月曜昼の食堂前。いつも通り入り口付近の壁に凭れかかって待っていると、見慣れた長身が人の波の間に見えた。彼と目が合うと、貴仁は軽く片手を上げた。
「おつかれ」
「うん」
千草は呆然とした様子で、言葉をなくしている。
「何だよ」
「今日からはもういないかと思ってた」
彼は眉をハの字にして大げさに困惑を示した。
「何で」
「喧嘩した、から?」
本当に難しい問題を解くかのような千草の反応に、貴仁は思わず笑った。
「ちょっと意見の食い違いがあっただけだ」
いつまでもネチネチと喧嘩するようなことではない。貴仁が軽く流そうとしているのを察してくれたのか、千草もやっと笑みを見せてくれた。
「子供の育て方で衝突するなんて、俺たち夫婦みたいだね」
「そうやってさらっと洒落にならないこと言うところがやっぱり分かんねー」
本音を言うと、千草の気持ちはやはり理解できないところが多い。それでも、友達だからと言って無理に分かる必要もない。分からないものは分からないままでも、今はそれでいいのだ。それが土日の間に考えて出した貴仁の答えだった。
食堂の入り口は半地下にあるが、池沿いの斜面に建っているため、入り口とは反対の飲食スペース側はガラス張りで池のほとりがよく見えるようになっている。ガラスの向こう側にもウッドデッキのテラスが広がっているが、そちらは人が多かったため、二人は窓際の隅の席を陣取った。
「俺とマロネのこと、ネロから何か聞いてる?」
席に着くなり早々、千草はそう切り出した。
「……まあ、一応」
周りの席には誰もいないとは言え、大きな声では話しづらい内容だ。貴仁はそれ以上何も言わず日替わり定食に口を付けた。
「ネロは、気付いてた?」
「うん、夜とか、見てたって」
「そう」
千草の表情からは、それが想定内だったのか想定外だったのかも読み取れない。ただ、彼は黙ったまま昼食に手を付けようとしない。貴仁はあえてフォローすることもなく黙々とご飯を口に運んだ。
「貴仁は、そういうのおかしいと思う?」
しばらく考えた末に千草はぽつりとそう呟いた。非常に答えづらい内容だが、ここで「偏見なんて何もない」と言い切ってしまうほど器用ではない。
「そりゃ、相手が男で……しかも子供だって聞けば、理解はしづらいよ」
思った通り、千草は嫌な顔一つせず食事を始めた。
「貴仁ならネロとそういう関係にはならない?」
ネロとの間で起こったいくつかの出来事が頭を過ぎるが、あれは全部「そういうもの」ではなかったと自分に言い聞かせた。
「……ならない」
「それは貴仁の恋愛対象が同年代の女性だから?」
「そういうこと。俺が緊張してうまく話せない相手イコール恋愛対象として意識してる人。普通にしゃべれるってことは、俺はその相手をそういう目で見てないってこと」
わけもなく慌てて白米をかき込むと、千草は自分のフォークを凝視して何事か考え始めた。
「うーん……本当にそうかな」
「何が言いたいんだよ」
「別に」
千草は優雅に首を振って、黙々とサラダを食べ始めた。
***
火曜にいつも通りアルバイト先へ出勤すると、手前のデスクがやけに綺麗に片づけられているのが目についた。
「ああ、吉住君。今日からバイト、新しい人が増えるからね」
奥からのんびりとした事務所のボスの声が聞こえた。
「あ、結局どんな人に決まったんですか……?」
「ほら、吉住君がいいって言ってた人だよ」
ただ男だというだけの理由で推薦しておいたあの男性を思い浮かべる。とりあえず女性が入ってくるという危機が避けられるなら誰でもよかった。
パートの白井も出勤してしばらくした頃、事務所のドアがかちゃりと開いた。
「おはようございます」
礼儀正しくお辞儀をしたのは、この前の面接で見た時と変わらぬスリムな男性だった。
「改めて紹介するね。こちら今日からアルバイトに加わってもらう久藤さん」
神崎は続けて白井と貴仁を彼に紹介し、簡単な自己紹介と挨拶を交わした。
「最初は吉住君のシフトに合わせて来てもらうから、仕事を教えてあげて。慣れてきたら二人のシフトをずらしていこう」
