猫と花 9 | fDtD    
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9

 大学のキャンパスは広いが、いつもつるんでいる友人と会うのはさほど難しくはない。なぜなら、曜日と場所でたむろしている場所が大体決まっているからだ。金曜の昼は千草がいないため、貴仁は学部の三号棟ロビーへと向かった。
 いくつか並んだテーブルは、生協で買ってきた昼食を食べる学生で埋まっている。大体誰もが、飾りっ気のない黒髪の典型的理系男子だ。そんな中、適度に髪を染めてそれなりに流行を取り入れた服を着ている貴仁は相対的にかなり目立つのだが、それが功を奏したことはかつてない。
 似たような男子学生の波を見渡し、一つのテーブルに目を止める。他と同じく、短い黒髪にチェックのシャツとジーンズという量産型の地味男子大学生二人組だが、その顔はよく見知ったものだ。
「おー、なあ来週提出の特論のレポートやった?」
 近付くなりテーブルにいた片方——柴田が聞いてきた。
「まだ。来週でいいだろ」
 貴仁の答えに対し、柴田は「だよなー」と言ってから食べかけの弁当に戻る。
「何で急に?」
「こいつがさ、あれは時間かかりそうだから早めがいいんじゃないかって脅してくんだよ」
 そう言われると、カップラーメンをすすっていたもう片方——早川がちらっと顔を上げた。
「別に脅してなんかないよ。『僕は』早めにやるって言っただけなのに」
「そう言われるとこっちまで焦るんだよ! 分かる? 分かって?」
 身を乗り出して訴える柴田を無視して、早川はラーメンを食べ進めた。すると、柴田は席についたばかりの貴仁にターゲットを移してくる。
「吉住〜、お前は抜け駆けして早くやるとか言い出さないよな?」
「でも実際、来週から中間レポートのラッシュになりそうだから、早めにやるのもありかもな」
 来週以降の予定を頭の中で思い出しながら、貴仁は至って冷静に言った。
「あ〜、俺は、ほら、取ってる授業が違うし? そこまでのレポートラッシュには——」
「池田先生と志木先生の授業、来週レポート出るって聞いたけど、あれ一緒に取ってるだろ。あと島崎先生の授業はいつも通り演習課題の平常運行な」
 呆れ気味の貴仁を見て、柴田はさっと顔色を変えた。
「……やばいじゃん」
「明日からの土日で特論のレポートは先に片づけとけばいいだろ」
 貴仁の言葉に、聞いているだけの早川もうんうんと頷く。だが、柴田は急に慌てふためいて貴仁に縋りついた。
「いやいやいや、今日やろう。ほら、今夜」
「やろうって、一緒に?」
「そうそう、いつも金曜飲みに行ってる代わりに、今日はレポート会にしよう」
「個別にやればいいだろ」
 貴仁は柴田を軽くいなしてから、鞄の中の昼食を取り出した。
「だって俺、あの授業全然わかんねーもん! 今夜吉住ん家に集合な」
「は? いや、無理無理、うちは駄目」
 ネロの存在を知られるわけにはいかない。貴仁が必要以上に必死に否定すると、柴田は急に真顔になった。
「何で? 何度も行ってるけど、お前ん家が一番広いじゃん」
「無理なもんは無理」
「何かマズいもんでも隠してんの?」
「いや、そ、そんなことはないけど——」
「えー、なんかめっちゃ焦ってるんですけど」
 柴田の追及が厳しくなる。早川に無言で助けを求めたが、彼から手が差し伸べられることはなかった。
「本当に、場所にかかわらず俺は今夜無理だから」
 もう一度きっぱりそう言って、昼食の入ったタッパーを開ける。視界の端で柴田がガクンと項垂れたが、知ったことではない。
「つまり用事?」
「そうそう、ちょっと、家の用事があって——」
 何とか逃げられそうだと思った時、カップ麺を食べ終えた早川が貴仁の手元を指差した。
「吉住、何それ」
 彼が見ているのは貴仁の昼食だ。タッパーにおにぎりが三つ詰まっている。
「はあああ? コンビニ製じゃないおにぎり? 手作り?」
 柴田が椅子から立ち上がらんばかりの勢いで詰め寄ってきた。
