テレビからニュースが流れる中、電子レンジのチンという音が響く。膝を抱えてテレビを見ているネロをちらりと見やりながら、貴仁は湯気の立ったコンビニのパックを取り出した。
「ほら、冷めないうちに食べろよ」
テーブルの上に出してやったのはコンビニの五目御飯だ。ネロが弁当の選別に非協力的だったため、貴仁が勝手に選んだものである。
「いただきます……」
ネロは行儀よくそう言ってから、割り箸でもくもくと食事を始める。淡々とした彼の表情からは、五目御飯が彼のお気に召したのかどうか全く分からない。ただ、昨夜から何度か一緒に食事を取っているが、ネロが「おいしい」と言わなかったのはこれが初めてだった。
バスルームから流れてくる水音を聞きながら貴仁が一息ついたその時、置きっぱなしになっていた鞄の中から長い振動音が聞こえた。取り出した携帯の画面を見るや否や、貴仁はすぐに電話に出る。
「もしもし?」
「ああ、今大丈夫? ネロはいる?」
何も知らない千草は暢気な調子でそう尋ねた。貴仁はベッドに腰掛けてから、シャワーの音がする方を何とはなしに見つめる。
「風呂行かせてる」
「ありがとう。あいつの様子はどう?」
今一番答えづらい質問が来て、貴仁は一瞬言葉に詰まった。喧嘩とまではいかないが、仲違いをしていると言えるだろう。だが、それを言ってしまえば千草を不安にさせてしまう。
「ちょっと機嫌を損ねたみたいで……今夜はご機嫌ななめモードみたいだ」
貴仁が言葉を濁すと、電話の向こうから溜め息が聞こえた。
「ごめん、どうせあいつがまた失礼なこと言ったんだろ?」
「そういうわけじゃないんだけど……俺も言い方間違えたかなって思ってるし」
「? そうか。ところで、明日どうする?」
「何が?」
明日月曜日は普通に大学で授業があるはずだ。貴仁が疑問に思っていると、電話の向こうで千草が控えめに笑った。
「ネロに持たせた荷物、二泊三日分だけだろ? 帰るなら明日かと思って」
「え、あ、ああ、そうか」
ネロの帰宅についてすっかり忘れていた。確かに今は関係が悪化しているが、このままネロと別れることになるなどとは全く考えていなかったのだ。
「明日大学に連れて来てくれれば、そこから連れて帰るよ。三限の前にいつも通り学食に来るなら、そこで身柄引き渡しってことで。逆に貴仁が延長してもいいって言うなら、あいつの追加の着替えを受け渡すけど」
「そう、だな……」
突然の展開に貴仁の返事が鈍る。
「ネロと相談するか?」
様子を察した千草の言葉に、貴仁は僅かに安堵した。まだ時間的猶予はあるのだ。
「そうするよ。あいつ、アサガオの種撒きたいって言ってたけど、どうすんのかな」
「えーっと、何か費用がかかってるようなら後で払うから」
「じゃあ植木鉢一個分ってことで今度飯奢って」
貴仁がおどけた調子でそう言うと、千草もまた楽しそうに「分かった」と返した。
「今夜話してから明日の朝までには連絡する」
自分自身に言い聞かせるようにそう宣言して、貴仁は電話を切った。
今夜の話し合い次第では、ネロともここまでになるだろう。彼がいなくなって元の生活に戻れるというなら、絶対にその方がいいはずだ。ただの友人の弟をこうして預かってやるなど、普通引き受けたりしない。しかし、このままネロを帰宅させて、その先彼はどうするのだろうという疑問も尽きなかった。
貴仁がしばらく悩んでいる内に、シャツ一枚のネロがとぼとぼと部屋に入ってきた。
「ちゃんとあったまったか?」
声をかけてやれば、ネロはしっかりと頷いてくれる。
「じゃあ次は俺が入ろうかな」
ベッドから立ち上がった貴仁は、すれ違いざまにネロの頭のタオルをくしゃりと撫でた。彼の髪の水分だけでなく、この気まずい空気ごと払拭するように。そうすれば、この後の話でもじめじめしないで済むと思ったからだ。
シャワーを浴びて湯船に浸かりながらも、貴仁はずっと考え続けた。ネロと明日別れるにせよ、この先もまだ関係を続けるにせよ、自分が彼に言っておきたいことは何なのか、うまく言葉にできるようにしておかなければならない。
相手の性別に関わらず、自分はあまり言葉がうまくない方だと思っているからこそ、今度は失敗しないように、ただじっと考え続ける。
