猫と花 13 | fDtD    
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13

 千草との合流を待てずに目的の建物まで来てしまった貴仁だったが、そういえば志木の部屋へ行くためにはカードキーが必要なことを思い出す。駄目元でとりあえず入り口のロビーに入ると、自習用のデスクに座る黒髪の女性が目に入った。いつもは目を合わせることすら苦手な彼女だったが、今はむしろ救世主だ。若い女性とは話しにくい、などとは微塵も思う余裕がなかった。
「すみません、志木先生のアシスタントの方、ですよね?」
「そうですけど——」
「志木先生にどうしても用事があって中に入りたいんですけど、あそこ開けてくれませんか?」
 志木の研究室の学生ならこの建物のカードキーを持っているだろう。予想した通り、彼女は首から下げたカードキーを示して「いいですよ」と言ってくれた。
「ありがとうございます。それと、後から多分俺の知り合いも来ると思うんで、ここにいるならまた開けてやってください」
 それだけ言い残してから、開けてもらったガラスドアの向こうの階段を上がる。一階にも彼の倉庫にしている部屋があるらしいが、どうせそちらは鍵がかかっているだろう。それならば、二階の彼の部屋に直接向かって話した方が早い。
 確信とまでは行かないが、直感のような何かが身体を突き動かす。ノックをしてドアを開けた瞬間、デスクに座ってキーボードを打っていた志木が顔を上げた。
「吉住君?」
「先生にお話があって、下にいた学生の方に入れてもらったんです」
「何かな? 期末レポートの質問かな? それとも次の学期から僕のゼミに移りたいとか?」
 彼は世間話でもするかのような気軽さでそう言いながら、再びキーボードを打ち始める。
「えっと、ちょっと期末レポートの内容の参考にしたいので、また隣の部屋の蘭を見せてもらえないかと」
「ああ、どうぞ」
 彼はにこやかにキーボードを打ち続けた。やはり、彼には何も後ろ暗いところはないのだろうか——直感がふいにぐらつく。ふと確認した入り口脇の傘立てには、まだ濡れたビニール傘が立っていた。
 隣の部屋へ移動し、いつ見ても圧巻のガラスケースの列の中へと歩を進める。この部屋には特に変わったところはない。しかしあの奥にあるドアの先は果たしてどうだろうか。志木はいつも大事なものがあるから入らないようにと釘を刺していた。逆に言うと、釘を刺さなければならないということは、鍵がついていないということだ。
 すぐにでもあのドアを開けたい衝動に駆られるが、わざとこの部屋で蘭を見る素振りを続ける。何か見られたくないものを隠しているならば、志木はこのまま黙って貴仁に好き勝手させておくはずがない。彼が貴仁を追ってこの部屋に入ってくれば黒、このまま隣の部屋で仕事をし続けているなら白だ。
 歪な形に花弁を広げる蘭の群れの中、貴仁は息を殺して待った。美しいはずの蘭の花が、今はどこかグロテスクに見える。気を紛らわすために花を観賞しようとしても、手がカタカタと震えてそれどころではなかった。
「吉住君」
 驚きでビクリと頭が揺れる。振り返ると、音もなく開いたドアの脇に、にこやかな志木が立っていた。
「言い忘れていたんだけど、奥の部屋は大事なものがあるから入らないようにね」
 そう言った後も、彼は隣の部屋に戻らない。まるで貴仁を監視するかのように、しかし穏やかな笑顔のままじっとそこに立っている。
 先程外で彼とばったり会った瞬間から抱き続けていた疑惑は、完全に確信へと変わった。
「先生、俺、結構考えすぎる性質で、しょっちゅう余計なこと考えてはテンパってるんですよ」
 志木は優しく「へえ」と相槌を打った。貴仁はそこでもう一度唾を飲む。
