正しく境界を越える方法 2 | fDtD    
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2

 一週間を無事乗り切れば、週末には智己との約束の日が待っていた。
 昼過ぎに待ち合わせをし、午後一番の回で映画を見る。友達と出かける午後としては、至って普通の過ごし方だ。互いのマンションはどちらも大学周辺にあり、歩いて数分の距離なので、帰りの電車の中から帰り道を歩く間で感想を語り尽くす。もっと遅い時間だったなら、夕飯を一緒に食べたかもしれないが、今日はこのまま互いの家に帰るだけだろう。
 そう思っていたのだが、智己のマンションへ続く分かれ道まであと少しのところで、会話の流れが変わった。
「俺ん家なんて来ても面白くないと思うんだけど——」
「あの映画の前作のブルーレイ持ってるって言ったの信宏だろ?」
 そんな会話をしながら、信宏はぎこちない手つきで玄関の鍵を開けた。本当に何気なく言ったことがきっかけで、智己を自宅まで連れてくることになってしまった。「おじゃましまーす」と言いながら靴を脱ぐ彼に、普段と変わったところは見られない。
 自宅で映画鑑賞会をするのも友達なら普通のことで、意識する方がどうかしているのだ。康太や博樹を家に呼ぶのと同じだと思えばいい。分かってはいても、最近始めたおかしな妄想のせいで、信宏だけが内心焦りを覚えていた。
「智己、今日合コン誘われてたんだろ」
 ベッドに座っている彼をなるべく意識しないようにしながら、部屋の隅に座り込み、乱雑に積まれたディスクの山をかき分ける。
「何で信宏がそんなこと知ってんの?」
「何でって、お前目立つし、色んな人が話題にするから」
「断ったから皆文句言ってた?」
「文句ってほどじゃないけど」
「じゃ、いいだろ」
 目当てのディスクを発掘したものの、信宏はそれを手の中で弄びながらほんの少し考えた。
「智己は……」
「何?」
 促されて、もう一度ごくりと喉を潤す。
「智己は、ああいうのと一緒にいる方が、それっぽいって言うか……なんで俺みたいなのとつるんでるんだろって、すげー不思議なんだけど」
 ずっと気になっていたことをついに聞いてしまった。背後で彼がどんな顔をしているのかは分からない。
「信宏には、話してもいいかな」
「え?」
 思わず振り返ると、ベッドに座った彼がじっとこちらを見下ろしていた。
「俺、多分EDってやつなんだよね」
「……は?」
 大真面目な顔で彼が何を言ったのか、すぐには分からなかった。EDと言われてすぐ思いついたのはゲームなどで使われるエンディングの略称だったが、いわゆる勃起不全のことだと思い至るとさらに頭が混乱した。
「合コン行って彼女とか作っても本番で勃たないし、下衆いシモの話とか気分悪くなるから、あーいう連中と話合わないんだよな」
 綺麗な顔をしてそんな本音を吐き捨てる様子は、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気にさせられた。
「お、俺たちもそういうシモ系の話、するけど……」
「うん、博樹はおっぱいで、康太は幼女、だろ?」
「あ、バレてんだ」
 ばつが悪くなって少し俯いたが、智己は全く気にしていないといった風に話し続けた。
「うん、でも信宏たちのそーいう話ってさ、理想とか憧れ止まりで絶対叶わないっていうか、なんか全然リアルじゃないから平気なんだよな。絶対実現してやるっていう強引さとか、ガツガツしたところがないっていうか」
「さり気なく残酷なこと言うな……。俺たち一生童貞のままかよ」
「信宏もやっぱり童貞仲間なんだ? 信宏、別にそこまで二次元オタクっぽくないし、おっぱいにも幼女にも興味なさそうなんだけど、あいつらと一緒にいるってことは、何か変わったシュミがあんの? お前だけちょっと分かりづらい」
「な、何だっていいだろ」
 大慌てで立ち上がり、見つけたディスクを手にしたまま彼の隣に座った。
「そんで、その、EDだっけ? 治るのか? っていうかなんで、そんな……」
