2限は自主休講ということにして昼まで寝たが気分は晴れない。午後の授業もさぼってやろうかと思ったが、今日はどうしても出さねばならないレポートがあるのを思い出し、重い身体を引き摺って3限と4限だけ出ることにした。
いつも通り大教室の一番後ろの席を陣取ってぼんやりしていると、何人か知った顔が周りに集まってきた。本当は一人でいたい気分なのに、こういう時に限ってやたら大勢と授業が被っている。
康太と博樹は目の前まで来るや否や、信宏の顔を不審そうに覗き込んだ。
「目の下なんか化粧でもしてんの? ビジュアル系?」
「あー?」
「あ、目の下のそれマジで隈? ゾンビ系なんだけど?」
「うー」
適当な受け答えをしていると、席につく人の波からひょいと優が現れた。
「あ、それ俺ん家で徹夜ゲーム大会だったのが原因かも」
「なるほど、優に朝まで扱かれて精気を吸われたのか」
「いやらし〜」
3人の冗談を信宏本人はまるで無視して、ぼんやり教室を見渡していた。
その時、教室の入り口に今一番見たくない人物が姿を現す。ちらりとこちらを見た智己と目が合ってしまい、全力で視線を逸らした。横目で窺っていると、どうやら彼は前の方に一人で座ったようだった。
彼の後姿を見てほっとしていると、視界に康太の顔がぬっと現れた。
「何何、智己と喧嘩でもしてんの?」
「うっ……」
「お、ちょっと反応が変わったぞ」
「ビンゴか」
博樹と康太の追及に身構えるが、その防御態勢をぶち壊すように、前の席の優が振り返った。
「あ、それももしかしたら俺が原因かも」
優がてへっとかわいらしく笑うと、康太はわざとらしく口元を手で隠して驚きを表した。
「お前まさか……智己と信宏の仲を引き裂いたのか」
「いやー、俺が信宏とゲームばっかしてるから、智己ヤキモチ焼いたかなーって」
「分かっててやるとかお前性格悪っ」
「ゲーマーたるもの、ゲームの協力者確保の方が大事だから。早く品薄解除されて皆ソフト買ってくれないかなあ」
「クズだ! すげー!」
彼らのやり取りに脱力した信宏は、べったりと机に突っ伏した。
「別に、智己はヤキモチとかそんなんじゃ……。俺のことなんて、どうせからかうと面白いキモ変態くらいにしか思ってないし……」
「うっわ、何この負のオーラ」
「だって、俺のこと待ち伏せまでして、あんな……」
自分で言いながら今朝のことを思い出す。彼は本当にあんなことを聞いてからかうためだけに、身体が冷たくなるまでずっと待っていたのだろうか。あれはそこまで険悪になるような会話だっただろうか。疲れていたからちょっと被害妄想が入っていたのではないか。
暢気な友人たちの会話のせいか、冷静になってみれば大した喧嘩ではなかったような気がしてきた。
「待ち伏せって何? めっちゃ愛されてんじゃん」
「ストーカー事案だな」
そこで周りが静かになり、マイク越しに教授の声が響く。のそりと顔を上げて最初に目が行ったのは、前の方に座った智己の後頭部だった。
***
あの授業の後、もう一つ4限を受ければ1週間は終了だ。
康太や博樹と共にだらだら教室を出ると、少し前を優が歩いていた。
「優、今日もやるだろ? 俺レポートとか出したらそっち行くから」
てっきりまた喜んで誘いに乗ってくるかと思ったら、彼は眉をハの字にして困った笑みを浮かべた。
「えー? でも信宏なんか元気ないじゃん」
「嫌なことを忘れるならゲームがちょうどいいんだよ」
「それはそうだけど、俺もこれ以上悪者になりたくないんだよね」
よくよく見れば、優は信宏ではなく、その背後をじっと見ているような気がする。康太や博樹に同意を求めているのかもしれない。
「悪者って何が——」
言いかけた瞬間、背後からぐいっと首根っこを引き寄せられてバランスを崩す。
「こいつ、俺のだから」
信宏には到底言えないようなかっこいい台詞——それを言い放ったのは智己だった。倒れかかった信宏の身体をしっかり掴んだ彼の横顔は、凛としていて男前に見える。
そんなことを考えている内に、彼は信宏の腕を引っ張って歩き出す。転ばないように慌ててついていきながら振り返ると、残された3人がにやにや笑っているのが見えた。