「先生はさっき……どちらに行かれてたんですか? コンビニの袋持ってたから買い物かと思ったんですけど、それなら裏門から外に出てコンビニに行くはずなので逆方向ですよね。それに、キャンパスの中の生協はもう閉まってる」
「コンビニに行った後、休憩とダイエットがてらキャンパス内を散歩してたんだよ」
 ガラスケースの行列の合間から見える志木の顔は、笑顔を貼り付けたまま変わらない。
「その服、肩の辺りが濡れてますけど、いつ濡れたんですか?」
「さっきまで雨が降ってただろう? いやあ、傘を差していても濡れてしまった」
 濡れた傘があったことから、それだけなら嘘ではないだろう。
「でも、そのズボン、一番水が跳ねそうな裾が全然濡れてませんよね」
「そうそう、もう膝の辺りまでぐっしょりでね、下だけ履き替えたんだよ」
 そこまで下が濡れたのなら、逆に今のシャツの濡れ具合は軽微すぎる。上下両方着替えた後で、もう一度肩の辺りだけ濡らしたとしか思えない。だが、それ以上彼の衣服の違和感について追及するのはやめた。
「……俺の友達、柴田ってすげー頭ゆるい奴で、猿の顔したリスを見たって言い張るんですよ。だから俺も先生にそう伝えたんですけど、先生はいつも『狸と見間違えた』とか、『猿はそういう実が好きだ』とか……何か、変じゃないですか?」
「疑問点を指摘するなら明確にするように」
「猿の顔したリスって聞いて俺が思い浮かべたのって、体調十五センチくらいの小さいリスの顔だけが猿になってる奴です。でも先生の言う狸って明らかにリスのサイズじゃないですよね? それにいくら猿の顔をしていても柴田がリスだって言うんだから、あくまで猿じゃないわけで……。それなのに先生は狸とか猿とか……まるで柴田が何を見たのか実物を知ってたみたいな気がして」
 ここにきてやっと、志木が眉をひくりと動かした。
「それはつまり、どういうことかな?」
「先生、さっきまですぐそこの林の中にいたんじゃないですか? あそこ、木の上から滴がたくさん垂れていて、俺の服も少し濡れました。でも、俺が明かりを持って入って来たから、別の方向から林を出て、道路沿いに戻ってきた……」
「どうして僕がそんなことを?」
「捕獲用のネットか何かをコンビニの袋に入れて、例の珍しいリスザルを探していた……とか。だって柴田みたいな奴のせいでまた噂が広まったら、今後の密輸入に支障が出るから。先生、ここにある蘭は、研究用に許可を取って輸入したもの……ですよね?」
「当たり前じゃないか」
 気が付くと、志木は幾分歩を進めてこちらに近付いて来ていた。
「なら……いいんです。ただ俺は、自分の立てた今の仮説を検証したい。研究者である先生なら、この気持ち分かりますよね?」
 そう言った瞬間、貴仁は奥のドアに向かって弾かれたように走り出す。背後から志木が追ってきていることが分かっても、どうすればいいか分からない。このまま奥の部屋に行っても追い詰められるだけなのは分かっていたが、貴仁の頭はもうそこまで回らなかった。
 ドアノブに飛びつくようにして回すと、案の定そこは鍵もなくスムーズに開いた。部屋の半分は紙の資料が詰まった書棚、もう半分は小動物の入りそうな小型のケージがいくつか積み上げられている。ケージはほとんど空のようだったが、一番手前にある少し大きめの檻を見て貴仁の思考が止まる。
「ネロ……!」
 鉄格子の向こうには、レインコートを着たままの少年が倒れていた。駆け寄って近くで見ると、どうやら意識はあるようで、ネロは何か言おうと口を少し開けた。
「言っとくけど、もう千草に何か言われて迎えに来たわけじゃないからな」
 どうすれば開けられるのかケージの仕組みを探り出したところで、部屋の入り口に志木が現れた。