 まだ混乱したまま、思った疑問をそのまま口にしてしまう。聞かなければよかったと思ったが、智己は平気な顔で口を開いた。
「原因は分かってるんだよ。高1の時、通ってた塾でバイトの女子大生に捕まって逆レイプ未遂かけられてさ」
「はい!?」
「なんかすっげえハアハアしてて、俺怖くて勃たなくて死に物狂いで逃げてきたけど、人よりちょっといい顔に生まれたことをあん時初めて後悔したね。あれ以来オナる気力もなかなか——」
「も、もういい」
「そう?」
 必死にこくこくと頷いたが、頭の中では今の言葉が嵐のように舞い上がり、おかしな想像を映し出そうとしていた。今でも智己はガタイが良くないが、高校に入ったばかりの彼はもっと華奢な少年だっただろう。そして彼は謙遜して「人よりちょっといい顔」などと言ったが、女を狂わせるほどの何かがあってもおかしくはない見た目だ。
 当時の彼が組み敷かれる姿を思い描いてドキドキすると同時に、自分の願望を抑えきれなかったその女を思うと腸が煮えくり返った。妄想や欲望を制御できない人間は嫌いだ。最後までできなくてざまあみろ。
「信宏? やっぱり引いてる?」
 智己の声で我に返る。隣から覗き込んでくる心配そうな顔。今の話に同情したのか、なぜだか無性に守ってやりたくなった。
「そうじゃなくて、その犯人の方にドン引きっていうか……。俺、そういう自分の欲求をコントロールできない奴って理解できない」
「信宏ってそういうタイプだよね」
 彼はどこか嬉しそうに頬を緩めた。
「まあ、そういうわけでさ、ヤることばっかり考えてる男とか、女とか、正直怖いんだよな。信宏たちと一緒にいる方が、気楽だし楽しい。分かった?」
「あー、うん……」
 彼がなぜ冴えない自分たちとつるむのか、ここで話が繋がった。見た目はいいのに髪は黒いままで、特別着飾った格好をしなかったのも、なるべくあちら側の人間に目を付けられないようにするためだったのだろう。しかしそれでも結局彼らから声がかかっているのだから、ダイヤは何もしなくても美しいということだ。
 勝手に納得していると、智己が突然そっと信宏の手を取った。
「だったら……早く挿れて?」
「へっ!?」
 裏返った変な声に、智己はきょとんと首を傾げる。
「? ブルーレイ。早く入れて再生して」
 彼が掴みたかったのは信宏の手ではなく、その手に持っていたディスクの方だったらしい。一人で意識していたのが恥ずかしくなって、信宏はつい乱暴に彼の手を跳ね除けて立ち上がる。
 ディスクを見つけた時点でテレビ脇のゲーム機に突っ込めばよかったのに、なぜ彼の隣に座りに行ったのか、自分で自分の行動が理解できない。自宅にいるのに見知らぬ場所で慌てふためいているような変な感覚の中、映画を再生してからもしばらく心臓はうるさく鳴り続けていた。


***

 あの日以来、智己を使った卑猥な妄想をすることがなくなった。彼は勃たない、という現実に合わせたわけではなく、それよりもっといい妄想を見つけたからだ。
「智己、大丈夫、もう大丈夫だよ」
 乱れた服で蹲る彼を、ぎゅっと包み込むように抱き締める。
「大丈夫って、何が?」
「……全部。過去のことも、これからのことも、全部」
 そう言って彼の髪をさらさらと撫でてから、宥めるように背中を擦る。しばらく続ける内に、彼の方も信宏にしがみつくように背中に腕を回してきて、じわりと胸の辺りが温かくなった。性的なことなど何もしない、ただ彼を抱きしめて宥めるだけの妄想だ。
 今までの妄想で得られたような一瞬の激しい快楽とその直後の虚無感とは全く違う、じわじわと長く続く多幸感のような何か——それはまるで麻薬のような中毒性を持ち、信宏はすぐにその虜になった。
 あの日から数日間、毎晩決まってこんな想像を繰り返し、その結果新たに一つの事実が形を現しつつある。それは即ち、智己は単なる性欲の捌け口ではなかった、ということだ。智己を使って妄想する理由について、これまで「何となく」で誤魔化してきたが、そろそろ本気で考えるべき頃合いなのかもしれない。
 自分はただの腐男子ではなく、ゲイなのだろうか。そして、智己が好きなのだろうか。
