隣にいる人物が目に入った。この距離でも見間違うはずがない。あれは旭だ。
 旭とは電話やメッセージでのやり取りはたまにあるものの、実際に会うのはかなり久しぶりだ。少し緊張している間にも距離は縮まり、隣にいた麻里も「あれって……」と呟いた。噂をすれば何とやらだ。
 旭もこちらに気付いたらしく、抱えていた子供を隣の新に渡してからこちらへやってきた。
「庸太郎スーツじゃん、誰かの結婚式?」
「まあそんなとこ」
 小学校の頃は旭も太一とよく遊んでいたが、言葉を濁した。旭のラフな服装からして、太一の結婚式に招待された風ではない。
 しかし、ではなぜ旭が結婚式場から出てきたのだろうか。
「旭の方はなんでここに?」
「うん、ちょっと……」
 先ほどの庸太郎と同じように旭も言い澱む。その時、背後から現れた新が会話に乱入してきた。
「下見だ。遅くなったが今度結婚式を挙げる。今ちょうど誰を招待するか選んでいるんだが、君は候補に入っていない」
「頼むからお前は黙っててくれ」
 旭が新をど突くのを、康と麻里は呆気に取られて見ていた。身長190センチ越えの男というのは、テレビで見たり言葉で伝えたりするより実際に相対した時のインパクトは大きい。さらに久しぶりに会った旭と、彼らが結婚式を挙げるという情報が加わり、全てを処理するには一苦労だろう。
 すると今度は新の腕に抱かれた子供が庸太郎を指差して「わっ、わぅ」と喋り出した。
「えっと、ミライ君……だっけ。はじめまして」
 よく見なくても新にそっくりだ。子供のくせにじっとりした険しい目でこちらを見てくる。旭の中に何ヶ月も残っていた庸太郎の精子が奇跡的に受精したなんていうことはなく、確実に一条新の遺伝子だ。
 未来が延ばしてきた小さな手に触れようとすると、急にペチッと叩いてきた。旭が「こら」と未来に気を取られている隙にまた新が一歩出てくる。
「ちなみに名前を考える時に真っ先に除外したのが、ヨウタロウ、ヨウ、ヨウタ、タロウだ」
「それはどうも……」
 他に返す言葉がなく、庸太郎はただ苦笑いした。
「黙れってば。初対面の人もいるんだから」
 庸太郎の横にいる康と麻里に今気付いたというように、新は外向けの顔を作った。
「失礼しました。中宮さんのご友人の方でしょうか。彼の知人の一条と申します」
 そこで急に未来は新を指差して「あんた! あった! あるた!」と喚き出したため、旭が未来を抱えて少し離れたところへ移動した。父親の急変にびっくりしたのかもしれない。
「あんたって呼ばれてるんですか」
「あれはアラタと言っています。毎日少しずつ上手になってますよ。そういえばさっき未来があなたに言っていた『わぅ』は、悪者という意味かもしれません」
「態度と口調だけ取り繕っても言ってること酷いですよ」
 少し離れたところでは、式場の塀にかかった花を旭と未来で眺めている。その穏やかな光景に、なぜか身体の中がじんわりと温かくなった。
「久々に会ったんですけど、あんなに幸せそうな旭は見たことがないかもしれない。あんたのことは嫌な奴だと思いますけど、旭が幸せならそれでいいって今ならそう感じます」
 未来が花に触れようとして旭が止めると、今度は旭の手に未来がぱくりと食い付いた。「こら〜」と叱りながらも笑っている旭を見て、尊いという感情に近いものが庸太郎の中にも沸き起こる。これからずっと旭がああやって過ごしていけることを、今やっと心の底から願えた。
「君がその境地にあと十年早く辿り着いていたなら、多分未来は違ったものになっただろう」
 新も旭を見つめながらそう呟いた。二人の視線に気付いたのか、旭がまたこちらに戻ってくる。
「ごめん、未来お腹空いてるみたいでさ、昼飯まだだから早く行った方がいいかも」
 というわけで解散になりかけたその時、新が何かを思い付いたように口を開いた。