「吉住君は聞き分けのいい優等生で、僕は贔屓してたんだけどなあ。頭が良すぎるというのも問題だね」
「先生、もう諦めませんか? 柴田には大学と警察に写真を提出するように言いました。俺の友達ももうすぐここに来ることになっています」
 じりじり近付いてくる志木を睨みながら、貴仁はケージの鉄棒をぎゅっと握った。
「諦めるって何を? 柴田君の写真でこの大学内に密輸入された動物がいると分かっても、そこから私が密輸入の犯人だと繋がるはずがない。君のお友達がこの後ここに来ても、君たちを隠してしまった後で『誰も来なかった』と言えばそれでおしまいだ」
 どうやら話は通じないようだ。それどころか、ネロだけでなく貴仁にも身の危険が迫っているらしい。志木の手には小型のスプレー缶が握られている。おそらく薬品か何かでネロもやられたのだろう。
「そこの子は高く売れるだろうけど、吉住君はただの人間だからどうかなあ」
 ケージから離れて部屋の奥へと後退する。防御に使えそうなものを探したが、この部屋には本当に書類とケージしかない。何も手だてが見つからない内に、背中が書棚に当たり、これ以上後ろに下がれないところまで追い詰められた。
 まずは一旦志木を躱してこの部屋を出なければ——迫りくる男の背後に見える開けっ放しのドアを睨む。とりあえず今使えるのはこの身体だけ。志木がまさに目の前まで来てスプレーを構えたその時、貴仁は渾身の力で志木に体当たりした。ずっしりと重そうに見えたビール腹は意外と脆く床に倒れる。
 志木が悶え呻いている横をすり抜け、もつれる足でドアへと向かう。途中床に転がったスプレー缶を蹴飛ばして転びそうになりながらも、何とか小部屋を脱し、蘭のガラスケースが並ぶ部屋へ出た。
 一旦廊下まで戻って助けを呼ぼうかとも思ったが、ネロをあの場に残して行ったら何をされるか分からない。あの男を何とかしなければという意識が先行して、貴仁は室内に武器となるものがないか素早く目を走らせた。
 しかし現実はゲームと違い、都合よく鉄パイプやバールのようなものが落ちているわけでもない。かろうじて見つかったのは、ガラスケースを掃除するための小さいモップだった。
 その瞬間、背後でパリンとガラスが思い切り割れる音が響いた。何事かと振り返ると、鬼の形相をした志木が長い棒状のものを持っていた。どうやらそれを振り回したせいで、ガラスケースの一部を割ったらしい。
 志木が持っているのは天井に巻かれたスクリーンを引き下げるための長いフック棒——まさに貴仁が欲していた手頃な武器だ。小型のガラス掃除用モップなどでは太刀打ちできない。
「吉住君は売り物にならないなら、無傷で眠らせる必要もなかったね」
 あんなもので滅多打ちにされたら命も危ない。しかもよりにもよってスクリーンをひっかけるための金属フックが先端に付いている。スクリーンがある部屋には普通に置かれている備品だが、今は恐怖の殺傷武器に早変わりしていた。
「先生、ガラス割っちゃったらさすがに、『誰も来なかった』とか『何もなかった』は通用しないと思うんですが——」
 宥めるように突っ込むが、頭に血が上った志木は聞いていないようだ。ガラスケースの合間を縫って距離を縮められそうになり、貴仁は手にしていたモップを捨てて慌てて逃げた。
 立ち並ぶ蘭のケースを盾にしながら室内を右往左往するが、向こうの方が断然リーチが長く、逃げられる場所も徐々に狭められていく。志木は貴仁が外へ逃げられないようにうまく立ち回るため、気が付けば元居た奥の小部屋の前まで戻されていた。
 ようやく壁際に追い詰めた貴仁に向かって、志木はフック棒を横から薙ぐように振り回す。屈んでそれを避けた瞬間、すぐ傍でまたガラスが乾いた音を立てて割れた。志木がガラスを踏む音に続いて、二発、三発と棒が空を切って振り回される。