「よろしくお願いします」
貴仁が変にかしこまって頭を下げると、彼は少し笑う。
「はい、よろしく」
笑いを含んだ彼の声は、今までより少し高く聞こえた。
「お昼はいつもどうしてるんですか?」
ファイル整理のやり方を教えながら昼が近くなってくると、自然とそんな話題になる。彼は人当たりがよく話しやすいので、午前中だけでかなり打ち解けられていた。
「コンビニで買ってきて、応接スペースとかデスクとか空いてる場所で食べてます。あ、別に外の飲食店に行ってもいいですよ」
「いえ、じゃあ私もコンビニで」
ちょうど白井も神崎も昼食に出てしまっており、事務所を留守にするのはまずいので彼を先にコンビニへと行かせる。一人になった事務所で、貴仁は携帯を確認した。
『今夜は中華料理!』
ネロから来ていたそんなメッセージに思わず頬が緩む。
『新しいバイトの人、この前俺が推しといたって言った男の人に決まったよ』
嫉妬深い彼がこれで安心してくれればいいのだが。少し待つと『よかったねー』とだけ返ってきた。まるで自分は気にしていなかったとでも言いたげなところが、素直じゃない彼らしかった。
昼食をとって昼休みもそろそろ終わり、皆が仕事に戻り始めた頃、貴仁はトイレに行っておこうと事務所を出る。階の端にあるビルの共同トイレまで来たところで、トイレから出てきた新入りの久藤にばったり出くわした。
「あれ、久藤さん、今……」
「どうしました?」
貴仁は彼と彼の出てきたドアを交互に見やった。
「今使ってたの、女子トイレですけど」
ドアの真ん中に堂々と付いているマークは赤の女性シルエットで、青の男性シルエットとは間違えようがない。混乱する貴仁の前で、彼は照れたように笑った。
「私、女ですよ」
彼、いや彼女の全身をもう一度見る。確かに背は高くないし、声も男にしては高いかなと思っていたが、黒くて短い髪も、真っ平らな胸も、飾りっ気のないパンツスタイルも、女性らしさは微塵も見当たらない。
「よく間違われるんです」
怒った様子もなく、彼女はただ気まずそうに笑みを浮かべるだけだった。
トイレで用を足して手を洗いながら、貴仁は盛大な溜め息をつく。いくら仕事を教える少しの間だけとはいえ、若い女性と一緒に仕事をするなど自分にできるのだろうか。そんな不安が貴仁の周りの空気を重くした。
もしかしたら、もう仕事を変えるべきかもしれない。それ以前に、女性を男と間違えるなどという失礼なことをして、本当に彼女は怒っていないのだろうか。
様々なことを悶々と考えながら、貴仁はわざとゆっくり歩いて事務所へ戻った。ドアを開けると、彼女はもう自分のデスクで覚えたての仕事を進めていた。言われてみれば女性らしい気もするが、パッと見た印象はやはり男だ。
「吉住さん、私昼休憩終わってるので、教えることがあればいつでも声かけてください」
「分かりました」
彼女を男と信じていた午前中の名残なのか、不思議とどもることなく言葉を紡げてしまう。何かの間違いかとも思ったが、手の平に汗をかくことも、喉がカラカラになることもなかった。いつも女性と話した後は「嫌われるようなことをしなかっただろうか」というような不安で一杯になるはずが、今はなぜかそれがない。
「久藤さん、それ終わったらこっちのファイルのデータ入力について教えるので」
試しに声をかけてみても、この不器用な口は午前中と何ら変わることなくスラスラと動いてくれた。
なぜだろう——手慣れた仕事をしつつ、頭のどこかでそんな考察を始める。
知らずに会話していた午前中に彼女への慣れが生じていたから。
男だと間違われても怒らないような「いい人」だという認識が、いつものような女性への恐怖感や緊張感を和らげてくれているから。
あるいは、やはり何度見ても彼女が女性だとは思えないため、子供や老婆と同じ「安全に話せる女性枠」に入っているから。
考えられることはいくつもあったが、どれが良かったのか特定には至らない。特定のどれかではなく複合的な要因かもしれないのだ。ただとにかく言えることは、仕事を変えるほどの心配はないだろうという喜ばしい兆しだった。