電気の消えた小さな教室を見つけた智己は、ガラリとドアを開けて信宏を引っ張り込んだ。ずかずかと奥まで歩いて窓際まで来たかと思うと、彼はパッと振り払うように信宏の腕を開放する。
「智己?」
怖々声をかけてみると、彼はぼそぼそと話し出した。
「朝、眠いって言われたから帰ったけど、話は終わってなかっただろ」
彼の方から仲直りのきっかけをくれたことは嬉しい。今朝のあれはなかったこととして、穏便に関係を修復することにしよう。
「あー……あれは俺も眠かったから気が立ってたっていうか、ただの冗談に大人げないこと言ったなって反省してるし、別にもう——」
「冗談じゃなくて! 俺は本当にお前をからかったつもりなんてなかった」
苦々し気な智己の声を聴いて、信宏もなあなあで話を流せる空気ではなくなった。もうなるようになれ、という気持ちで一回大きめの呼吸を挟む。
「冗談じゃなく本気で俺が誰でどんな想像してるか知りたかったって? なんでそんなこと知りたいのかが俺には分からない」
「なんでって、そんなの……」
「大体、お前そういう生々しいシモ話嫌だって言ってたじゃん。もし仮に俺が、優にあんなことやそんなことする妄想をしてたとして、それを全部開けっ広げに話したら嫌だろ?」
「別に。っていうか、あれ多分治ったし」
つまらなさそうに吐き捨てられた言葉に、信宏は耳を疑った。
「は? どういうこと?」
「俺の息子は元気な健康体に戻りましたってこと」
「な、なんで? 誰かと、その、そういうことができたのか?」
EDが治らなければ、智己はずっと誰の物にもならない——どこかで抱いていたそんな安心が崩れ去り、頭がぐらぐらした。
「俺が誰のおかげでどうやって勃つようになったか知りたいんだ? なんでそんなことが知りたいわけ?」
さっきと立場が入れ替わったような質問だ。
なぜ——そんなのは分かりきっている。智己が自分以外の誰かとそういう関係になるのが嫌だから。知ったところでどうにもならないのは分かっていても、嫉妬心が疼いて知りたくなる。
智己に対する感情は紛れもなく恋愛感情なのだと、今ズキズキ痛む胸がはっきり物語っていた。自分はゲイだと認めるのが怖くて結論を避けていたが、もう見て見ぬフリはできない。
ちょうどその時、廊下からガヤガヤと話し声が聞こえてきた。時間的にはそろそろ次の5限が始まる頃だ。もしかしたらこの教室を使う可能性がある。
「ここ、出た方がいいかも」
信宏が言うと、智己はこくんと頷いた。夕方の薄暗くなり始めた教室を出ようとしても、智己はまだ窓際に立ち尽くしている。名前を呼んでやると彼は慌ててこちらに歩いてきた。薄暗い中をとぼとぼと歩くだけでも、彼は愁いを帯びて綺麗に見えた。
あまり見つめるのも悪い気がしてふと視線を落とすと、教卓付近にプロジェクター類のケーブルがごちゃごちゃと転がっているのが目に入る。危ないなと思っていたら、案の定智己はそれに足を引っかけた。
一歩踏み出せば彼を抱き留められる距離だ——そう目測した時には既に身体が動いていた。
「——っ」
つんのめった彼の身体を受け止めるのは容易いことだった。思い切り突っ込んできた智己に「大丈夫か?」と聞いてみるが、彼は一向に身体を離す気配もなく、じっとしている。静かな空間の中で、廊下の集団が隣の教室に入っていった気配がした。
ついさっき自覚した恋愛感情とこの密着状態で、頭はついつい不埒なことを考え始めてしまう。さり気なく支えるだけでなく、本当は壊れるくらい力強く抱き締めてしまいたい。頭を撫でて顔を上向かせてから、その唇に……キスしたい。
駄目だ、妄想は頭の中に留めておけ。いつも通り、妄想で満足して我慢しろ。
脳が出す指令に従って気分を切り替えるように、信宏は軽く頭を振った。
「あのプロジェクター、ちゃんとコード片づけないと危ないんだよ、な——」
誤魔化すために適当なことを言った時、智己の手が信宏の背中へと回される。抱き付かれていることを脳が理解すると、落ち着きかけた頭がまたぐつぐつと煮え始めた。
彼がここまでしてくるということは、ハグは嫌ではない、ということだろうか。しかしそれなら、彼は自分に好意を持っていることになる。
そんなはずはない。いや、本当にそう言い切れるか?