 次に来た四発目はもう避けきれない——そう判断した貴仁は、咄嗟にその一撃を腕で受け止めた。すかさずもう一撃を撃ち込まれる前に、そのまま凶器を捕まえてしまえば攻撃を封じることができる。動かせなくなった武器を捨てるべきか否か、志木が一瞬狼狽えた隙に、貴仁は間合いを詰めて志木にタックルした。床に倒れた彼がもう起き上がれないように、そのまま馬乗りになって動きを封じる。
 先程から薄々気付いていたことだが、、腕力だけならこちらが上回っている。千草たちが来るまで志木を取り押さえておくくらいはできるだろう。見た目のためだけに続けていた毎晩の腹筋運動に密かに感謝しつつ、志木が掴んだままだった棒を遠くに放り投げた。
 ふと開けっ放しのドアの向こうを見ると、ネロが相変わらず脱力して倒れているのが見えた。薬品による一時的なものだといいのだが——と心配していると、教授室に繋がる反対のドアが慌ただしく開いた。
「貴仁?」
 ところどころガラスの破片が散らばる部屋の惨状を見て、駆け込んできた千草の表情が固まる。
「千草、こっちこっち」
 彼に分かるように片手を挙げて呼び寄せたその時、拘束が緩んだ隙を突いて志木が動いた。まずいと思った瞬間、腹部に激痛が走る。それが何の痛みなのか分からず、ゆっくり視線を下ろすと、自らの脇腹に大きなガラス片が刺さっているのが見えた。
 力が入らなくなった貴仁を跳ね除けて志木が上半身を起こす。彼は倒れた貴仁の身体を掴みあげて羽交い絞めにすると、新たに拾ったガラス片を貴仁の首元に突き付けた。
「千草、ごめん……俺ダサすぎ」
 絞り出した声は半分呻き声のようになっていた。こちらを見る千草は無表情だが、何も感じていないわけではなく、おそらく表情を意図的に作る余裕もないのだろう。
「先生、もうそんなことをしても無駄ですよ」
 千草の言葉に反応して、首元のガラスがより強く宛がわれた。
「今更その人質で何を要求するって言うんです?」
「お前たち二人を口止めすればまだ何もなかったことにできる」
「口外しませんと約束すれば彼を開放するんですか? でもここを出てから二人で通報してしまえばそれで終わりですよ」
「いや、まだあれが残ってる」
 志木はそう言って振り返り、奥の部屋のネロを見た。そこでやっと千草もネロの存在に気付いたらしい。
「ここを出てお前たちが口外したと分かった瞬間に、あの子を殺すと言ったら?」
 志木の顔には普段の鷹揚さはなく、焦りで目が血走っていた。バレてしまえば刑務所行きで、職も何もかもを失うことになるのだから当然だ。
 貴仁も千草も黙ってしまった中、千草の背後から小さな影が前に出た。
「おじさん、ネロを連れて行ってどうするの?」
 黄色いレインコートに包まれたマロネが、ガラス玉のような瞳でじっと志木を見つめた。
「売ろうかと思ってたんだが、こいつらの口封じのためにずっと人質に置いておかないとならなくなったからな。まあ、見世物にでもするさ」
「だったら……僕の方がお金、儲かると思うよ? 僕、三毛猫だし」
 マロネがフードを外して耳を見せる。
「……こっちへ来い。そっちのお前は動くなよ」
 言われた通り、マロネはガラスをパキパキと踏みながら志木の前に立った。
「本当に三毛猫なんだろうな?」
「尻尾も合わせれば、ちゃんと三色だよ」
 そう言ったマロネは志木にくるりと背を向けた。
「おじさん、僕ズボン下げるから、ちょっとこのレインコート捲ってて」
 マロネは恐怖もまったく見せずに指示を出す。志木は何の疑いもなく貴仁を床に放り捨てると、両手でマロネのレインコートを持った。
 貴仁は床に倒されたまま、鉄格子の向こうのネロを見る。マロネを引き換えにしてネロが戻ってきても、それはネロを苦しめるだけだ。貴仁の視線に応えるように、ネロが重たそうに上半身を起こした。