それなりに安心したところで、貴仁はもう一つ問題があることに気付いてしまった。面接で男だと思って推薦までした相手が、本当は女だった——それをネロに言うべきか否か。女だと知っていて推薦したんじゃないかと疑われる可能性もある以上、正直に打ち明けるのは躊躇われる。というわけで、結論としてはネロには黙っておくことに決めてしまった。どうせ彼がバイト先に来るようなこともないのだし、変に彼に心配や嫉妬をさせるまでもないだろう。
それにどうせネロには既に大きな嘘をついている。彼と最初に出会った時に千草と共謀した例の嘘だ。罪悪感としてはあちらの方が大きく、今回のような些細な嘘が増えたところで何も変わらない気がした。
***
次の出勤日である木曜の夜、貴仁は神崎と久藤と一緒にささやかな歓迎の飲み会の席についた。主婦の白井は子供の夕食を作ると言って帰ってしまったが、たった三人の飲み会でも特に彼女と話しにくくなることもなかった。
彼女は謙虚で温和で、飾らない優しい人だ。彼女なら裏で口汚く他人の愚痴を言うことも、誰かを極度に嫌うこともないだろう。貴仁の中にはなぜかそんな安心感があった。
仕事だけでなく酒の席でも彼女と普通に話せるのであれば、今後の仕事でもきっと問題ない。薄々感じていたことがこれで確信へと変わり、当面の悩みはこれで解消された。
晴れ晴れとした気分のまま、貴仁は家路についた。今夜は遅くなるから夕食はいらないとネロには伝えてあったが、話し込んでいて23時を過ぎており、さすがに遅くなりすぎたかと早足で歩く。
家に辿り着いて貴仁が鍵を差し込んでみると、鍵は閉まっていなかった。戸締りはしっかりするよう伝えておいたはずなのだが、忘れてしまったのだろうか。中に入ってみれば、廊下の先のドアも開けっ放しだ。
「おい、鍵、開いて……」
そう言いながら室内に足を踏み入れた時、そこに広がる光景に貴仁は目を疑った。
「た、たかひと、助けてっ」
ベッドの上に押し倒されたネロと、その上に覆い被さっている見知った友人。
「おかえりぃー」
ネロの上で振り返った柴田の顔は赤く、明らかに酔っている。ふとベッドの反対側のテレビ脇を見ると、早川が壁に凭れて座ったまま眠っていた。
「お前たち、どうして——」
「二次会どこにしよっかなーって考えてさ、お前ん家でいいかなって」
予想通り、二人で飲んだ帰りにここへ寄ったらしい。
「誰もいいって言ってないだろ」
「んー、前は事前の連絡なしで来ても怒んなかったじゃん?」
「今はよくない」
「この子がいるから? ねえ、この子誰? っていうか、何?」
そう言って柴田は組み敷いたままのネロの耳を触った。
「この耳、ただの飾りかと思ったら取れないしさ、尻尾もマジで生えてるみたいで——」
よく見るとネロはいつも風呂上がりにしている通り、シャツの下に何も履いていない。柴田の手がシャツを捲って尻尾の生え際を見ようとするのを、ネロが必死で拒んでいるようだ。諦めた柴田がネロの尻尾に触れそうになった時、貴仁は咄嗟に彼の腕を引っ張ってネロから引き剥がした。
「無理矢理そういうことすんのはセクハラだぞ」
「吉住怖いって。じゃ、もう触んないからさー、どういうことなのか教えるだけ教えてよ」
ベッドの横にぽいっと放り出された柴田は、床に寝転がったまま貴仁を見上げた。
「俺一人の判断じゃ話していいか分からない」
「なんだよ、それー」
「ていうか、お前どうせ酔ってて説明なんて聞いても絶対忘れるだろ」
「そんなことないってぇー」
そう言いつつも、彼の目はとろんとしていて今にも寝てしまいそうだ。
「いいから、今日は帰れ。酔いが抜けてもまだ覚えてたら教えてやる……かもしれない」
早川を蹴って起こせば、後は寝ぼけ眼の彼が柴田を引き摺って行ってくれた。おそらく彼らは今夜一晩で忘れてしまうか、あるいはこれを夢として処理するだろう。
嵐が過ぎ去ると、部屋は急に静まり返る。ネロはシャツが少し乱れたままベッドの上で半泣きになっていた。
「どうして家に上げたんだよ」
