七月に入っても梅雨は明けず、期末の試験やレポートが近いこともあり、気分は一層じめじめした。食堂の前で人ごみの中に見つけた千草だけは、気温も湿度もおかまいなしの涼しい顔をしている。
合流して二人で日替わりカレーの食券を買い、チキンカレーをトレイに乗せて席を確保したところで、彼はネロに関するとある話を持ち出した。
「定期検診?」
「うん、あいつら普通の医者には診せられないだろ? だから定期的に研究所に行って検査してるんだよ」
千草は何でもないことのようにそう言って、カレーを軽くスプーンで混ぜた。
「研究所って遠いのか?」
「うん、まあね」
「じゃあ泊まりか」
「いつも一週間くらい向こうにいるかなあ」
「随分長いんだな」
食事をするのもすっかり忘れてぼんやりしていると、千草がくすりと笑った。
「寂しい?」
ネロがいない生活を想像していたのがバレたような気がして、貴仁は慌ててカレーに手を付けた。
「……別に」
そうは言ったものの、一人で食べる夕食や、彼がベッドに侵入してこない夜を思うと、それは酷く孤独な気がした。
「オレがいないからって浮気したらだめだからね」
検査のために一時帰宅する前夜、ネロは鞄に簡単な荷物を詰めながらそう言った。
「あと、アサガオにちゃんとお水あげてね。はあ……オレがいない間に咲いちゃったらどうしよう」
「まだ大丈夫だろ。あいつちょっと成長遅いよ」
貴仁がベッドの上でゴロゴロ雑誌を読みながら答えると、ネロは急にベッドへと上がって来た。
「タカヒト、なんか冷たい! もっと何かないの?」
「何が?」
「だって、明日からオレいなくなっちゃうんだよ? もっと別れを惜しんでくれてもいいじゃん」
貴仁の読んでいた雑誌を剥ぎ取ると、ネロはすかさず貴仁に馬乗りになった。
「別れって、どうせすぐ戻ってくるんだろ?」
「そーだけどさ……」
ネロもネロなりに寂しがっているのだろうか。シュンと項垂れてしまった耳がやけにしおらしく見えた。
「検査が終わればまた元通りだ。安心しろって」
甘やかしてそんなことを言うと、調子に乗ったネロはツンとそっぽを向いた。
「元通りじゃやだ」
「は?」
「もっと深いカンケーになるの!」
鼻と鼻がぶつかるくらいの勢いで、ネロが顔を近づけてくる。
「マロネが言ってたんだけどね、オレが家を出てからやっと兄弟が大事だったことに気付いたんだって。だからタカヒトも、この検査期間でオレがどれだけ大事だったか気付けばいーんだよ。それでね、オレが帰ってきたらもーっと深いカンケーになるんだ」
「はいはい」
軽くいなされたことが不満だったのか、ネロはムッとむくれた。
「反論がないなら、今度オレが帰って来た時せっくすしようね。いつものじゃなくて、本物のやつだよ?」
獲物を狙う猫のように、ネロの目がキラリと光った。
「だから、お前にはまだ早いって——」
「それ何度も聞いたもん! マロネはしてるって言ってるじゃん! マロネに聞いてくるからね。どうすればちゃんと入るのか」
「弟にそんなこと聞くなんて、お前のプライドが許すのか?」
いつもマロネを馬鹿にしていたネロに、そんなこと聞けるわけがない。だが、ネロは気にした様子もなく妖しく笑った。
「そんなことよりタカヒトとせっくすしてキセージジツを作る方が大事」
「既成事実って……」
「タカヒトは? 自分のプライドより大事なこと、あるでしょ?」
どうかな、と心の中だけで返す。自分がどう見られているのか、体裁ばかり気にして緊張してしまうような人間には、あまり縁のない話に思えた。
***
ネロのいない生活は、予想していたよりずっと違和感があった。