「おじさん、そんなんじゃ尻尾出せないよ。もっと高く上げて」
 そんなやり取りをしているマロネたちを見て、ネロはふるふると首を振った。言いたいことは分かっている。しかし貴仁にはどうすることもできない。起き上がって志木を殴ったり、取り押さえたりする体力はもう残っていなかった。役立たずな自分が情けなくて、ネロから視線を外す。
 しかしその時、ネロの方から何かがコロコロとゆっくり転がってきた。それは先程志木が使っていたスプレー缶——貴仁が蹴飛ばしておいたものを、ネロが手を伸ばしてこちらに転がしたらしい。
 瞬時にその意図を悟った貴仁は、重い身体を僅かにずらしてスプレー缶に手を伸ばした。痛みに慣れてきたのか、感覚が麻痺してきたのか、幸いにもそこまでの痛みは感じない。志木は貴仁を完全に無力化したつもりで、背を向けたままマロネを観察している。ちらりとマロネを見ると、大きな目がこくりと頷いた。
「おじさん、ちょっと後ろ見て」
 マロネに言われるがままに振り向いた間抜けの顔面に、スプレーを噴射してやる。
「おい、やめろ……っ」
 喋らなければいいものの、慌てて声を出したせいで余計にガスを吸い込んだようだ。志木は半分パニックになりながら、なんとか貴仁を止めようとがむしゃらに暴れる。あと少し、早く薬が効いてくれ——そう思った瞬間、彼の足が貴仁の腹部を蹴り、刺さっていたガラス片が抜け落ちた。開いた傷口の周りで、服に血が染み込んでいく感触。忘れていた痛みが蘇り、貴仁がスプレー缶を取り落とすや否や、駆け寄ってきた千草が志木を取り押さえた。
「麻酔……?」
 もはや完全にぐったりした志木を見て、千草が呟いた。
「貴仁、大丈夫?」
「……大丈夫じゃ、ない……くっそ痛い……」
 意識的に息をしなければうまく呼吸もできないような気がする。胸の辺りがムカムカして気分が悪い。はあはあと息を吐きながら視界が暗転していく中、誰かが部屋に入ってくる足音がした。
「父さん」
 千草はそう呼んだ誰かと何かを話し始める。千草の父親——正直一発くらいは殴っておきたいところだが、身体が動かないどころか視界すら覚束ない。いよいよそんな意識さえ薄れていく中、「タカヒト」と呼ぶ愛しい声が聞こえた気がした。


***

 目が醒めて真っ先に見えたのは、見慣れない天井と蛍光灯。パリッとしたシーツの感触も、自宅のくたびれたベッドではない。何も考えずに起き上がろうとして、腹部を走った痛みに身体が固まる。
 仕方なく顔だけを動かすと、ベッドが白いカーテンで囲まれているのが見えた。雰囲気としては病院で、部屋の明るさからすると、今はどうやら昼のようだ。
 あの夜のことは全部はっきり覚えているが、意識を失った後どうなったのかが気になる。ベッド脇のナースコールを鳴らして「起きたぞ」とでも言ってやろうかと思ったが、緊急事態でもないので遠慮しておく。
 慎重に上半身を起こしてから悶々と座っていると、カーテンの向こうでドアが開く音が聞こえた。シャッとカーテンを開けて入って来たのは千草とマロネだ。
「貴仁……おはよう」
「ここ、病院だよな? 今何時? こういう時ってさ、俺の目が覚めるまで皆ベッドの周りで見守ったりしててくれるもんじゃないの?」
「貴仁が刺されたのが昨日の夜で、今は土曜日のお昼。半日くらい寝てたかな? お医者さんが言ってた通り、全然問題なさそうだね」
「めちゃくちゃ痛かったんだけど、問題ないって本気か?」
「うん、傷自体がそこまで深くなかったから、内臓も大事な血管も全部無事だよ。その場で早くから止血もできてたし、大事には至らず何針か縫って終わり。多分ないとは思うけど、一応感染症だけ気を付けて何日か入院したら、後は帰っていいよってさ」