「いや、その、これは——」
「もしかして、誰か家にいんの?」
 柴田ではなく早川がぼそっと呟いた。
「ななな、なんでそんな話になるんだよ」
「だってお前、自分で昼飯作るような趣味ないだろ。じゃあ、誰かが作ったってことだよな」
 早川の読みは当たっている。この昼食は、朝ネロが楽しそうに作っていたものだ。この前の一件以来、ネロは料理をするようになった。そして彼は自分で言っていた通り、レシピさえあれば元の料理を難なく再現してみせた。まるで科学の再現実験のように。
「もしかして、ついに彼女ができた、とか」
 早川の言葉に、一瞬辺りがシンと静まり返ったような気がした。それを打ち破ったのは、首をブンブン振る柴田だった。
「ないないない! だってこいつ、緊張していつもアウアウ言ってんじゃん!」
「はは……そうそう」
 言われ放題でもこの場は我慢するのが得策だ。
「大体、こいつは見た目垢抜けてても絶対モテなさそうなところがいいのに、これで彼女とかできちゃったら、ただのリア充じゃん! チャラ男じゃん! 友達やめるわ!」
「え、そこまで……?」
 思わず聞き返すと、柴田は貴仁をじっとりと睨んだ。
「ああ、そうだよ! 特論のレポート教えてもらってから絶交するレベル」
「都合よすぎだろ……。まあ、どっちにせよ、彼女とかそういうんじゃないから。マジで」
「ふーん?」
 二人の目はまだ疑いを含んでいる。貴仁はとにかくこの場を切り抜けることだけを考えた。
「これは、ほら、料理とかできるようになったら、ちょっとくらい喋りがアレでもモテるようになるかなっていう魂胆で——」
「なーんだ、そうか」
「僕はてっきり、突然美少女が現れてなぜか一緒に住むことになって、吉住にデレデレのその子が押しかけ女房よろしくお手製おにぎりを持たせたんじゃないかと思ってたよ」
「早川さー、それ、なんかのラノベだろ。吉住の方が冷めた感じでヤレヤレとか言い出す感じのやつ」
 美少女の部分を美少年に置き換えればあながち間違っていない。貴仁は顔が引き攣りそうになるのを堪えながら、彼らの会話を聞き続けた。
「美少女の方がたまにツンだともっとそれっぽいな」
「あーっ、羨ましすぎて許し難い。そんなラブコメから一転して何か事件に巻き込まれて流血沙汰になって真っ白になってしまえばいいのに」
 勝手に話を進める二人を遮るように、貴仁は首を振った。
「本当に、違うから……」
「分かった分かった。で、今夜の用事って?」
「だから、それは——」
 その時、貴仁の鞄の中で携帯電話がブーブーと震え始めた。天の助けとばかりにディスプレイを見ると、この状況を作った原因の一人、千草の名前が表示されていた。
「もしもし? え、来てんの? ごめん、今日は三号棟にいる」
 千草は大学に来ない曜日のはずだったが、どうやら話があるらしい。
「誰?」
 柴田が残っていた弁当をかき込みながら聞いてきた。
「千草……高幡千草」
 彼らは千草とあまり親しくないため、苗字まで含めて言い直した。
「ああ、高幡? 何て?」
「ちょっと話すことがあって、これから来るって」
「それって今夜の用事ってのに関係してる?」
「ああ、まあそうだな」
 千草の用事はどうせネロに関することだ。それならば関係していると言っても嘘ではないだろう。柴田は空になった弁当パックを箸で突いて、わざとらしく拗ねてみせた。
「俺とアイツ、どっちが大事なんだよ」
「そういうの、気持ち悪い」
 早川がすぐにそう言い捨て、柴田が何やかんやと言い返し始める。彼らのくだらないやり取りを横で聞きながらおにぎりを頬張っている内に、ロビーの自動ドアが開いて背の高い男が現れた。
「あ、来た」
 貴仁の声で柴田らもこちらに向かってくる千草に注意を向ける。千草の方も三人の視線に気付いたらしく、スムーズにこちらへと近づいてきた。
「いやあ、いつ見ても、何ていうか、俺みたいなのからは近付き難いオーラというか」