朝起きても彼がベッドにいない。シャワーを浴びていても彼が乱入してこない。朝食にイチゴジャムを出しても、それをパンに付ける彼がいない。家に帰っても電気は点いていないし、もちろん手作りの夕食も用意されていない。
当たり前になっていた生活が当たり前でなくなった時、自分の中にネロが占めていた割合が分かる。まさにネロが言っていた通り、「いなくなって初めてその大切さに気付く」というわけだ。
「おはようございます」
火曜日の朝、挨拶と共にバイト先に現れたのは久藤だった。最近仕事を覚えた彼女は、貴仁とは基本的にシフトがずらされつつある。そのため、この前のスーパーの一件以来、彼女に会うのは初めてだった。
「あ、えと……」
この前のことをしっかり謝らないといけないと思っているのに、役立たずな口は上手く動いてくれない。貴仁がもごもごしている内に、久藤の方が申し訳なさそうに笑った。
「この前、私の友達がごめんなさい。あの子、私の見た目のことになるとちょっと過保護になるところがあって——」
「え……」
何のことか忘れかけていたが、そういえば去り際に久藤の友人は貴仁に腹を立てていた。
「私からちゃんと言っておきました。吉住さんは私の外見のことで馬鹿にしたりするような人じゃない、すごくいい人ですって」
逆に言えば、その友達が庇わなければならないほど、久藤はその見た目のことでこれまで嫌な思いをした経験があるということだろう。彼女の外見が男にしか見えないから普通に話せる、などと喜んでいた自分も、彼女を馬鹿にしてきた人と大して違いはないような気がした。
「俺、別にそんなにいい人じゃないですよ。だって、久藤さんの見た目が変わっただけであんなにおどおどして、分かりやすい男だって思いませんか? きょどって気持ち悪いとか——」
知られたくないと思っていたことなのに、罪悪感のせいでついつい自分から漏らしてしまう。しかし、彼女は少し照れたように笑った。
「意識してくれてるんだなって思うだけで、別に全然嫌じゃないですよ。私、意識されることが少ないから、むしろ嬉しいです」
ああ、こうやって理解して受け入れてくれる人をずっと待ってたんだ。
彼女の言葉を聞いて貴仁は咄嗟にそう思う。しかし、彼女がどんなに待ち望んだ理想の人でも、特別な感情は湧き起こって来なかった。
「俺も久藤さんの友達に言われたこと、特に気にしてません。彼女はきっと久藤さん想いのいい人なんでしょうね」
今まで通り、久藤の前でも普通に話せている。これは単に彼女の見た目のおかげではない。彼女なら安易に自分を嫌わないだろうという確信があるからだ。
久藤は貴仁の言葉ににこりと笑うと、自分のデスクへと向かっていった。その後姿を見ながら、ふと以前千草と話したことを思い出す。
緊張してうまく喋れない相手イコール恋愛対象として意識している人——あの時は確かにそう言った。しかしこうして考えてみると、安心して意識せず話せる相手こそが、自分の理解者であり恋愛対象になりうる理想の人なのかもしれない。
***
大学はネロから独立した時間だったはずなのに、彼の不在による違和感をそのまま引き摺って、大学でも調子が狂ってしまう。特に演習でもない座学の授業は、ぼんやりしてふと気が付くと授業が終わっていた。
「最近吉住やる気ないなあ」
「レポートで疲れてるんじゃない?」
柴田と早川が隣でヒソヒソ話しているが、貴仁の耳にはしっかり聞こえている。
「いやあ、これは女絡みと見た。捨てられた子犬的な寂しいオーラが出てる」
「本気で好きになった人の前でアウアウ言って捨てられたのかもね」
「やっぱり吉住に恋人は無理だな。老婆か子供か女らしからぬ女ならアウアウ言わないんだろうけど」