しかしそれだけ悩んだ貴仁を待ち受けていたのは、床に敷かれた布団ですやすやと眠るネロの姿だった。
「なんだ、もう寝たのか?」
貴仁の言葉に対し、寝息だけが返ってくる。どうやら朝から色々なところへ行って疲れてしまったようだ。話をするのは明日の朝にするしかない。
今すぐ話をしなくて済むと安堵しかけたが、それは即ちまだ一晩考え続けなければならないということでもある。人の気も知らずに眠りこけるネロを少し恨めしく思ったが、それ以上にその寝顔は愛らしい。何だかんだ疎ましがってみたり衝突したりしても、ネロを完全に憎み切れない自分に貴仁は薄々気付いていた。
***
けたたましいベルの音が貴仁を眠りから引き上げる。音の発信源である携帯のアラームを止めて時刻を見ると、朝の八時だった。今日は月曜日のはずで、いつも十時頃に起きて昼から大学に行くような生活をしている。それなのになぜこんな早い時間にアラームをセットしたのだろうか——貴仁は寝ぼけた頭で考えた。
その時、ベランダに向かう窓の方からカタンと小さな音が響く。身を起こしてそちらを見ると、しゃがんでいた少年がちょっと驚いたようにこちらを振り返った。
同居人が増えていたこと、彼と今朝話があること——ここにきてやっと早起きの理由に思い至る。立ち上がると、ネロの前に小さな黒いポットや紙包みが見えた。
「ああ、それ昨日用意しといたんだ」
貴仁が近付きながらそう言うと、ネロはもう一度床の上のものを見つめる。一晩経てば少しは態度が変わるかと思ったが、どうやらまだだんまりを決め込むつもりらしい。貴仁は彼が気になっているらしい紙の包みをひょいと摘み上げ、中身を見せてやった。そこに入っていたのは、昨夜傷を付けて発芽処理をしておいたアサガオの種だ。
「種撒き、するか?」
彼の機嫌を取るように尋ねると、ネロは遠慮がちに頷いた。
土を入れ種を埋めて完成した苗用の小さなポット——貴仁には珍しくもないそれが、ネロはやたらと気になるようだ。ベランダに置いた後も、窓越しにじっとそれを見つめている。
「芽が出て少し大きくなったら、昨日買った鉢に植え替えるんだぞ」
最初は全部一緒に手伝うつもりだったが、今日で帰宅するのであれば、ここから先は彼に自分でやらせるしかない。貴仁の言い草を疑問に思ったのか、振り返ったネロは怪訝な顔になった。
今がその時だと思った貴仁は、なるべく自然にその先の会話を続ける。
「なあ、昨夜千草から電話があってさ、これからどうしようかって。……家、帰るか?」
「……え?」
「お前の荷物、今日までの分しかないだろ? だから——」
「タ、タカヒトは、オレのこと嫌いになったから追い返したいの?」
「は? いや、別に——」
黙りこくっていたネロが急にまた喋りだしたことも、彼に言われた内容自体も、ただ頭を混乱させるばかりだ。ネロも自分自身の声の必死さにちょっと驚いたのか、俯いて声のトーンを落とした。
「オレ、タカヒトに嫌われたくないけど、そんなにすぐ考え方とか変えられなくて、何か話したらまた嫌われちゃうって思ったら、どうしていいか、分かんなくて……」
消え入りそうな声でそう言ってから、ネロは小さく鼻をすすった。
「それ、女の人の前で話せなくなる俺みたいだな。昨日からそんなこと考えて黙ってたのか?」
「う、だって……」
頬に手を添えてやると、ネロはびくりと顔を上げる。肌の色が白いため、目元や鼻頭が赤くなっているのがすぐに分かった。じっと見上げられるのもいたたまれなくて、貴仁は涙の滲んだネロの目をごしごしこすって視線を遮る。
「俺はただ、お前が少しずつでいいから変わっていければいいと思ってるだけで、お前を嫌ってるとかそんなんじゃないからな」
「でも、でも、タカヒトはオレと違って人間の研究とか擁護するし、オレがウジウジするのも、どうかと思うって——」
貴仁の手を退けたネロの目は、またすぐに潤み始めていた。貴仁は首筋を掻きながら言葉を選ぶ。
「あー、あれは、俺の言い方が悪かったよ。俺はお前と意見を戦わせたいわけじゃないし、責めるつもりもない」