本当は優しくしたいのに、ついつい刺々しい声になってしまう。ベッドに座ってネロの身体を起こしてやると、彼はきゅっと貴仁に抱き付いた。
「だ、だって、タカヒトに大事な用があるって——」
「そんなの嘘だ、嘘。知らない人は絶対に家に入れない、ついていかない。分かったな」
「うん……怒ってる?」
潤んだ瞳で見上げられれば、強く叱りつけることもできない。
「少し」
「ごめんなさい……はあ、びっくりした」
俯いたネロは、太もものあたりでシャツの裾を引き伸ばした。
「マロネもお客さんに触られたりするの、こんな気持ちなのかな」
貴仁は呟くネロの頭をわしわしと撫でる。
「同じ立場になった気持ちは? 嬉しいか?」
「ううん、全然。でも……」
ネロは一旦言葉を区切ってから、少し赤い顔で貴仁を見上げた。
「タカヒトが怒ってくれたのは、ちょっと嬉しい。マロネにいろんな人が触った後、千草も少し怒ってるみたいで、オレはそれが羨ましかった」
「あいつが怒るところなんて想像できないな」
「うん、千草は感情がすごく分かりにくいけど、マロネのことは特別だから」
家族のことを話す時、ネロはいつも少し寂しそうな顔をする。やはりネロの中では千草やマロネの存在が大きく、部外者が入り込む余地はないような気さえした。
「お前も本当は、千草の特別になりたかった? 俺じゃなくて」
どんな答えも覚悟していた。だが、ネロはふるふると首を振る。
「もしもさっき、千草も一緒にいて怒ってくれたとしても、タカヒトが何も怒ってくれなかったら全然嬉しくなかったと思う」
どう返せばいいか分からず、貴仁は痛くもないのに首を擦った。
「あー、そっか」
誤魔化して立ち上がろうとしたのに、ネロはがっちりと貴仁の腕を掴んだ。
「ね、ね、マロネと話したんだけどね、千草はお客さんがマロネに触ると嫉妬するから怒っちゃうんだって。タカヒトは? オレがあの人たちに触られてヤキモチ焼いた?」
うん、と言いそうになるのをぐっと堪える。柴田がネロを押し倒していた図も、ネロの下半身を執拗に狙っていた図も、頭に血が上るには十分だった。だが、それはあくまで庇護欲からくるものだ。
「……さあな」
ぶっきらぼうに答えをはぐらかしたのに、ネロはにまにまと貴仁の顔を覗き込んだ。
「何も言い返せないってことは、正解ってことだよね」
ネロから向けられるそんなポジティブな好意が、最近はどこか癖になりつつあった。もっとも、彼がここまで貴仁に心酔しているのは、貴仁が自分を目当てに迎えに来てくれた白馬の王子様か何かだと思っているからだ。
拭い去れない罪悪感に、隠していることを全部打ち明けてしまおうかと思うこともある。しかし言ってしまえば、ネロに嫌われるのは必至だ。嫌われたくない——いつも女性と話す時に感じる焦燥感のような何かが、貴仁の口を固く閉ざす。
もっと長くネロと過ごして彼との絆を確立できれば、最初のきっかけが嘘だったと判明しても、きっと彼は許してくれるだろう。打ち明けるのはもっと後でいい。
そう結論付けた貴仁は、擦り寄ってくるネロの耳を優しく擽ってやった。
***
ネロは結局自宅に帰ることもなく、奇妙な共同生活は一ヶ月以上続いていた。彼が植えたアサガオの種は二人の生活と共に育ち、その蔓は支柱を伝ってどんどん伸びている。彼が食事を作り、貴仁が二人分の服を洗濯をするのが日常になったのは、既に六月も終わりに差し掛かる頃だった。
しとしとと雨が降る音で目を覚ませば、もう慣れてしまった温もりが懐にぴったりとくっ付いている。結局ネロは何度言っても勝手に貴仁のベッドに入ってくるので、最近は床に布団を敷くこともなくなってしまった。
時計を見ようと身を捩ると、ネロも「ん〜?」と眠そうな声を出してから瞼を開けた。
「おはよ〜」
眠っていた時よりもさらにぎゅっと抱き付かれ、互いの股間が密着する。マズいと思った時にはもう、ネロのスイッチが入ってしまっていた。
「ね、気持ちよくして?」
貴仁の下着の中に彼の細い指が侵入してきて、茎を絡め取られる。
「だから、朝からそういうことはやめろ、って……」