 しかし、考えようとするといつも何かが思考を通せんぼする。その先はまだ考えなくてもいいじゃないか、智己がEDだということは、まだしばらく彼は誰とも付き合うことはないだろう、と怠惰な悪魔が囁くのだ。
 そして結局、妄想の中で智己を優しく慰める作業に戻っていってしまう。しばらくするとまた先程の命題を考える気になるものの、思考にストップがかかり、妄想の世界に帰ってくる。
 まるでループ再生されるアニメの提供画面みたいだ——頭にふと思いついたのはそんなイメージだった。

「うわ、変な顔」
「目が死んでる」
 授業開始前の教室。先に席を取ってぼんやりしていた信宏の周囲に康太と博樹がやってきて、開口一番そう言い放った。
「失礼な」
「この前の映画デートで何かあった?」
「デートじゃねーし!」
 変に大きな声が出てしまい、思わず周りを確認する。
「何だよ、キョロキョロして。あ、そういえばこの授業、智己も取ってたよな?」
 博樹が言った彼の名前に思わず肩が跳ねる。
「あー、でもまだ来てないっぽい? あ、信宏どこ行くんだよ」
「飲み物買ってくる」
 このままではボロが出る。そう判断して適当な口実で一旦教室を出た。彼らに言った通り飲み物は買っておかないと、と思いながら、自販機があるはずの休憩スペースを目指す。だがそこへ向かう曲がり角で、話し声が聞こえてきた。
「土曜日、智己も来ればよかったのに」
「うん、ごめん」
 ちらりと角から覗いてみると、休憩スペース奥の壁際に金髪の男が二人、その正面にはこちらに背を向けた智己が立っていた。
「テニサーの力を思い知るから、マジで。インカレの女子大の子なんてさ、男目当ての肉食ばっかりだから食い放題」
「でもお前の一晩ヤリ捨てはさすがにまずいっしょー」
 男二人がゲラゲラと笑っているのを、智己は軽い笑顔で流していた。この前の彼の告白を聞いた今なら、その笑みが作り笑いだと分かる。彼は確かこういう話に対して、気分が悪い、怖いと言っていた。本当は今すぐにでも会話を断ち切って逃げ出してしまいたいところだろう。
 ならば、助けてやりたい。毎晩毎晩頭の中で彼に優しくしていたように。
 そう思った瞬間頭の中に浮かんだ妄想はこうだ。
 この曲がり角を出て堂々と彼らに近付き、智己を背後から抱きすくめる。呆気にとられた金髪の男たちをぎろりと一睨みして、こう言ってやるのだ。
「悪いけど、こいつ俺のだから」
 鋭い眼光に恐れをなしたヤンキー共は、そのまま尻尾を巻いて逃げていくだろう。現実にするつもりもないし、絶対現実になるはずもないからこそ、好き勝手なことを考えられる。
 そうやって妄想の中のかっこいい自分自身に酔っている隙に、現実の智己たちはさらに会話を進めていた。
「来週の日曜も別の大学の子が来るらしいからさ、智己も絶対来いよー」
 男がばしんと智己の肩を叩く。その瞬間、信宏の目には智己がビクリと震えたように見えた。
「あ、えーっと、その日は……」
「また用事? 何がそんな忙しいんだよー。お前今彼女いないの知ってんだぞ」
 男がまた智己の肩を掴んで揺さぶると、彼の表情が翳る。いつも想像しているのと同じ、傷付いて途方に暮れた顔。
 触るな。構うな。
 智己の感情の代弁なのか、自分自身の心の声なのか分からない。ただ、そう思った時には理性が止める間もなく身体が動いていた。
 角を慌てて飛び出し、廊下を歩く学生をおたおたと避け、休憩スペースの低い仕切りや並んだベンチをひょいひょいと飛び越える。背が高くて足が長いとこういう時だけは便利だ。なるべく一直線に突進した勢いのまま、半分転びそうになりながら智己の背後に飛びついた。
「あ、ああああの!」
 智己の肩越しに見た目の前の男は、細い目で闖入者を冷たく睨んだ。背はこちらの方が断然高いが、耳にごてごてとくっ付いた大量のピアスに心が縮み上がりそうになる。しかしここで怯むわけにはいかない。
「えっと、その、ともき、俺と……約束……ある」
 口から出まかせを言ったはいいものの、何と返されるか不安で、情けないことに智己を盾にするようにぎゅっとしがみついた。
「ふーん、そうなんだ。じゃ、またの機会にでも——」  