「じゃあ、何?」
ネロは貴仁のシャツを両手で追い縋るように掴んだ。ここでまた間違えたら終わりだ——貴仁は昨夜風呂の中で考えたことを思い出しながら、慎重に言葉を紡いだ。
「お前、自分のこと好きじゃないだろ? お前がやたらと人工的なものを嫌うのは、自分の存在を肯定できないからじゃないのか?」
ネロは何も言わなかったが、シャツを掴む手に力がこもったのを貴仁は見逃さなかった。リアクションがあるということは、思い当たる節があるということだ。
「お前、自分のこと遺伝子組み換え生物だって、汚染物質だって言ってたよな? 確かに遺伝子組み換えの野菜なんかはあまりいいイメージがないのかもしれないけどさ、遺伝子組み換えで作られた青いバラは夢の実現なんて言われてるじゃないか。それも歪だって嫌う人はいるかもしれないけど、少なくとも俺は青いバラをすごいと思うし憧れるよ。だから、それを作り出した人間の技術も否定しない」
こういう話をするとまた口煩いと言われるのかもしれないが、ネロなら興味を持って聞いてくれると思った。予想した通り、彼は一生懸命貴仁の話に耳を傾けている。そんな彼のために、貴仁は昨夜から考えていたことを何とか伝えようと言葉を探した。
「えーっと、つまり何が言いたいかっていうとさ、お前が自分を好きになって、自分の存在を認められるようになったら、その時は人間の技術とか研究とか、そういうのも許せるようになんだろ。だから、早くそうなればいいと思ってる」
貴仁から今言ってやれることも、言いたいことも、それだけだった。俯いたネロの表情は読み取れない。彼は突き放すでもなく、抱き付いてくるわけでもなく、その場に立ち尽くしている。
「タカヒトが言ってることはきっと『正しい』よ。でも、オレはそんなに良い子じゃないから、今はやっぱりただの……何て言うんだろ? 綺麗事? 理想論? どうしてもそんな感じがする」
精一杯正直にそう言ってくれたネロの頭を、貴仁はぽんぽんと撫でた。
「俺だって、お前に説教したいわけじゃないし、会ってたった一日と少しでお前を変えられるとも思ってないよ」
最初から彼を100%納得させられるなどと驕った考えは持っていない。ただ、言葉が足りずに行き違っていた部分を修正したかっただけだ。
「でも、青いバラかあ……。遺伝子組み換え野菜よりそっちの方がずっと嬉しい」
「遺伝子組み換え野菜だって、安全性がまだ分からないから嫌われるんだ。よく分からないものは怖いって思うのは人間なら当たり前で、だからまた分かるまで研究する。どんな研究も心持ち次第だ。お前の親父がどうだったかは、まだ分からないけど」
貴仁は少しだけかがんでネロに目線を合わせた。
「それで、お前はどうしたい? やっぱり自分の家に帰りたいって思うならそうすればいいし、何か変えられるかもしれないって思うなら、まだここにいてもいい。この二泊三日がお試し期間だったと思ってさ、これからのことをもう一回自分で考えたらどうだ?」
ネロの肩越しに、ベランダに置かれた小さなポットが見える。あれに芽が出て大きく成長していく様を見られるかどうかは、目の前の少年の答えにかかっていた。
***
昼休みの学食前は、五月病を免れた学生たちが多数行き来している。入り口付近の壁に凭れて携帯を見ていた貴仁は、近付いてくる人影に顔を上げた。
「連絡、今朝ギリギリで悪い。昨日の夜、あいつと話できなくてさ」
「気にしなくていいよ。全面的に世話になってるんだから」
そう言って笑う千草の手には、やけに大きな荷物がぶら下っている。
「ネロは、何て?」
千草の言葉に、貴仁の頭の中で今朝のネロの言葉が蘇る。
『オレ、変わるとか変わらないとかまだよく分かんないけど、タカヒトがオレに会いに来てくれてから、新しいって思うこと、いっぱいあったよ。そういう流れみたいなの、今ここで止めたくない』
あの時のネロには、厭世的な態度も、普通の生活への諦観も見えなかった。
「まあ、もうちょっと今のまま続けてみるってさ。それで、期間延長は成功の部類か?」
「もちろん。帰りたいって言われたら振り出しだったんだから。貴仁にはまた面倒をかけることになるけど……」