彼らの会話を聞きながら、そういえばここまでネロを大事に思っているのに、彼の前でどもったことはほとんどなかったことを思い出す。彼に嫌われたくないのであれば、もっと発言に緊張してもおかしくないはずだ。現に何度か彼の機嫌を損ねて嫌われそうになった危機もあった。
それでも結局ネロはいつも仲直りをしてくれるから。相も変わらず好きだというオーラを出して迫ってきてくれるから。だから、彼に嫌われるかもしれないという憂いを抱いたこともなかった。
そもそも最初に出会った時から、彼にはだいぶ小言のようなことを言ってしまったのに、むしろ彼はそれが気に入ったと言ってくれたほどだ。この上がり症について話した時も、ネロは好意的に受け止めてくれた。
彼に一つ嘘をついていることを除けば、彼に嫌われる不安はほとんどない。だから、彼とは何も意識せず話すことができる。分かってしまえば単純なことだ。
昨日バイト先で久藤と話した時に考えたことがふと頭の隅を過ぎった。自分を受け入れてくれて、嫌われる心配なく安心して話せる相手こそが理想の人。
そんな思考を遮るように、ポケットの中で携帯が震える。慌てて確認すると、千草からの検査進捗報告が入っていた。
『明日の夜には二人とも家に帰ってくるから、明後日金曜の夕方に坂井さんが大学に連れて行くよ』
予定していた一週間には二日ほど早かったため、思わず何度も読み直した。
「あれ、吉住なんか目に輝きが戻ってない?」
「クソ、例の女から何か言われたのか? おい貴仁クーン、今日裏の林に変な動物探しに行こーぜ」
「いつもパスって言ってるだろ。じゃーな」
途中までしかメモの書かれていないレジュメを鞄に詰め込んで、ガタリと席を立つ。どうせ今日はまだ帰って来ないのに、心は既にネロが戻ってきたような気がしていた。
***
金曜日、すべての授業を終えた貴仁は、待ち合わせ通り食堂前で千草と落ち合った。
「坂井さん、こっちに十八時頃着くって」
「まだ時間あるな」
一時間以上余裕があるのを確認してから、二人は池のほとりのテラスに回った。夕方のこんな中途半端な時間に学食で食事をとる者はほとんどない。ガラスの向こうの屋内はまだしも、じめじめした外のテラスには誰もいなかった。
屋根の下のテーブルを確保して、パラパラと小雨が池に波紋を作るのを眺める。
「早く梅雨明けてくれないかな」
「梅雨が明ける頃には夏学期も終わってるだろうね」
レポートや試験の予定がほぼ出揃い、もうすぐ夏休みになろうとしていた。
「ネロのこと、海とかプールとか連れてってやりたいけど、あの耳じゃ無理だよなあ」
何気なくそう言うと、千草が嬉しそうに頬杖をついた。
「……何だよ」
「ううん、貴仁がネロのこと考えてくれるのが嬉しくて」
「お前だってあいつの兄貴なんだから一緒に考えろよ」
「うん、ずっと一人で考えてきたから、貴仁と一緒に考えられるようになって本当に良かった」
千草のこんなクサいセリフにも慣れ始めてしまった。突っ込まないでおいてやると、千草は済んだ薄茶の瞳でじっと貴仁を見つめた。
「やっぱり、貴仁にはちゃんと言っておかないとって思ってたんだけどさ——」
彼はそこでもう一度迷いを見せる。ネロが帰ってくるという楽しみに満ちた空気に、突然影が差したような気がした。
「俺も、夏休みに入ったらネロたちと入れ替わりで研究所に検査受けに行くんだよね」
「検査って、だってそれはあいつらが普通の病院に行けないからで——」
そこまで言ってから、貴仁は自力で答えに思い当たる。
「分かった? つまり俺も、普通じゃないところがあるってこと。大体、ネロやマロネを作ったイカれた科学者だぞ? 自分の息子で何も試さないと思う?」
千草には猫の耳も尻尾もない。しかし確かにいつも彼には違和感を覚えていた。