「ま、毎週、俺たち用事あるから、その、またの機会は来ない、かなー……なんて」
「へー、智己が毎週あんたと何してんのか、むしろすげー気になるんだけど」
「そ、れは……」
 いい回答が思い付かない。中途半端な答えでは、また泥沼にはまるだけだ。困った。
 その時突然、腕の中の智己が身体を捩る。彼はこちらを振り返ったかと思うと、背伸びして信宏の頬に軽く唇を寄せてからすぐに離れた。
「秘密ってことで」
 智己がいたずらっぽくそう言ったが、突然のことに男たちは呆然としている。さっきまで怖く見えた彼らが、今では哀れな間抜け面に見えるのだから不思議だ。
 その場から逃げるようにして、智己に手を引かれ教室に向かって歩き出す。目撃していた他の学生からの視線と、気まずい沈黙に耐え切れず、信宏は思い切って口を開いた。
「ごめん」
「何で信宏が謝んの?」
「俺芝居とかできないからさ……。毎週何の予定があるんだよって感じだよな、ホント」
 頭を掻いてちらりと智己を見ると、ばっちり目が合ってしまう。だが意外にも、先に目を逸らしたのは智己の方だった。
「や、むしろ俺の方がやりすぎたかも」
 智己の耳が赤くなり、釣られて「やりすぎた」ことを思い出してしまう。彼の少し乾燥した唇が頬に触れた感触——無意識に片手でそこに手をやると、それに気付いた智己は大慌てで繋いだ手を離した。
「思い出すな、馬鹿……」
 真っ赤な彼の顔を見て、今まで感じたことがないほど胸がぎゅっと締め付けられる。ぱたぱたと教室に駆け込んでいった智己を見送ってから、信宏はその場で一度大きく深呼吸した。
 自分が無意識に彼を助ける行動を起こしたことも、そこで智己が取った行動も、何もかもが予想外だった。それだけでなく、あの金髪たちの反応も全くの想定外だ。そう思いながら、彼らの呆気にとられた顔を思い出す。髪の色やピアスが怖いだけで、間近で見た細い目のニキビ顔は大してイケメンでもなんでもない。康太の言っていた髪の毛補正は本当にあるのかもしれないな、と思うとちょっと笑いそうになってしまった。
 少し明るい気持ちで教室に入ると、確保していた一番後ろの席では、康太や博樹が智己を迎えて何やら楽しそうに話していた。しかし康太は近付いて来る信宏を見るや否や、嫌な笑みを浮かべた。
「トモキ、オレト、ヤクソク、アル!」
 椅子に座ろうとしたところで思わず身体が固まる。
「な、それ、どうして……」
「なんで片言風なんだよ! くっそ、腹いて〜」
 バンバンと机を叩く康太の横で、博樹も笑いを堪えている。
「お、お前らな……」
 何かその先を言おうとしたのだが、目の端で智己も吹き出しそうになるのを懸命に堪えているのが見えて、自然と怒りが削がれる。
「まあまあ、お茶どうぞ」
 そう言いながら康太は買ったばかりと思しき冷えたお茶のペットボトルを差し出してきた。ここらで飲み物が買えるのは先程一悶着あった休憩スペース周りだけだ。信宏は「じゃあいただこうかな」と言ってボトルを受け取りつつ、机の下で康太の足を一回踏んづけた。


***

 授業の合間の校舎内というのは意外と人通りの多いもので、あの一件はどうやら康太に限らずかなりの人の目に留まってしまったらしい。なぜそれが分かったかというと、あれから2日の間に、やたらと色々な人に話しかけられるようになったからだ。
 元から周囲とはそれなりにうまくやってきたし、話しかけられること自体は珍しくもない。ただ、今まであまり話したことがなかったような女子学生まで来るのはやはり普通ではない。
「植木君、大木先生の授業も取ってたよね? もうレポートやった? あれメールじゃなくて紙で出さないといけないから面倒だよね」
 2限の授業が終わって移動の準備をする中、以前別の授業でグループワークをした程度の女の子が声をかけてきた。皆決まって、康太や博樹と一緒にいない時を狙ったかのように話しかけてくる。
「うん、明日明後日の土日に済ませようかなって」
「……松下君と会うのに?」
 こうやって智己の名前を出されることにも少し慣れてきている。意図が分からないだけにどう答えればいいのかいつも迷い、そのたびに何とか誤魔化した。