「まあ、まったく負担になってないって言ったら嘘になるな。飯とかテキトーにできないし、昼まで寝てられないし、プライベートな時間も皆無だ」
半ば冗談のつもりで言ってはみたものの、やはりほぼ初対面の子供を突然預かるなど、自分は随分おかしなことをしているのだと再認識するばかりだ。
「生活費はちゃんと払うし、お礼だってこの前約束した以上にするからさ」
千草に続いて食堂の中へ入りながら、そう言えばそんな約束もあったなと思い出す。
「この前の約束、あてはあるんだろうな?」
「今俺の中で吟味中。貴仁の性格も受け入れてくれそうな性格を重視して、顔は二の次」
「そういう言い方も何か嫌だな」
女性にパラメータを付けて選別するような行為は、貴仁の性に合わない。
「でも『女の子を紹介する』ってそういうことだろ?」
千草は気にした雰囲気もなく淡々とそう言ってのけた。彼は基本的に人当たりがいいものの、たまに心がないかのように冷静な反応を見せる。貴仁以外に千草が深い友人を持っていないのも、もしかしたらこういうところが原因なのかもしれない。
食券発行機の前でメニューを選ぶ千草を見ながら、貴仁はこっそりとそんなことを考えた。
「それにしても、貴仁はよくネロを手懐けたよね。てっきり『もう帰る』って言い出すと思ってた」
ちょうど機械から出てきた日替わり定食の食券を、貴仁は僅かに握り締める。
「あいつ、俺が『会いにきてくれた』って本気で思ってんだよ。そういうの、俺が初めてだったみたいで舞い上がってんだろ」
ネロはまだ最初のあの嘘を信じている——それだけが貴仁の中にわだかまりとして残っていた。
「お客さんならいくらでもいたのに、出ようとしなかったのはネロだよ」
「そのお客さんの目当ては全部マロネだったんだ、っていうのがあいつの主張。マロネは三毛猫なんだってな」
「そうだけど——」
「コンプレックスだったんだろ。マロネより自分の方が劣ってるって思ってさ」
「俺たちに相談さえしてくれてたら、そんなことないって言ってやれたのに、あいつ俺たちには本音を言いづらいみたいでさ」
ネロが彼らに遠慮するようになった原因は、千草がマロネを選んだからだ。千草はそれに気付いていないのだろうか。いや、気付いているからこそ、自分ではなく他人を頼ってきたに違いない。彼らの関係を思うと、なぜか貴仁の胸が痛んだ。
「でも、貴仁にはしっかり吐き出して甘えられてるんだったら、やっぱり外の人に預けたのは正解だったのかな」
「なあ、お前とマロネは——」
そこまで言いかけてから、ネロの語った生々しい話を思い出して言葉を区切る。千草とはこれからも変わらず親友でいたい。あれが彼にとってばらされたくない事実なのだとしたら、今ここで話すのは危険だ。
「いや、なんでもない。三限、演習だよな。早く食わないと遅れるぞ」
行列になっている配膳窓口へと向かいながら、貴仁は何か別の話題を必死に探した。
***
三限、四限と二コマ連続の授業に加えて居残りの作業をしていたため、帰宅できたのは夕方の七時近くだった。本当は授業の面々で食事に行くという話も出ていたが、貴仁はその誘いを辞退した。
玄関を入ると、少し先の居室のドアが半分開いており、中から明かりが漏れている。夕刻に帰宅して部屋が明るいというのは随分久しぶりの感覚だ。
「あ、おかえりなさーい」
ベッドの上で本を読んでいたネロは、もう普段通りの彼に戻っている。
「おとなしく待ってたか? って、それ何読んでるんだ?」
彼が読んでいるのは異様に分厚い青色の書物だ。
「タカヒトの机の上の隅っこで埃かぶっててね、分厚い本だから気になったの。えーっと本のタイトルは——」
「おい、それって——」
「はい、『Molecular Biology of the Cell』だって」
彼の読み上げた流暢な英語は日本人中学生のそれではない。彼が持っているのは、貴仁が購入して放置していた教科書だった。大学院の先輩に唆されて英語版を買ったものの、ほとんど読めていないという代物だ。
「……英語の本なんて読めない、だろ?」
「なんで? 読めるよ? 朗読しよっか?」