「ふと考えたんだが、俺と旭の幸せな姿を見せつけるために、君を結婚式に招待するのもいいかもしれない」
「もう黙れって。これ言うの三回目。黙らないと帰るぞ」
 旭に睨まれて新が首を傾げる。
「この後は公園で紅葉を見るはずだ。そして旭の作った弁当を食べる」
「それしないで家に帰るって言ってんだよ」
 そこで新は何も言い返さずにしっかり黙り込んだ。息も止めていそうなほどで、まるで石像のようになる。
「そういうわけだから。えっと、知り合い? 邪魔してごめん」
 旭は麻里と康にそう声をかけてから新を連れて歩き出す。
「公園結構人多いかな」
「……」
「なあ、何でもかんでも黙れとは言ってないぞ」
「旭の作った弁当が食べられるなら公園ではなく家に帰ってもいい気がしてきた」
「やっぱり黙って」
 そんな会話と共に徐々に遠くなる二人の背中を見ながら、麻里がぽつりと呟く。
「旭はやっぱりカッコいい旭のままだね。ただの型検査の結果で人の本質が変わるわけでもないのに、子供の頃の私は何に怖がってたんだろう」
 麻里の疑問に庸太郎も答えられなかった。きっと皆それぞれに理由があり、それぞれが後悔しているだろう。なぜあそこで今まで通り旭に接することができなくなってしまったのかと。
「それにしても、私たちのこと全く気付いてもらえなかったね」
 寂しげにそう言った麻里に対して康も頷く。
「なんか、忘れられてるっていうか、眼中にないっていうか」
「悪い意味でもいいから、私たちのこと強く印象に残ってると思ってた」
 恨みで覚えてもらっているよりも、忘れられている方がずっと残酷なのかもしれない。
 酷いことをした自覚があって謝りたいのに、その機会も与えられない。
 爪痕くらいは残していたつもりだったのに、綺麗に癒えてしまっている。
 違う、癒されたのだ。旭についた傷は、新しいものも古いものも全部あの男が治している。神に仕える従者のように、毎日毎日。
 空を見れば、二羽の鳥が番でゆっくりと空を泳いでいる。
 幼い頃の庸太郎にとって、旭はまるで遠い青空を滑空する鳶のようだった。地上にいる自分には触れることも叶わないと思い、彼が降りてきてくれることばかりを待っていた。
 そんな庸太郎の姿勢に旭は苛立ちを覚えていたはずなのに、それでもなぜ彼は庸太郎に手を差し伸べ続けてくれたのだろうか。きっと、彼は待ってくれていたのだ。庸太郎が変わることを。
 どうしてあの時、自分は旭と共に飛ぼうと踏み切れなかったのだろうか。どうしてもっと早くに考え方を変えられなかったのだろうか。
 この後悔はきっと一生誰にも癒されない傷として残るだろう。
 さっき見えていた番の鳥はもうどこにもいない。秋の高く澄んだその青い空は、捨てられずに持っているあの弁当箱と同じ色をしていた。

旭の視点だと庸太郎はかなり嫌な奴に見えていたと思うのですがいかがでしょうか。
誰かを仲間外れにするクラスの空気に逆らえないこと、自分の将来を得意不得意でなんとなく決めること、自分に過失があると心のどこかで分かっていても相手側に責任を転嫁したくなることetc… 一つ一つは普通の人間にもあり得ることですが、それらが積み重なって旭の視点ではすごく嫌な奴だったと思います。
私としては「あー、まあこういう人ってね、いるよね……」という平凡な意識低い系が庸太郎のつもりで書いています。
いけ好かないのはそうなんだけど、かといって断罪するほどの真っ黒な悪人でもない——そんなのが現実には多いんじゃないかなと思って。
現実じゃなくてフィクションなんだからもっとバッサリ断罪して欲しい方もいるとは思うのですが、自分の何がダメだったのか彼は敗因をしっかり理解して、今後一生後悔し続けるのでちゃんと地獄が待ってますよ。

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