猫と花 4 | fDtD    
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4

 携帯電話のアラームで目が覚めた時、貴仁の身体からは完全に布団が剥ぎ取られていた。のそりと身を起こして隣を見ると、占領した掛け布団を抱き締めてぐーぐー眠りこけている猫耳の生き物が目に入った。くっ付く対象がいつの間にか貴仁から布団に移っていたらしい。
「シャワー行くか……」
 昨夜の行為のせいか、狭いベッドに二人で寝たせいか、身体中がべたつく気がする。布団を完全に奪われているため、幸いなことにネロを起こさず簡単にベッドを降りることができた。
 一晩経って考えてみても、昨夜のあれはやはり問題があったように思う。年齢より何より、彼と自分の気持ちにズレがあることの方が貴仁の胸を苦しめた。自分はそこまで慕ってもらえるほどのものではないと考えているからだ。嘘をついて彼を連れ出し、懐かせているような罪悪感。
『タカヒトは、オレに、キョーミがあるんだよね? マロネじゃなくて、オレでいいんだよね?』
 彼がそう言った時の澄んだ大きな瞳を思い出すだけで、鳩尾の辺りがぐっと痛む。貴仁は自分の罪を清めるかのように一心にシャワーの湯を浴びた。
 その時、脱衣所の方からドンドンとドアを叩くような音が聞こえ、すぐ次にはバスルームの折れ戸がガラリと開いた。
「おい、何勝手に入って——」
 シャワーを止めてドアの方を見ると、シャツ一枚で入ってきたネロがそのまま貴仁の胸に抱き付いてきた。
「服、濡れるぞ」
「……ったかと思った」
「え?」
「いなくなったかと思った! ぜ、全部夢だったんじゃないかって、オレ、オレ……」
 泣きそうな顔をするネロを前に、貴仁は呆れ顔で口を開いた。
「夢なわけないだろ。ここ、どう見ても俺の家なんだからさ」
「うーるーさーいー」
 泣きかけたのが悔しいのか、ネロは貴仁の胸に顔を埋めて隠した。
「とにかく、分かったら外で待ってろ」
「嫌」
「どこにも行かないから」
「オレも一緒にお風呂入る」
「風呂じゃない、シャワーだって」
「じゃあオレもシャワー浴びる!」
 これ以上言っても無駄だ。貴仁は仕方なくネロの頭をぽんぽんと叩いた。
「だったら服脱いでこい」
「その間に出てきちゃダメだよ?」
 ちらっと上目遣いでネロが言う。
「わーかってるって」
 そこでやっとネロは貴仁から身体を離して、いそいそと脱衣所へ戻っていった。
 子供の考えることはよく分からない。そんなことを悩んでいたせいで、ネロにシャワーをかけてやる間、「耳に水が入らないように!」と何度も注意される羽目になった。

 朝食なら庶民だろうが金持ちだろうが大きなギャップはないだろうと思っていたが、呼び寄せたキッチンの中、ネロはインスタントのスープ類を物珍しそうに見ている。
「ほら、選べ。味噌汁、コーンスープ、春雨スープ、色々あるぞ。あ、でもパンに合うやつを選べよ」
 選ばせている隙に、残り少なくなっていた薄切りの食パンをオーブントースターに突っ込んだ。
「これがスープ?」
「インスタント食品って、さすがに知ってるだろ? ていうか、千草は普通に知ってるしさ」
 外出するかしないかだけで、ネロと千草にそこまで大きな認識の差が出ているとは思えない。
「知ってるけど、うちは坂井さんがちゃんと作ってるから、見るのは初めて」
「いやいや、皆絶対こういうの使ってるって。ほら、お母さんの手作り弁当が実は全部冷凍食品だったってのと同じでさ、台所を見てないから気付いてないだけなんだって」
「そうなのかなあ……。台所行っても、こんなの見たことないよ」
 ネロはかなりじっくり悩んだ後、小さな春雨スープのカップを選んだ。
「春雨、カチカチだね」
「まあ見てろって」
 ちょうど沸騰したヤカンから湯を注いで蓋をする。何がそんなに気になるのか知らないが、ネロは時間が来るまでカップをじっと睨んでいた。ピピピとタイマーが鳴った後も、相変わらず不審物を取り扱うかのように慎重に蓋を開けていたが、その表情はすぐに変わることとなる。
「すごい、ほんとだ! 魔法みたい!」
 新品の箸で春雨をかき混ぜたネロは、ふーふーと春雨を冷ましてから口に入れた。
「おいしい!」
 昨日のファーストフードと同じく、ネロはインスタントの味も気に入ったらしい。
「普通のスープと同じ味。確かに、坂井さんもこーいうの使ってるのかも!」
 さすがにあの家できちんと作っているものならば、インスタントよりは良い味をしているはずだ。だが、ネロの舌が違いを検知できていないだけなのか、坂井氏が実は冷凍食品やインスタントを多用しているのかは結局分からない。
「パンもあるからな」
 焼きたてのパンの皿を示してやると、ネロは元気よく手を上げた。
「オレ、イチゴジャムー!」
「バターしかない」
「ええええ……」
 ネロのテンションが九十度直角に下降する。
「今日買ってきてやるから、今は我慢しろ」
「ホント? タカヒト、優しい! なんでモテないんだろうね?」
「黙って食え」
 貴仁は有無を言わさぬ口調でそう言うと、自分のパンに噛り付いた。