「貴仁、この前家に来た時俺に言ったよね。感情のない宇宙人みたいだって。あれ、本当に近い喩えだと思うよ」
「はっきり言えよ」
「脳の中の情動——感情を司る部分がいじられてる。子供の頃の発達期に色々やられてね、扁桃体とか前頭前野とかの働きが一部抑制されてるんだ」
「そういう言い方じゃ分からない」
池の表面が揺れるのが、雨によるものなのか自分がぐらぐらしているせいなのか分からない。それくらい頭が混乱していた。
「そうだな、たとえば高いところや駅のホームの縁を歩いても、恐いって感情が湧いてこないんだ。身を守るための本能的な恐怖や不快感がうまく喚起されない。あとは、罪悪感とか倫理観とかも実はかなり曖昧かな」
「さすがにそこまで無感情には見えなかった、けど……」
「そりゃ、他の人を見て学習してるからね。表情筋を動かすのは苦手だけど、こういう時は嬉しそうな顔をする、こういう時は申し訳なさそうな顔をする……全部ロボットみたいにプログラムしてきた」
信じられないような話だが、今までの千草の表情や言動に対する違和感は、その説明でかなり納得がいく。
「何でお前の父親がそんなことしたのか、全く理解できない」
「恐怖や不快感を抱かない精神と、動物のような五感や身体能力を持った人がいたら……兵隊アリとして便利だと思わない? 俺にしたこととマロネやネロを作った技術を合わせれば、それが可能になる」
じめっとした初夏なのに、背筋がぞわりと凍り付いた気がした。
「そんなの、倫理的に問題があるだろ」
「うん、問題があるよ。父さんもそれに気付いたんだ。母さんが死んだ時、俺が堪え切れずに泣いたのを見て……目が覚めた。俺を使った実験は失敗して、父さんはこっちに帰って来た」
「それは倫理的な心の変化じゃなくて、単に実験が失敗してがっかりしただけじゃないか?」
父親を悪く言われても、千草は悠々と足を組んだ。
「でも父さんは俺を治そうとしてくれた。俺が泣けたってことは、抑制されてるだけで感情が完全に死んでるわけじゃない。だから俺のセラピーのために——」
心臓が一度大きく脈打つのと同時に、池の上で小さな魚が跳ねた。
「マロネとネロを作った。死んだ母さんの代わりになる家族を増やして、俺の感情を元に戻す実験を始めた」
「実験は、成功したのか?」
「少なくとも、愛情は取り戻せたよ。少しずつだけど、頭で考えなくても何かを感じられるようになってきてる」
彼がマロネと深い仲になっているのは、どうやら偽の感情ではないらしい。暑さによるものとは違う汗が背中を伝う。
「ネロとマロネが作られたのは全部、千草の、ため……あいつら本人は知ってるのか?」
「もちろん。父さんが何度も言ってたからね。『千草にかわいがってもらって、千草の心を治してあげるように』って」
彼が言っていることは、最初にあの家で簡単に説明されたことと何ら矛盾しない。ネロが言っていたこととも合致する。しかし、こうして千草の事情を含めた細部を聞いてみると、どこか全く違う話に思えた。
「千草を治すために作られたんだって言い聞かされて育って、その千草がマロネを選んだら? ネロは、あいつは何のために生まれて、これから何のために……」
彼が自室に引きこもるようになった原因について、これまでいくつかの話を耳にしてきた。耳と尻尾を隠さなければならないから。マロネに千草を取られたから。三毛猫のマロネの方が客受けが良かったから。
しかし、ネロは自分が作られた目的の話はしなかった。というより、話せなかったのかもしれない。それが自己を形作る核に近ければ近いほど、他人には話しづらくなる。