「今日は土曜日だから急いでない日だもん」
下着をずらされて半勃ちのものが外に出される。ネロはそこですかさず二人の性器を擦り合わせた。
「一緒にアレして?」
彼が何をねだっているのか、この一ヶ月ですぐに分かるようになってしまった。貴仁は二人分のものをまとめて握って上下に軽く扱く。
「ん、んっ……」
一人でする自慰と大して変わらないはずなのに、幼くも勃ち上がるネロの性器や、彼の吐息、声——それら全てが貴仁の欲情を煽った。
「ふぁ、も、出ちゃう……」
密着していたネロのものが震え、貴仁の手に温かなものがドロリとかかる。さっさと自分も達してしまおうと、濡れた手でクチュクチュと扱く力を強めた。
「ゃ、だ……おれ、もぅ、いい、のに……っ」
イッたばかりのものを強く刺激され、ネロの腰が身悶える。塗りたくられたネロの精液が泡立つほど素早く扱くと、貴仁の先端からも白い液体が迸った。
「っは……ごめ……」
手の平で受けきれなかった貴仁の精液が、ネロの股間を汚している。すぐに拭いてあげようとしたのだが、ネロはそれを指で掬うと自身の後ろの谷間に運んだ。
「そこは入んないって言ってるだろ。ほら、風呂行こう」
貴仁との「せっくす」を希望するネロは、ことあるごとにこうやって自身の後孔をほぐそうとする。そのたびに、さすがにそれはまずいだろうといつも止めるのだ。
しかしなぜそれが「まずい」のか、最近はあまり深く考えることはしなくなっていた。愛の有る無しといった感情の問題なのか、それとも相手が子供だという世間体の問題なのか、あるいはその両方なのか、分からないままこの中途半端な関係を引き延ばしていた。
「う〜、雨って嫌い!」
梅雨は未だ開ける気配がなく、ネロは長靴で水たまりをパシャリと蹴った。
「普段フード被ってるよりも、雨の日にレインコートのフード被ってた方が自然でいいじゃないか」
ビニール傘の下、ネロはさらに水色のレインコートですっぽりと身体を防御している。すぐ傍を黄色いレインコートの子供たちが走っていくのを見ていると、ネロはぷくっと頬を膨らませた。
「言っとくけど、オレあんな子供じゃないよ!」
似ているな、と思っていたのがバレていたらしい。どう宥めようか考えていた貴仁は、街路樹の植え込みで咲くアジサイに目を止めた。
「ああ、ほら、アジサイが綺麗だぞ」
「誤魔化したって……わ〜、ほんとだ、キレイ! あれ、こっちのアジサイ、真ん中の方だけ全然咲いてないよ?」
「それはガクアジサイって言うんだ。周りだけ咲くから額みたいだろ?」
説明してやると、彼は興味深そうにふむふむと頷く。美しい花を見てネロの機嫌を取りながら土曜の街中を歩いていれば、憂鬱な雨もあまり気にならなかった。
辿り着いたのは近所にあるスーパーマーケットだ。ネロが今夜はハンバーグを作りたいと言うので、食材の買い出しが目的だった。
ネロが先に食料品売り場へと入っていくのを眺めながら、貴仁は入り口脇へ買い物カゴを取りに行く。店内に入ろうとすると、ちょうど買い物袋を提げた二人組の女性とすれ違った。
「あれ、吉住さん、買い物ですか?」
まさか話しかけられるとは思っておらず、肩が跳ね上がるほど驚いた。その声は確かに聞き覚えがあるが、目の前にいるワンピースを着たショートヘアの女性は、普段と全く雰囲気が違った。
「え、あ、く、久藤さん……?」
いつも化粧っ気のない顔にパンツスタイルだった彼女が、今日は少しお洒落をしている。蒸し暑くなってきたせいか、彼女のワンピースは半袖だ。そこから伸びる手も、スカートから出る足も、確かに華奢な女性のものだった。
「どうしたんですか?」
声をかけられて、スカートの裾の辺りからハッと顔を上げる。
「これ、これは、ちが……」
服装が違うだけでここまで意識するなんて、現金で下衆な男がすることだ。せっかく今まで良好な関係を築けていたのに、ここで下心がバレたらどうなる? いや、彼女の性格ならそこまで心配する必要はないはずだ。
そんな考えがぐるぐると頭を駆け巡り、いつものどもり症状と格闘する。ブンブンと首を振ると、久藤と一緒にいたもう一人の若い女は怪訝そうに貴仁を観察した。