***

「見て見て! あそこ、何か実が成ってる!」
 大型園芸店の屋外売り場の中、水色のパーカーをすっぽり被ったネロが草木の間をぴょこぴょこと駆けていく。
 バスに乗ること約二十分の場所にあるこの園芸店は、店舗建物を中心にして屋外にも多数の草花が並べられていた。
「あんまり走ると危ないぞ。植木鉢割ったらどうすんだ」
 ネロは返事こそしないものの、足取りを早歩き程度に抑えて先へ進んでいく。この周辺は、背の高い鉢植えや庭木がひしめき合っており、水色の頭は角を曲がればすぐに見えなくなってしまった。しかしさすがに迷子になるようなことはないだろう。貴仁も特に慌てることなく、並べられた鉢を順番に眺めていく。
 今特別必要としている道具もなければ、新しく何か種や苗を買う予定もない。少し前、夏に向けた買い物は済ませたばかりで、ベランダの空きスペースも残りわずかだ。今日はネロの見学だけのつもりでいるため、半ば鑑賞するような気楽さでのんびりと辺りを見て回った。
 普段の客層は年配の人が多めだが、今日は休日ということもあってか、家族連れや若い人の姿もちらほら見かける。ちょうどバラの綺麗な季節で、貴仁以外にも単なる見学のような客も見受けられた。
 進行方向の先、ブルーベリーの果樹苗の前で客と店員が何か話し込んでいたため、貴仁はもう少し背の低い鉢や苗が並ぶ方へと移動する。周囲の視界が開けると、少し離れたところにネロの姿を捉えた。
「何見てるんだ?」
 ネロの背後から問いかけたものの、彼の目の前にあるものを見れば答えは一目瞭然だった。新入荷コーナーと銘打たれたそこには、特徴的な苗の入ったポットがたくさん並んでいる。ポットの土にさされたプラスチックのラベルには、やけにポップな書体で「食虫植物! ハエトリグサ」と書かれていた。
「タ、タカヒト、これ、怖い……」
 トゲの付いた葉を広げて獲物を待ち構える様は、確かに少しグロテスクでもある。
「ハエトリ? ハエ、取るの?」
「そう。この葉っぱを閉じて獲物を挟んでから消化する」
 貴仁の答えを聞くと、ネロはブルブルと震えてしがみついてきた。
「おい、あんまりくっ付くなよ」
「うう〜、だって……タカヒト、あっちの方行こ」
 腕を絡めたままネロが歩き出し、貴仁は引っ張られるように先へ進んだ。周りからの視線を感じるが、仲の良い兄弟か何かに見えていてくれることを願うしかない。
 逃げるように進むネロに連れられて辿り着いたのは、別館の温室コーナーだった。ここにも新入荷されたものが目立つところに置かれている。大きな花を付けたハイビスカスを見たネロは、貴仁から離れてそこへと吸い寄せられていった。
「すごーい! なんかトロピカルって感じ! こいつの名前はトロピカルフラワー!」
「ハイビスカスだっつの」
 素っ気ない返事をするものの、ネロは全く気にすることなく他の苗を見に行った。
「これはー?」
「蘭……胡蝶蘭かな」
 ネロはその場でじっと白い花を見つめてから、蝶のように別の花の元へと移動する。
「この花の形見て! 星? ヒトデ? ヒトデフラワー!」
「プルメリア」
「ぷる……? ヒトデフラワーの方が合ってるじゃん!」
「植物学者の名前から取ったんだ。勝手に名前変えるな」
 ちょうどその時、近くで作業をしていたエプロン姿の女性店員がフフッと笑った。
「ご兄弟ですか?」
「え、あ……」
 まさか話しかけられるとは思っていなかった。まだ二十代かそこらだろうか。一つに束ねただけの髪と、ジーンズにスニーカーという地味な出で立ちだが、笑顔が優しそうな女性だ。スレンダーな体型で、エプロンの下の胸はそこまで大きくない。
「すみません、急に話しかけて。随分詳しそうだったもので」
「う、あの……」
「そのプルメリア、一昨日入荷したばかりですよ」
「は、はい、その……」
 瞬時に値踏みするように観察してしまった恥ずかしさもあり、貴仁はいつも通りもごもごと言葉を詰まらせる。すると、女性店員はすぐにネロに向かって話しかけた。
「お兄さん、お花のこと詳しいね。園芸はお兄さんの趣味?」
 赤面する貴仁をじっと睨んでいたネロは、そのまま店員に顔を向ける。
「お兄さんじゃなくて、オレたちコイビトなの!」
 ぎゅっと腰回りに抱き付かれ、貴仁の顔は赤から青へと変わる。
「な、何言い出すんだよ、お前」
「だって、タカヒトがナンパされてるんだもん!」
「そんなわけないだろ」
 勝手なことを二人で騒いでいると、女性店員はまたクスクスと笑った。腹を立てるでもなく、ただの冗談と思ってもらえたようだ。
「お邪魔してごめんね」
 にっこりと笑うと、店員は傍にあった水差しとバケツを持って歩いて行った。実に手慣れた接客だ。