「えっと、夜は時間あるから大丈夫」
 彼女から何か言われるより先に、急いで昼食を取りたいからと言ってその場から脱する。何が目的なのか、むしろ目的などない雑談なのか、信宏には訳が分からなかったが、あまり気にしないことにした。

 金曜日の4限後の教室は、長かった1週間を終えた学生が多く、いつもよりざわざわと人が多く残っている。
「信宏っ、この後もう帰るなら一狩りしてかない?」
 携帯ゲーム機をちらつかせながら誘ってきたのはゲーム好きの友人、小峰優だった。彼はゲームサークルに所属しており、たまにその部室にお邪魔して一緒にゲームをする仲だ。
「あ、行く」
「康太たちもどう?」
 クリスマス商戦に向けて昨日発売されたばかりのこの有名ゲームは、特にこうして仲間を募ってプレイする方が効率がいい。ちらりと前の席に座っていた康太と博樹を見るが、彼らはこの呼びかけに手を挙げなかった。
「俺はまだ買ってません! 誕プレに買って!」
「俺はもうハンターは卒業するって決めたからよ」
 前作は一緒にプレイしたのだが、彼らに期待はできそうにない。発売直後で品薄ということもあり、まだ人の集まりがよくないのも仕方のないことだった。
「んー、サークル行けば他も集まるかな。もう、なんで皆予約しないかなあ」
「じゃ、またな」
 まだノロノロと帰り支度をしている二人を置いて、優と一緒に教室を出る。
「今日は智己と『用事』ないんだ?」
 ぴょこぴょこと前を歩いていた優が、こちらをくるりと振り返った。まさにゲーム少年といった雰囲気の彼は、智己よりも背が低く、まだ幼さの残る顔で信宏を見上げている。
「あ、うん、今日は別に」
 彼まで何を言い出すのかと思ったその時、校舎の入り口に立つ智己を見つけた。彼は先程の授業は一緒ではなかったため、なぜここに来ているのか分からない。彼は信宏に気付くと、周囲を気にしながら近寄ってきた。
「信宏、ちょっと」
「信宏はこれからゲームの予定があるんで!」
 ふざけた優が腰に手を当てて立ち塞がったが、信宏はそれを丁重に横に押し退ける。
「後から行くから先行ってて。智己、何?」
 ふくれっ面の優をぼんやり見ていた智己は、声をかけてやるとハッと首を振った。
「ううん、後でメールするから」
 何となく「ここでは話したくない」という消極的な空気を嗅ぎ取る。後ろからガヤガヤと数人のグループが近付いてくると、智己はさらに居心地悪そうな顔になった。
「分かった」
 そのまま別れると、彼は早足でいなくなってしまった。あの一件以来、智己はさり気なく周囲を気にするような素振りを見せるようになっている。まるで、信宏と二人で一緒にいるところを見られたくない、とでも言わんばかりに。
「信宏たちさ、噂になってるけどいいの?」
 植木と松下は付き合っているのではないか——その噂は信宏の耳にも届いていた。
「俺は気にしてない」
 ただし、智己がどう思っているかは不明だ。いや、本当は何となく気付いている。最近彼が信宏を避け気味にしているのは、今の状況を好ましく思っていないから、と考えるのが自然だろう。
「ふーん、それで、噂はホントなわけ?」
 興味津々といった優とは対照的に、信宏はあからさまに呆れた顔をして見せた。
「そんなこと聞く必要あるか?」
「聞きたい人は一杯いると思うけど」
「あー、最近やたら俺が人気者なのって、それ探られてんのか。でもそんなの知ったところで何だってんだろ」
 分からないことだらけで頭が爆発しそうになり、夕方の空を見上げる。
「正しくは、『信宏や智己が男もいける口なのか』『女に興味はないのか』が知りたいんじゃないかな」
「そうだったらどうなんだよ。いじめられんの?」
 責めるような口調になったが、優は気にせず「ぶぶー」っと不正解のブザーを鳴らした。
「女性人気が落ちて、ゲイからの熱烈アピールが始まりまーす」
 そう言うや否や、優は信宏の腕にぎゅっと絡みついてきた。
「ま、まさかお前も、俺がゲイだと思って狙って……?」
 一昨日に例の件があり、優とまたゲームをするようになったのはちょうど昨日からだ。
「さて、どうでしょう」