 柴田がそう言うのも無理はない。千草は根本的に周りの人間とは雰囲気が違う。それは彼の整った容姿のせいだけではなく、そのまっすぐな歩き方や視線といった立ち居振る舞い全てが、彼を動く人形のように見せていた。彼と親しい貴仁でさえ、時々千草を見て不思議な感覚に陥る。
 彼は周囲の様子になど目もくれず、無表情のまま貴仁らのテーブルまで一直線に辿り着いた。
「どうした?」
「今夜のことでちょっと相談があって——」
 テーブルには空いている椅子もあったが、彼は座ろうとする様子を見せない。やはりここではやりづらい話なのだろう。ネロの作ってくれたおにぎりを完食し、急いで鞄にタッパーをしまいながら急いで立ち上がった。
「悪いけど、こいつ借りてくから」
 千草は傍にいた柴田らに向かって、勝手にそう言ってしまう。言葉では「悪いけど」と言っていても、表情や空気は全く悪びれた様子がない。もう少し彼らへの遠慮などを見せればいいのに、と貴仁は内心ヒヤヒヤする。突然話しかけられた柴田は虚を突かれたように固まっていた。
「じゃ、また三限でな」
 貴仁が声をかけると、柴田はやっと我に返った。
「えー、裏の林にいた変な動物探しに行くって言ってたのに」
「言ってない。勝手にやってろ」
 強引な千草に気を悪くしていないかと思ったが、柴田の様子はいつも通りだ。安心した貴仁は、さっさと歩いて行ってしまった千草の後を追った。
 建物の外に出た千草が向かったのは、校舎と校舎の間にあるちょっとした休憩スペースだ。灰皿があるあたりに人が集中していたが、その煙が届かない距離のベンチは閑散としている。千草はベンチに座ることなく、その横の壁に凭れかかった。
「今日、何かあるのか?」
 遠慮なくベンチに腰かけた貴仁は、すぐ隣を見上げて反応を待つ。
「うん、良かったら家に夕食でも食べに来ないかと思って」
「何でまた急に?」
「ネロがいなくなってもう一週間だろ? マロネが寂しがっててさ」
 千草の表情が不意に寂しそうになる。
「あいつらって仲良かったんだな」
 最初に訪ねた時の印象だと、ネロがマロネをいじめているような構図に見えていたが、そうではなかったようだ。
「いつも喧嘩してるように見えるけどね、同じ境遇のあの二人はその辺の双子よりずっと一心同体なんだ」
 千草が苦笑しているのを見ながら、貴仁は小さく「へえ」とだけ言った。言われてみれば、あの家でのネロの暮らしを貴仁はほとんど知らなかった。
「ネロの方は元気?」
「ああ、一昨日あたりから急に料理するとか言い出してさ、今夜も夕飯作るつもりだろうから、出かけるなら止めとかないと」
 そういえば今夜は和食に挑戦すると言っていたのを思い出す。もしかしたらもう買い物は済ませてしまっているかもしれない。
「ありがとう」
 ネロのことを考えていた貴仁は、千草の突然の声で現実に引き戻された。
「何が?」
「ネロのこと。貴仁に預けて良かった」
 千草は時々こんな風に突然息を吐くようにむず痒いことを言う。彼は一体どういう気持ちでこんなことを堂々と言ってしまうのだろう——そんなことを親友となった今でもまだ考えていた。

***

 千草の家に来るのは二回目だが、その広さにはやはりまだ慣れない。フィクションでしか見たことがないような洋風の大きなドアを開けると、玄関ホールに佇むマロネが見えた。
「えーっと、ただいま? お邪魔します?」
 ネロの疑問形の挨拶に答えるより先に、マロネが彼を抱き締めに行く。千草が言っていた通り、ネロがいなくなってだいぶ寂しかったらしい。マロネは少しだけ目尻に涙を滲ませて、ネロの肩口にぐりぐりと顔を埋めていた。
「なんだよー、マロネってほんと子供だよね」
 その瞬間、マロネの白茶の耳がぴくりと反応する。彼はネロから顔を上げると、かわいらしく眉を吊り上げた。
「坂井さんの宿題、やった?」
「……」
「やんないと駄目なんだよ?」
「うーるーさーいー」
 再会した兄弟はじゃれ合うように追いかけっこをしながら家の中へと消えていく。ふと隣を見ると千草とちょうど目が合って、二人で思わず苦笑いした。