「いや、読むっていうのはその、内容を理解するって意味で……あ、一つ前の版だったら日本語訳されたのがあるぞ。赤い奴だ。どこ行ったかな」
プリントが山のように積まれた汚いデスク周りをごそごそと発掘する。
「こっちの方が新しいんだったら、これでいいじゃん。日本語とか英語とか関係ないよ」
色違いの分厚い本を探し当てた貴仁は、恐る恐るネロを見下ろした。
「えーっと、一応聞くけど、お前の母国語って何?」
「一番得意な言葉ってこと? だったら日本語!」
「英語は?」
「日本語の次だよ?」
ネロは何がそんなに気になるのか分からないと言いたそうだ。
「英語が理解できる程度が知りたいんだけど。たとえば、その本のタイトル日本語で言うと?」
ネロはさっき一度読んだ本の表紙をもう一度ちらりと見やった。
「細胞の……分子生物学? 分子的生物学? 生物の専門用語っぽいのがね、意味は分かるんだけど対応する日本語として合ってるか分からないの」
「分子生物学、の方が正解」
そう言いながら、重い日本語版の表紙を見せてやる。まさかとは思っていたが、彼は本当に英語を理解できているようだ。もしかしたら、貴仁よりも英語が堪能なのかもしれない。黙ってしまった貴仁に、ネロはきょとんと首を傾げた。
「パパが半分くらい日本語で話して半分くらい英語で話すから、日本語と一緒に全部覚えたの。死んじゃったパパの奥さんもね、英語しか話せない人だったらしいよ。お客さんが来る時も英語の人の方が多かったから、そっちで話しなさいって言われてきたんだ」
「つまり、バイリンガルみたいなもんってことか? そりゃ……羨ましい話だな」
高かった日本語版の教科書を机の上に置くと、何も力を加えていないのにどすんと重厚な音がした。
「そうなの? 学校でも皆英語は勉強するって聞いたけど」
「お前のその年齢でその洋書読めるくらいになるのは特殊だよ」
「特殊?」
「あー、つまり、すごいってこと。褒めてる」
「ほんとに!?」
ネロは重い本を脇に退けて立ち上がった。
「ああ、今度俺の輪読用の論文でも訳してもらいたいくらいだ」
「りん、どく……よく分かんないけど、オレもタカヒトのお手伝いしたい」
「英語ができるんだったら、俺の手伝い以外でもいくらでも役に立てるぞ」
「そっかな」
得意気なネロを横目に、貴仁は千草から受け取った荷物をベッド脇に置いた。
「そうだよ。志木先生も言ってたけど、お前だって大学でも何でもやりたいことをやればいい」
「うーん、オレのやりたいことって何だろう」
「その年齢だったら分からなくても普通だ。これから考えればいいんじゃないか?」
彼がそうやって考えてくれるようになっただけで大きな進歩だ。今はそれ以上高望みをすることもないだろう。
「ほらこれ、千草から預かってきた荷物」
「なんか随分大きいね。着替えの服だけじゃないのかな」
そう言いながら床に座ったネロがまず最初に取り出したのは茶封筒だ。表にはネロの生活費に使うようにと書かれている。つまり中身は札束だ。
しかしネロはぽいとそれを床に放り出し、次に携帯電話を取り出した。
「ケータイ!」
「なんだ、一昨日から家に置きっぱなしで来たのか?」
嬉しそうに携帯を掲げていたネロは、ぷくっと頬を膨らませた。
「今まではそもそも買ってもらえなかったの!」
外出しないのであれば買ってもらえないのも当たり前だろう。と言いたいところだが、喜んでいるネロに水を差すのはやめておく。その代わり、別のものがネロの上機嫌を削いだ。
「ん〜、これ、底の方にあるの全部ノートと教科書……」
自宅での坂井氏による勉強ができなくなった以上、こちらで自主的にやれというメッセージだ。
「がんばれよ」
貴仁は他人事のようにそう言ってその場を離れようとする。しかし、その足をがっちりとネロが掴んだ。
「タカヒト、手伝って!」
「俺の手伝いをしてくれるんじゃなかったのかよ」
「ギブアンドテイクだよ!」
成り行きのお試し期間ではなく、今日からネロとの生活が再スタートすることになるが、やはり一筋縄ではいかないようだ。とりあえず目下の悩みは、今夜の夕食をカップ麺以外でどう乗り切るかだった。