「ったく、お前なあ」
 貴仁は溜め息をつきながらネロを引き剥がす。
「タカヒトが鼻の下伸ばしてるから悪いんだよ」
「伸ばしてなんか……」
「あのお姉さんも、タカヒトが同じ趣味で詳しそうだからって狙ってきたんだ」
 彼女が立ち去った方を見て、ネロは威嚇するようにキッと睨み付けた。
「あんなの普通の接客だろ。客を褒めて花を買ってもらうのが仕事なの」
「それが分かってたなら、タカヒトはなんであんなに赤くなってたの? いっつもあんな風にあうーあうーってなっちゃうの? じゃあモテないのも納得だよね」
 ネロはどこかイライラしながら捲し立てた。
「あーもう、分かったよ、悪かったって」
 周囲に人が来る前に宥めなければ、公共の場で何を言われるか分からない。
「ほら、行くぞ。機嫌直せ」
 頭を撫でて温室を出ようとすると、ネロに服の袖を掴まれた。
「……オレも何か育てたい」
「は?」
「オレだってできるもん!」
 貴仁にはネロの話の繋がりがよく分からなかったが、話題を変えてくれるならそれで十分だった。
「えーっと、じゃああっちの方で選ぼう、な?」
 温室の外に見える中央の店舗建物を指差すと、ネロは首を傾げる。
「ここのは?」
「だって値段が高……じゃなくて、育てるのが難しいから、初心者向けの花にしよう」
「初心者……」
 また不本意な表情をするネロを前に、貴仁は瞬時に話題を進めた。
「ほ、ほら、お前アサガオ育てたことあるか? 小学校とかで皆やるんだよ。観察日記付けてさ」
「……ない。学校なんて行ったことないし」
 まだむくれているようだが、どこか興味を持ったようにも見える。貴仁はそれを見逃さなかった。
「じゃあお前もやってみよう」
 フードの上から頭をぽんと撫でると、ネロはこくりと頷いた。ネロの背中を押しながら温室を出たところで、貴仁はふとあることを思い出す。
「そういえば、アサガオだったら家に種があるから買わなくていいな」
「じゃあ何も買わないの? せっかく来たのに……」
 ネロは未練がましく周囲の苗を見た。
「お前んちと違って俺は節約家なんだよ」
「ほんとにほんとに、買うものないの? 土とか……」
「土ならまだ余ってるのがある。……あ、空いてる鉢はない、かも」
 その瞬間、フードの耳のあたりがピンと立った。犬ならここで尻尾を振っていることだろう。
「分かったよ。選んでこい」
 貴仁が降参すると、ネロは元気よく素焼きの鉢が並ぶ方へと向かっていった。
「タカヒトー、これも!」
 ネロが指差しているのは陶器でできた動物の置物だ。近付いてみると、ウサギや猫、小人などがつぶらな瞳でこちらを見ている。
「こういうのは広い庭を飾るためのもの。俺たちには関係ない」
「けちー」
 頬を膨らませるネロを無視して、貴仁は手ごろな大きさの茶色い鉢を手に取った。
「ほら、これでいいだろ」
 そう言った瞬間、周囲の花々を揺らしてさっと風が吹き抜けていく。まずいと思った時には既に、ネロの大きなフードが風になびいて、黒い髪と大きな耳が曝け出されていた。
「……あ」
 ネロは自分の頭に手をやって、ぽかんとしている。
「おい、早く戻せ」
 貴仁は持っていた鉢を地面に置くと、大慌てでネロの頭にフードを被せ直した。誰にも見られていなければいいのだが——そう願ったが、すぐ傍でプランターを選んでいた子連れの夫婦は不思議そうな目でこちらを見ている。それだけではない。通路を通りがかった年配の男性も、ラック越しにポットを選んでいた若い女性もチラチラとこちらを気にしているようだ。
「ねー、なんであの人頭の上に耳が生えてたの?」
 夫婦の足元で幼い男の子が皆の疑問を堂々と声に出す。返答に困った親は何とか子供を黙らせようと手を引くが、子供はじっとネロを見つめ続けている。
 誰かに見られたらコスプレだと誤魔化すように——千草にそう言われていたが、いざとなるとそんなことを言い出せる空気ではない。焦る貴仁の横で、ネロは男の子に向かってにっこりと笑いかけた。
「えっとね、これはこのお兄さんのシュミなの」
 ネロはびしっと貴仁を指差してそう言った。
「な、馬鹿、勝手なこと言うな」
 貴仁はネロの口を塞いでから、夫婦に向かってぎこちない笑みを見せる。
「えっと、その、こいつ仮装とかが好きなんです。ハロウィンでもないのに」
 唐突に弁解を始められ、夫婦はきょとんとするばかりだ。貴仁は地面にあった鉢をサッと回収すると、ネロを引きずるようにしてその場を去った。

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