自分が生まれた目的も果たせず、誰にも構われず、そんな時に「他の誰でもなくネロに会ってみたい」という人物が現れたらどうなるか。そんなの心底気に入るに決まっている。彼から向けられる好意は至極当然の成り行きによるものだ。あの時千草が選んだのが貴仁ではなく別の誰かでも、きっと同じ結果になっていた。
池の水面で閉じたハスの花が大きく揺れている。気が付けば雨脚と共に風も強まり、屋根の下のテラスにまで雨が吹き込んできていた。
「雨、強くなってきたね。場所移動しようか」
千草と共に雨の中を並んで歩きながら大学入口のバスターミナルを目指す。足取りがやけに重く感じられるのは、雨がジーンズの裾を濡らしているせいではなく、心の中に膨れ上がった何かのせいだろう。
今までずっと先延ばしにしてきたが、やはりきちんと本当のことを言うべきだ。出会ったきっかけが嘘でも、過程が本物ならまだしばらくは黙っていても構わないと思っていた。しかし、ネロにとってあの最初の出会いがどれだけ嬉しくて大事なものだったか、今の話で思い知ってしまった以上、ネロを騙し続けることは良心が痛んだ。
今日は久しぶりにネロと再会できる日だと思って楽しみにしていたのに、今は胸がずしりと重く湿っていた。
そんな貴仁の心を知ってか知らずか、千草は歩きながら訥々と語り掛けてくる。
「ネロのことは俺だって悩んだ。でもほら、俺は人の感情がうまく理解できないから、貴仁に一緒に考えてもらおうと思って」
「どうして俺を選んだんだ?」
誰でもよかったんじゃないか? そんな考えを否定してほしかった。傘を持つ手をぎゅっと握りしめて祈る。
「貴仁は俺と正反対だと思ったから。俺はイレギュラーな反応が苦手でね、貴仁の反応が真似できないんだ。女の人の前でおどおどしてるから、てっきり言いたいことも言えない性格なのかと思ったら、俺相手に言いにくいようなことも真摯に指摘してくれたりしてさ。そもそもあの上がり症が発動する条件もよく分からない」
「言いにくいようなこと……うん、小姑みたいに説教臭いって自覚はしてるよ」
「貴仁は自分のいいところが分かってないんだね」
それは誰かからも聞いたような気がする。
「ネロに最初に会ったあの日、庭で話してるの全部聞いてたよ。貴仁は後ろ向きなネロを否定してくれた。俺はいつだって『そうだね』ってネロの後ろ向きに同調してあげることしかできなかった。波風立てないで同意するのが正しいやり方だって『学習』してきたから」
そうするのが正しいことは、貴仁にも分かっている。分かってはいるが、意識する必要のない相手だと、ぽろりと違う意見も言ってしまうのだ。
「俺のこともちゃんと怒ってくれる。俺は確かにネロに酷いことをしてるのかもしれないって自分で分かってても、誰かにちゃんと言ってほしかったのかな」
この前一度ネロを千草の家に連れ帰った時、怒られて嬉しそうにしていた彼を思い出した。
「いつも誰にでも正直にものを言うわけじゃないから、空気が読めないってわけでもなくて……不思議だなっていつも思ってたし、俺はそういう貴仁が気に入ってるんだ」
意識してしまう女性相手には言葉をなくし、逆に意識しない相手にはつい喋りすぎてしまう——心のない千草には確かに真似できない挙動かもしれない。
「お前が気に入ったって、ネロも気に入るとは限らない」
「それでも、俺がいいと思えないものを弟にあげる訳にはいかないだろ? 貴仁はいわば俺のお墨付きってこと」
「俺は……そんなにいい奴じゃないと思うよ。ネロにも言ったけど、俺は自分が可愛いだけのチキンだから」
「本当にそれだけだったら、ネロもここまで貴仁を気に入ってないよ」
フォローしてもらっても、自己嫌悪の念が消えることはない。
ネロから向けられる好意が心地よくて、嫌われたくなくて、ずっと嘘をついてきた。同性愛だの少年愛だのという世間からの目が気になって、ネロに抱いている感情に見て見ぬフリをし続けてきたのだ。そのくせ、ネロからの愛情だけはちゃっかり受け取ろうとしている。