智己が俺の妄想相手をやたら知りたがる理由と、俺が智己のEDを治した相手を知りたがる理由が同じものだったら?
一つの可能性に思考が到達した時、信宏はさっき想像した通りに、智己の身体を力いっぱい抱き締めていた。鼻を掠める彼の髪には、石鹸かシャンプーの匂いが仄かに残っている。想像していたよりも彼の身体は細く、本当に壊してしまうかもしれないと思った。
「ちゃんと、現実でもそういうことできるんだ」
聞こえた智己の声に我に返ると、慌てて彼の身体を引き剥がした。
「だ、だって、お前の方から——」
やっぱり今のはマズかっただろうか。無理矢理彼が嫌がることをしてしまったかもしれない。
不安のせいでおどおどと挙動不審になると、智己は呆れたようにゴシゴシと頭を掻いた。
「あーもー、なんなんだよ、それ。俺、お前のそーいう遠慮しすぎでチキンなとこが……嫌い」
「ご、ごめ……」
「でも……遠慮しすぎるくらい、他人に気ぃ遣ってくれる優しいところは、好き」
「す、好き!?」
彼の言葉にコロコロ振り回されていると、智己はやっと小さく笑ってくれた。
「信宏は、どっか俺の好きなとこある?」
むしろ嫌いなところなんてないくらいじゃないか、と思ったが、ではどこが好きなのかと問われても、具体的に何と答えていいのか言葉に詰まる。
廊下にまた別の人の声が聞こえ始め、今度こそ、この教室のドアががらりと開いた。違う学科と思しき学生は、まさか人がいるとは思っていなかったようで、ドアを開けた態勢のまま目を丸くしている。大慌てで「失礼しました」と詫びを入れて部屋を出た。
廊下で話の続きをするわけにもいかず、かと言ってこの状態で話を終わりにするのも嫌で、二人の間に微妙な空気が流れた。時刻は16時半で、提出予定のレポートは17時までと言われていたのを思い出す。
「俺、事務の窓口とか、レポート出したりとか、ちょっと色々行きたいところあるんだけど」
「けど……何?」
今朝も今も、いつも智己から話すきっかけを作ってくれるのを待ってるだけでは駄目だ。意を決した信宏は、鞄をごそごそと探って自宅の鍵を取り出した。
「……先に行って待ってて」
チャリ、という音を立てて、鍵は智己の掌の上に納まった。
「今夜はちゃんと帰るんだ?」
「帰るよ。さっき優にゲームの誘いしたらフられたし」
今にして思えば、彼とゲームをするよりこうして智己と話をすることの方が大事だ。
「ざまーみろ」
智己は鍵をぎゅっと握りしめてちょっと嬉しそうにそう呟いた。
***
事務に提出書類を出してから、少し離れた研究棟に入ると、康太と博樹がちょうど出てくるところだった。
「あれ、信宏じゃん。お前もレポート?」
「そうだけど」
「さっき智己に攫われてったから、もう今日は出さないのかと思った」
「いや、出さないと単位ヤバいし、智己とは一旦別れて——」
「一旦?」
「え、あ……」
「何だよ〜、言いたくないなら言わなくていいぞ」
康太はぷいっと顔を背けた。彼らと話していると、ネガ方向に行きがちな感情を引き戻してくれるような気がして、何となく相談してみようという気になった。
「お前たちは、智己のこと、どう思う?」
「陰口大会?」
「そうじゃなくて、智己のどういうところが好き? みたいな?」
「顔?」
「確かに」
康太と博樹は顔を見合わせてうんうんと頷いた。
「え……顔だけ?」
「じゃあお前はどこが好きなんだよ」
「それが分かんないから参考までにお前たちの意見を聞いてるんだって」
助けを求めて目だけで縋るが、康太はわざと変な顔を作った。
「そんなことしないと思い浮かばないくらいなら、どこも好きじゃないんじゃな〜い?」
「違……っ、むしろ何となく全部好きな気がして、でも具体的にどこって言われると分からないっていうか」
変なことを口走った気がして慌てて口を噤むと、博樹はふうと軽い溜め息をついた。
「お前ってそういうこときっちり考えるタイプじゃないだろ」
「いっつも適当にのらりくらりしてるくせにな〜」