 千草は穏やかにそう言うと、ベッドの脇に荷物を置いた。
「これ、貴仁の家から持ってきた着替えとか、あとはノートパソコンとか。入院中使うでしょ? ネロが合鍵持ってたから、勝手に入っちゃった」
「ネロ……あいつは大丈夫だったんだよな? ちゃんと帰れたんだよな?」
 自分の容体よりもそっちの方が気になった。確かあの薬品は麻酔だと言っていたから、おそらく身体の方は問題ないはずだが、その後彼はどうしているだろうか。
 千草はマロネに椅子を勧めながら頷いた。
「うん、ネロなら今父さんと一緒に研究所へ行ってるよ」
 なぜそんなところへ行く必要があるのか、その目的はすぐに思い当たった。研究所に行けば記憶の操作もしてもらえる、貴仁のことを忘れる——ネロは確かにそう言っていた。
 本当はかっこよくネロを助け出して、その場で話をするつもりだった。忘れられるのは嫌だと言って、これまでのことを謝ろうと思っていた。それが結局この様だ。
 深刻な顔をしていたせいか、千草も少し表情を陰らせた。
「ネロのことなら大丈夫だから、貴仁は気にしないで、本当に——」
「うん?」
 俯いてしまった千草に何と言えばいいのか分からない。彼がこんな風に言葉に詰まるのを見るのは初めてだった。
「ごめん、貴仁がネロのことを大事にしてくれてるのはすごく嬉しいんだ。それなのに、こんな風に巻き込んでごめんっていう申し訳ない気持ちの方が大きくて……ああ、うまく言えないんだけど、多分これが罪悪感ってやつなんだよな」
 千草は片手で額を押さえた。その瞬間、俯いた彼の目尻に涙が見えたような気がした。
「本当は、一番最初に貴仁とネロを会わせた時から、こうやって申し訳なさを感じてないと駄目だったんだ。俺がそういうとこ抜け落ちてたから、結局こんなことになって——」
「でも、俺はネロに会えて良かったと思ってるよ。お前があんなこと考えなきゃ、俺はネロと会ってなかった。ネロと一緒に生活するなんて絶対になかった」
「貴仁は優しいから、そうやって『良かった探し』をしてくれてるだけだ」
 顔を上げた千草は、いつものように整った作り笑いを浮かべた。
「ネロのことだけじゃない。お前のことも、多分ネロのことがなければずっと知らないままだった。お前のこと、いつもよく分からない奴だって思ってて、友達って言っていいのかも分からなくて。でもお前のこととか、お前の家族のこととか色々知って……なんていうか、今の方が隠し事がなくてずっといいと思うよ」
 途中から照れ臭くなって曖昧な言い方になってしまった。千草がぽかんとしているのでちゃんと伝わったか不安だったが、彼は少し遅れてはにかんだように笑った。
「……ありがとう」
「それは本音? それとも、ここはそう言うべき場面だっていう学習プログラムによるもの?」
「本音。ごめんもありがとうも、こんなにちゃんと感じたのは初めてだ。貴仁が俺の初めての人」
 完璧な笑顔でそんなことを言われて、貴仁は思わず目を逸らす。
「その言い方は駄目だって学習してくれ」
 貴仁の呆れた声など意にも介さず、千草は「お医者さんを呼んでくるね」と言って部屋を出て行った。
 静かになったと思ったが、ベッド脇の椅子にはマロネがちょこんと座ったままだ。
「千草が泣いたところ、僕初めて見た」
 千草の目に涙が見えたと思ったのは錯覚ではなかったようだ。ベッドの上の貴仁よりも、マロネの方が彼の表情はよく見えていたのだろう。
「母親が死んだ時にも泣いたって聞いたよ」
「じゃあ、生まれて二回目だね」
 そこで会話が途切れ、部屋に沈黙が落ちる。そういえばマロネと二人きりになるのは初めてで、この子がどんな子なのかもほとんど知らなかった。大人しくてあまり喋らない子なのかと思っていたが、この沈黙を破ったのは意外にもマロネの方だった。