 この前通された応接間も綺麗だったが、今日招き入れられたリビングルームも負けず劣らずで、無駄に広い部屋がシャンデリアの明かりに照らされている。壁にかかったテレビはもはや何インチなのかも分からないほど大きい。庭に面した壁の大半はガラス貼りのようになっていて、庭のテラスへ出られるようになっていた。
 ずっとこんな家で暮らしていた子供を、俺なんかのあんな小さな家に住まわせて本当にいいんだろうか。
 千草と二人ソファに座りながら、そんなことを考える。当のネロはと言うと、マロネと一緒に少し離れた別のテーブルを囲み、最近父親から送られてきたという外国のボードゲームを楽しんでいた。こうやって彼がこの家で普通に生活しているシーンを見るのは初めてだ。
 ゆったりと足を組んでテレビのニュースを見ている千草と、顔を寄せ合ってボードゲームのルールブックを読む二人の少年。なんでもない普通の家族の空気の中で、部外者の貴仁はどこかソワソワしていた。
 とりあえず自分もボードゲームに参加しようかと思った時、どこからともなくいい香りが漂ってきて、ネロがパッと顔を上げた。
「あっ、坂井さん、ご飯作ってる! オレも手伝おっかなあ」
「え、なんで?」
 首を傾げるマロネに向かって、ネロは得意気にふふんと鼻を鳴らす。
「オレ、今料理練習してるから! タカヒトが泣きながらおいしいって言うまで頑張る」
「じゃあ僕もやってみようかなあ」
「マロネはすぐオレのマネするんだから」
「でも、僕も千草に何か作りたい」
 二人は張り合うように同時に立ち上がると、もつれ合いながらもバタバタとリビングの外へ消えていった。確かに、喧嘩ばかりしているように見えても、あの二人は一心同体なのかもしれない。そんな二人を引き剥がしてしまって本当にいいのかと、胸の奥がチクリと痛んだ。

 夕食はリビングとは別室にある広いダイニングに案内されたが、出された食事自体は意外と普通の日本人家庭の食卓だった。一部の料理は見た目に少し難があったが、どうやらそれらはネロやマロネが手伝いという名のちょっかいを出したためらしい。
 リビングに戻って食後の休憩がてら、四人でボードゲームを囲んでいると、申し訳なさそうに坂井が近付いてきた。
「坂井さん、どうしました?」
 千草はわざわざ立ち上がって彼に尋ねた。
「それが、今夜急にあの人の紹介で研究員の方が訪ねてくるようで」
「また父さんの無茶振り? どうせ父さんは来ないくせに」
「ええ、あの子たちの話を聞いて、是非一度見たいという新人研究員がいるんだそうです。それで、その方をこちらに寄越すからちょっと相手をするようにと——」
「勝手だなあ」
 父親の我儘に呆れたように千草が肩を竦める。
「俺、帰った方がいい?」
 半分腰を浮かせながら聞くと、千草はすぐに首を振った。
「いいよいいよ、あっちの方が後から入った予定なんだから」
 彼はそう言ってから、ぽかんと今のやり取りを聞いていた少年二人に顔を向ける。
「二人とも、後でお客さんが来るみたいだから、準備しておいて」
「はーい」
 行儀よく返事をしたのはマロネで、ネロはただ頷いただけだった。

「こちらへどうぞ」
 しばらくして坂井に連れられて来た男は、二十代後半から三十代くらいの男だった。いかにも引き籠りの研究者らしく、シャツとスラックスに包まれた身体は白くてひょろりとしている。
 千草はソファから立ち上がって、部屋の中ほどで男と何か言葉を交わした。
「二人とも、ちょっといいかな」
 千草に手招きされて、ネロとマロネはそろそろと彼らの元へ向かう。
「はは……あの人の冗談だと思ってたのに、まさか本当にこんなことをしていたなんて」
「本当に、父には困ったものです」
「いやいや、すごい人だよ。しかも片方はオスの三毛猫だって」
 間近にやって来た珍しい少年たちを前に、男はかなり興奮している。「触っていいですか?」と千草に許可を得てから、彼はマロネの耳に触れた。