そうかもしれない。自分の性癖のことも、他人からの目も、いつも深く考えることはしないで、何となくで乗り切ってきた。どんな妄想をしても、その内容について後から真剣に考えることもなければ、実行に移そうと思ったことすらない。適当で淡泊な方だった気がする。
「うん、俺、何かおかしい。今までできてたことが、どんどんできなくなってる」
智己との行為を思い浮かべ始めた頃から、彼への気持ちに悩まされ、想像だけでは我慢できなくなってきている。
「じゃあ、それって特別ってことだよな」
「……え?」
博樹の顔をまじまじ見ていると、康太も上を向いてちょっと真面目に考えるようなポーズをした。
「智己の方も信宏が特別な感じするよな〜。俺たち4人でいても絶対智己は信宏の近くに行くし」
「それは、お前たち二人が幼馴染で入り込みづらいからじゃ——」
「ん〜、そう言われれば、そうかも?」
「何だ、期待させるなよ……」
がっくりと蹲ると、頭上から康太の笑い声が降ってくる。
「あ、お前マジなの?」
「だったらなんだよ。ホモで悪かったな」
自棄になってしまえば、その言葉はするりと喉から出て行った。
「ついに認めたな」
「認めるよ。俺はホモで、どこって言われてもよく分かんないけどいつの間にか智己の全部が好きになってた。あー、なんか覚悟決まってきた」
すっくと立ち上がれば、もっと気持ちがスッキリした。
「覚悟って、もう突撃すんの?」
「だって、俺の家で待たせてるし、もう今日言うしかないだろ」
言ってから「しまった」と思ったが、予想通りいやらしい視線が信宏を襲った。
「家か〜、なるほどな〜」
彼らから逃げようとしたものの、その肩をしっかり掴んで引き留められる。
「ならこれから戦地へ向かう信宏にアドバイスをしておこう」
「え、彼女いない歴年齢の童貞にアドバイスとかもらっても……」
丁重にお断りしようとしたが、なぜか百戦錬磨の達人のような顔で、博樹はあることを告げた。
***
電気が点いている自分の部屋の窓が見えてくると、今智己があの中にいるんだと変に意識してしまう。なるべく考えないように無心でマンションに入り、自分の家のドアの前で立ち止まる。鍵がかかっていればチャイムを押そうかと思ったが、ドアはすんなり開いてしまい、少し不用心に思えた。
そろりそろりと中に入ると、煌々と明かりを点けたまま智己はベッドに仰向けで寝ていた。彼が自分のベッドで寝ているというだけで脈が早くなるのだから重症だ。騒ぐ心を落ち着けるように、荷物を静かにテーブルの脇に下ろした。
「智己、寝てんの?」
「起きてる」
寝ぼけたところもなく、彼はぱっと目を開いた。
「目、瞑ってたじゃん」
「考え事してたんだよ。ここで、お前はいつもどんなこと思い浮かべてきたのかなってね」
智己をオカズに自慰行為をしていたベッドの上に、今智己本人が寝ている——その事実に、信宏は黙って赤面した。
智己はそれ以上深く追及する前に、ゆっくりと身体を起こした。
「何でこんな遅かったの?」
「いや、大木先生の部屋にレポート出しに行ったら無駄話に捕まって話し込んでた」
「1時間も?」
「あー……うん」
本当は、康太たちと数分会話した以外に無駄話などなかったのだが、あえてそこはぼかした。
「それで、なんで俺ここに来たんだっけ」
前振りは終わりだと言わんばかりに、智己がこちらをじっと見つめた。
「俺が呼んだから?」
「その目的は?」
「智己の疑問に答えようと思って」
ベッドの端に座った智己の正面に立つと、まるで大舞台で何かを披露するような緊張感に襲われた。
「智己で変な妄想してないって言ったのは、嘘。懺悔すると、お前でエロいことたくさん考えた。……ごめん」
「それは、数あるオカズの一人だったわけ?」
智己は一切表情を変えずに、真剣な目でそう尋ねた。
「今までは男同士誰かと誰かをくっ付けて想像してたけど、智己の相手は……俺自身で、こんなの初めてで……智己だけ、特別。だからきっと、俺は智己が好きなんだと思う」
智己は顔を俯けて黙ってしまったので、うまく伝わったか分からないが、とにかく言い切った。
「俺は答えたから、智己も教えて。なんでED治ったんだ? 知りたい理由は、ただの嫉妬なんだけどさ」
「信宏」