「綾、この人は?」
久藤が貴仁のことを紹介しているのをオロオロ聞いていると、背中をバシンと誰かに叩かれた。
「痛っ……ネロ!?」
振り返った貴仁を待っていたのは、キッと睨みつける金色の目だった。レインコートがなければ耳も尻尾も毛を逆立てていそうな勢いだ。
「あっ、その子、白井さんから聞いてますよ。事務所の前までお人形さんみたいな外国の子を連れて来たって」
「じむしょ……アルバイトの人?」
貴仁の陰から久藤を睨むネロは、縄張りを守って威嚇する猫そのものだった。
「はい、先月からお世話になってます」
「先月に新しく入った人は男の人だったんじゃないの?」
これはマズい展開になった。ネロの周りにどす黒いオーラが見えるような気がする。貴仁の頭の中は、何とかネロを怒らせない方法を考えるのでいっぱいになった。
「お前に言った時はまだ男の人だと勘違いしてたんだ」
「そうそう、よく間違われるんです。私が女子トイレから出てきて、吉住さん本当にびっくりしてましたよね」
「あの時はすみませんでした……」
ネロはまだ納得しかねるようで、ジト目が解除されない。
「でもどう見ても女の人じゃん」
「私ね、普段はほとんどスカート履かないの。お化粧も薄いし」
久藤はネロの視線に合わせてにっこりと笑いかけた。
「そうそう。そういえば、久藤さんはどうして今日そんな格好を?」
ネロの注意を逸らせないかとそんな話題を振ってみたが、思わぬところから横槍が入った。
「そんな格好って何? 似合わないって言いたいわけ?」
ずっと黙って話を聞いていた久藤の連れは、貴仁を「失礼な男」と認識したようだ。久藤は「まあまあ」と宥めようとするも、彼女は久藤の腕を引っ張って立ち去ってしまった。
ネロの誤解を解消しきれないまま味方がいなくなり、貴仁は孤立無援となる。
「嘘つき」
店内にスタスタと入っていくネロを追いながら、貴仁は慌てて弁明した。
「だからさっきも言ったけど、お前に報告した時は本当に男だと思ってたんだ。後から女だって分かっても、お前には言わない方がいいと思ったんだよ」
「隠し事!」
「思いやりって言ってほしいな」
貴仁の言葉を聞いているのかいないのか、ネロは選んだ食材を貴仁の買い物カゴに次々放り込んでいく。だが、選んでいる食材には明らかに違和感があった。
「おい、今夜の夕飯さっきハンバーグって言ってなかったか?」
「気が変わったの。今夜の夕飯はドリア!」
ツンと澄ました顔でネロはドリアにも使えるグラタンの素をカゴに入れた。
「お、俺ドリア駄目って前言わなかったっけ……」
グラタンはいいのだが、そこに米を混ぜることがどうしても許せないのだ。弱気になった貴仁から、ネロはぷいっと顔を背ける。
「嫌なら食べなくていいですー」
それはつまり、分かっていてドリアを選んだということだろう。こうなってしまっては仕方ない。買い物カゴを持つだけの奴隷として、貴仁は静かにネロに付き従うことにした。
「なあ、ほんとに黙ってて悪かったって」
ソファで夕食の完成を待ちながら、何度目になるか分からない謝罪をする。ずっと無視され続けてきたが、料理が終わりそうなのかネロはやっとキッチンの方から会話をする気になってくれたようだ。
「オレが怒ってるの、黙ってたことだけじゃないから!」
「何だよ……じゃなくて、何でしょうか」
耐熱皿に入ったドリアを運んできたネロは、それをどんと貴仁の目の前に置いた。
「女の人なのに、タカヒトが普通に喋ってた!」
「え、いや……」
そういえば、女性らしい恰好をした彼女を最初見た時は少しどもりかけたが、ネロが来てからは結局いつも通り彼女と話ができた。ネロに何とか弁明しようと必死で、彼女と普通に話せるか話せないかという問題は頭から吹き飛んでいたようだ。
「普通に話せる若い女の人ができて良かったですねー」
ぷりぷり怒りながら、ネロは自分の分の料理を運んで斜め向かいに座った。
「そ、そんなことで怒ってるのか?」
「そんなことじゃないよ! これ大事なこと!」