「たかひと……さん」
「さん付けしなくていいよ。ネロも俺のことタカヒトタカヒトって呼び捨てにするから」
 マロネは澄んだ瞳で貴仁を探るように見てから、こくりと頷いた。
「ネロがね、この前検査で研究所にいる時、ずっと貴仁の話をしてたの。それに、どんな家に住んでるかとか、どんなお店に買い物に行くかとか……。生まれてからずっと僕とネロは同じものを見て育ってきたのに、ネロが家を出て、ネロだけが知ってる景色ができたんだなって思ったら、僕はちょっと寂しかった」
 マロネは開かれたカーテンの向こう、窓の外の景色を見ながらぽつりぽつりと語った。
「ネロは僕をいい子ちゃんって馬鹿にするけど、僕は全然いい子なんかじゃないんだ。ネロの方がよっぽど、悪い子ぶってるだけのいい子ちゃんのくせにさ。僕は千草もネロも大好きだから、両方欲しいって思っちゃう欲張りなんだよ。んーとね、なんだっけ……そう、ダサンテキなオトナなの」
 マロネは貴仁を見ながら小首を傾げた。ちょっと難しい言葉を使って背伸びするところがネロにそっくりで、貴仁は思わず頬が緩んだ。
「そうだな、確かにお前はいい子ちゃんって言うより、いい子の顔した策士だよ。昨日の夜、志木先生の研究室でよく分かった」
 おそらくあの場ではマロネが一番冷静で賢かったと思う。マロネは膝の上に置いた手をきゅっと握って、少し考える素振りを見せた。
「あれは、僕が気を引けば何とかできるかもっていう作戦もあったけど、半分は本気だったよ。ネロのためなら、僕が代わりになってもよかったんだ」
 真剣な彼の声色は、いい子ぶりっこをしているという感じは一切なく、むしろどこかほの暗いネロへの執着のようなものが見えた。いつか千草が言っていた、マロネとネロは一心同体という言葉を思い出す。生まれた時から切り離せない二人だけの絆——貴仁が知る由もない兄弟のこれまでの時間が確かにそこにあるのだろう。
「そんなに大事に思われて、あいつは幸せ者だな」
 マロネの表情がふいに陰り、彼は自分の爪先に視線を落とした。
「幸せじゃないよ。僕がどんなにネロのことが好きでも、ネロはいつも自分と僕を比べて悲しそうにする。ネロが自然になりたいって言うから、どうすればネロが普通の人間みたいに自由に生きられるかなって考えて、千草のことを全部僕だけで何とかできれば、ネロは自由の身になれると思った。なのに、僕と千草が一緒にいるのを見て、ネロはもっと悲しそうな顔をするようになった。僕はネロのこと誰よりも分かってるのに、ネロのために頑張ってるのに、僕じゃネロを幸せにできない」
 その大きな瞳から涙が零れないのが不思議なほど、マロネの声はか細く震えていた。
「ネロが貴仁のことを話す時、すごく嬉しそうな顔してて、本当は僕がネロにこんな顔させてあげたかったのに、できなくて……。悔しいけど、ネロには貴仁が必要なんだと思う。ネロに大事な人ができるのは寂しいけど、千草とネロの両方を欲張るのはもうやめるの」
 決意の籠もった目で真っ直ぐ見つめられてしまい、貴仁はそっと目を伏せた。
「残念ながら、ネロはもう俺のこと好きじゃないんだってさ。俺のこと……忘れるって」
「僕には分かるよ。ネロはそんな簡単に貴仁のこと諦めたりしない。だって、あんなに楽しそうに貴仁の話してたんだもん。忘れられるわけないよ」
 マロネの声は確信に満ちていた。
「そうか、じゃあ——」
 その時、部屋のドアを開けて医者を連れた千草が戻ってきた。今自分は無意識に何を言おうとしていたんだろう——途切れた思考の先を考えていたら、医者からの説明を少し聞き逃してしまった。

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