外から見える体裁を整えているだけで、中身は臆病な卑怯者。分かっているからこそ、直さないといけない。今度こそネロに本当のことを言って、自分に胸を張れるようにならないといけない。
大学の入り口近くにあるバスターミナルは、帰宅する学生で長い行列になっていた。自転車が使えないこの季節はいつもそうだ。
二人はそちらに行くのをやめて、車が来るであろう駐車場へと移動した。千草が何度か携帯でやり取りをしてくれて、第一駐車場で落ち合うことに決まったからだ。
車が来ればすぐに分かるように駐車場の入り口に立ち、雨にけぶる遠くを見る。本当のことを言う決意をしたはいいものの、ネロと顔を合わせればまた先送りにしてしまうような気がした。
「そういえばネロのやつ、昨日の夜すぐに帰りたいって駄々こねてたな」
傘が雨を弾く音で、千草の声は少し聞き取りにくい。
「帰るって、あいつ自分の家どこだと思ってんだろ」
軽口を叩いてみせるが、内心少し嬉しくて、少し心が痛かった。
「外の世界を見に行くだけって言ってたのに、もうすっかり貴仁の家の子だね」
「……あいつ、いつまで俺が預かってていいのかな」
たった一週間弱いないだけでも変な気持ちだったのに、いつか彼を返す日が来るのが信じられなかった。
「貴仁がいいって言うなら、多分いつまででもいいと思うけど」
「でも、あいつに本当のこと知られたら——」
「本当のこと?」
共犯者のくせに、千草はまるで見当がつかないといったように首を傾げた。
「最初、あいつに会いに行った時のこと。本当はお前にせがまれて仕方なく話に乗っただけなんだって、もしあいつが知ったら、多分あいつは俺のことなんか好きじゃなくなるし、家に帰るって言い出すと思うんだ」
「でも、今は貴仁も本気でネロを大事に思ってくれてるでしょ? そういえば女の子を紹介するってお礼、まだ必要?」
そんな約束があったことすら、もはや記憶の彼方だった。「まさか」と否定しようとしたその時、背後で何かがぱしゃりと水に落ちる音がした。
振り返った瞬間、ぎくりと全身が凍り付く。地面に落ちたビニール傘と、水色のレインコートに身を包んだ少年。どうしてこうもタイミングが悪いのだろう。
「嘘つき」
久しぶりに聞いた震え気味のネロの声は、雨の中でもなぜかはっきりと耳に届いた。暗いせいか彼の目は黒目がちで、金色の輝きはほとんど見えない。
彼が来た方向には第二駐車場がある。驚かそうと思ってネロがいたずらを企む姿が容易に想像できた。
数秒無言で見つめあった後、ネロは傘を置いたまま踵を返して走り出した。向かい風に煽られて、彼のフードが脱げる。
「聞かれてた……かな?」
「最悪だ……ああ、クソッ」
千草と何か相談するより先に、身体はもう走り出していた。子供にならすぐ追いつけると思っていたのに、ネロは猫のように素早く、ちっとも距離が縮まる気がしない。乗って来た車にそのまま戻ってくれれば、運転手の坂井が車を出さない限りすぐに捕まえることができる。しかし彼は第二駐車場にも行かず、人でごった返すバスターミナルの方にも行かず、大学キャンパスの奥へと逃げていく。
そちらであれば、貴仁の方が地理を知っている分有利だった。思った通り、ネロは見通しのいい芝生や池の方には行かず、校舎が林立する方へと走って行った。
レインコートを着た猫耳の少年が駆け抜けていくのを、帰りがけの大学生らは皆一様に振り返る。傘を差してはいるものの、雨風の中全力で走っている貴仁もずぶ濡れだ。すれ違うたび、突き刺すような他人の視線が貴仁に集まった。それでも、注目を集めていようが何だろうが構わなかった。ネロさえ捕まえられれば、謝ることができれば、それ以外はどうでもいい。周囲の視線を跳ね除けて、ただネロの背中だけを追った。