不意に名前を呼ばれ、「え?」と漏らす。
「だから、治った理由。信宏」
「俺、何もしてないけど」
「自覚がないだけ」
訳が分からずぼんやりしていると、智己はぶんぶんと首を左右に振った。
「あー、こんな風にいつまでも遠まわしに話してるのってめんどくさい」
その瞬間、智己に手を思いっきり引っ張られ、彼を押し倒すようにベッドに倒れ込んだ。何が起こったか分からず視界がぐるぐるする中、智己は先程空き教室でしたのと同じように、信宏の身体を抱き締めてきた。
「俺、本当はこんな風に人と密着するの駄目なんだ。あの時のこと思い出すから」
「でも、今——」
「うん、この前……ほら変な連中に合コン誘われてたの助けてもらった時、信宏に後ろから抱き付かれても大丈夫で……あの時は結構驚いた。それで、気付いたら何度もあの感触を思い出すようになってて——」
「つまり、俺って智己の特別ってこと?」
「そうじゃなかったらこんなことしない」
少しだけ身体を起こして、彼の顔を間近に見下ろす。いつも想像の中で思い描いていたような距離とシチュエーション。本当にこの先へ行ってもいいのだろうか。
ずっと乗り越えることはないと思っていた高いフェンス——そこに突如今まで見えなかった扉が現れて、それを開ける鍵も自分の手の中にあるような、そんな感覚。現実と妄想の境界を越えるかどうかは、自分次第だ。
「言ったよな? お前の遠慮しすぎなところは嫌いだって」
信宏の中の迷いを見透かすように、智己が呟いた。
「でも、気を遣うところは好きって言った」
何とはなしにそう言うと、智己は真っ赤になって信宏の頬をつねった。
「ああ、そうだよ! だから好きになったんだ。欲望を押し付けてくるような人間ばっかりじゃないんだって思えて、信宏の過去の行動全部思い返してみたら……どうしようもなくなった」
「俺、また智己のトラウマになるようなことはしたくない」
彼の過去を思うと、傷口を広げてしまわないか心配になる。せっかく彼を気遣っているのに、智己は両手でぱちんと信宏の両頬を挟んだ。
「俺がしていいって言ってんの! 許可が出てんのに何もしなくていいのか?」
「そんなわけ、ないだろ……」
彼は知らないのだ。毎晩頭の中で智己にどんなことをしてきたのかも、どれほどその妄想に焦がれてきたかも、妄想で十分だと自分で自分に言い聞かせて、今までどれだけ物分かりのいいフリをしてきたかも。
「どうだか。お前ってやっぱり無欲なだけかもな」
そう漏らした智己から身を離し、ふらりとベッドから立ち上がる。さっきテーブル脇に置いておいた銀色のビニール袋を手に取ると、まだベッドに倒れたままの智己の上にそれを落とした。
「何これ」
「さっき帰りに薬局で買ってきた」
智己は身体を起こして袋の中をちらりと見ると、大慌てで信宏に突き返してきた。仕方がないから、信宏は自ら中身を取り出す。一つ目は、0.02mmと書かれた銀の箱、もう一つの箱には潤滑ゼリーと書かれている。遠まわしだが、要はコンドームとローションだ。
「こんなもん用意するくらいには、俺にも欲はあるんだけど」
これが博樹の「アドバイス」だった。戦地に行くには、ゴムとローションを用意していくこと。なお、玩具はさすがに引かれるから持って行ってはならない、だそうだ。
彼らの前では恥ずかしくて却下してみせたが、帰り道にやっぱり変な期待をして買ってしまった。
「もしかして帰り遅くなったのって——」
「うん、店の周りで10分くらい迷って、店の中30分くらいウロウロした」
「それ逆に恥ずかしいだろ。っていうか聞いてる俺の方が恥ずかしくなってきた」
両手で顔を覆った智己は、耳まで真っ赤になっていた。
「まあ、俺が恥ずかしい思いして買ったもので、恥ずかしいことをされるのが智己だから、二重に恥ずかしいのは智己」
「なんだよ、その理論。そんなことができるもんならやってみろって。馬鹿、いくじなし、童貞」
そこまで言われればもう遠慮することはない。ギシリ、とベッドに片膝を乗り上げて、智己の顔を至近距離で一度見つめる。彼が嫌がる素振りを見せないことを確認してから、思い切って生まれて初めてのキスをした。