「はあ……」
フォークを握りしめて熱弁するネロに思わず気のない返事をすると、彼は生意気にもやれやれと首を振った。
「タカヒトがモテないのはね、あの変な上がり症みたいなのが原因なんだよ? もし……もしタカヒトが普通に女の人と話せたら……きっとモテちゃうもん」
「普通に話すだけでモテるなら世界中の男がモテモテハーレムだよ」
彼のおかしな理論を鼻で笑うと、ネロは急に真面目な顔つきになった。
「タカヒトは自分のいいところ、全然分かってないんだね。オレと同じで、タカヒトもきっと自分のことが好きじゃないんだ」
「えーっと、怒られてると思ったら褒められてる?」
ネロはシャーッと猫が威嚇するように身を乗り出した。
「怒ってる! だってタカヒトが女の人と話してモテるようになったら、オレなんて、子供だし、男だし、普通の人間じゃないし……きっとポイって捨てられちゃうんだ。酷い!」
ネロの勢いに気圧されて、貴仁は思わずソファの背に身を引いた。
「勝手な妄想して勝手に怒るなよ」
「じゃあ、タカヒトのこと好きって言ってくれる女の人がいて、その人とは普通に話せるとしたら、オレとその人どっちを選ぶ?」
それはまさに、今までの人生でずっと追い求めてきた女性像だ。だが、あまりに必死なネロを目の前にすると思考が鈍ってしまう。
「えと、何て言うか……少なくとも、お前を切り捨てるようなことはしないよ」
何とか答えをひり出すも、ネロはまだむくれたままだ。
「二股ってこと?」
「そうじゃなくて——」
「女の人は恋人で、オレは弟……なんて絶対イヤだから」
顔や身体は子供なのに、その声や雰囲気には成長途中の色気が含まれている。そのアンバランスさに、貴仁は思わずごくりと喉を鳴らした。
「なあ、お前は、その、やっぱり俺のこと——」
「タカヒトは? やっぱりオレのこと、そういう風に思えない? 女の人の方がいい?」
どうしてここまで積極的になる勇気があるんだろう。
彼の作ってくれた夕飯をじっと見つめて考える。嫌われるのが怖くて女性とうまく話もできない臆病な自分自身と比べ、貴仁はネロの積極性を羨ましく思った。しかしネロは千草や家族に対して酷く消極的だったことを考えてみると、元はむしろ積極的になれない性格のはずだ。
俺はネロにとって特別なんだろうか。本来の性格に反してここまで積極的になるほど、俺はネロに想われてるってことなんだろうか。それなら、俺はどうなんだ? 男だからとか、子供だからとか、何か理由を付けて答えをはぐらかしていいのか?
貴仁が必死に考えていると、膝の上にネロの手が触れた。
「なんで黙っちゃうの? 答えが分からないの? それとも答えたくないの?」
外と内から答えをせっつかれる。もうどうにでもなれという気持ちで、思ったことをそのまま口にすることにした。
「俺は多分、今のところ他の誰よりもお前のことを気にかけてるし、大事だと思ってるよ。そこで急に誰か他の人が近付いて来ても、女っていう性別だけじゃ気持ちは変わらない……と思ってる」
前の自分なら手放しで理想の女性へと走っていただろうが、今そんな素敵な女性が現れたとしても、何のしがらみもなくネロの好意を跳ね退けることはできないだろう。
彼への気持ちを証明するように、苦手なドリアにフォークを入れる。ドキドキしながら一口食べて、無心でもくもくと噛み締めた。だが、明らかにグラタンの味しかしない。よくよく見ると、皿の底の方にもライスは見当たらなかった。
「あれ、これ……グラタン?」
ぼんやりと貴仁の手元を見ていたネロは、我に返ったように慌ててそっぽを向いた。
「嘘ついたから仕返しっ」
一気に気が抜けると、変な笑いが零れた。
「騙された。本気で覚悟決めたのに」
「大体、タカヒトに好きになってもらうためにご飯作ってるのに、タカヒトに嫌われるようなもの作るわけないじゃん」
そんな健気なことを言われると、またネロへの気持ちが大きくなる。彼との結びつきが強化されて、切るに切れなくなってしまう。困ったな、と思う一方で、胸の中に育ちつつある感情がどこか心地いいのも事実だった。