踏みならされた獣道を通り、入り口から反対の入り口へと突っ切れる校舎内を通る。少しずつショートカットした結果、ある校舎の脇で貴仁はようやくネロの腕を捕まえた。
「お前、足早すぎ……っ」
「離して」
「離したらお前、どこ行くつもりだよ」
「どこだっていいじゃん。嘘つきとは話したくない!」
ネロが掴まれた腕を捩って逃げようとする。貴仁は傘を地面に落とすと、両手でネロの肩を掴んだ。
「なあ、聞いてくれ。俺だっていつまでも嘘をつき続けるつもりなんてなかった。今日お前が帰ってきたらちゃんと言おうと思ってたところなんだ」
「それ、坂井さんに『勉強しなさい』って言われた時にいつもオレが言ってたやつ! 『これからやろうと思ってたところ』なんてぜーんぶ嘘!」
「嘘じゃない、って言っても信じてくれないんだろうけど……。さっき千草に聞いたんだ。お前が生まれた目的のこと」
そう言った瞬間、ネロの肩が強張った。
「っ……そーだよ、オレはポンコツなんだ。千草のために生まれたのに、マロネの活躍のお蔭でオレはお役御免。珍しい猫耳人間としても、マロネの方が珍しくて人気者。わざわざ耳と尻尾を隠してまで外に出たって、それが何になるのか分からなかった」
先程まさに貴仁が考えた通りのことだが、ネロの口から改めて聞かされると余計に心臓の辺りが痛んだ。
「やっと、やっとオレのこと必要だって言ってくれる人が迎えに来てくれたと思ってたのに、それも全部嘘だったんだってさ」
自虐的な笑みを浮かべるネロに、貴仁は慌てて首を振った。
「全部じゃない。嘘は本当に最初だけ。俺がお前に話したことも、お前と一緒に生活してた間もちゃんと——」
「騙されて嬉しそうに懐いてるオレを見て、今まで何も思わなかったくせに」
「思ったけど、お前に嫌われたくなくて、あの嘘がそこまでお前にとって大事なことだとも思わなくて——」
「ずっと言ってきたじゃん。マロネと比べられて嫌だったって、タカヒトがマロネよりオレを選んでくれたのが嬉しかったって、ずっと前から言ってきたよ」
何も言い返せなかった。彼の言う通り、何度か本当のことを打ち明けようと考えて、先延ばしにしてきたのは事実だからだ。今日の千草の話が最後の後押しになっただけで、今までだっていくらでもチャンスはあった。
「ごめん」
頭を垂れて懺悔する。しかしネロの声は無慈悲だった。
「オレがずっと待ってたのは、本気でオレに会いたいって思ってくれる人だったの。オレが待ってた運命の人は、タカヒトじゃなかった。だから、タカヒトのことはもう忘れることにする。パパの研究所に行けば記憶も操作できるって聞いたから」
思わず顔を上げると、ネロの冷たい視線に射抜かれた。もうおしまいだ——そう思ったら、もう何でも言ってしまえと自暴自棄が囁いた。
「それで、また前みたいに引き籠るのか? そうやって受け身でずっと閉じこもって待ってたって、誰も会いたいなんて思ってくれるわけないじゃないか。だって、まず一度でも会ってみないと、その次も会いたいかなんて分からないんだから」
「そうかもしれないけど、タカヒトにはもう関係ないことだよ」
「あるよ。だって俺、お前が好きだから、このまま不幸になってほしくない」
今までのネロなら耳を立てて喜びそうなことを言っても、彼はもう何も反応してくれなかった。
「オレはもう……タカヒトのこと、好きじゃないから。離して」
彼の肩を掴む力を緩めると、ネロはするりと身体を離した。フードを被り直してとぼとぼと歩いていく彼を、貴仁はもう追うことができなかった。