 惚けた風に言っても、彼の声は明らかに笑いを含んでいる。いたずらっぽく細められた目を見ても、どうやらからかっているだけのようだ。考えてみれば、昨日発売のゲームを昨日から一緒に遊び始めたこと自体、何も不思議ではない。
 おかしな疑惑は一瞬にして過ぎ去ったが、もし優の言う通りの理由で色々と声をかけられているのであれば、それは即ち、智己に好意を寄せている女が諦めるため、あるいは智己に好意を寄せている男が彼にアプローチをかけるために、性的指向を探っているということだ。特に彼をそういう目で見ている男が自分以外にもいるのかと思うと、胸の奥がヒリヒリと痛んだ。


***

 その夜、ベッドの上の信宏は試しにいつもとは違う想像をしてみることにした。
「ねえ信宏、智己じゃなくて俺にしない?」
 登場人物は今日一緒にゲームをし、つい先ほど夕食後に別れた優だ。
 頭の中の彼がシャツのボタンを外すと、少年のように華奢な肢体が顕になる。しなだれかかってきたその身体は、まるで絹のように滑らかだ。彼は誘うような上目遣いでその先を待ったが、信宏はそこからどうするべきなのか想像に詰まってしまった。
「んー、何かだめだ」
 気分が乗らずにごろりと寝返りを打つ。優を妄想に使うなら、やはりゲームサークルの男たちに輪姦されるシチュエーションに限る。かわいらしい彼は、俗に言うオタサーの姫状態になっているため、実は以前密かにそんな妄想にお世話になったことがあるのだ。
 だが、自分と誰かの妄想をするなら、相手は智己でないと心に火が付かない。これはやはり、智己が好きだということだろうか。
 そういえば今日の別れ際、智己は後でメールすると言っていたのだが、まだ何も来ていない。携帯電話を今一度確認しても、彼からのメッセージは入っていなかった。そこでふと思い出すのは、やけに遠慮がちだった彼の俯き加減の顔。このままでは結局メールもしてこないような気がして、思い切ってこちらから切り出してみることにした。
『今日の用って何だったの』
 夜の21時ならまだ寝てはいないだろう。思った通り、彼からの返事はすぐに届いた。
『親から株主優待の動物園のチケットが送られてきた。今週末でも一緒にどうかなって思ったんだけど、冷静に考えたら大学生の男二人で動物園はないよなって考えてたとこ』
 思いがけない誘いに、信宏はがばりとベッドから起き上がる。
『なんで? いいじゃん、動物。疲れた心が癒されること間違いなし』
『でも最近ゲームとかで忙しそうだよね』
『動物は狩るより愛でる方が好きです』
 たたみかけるように速攻で返信すると、少し長めに間が空く。それはただの体感時間で、本当はそこまで間はなかったのかもしれないが。
『じゃ、日曜日に駅前10時な。週末に二人で用事あるってやつ、嘘じゃなくて本当になったな』
 声も顔も分からないのに、なぜか今智己は「仕方ないな」と苦笑しているような気がした。
『嘘つきにならなくてよかった』
 そう返信してから、信宏はベッドに仰向けに倒れて意味もなくゴロゴロ転がる。避けられているどころか、彼の方からお誘いがかかったのだ。それも、大学生の男二人で動物園である。
 しかしそんなことをごちゃごちゃ考えるより先に、信宏の頭の中ではもう早速当日の予行演習が始まっていた。
 待ち合わせの駅前には10分前に着き、後から来た智己を笑顔で迎える。彼は少し周りを見回してから、困ったような笑みを浮かべてこう言うだろう。
「こんなところ誰かに見られたら余計誤解されるな」
 そんな話題になったら、さり気なく彼の手を繋ぎ、わざと顔を近づけてやるつもりだ。
「俺は別に、誤解されたままでもいいけど?」
 他の人には聞こえないくらいの小声で囁いてやれば、彼はきっと真っ赤になるだろう。
 動物園など小学生以来行ったこともなく、どんなところだったかもあまり覚えていないので、妄想はそこでストップしておく。しかし遊園地や水族館と似たようなものだから、きっといい感じのデートスポットなのだろうと勝手に期待した。

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