「えーっと、尻尾に黒が入ってるのかな?」
 白と茶色の耳を存分に観察してから、彼は視線を下へと向ける。
「尻尾はズボンの中に隠してるの?」
 男に尋ねられ、マロネは慣れた風に背を向けた。つい先ほど履き替えた彼のハーフパンツには珍しく穴が開いており、そこから茶色と黒の尻尾が見えていた。
「普段は隠しているんですけど、お客さんが来る時は大抵皆さん見たがるので」
 千草の言葉を聞いているのかいないのか、男は興味深そうにマロネの尻尾に触れる。
「尻尾はあまり強く触らないであげてください」
 千草の言葉は丁寧だったが、言葉のトーンがどこか冷たい。マロネが彼の恋人ならば、他の男にこうやってしつこく触られるのは確かに面白くないだろう。
 だが面白くなさそうなのは千草だけではない。彼らの様子をすぐ隣で黙って見ていたネロは、男がマロネに注目しているのをいいことに、ふらりとその場を離れた。誰も特に引き留めることもなく、ネロはそのままリビングから姿を消す。
 貴仁は居ても立っても居られず、彼の後を追った。

 二階にあるネロの部屋の前に行き、一度深呼吸をする。続いてドアをノックしてから開けると、彼はベッドにぽつんと座っていた。
「何?」
「いや、別に」
 何と言っていいか分からず、とりあえず彼の隣に腰を下ろす。キングサイズの豪華なベッドは非常に柔らかく、予想していたより身体が深く沈み込んだ。
 この前来た時は薄暗くてよく見えなかったが、電気が点いている今は部屋の中の様子が良く分かる。この部屋の壁の大半は本棚で占められており、英語のペーパーバックや児童書のようなものが並んでいた。
 思い返してみれば、彼は貴仁の家でもよく本を読んでいた。この部屋で独り、本だけを相手にする時間もまた、彼の日常の一部だったのだろう。
「俺、お前の気持ち、ちゃんと分かってなかったかもしれない」
 独り言のようなつぶやきに、ネロからの返事はない。
「ああいうことが毎回毎回積み重なってくとさ、そりゃ客が来ても会いたくなくなるよな」
 明確に何か悪いことをされたわけでもないし、あのままあそこに残っていれば、マロネの次にネロが話題の対象になったのだろう。しかしそれでも、毎回必ず自分が後回しにされることが続けば、心のどこかが少しずつ歪んでいくのも理解できる。
「同情してるの?」
 こんなことには慣れているのか、ネロの声は貴仁ほど落ち込んではいない。
「……同情とは違う、と思う」
「じゃあ、何?」
「うまく言えないけど……」
 そこで隣に座るネロを見る。愁いを帯びる大きな金の瞳も、ピンク色の小さな唇も、形の良い鼻も、どれも完璧なまでに美しい。
 どうしてこんなに可愛いのに放っておけるんだろう? この家にいる誰もが、彼の魅力や彼の憂鬱に気が付かないというのなら——。
「お前を早くここから連れて帰りたい……かな」
 広くて豪華で仲の良い兄弟がいるこの家よりも、小さな自分の家の方が彼を幸せにできるような気がした。
「タ、タカヒトのくせにっ」
 ネロの声にはもう陰はなく、いつも通りの生意気な子供になっていた。
「どういう意味だよ」
「う〜〜〜」
 ネロは真っ赤になってぽかぽかと貴仁の胸を叩く。
 ちょうどそこで、下の階から玄関のドアが開閉する音が聞こえた。
「あ、あの人帰ったのかな」
 結局あの来客者はいなくなったネロを呼ぶこともしなかったのだろうか。それとも、千草がそれを断ったのだろうか。また湧きかけた嫌な感情を振り切るように、ネロの肩をぎゅっと掴んだ。
「ほら、俺たちも帰ろう」
 立ち上がって手を引くと、ネロはこくりと頷いた。
「あ、そうだ。持って行きたい本とかあるから用意する。先に下行ってて」
 彼はそう言って机の上に出しっぱなしになっていた本を吟味し始めた。
 部屋を出て階段を降りようとしたところで、ちょうど上がってくる千草と鉢合わせた。
「あ、貴仁。ネロは部屋にいる?」
「うん、もう帰ろうかって」
「今夜は泊まっていけばいいのに」
 残念だという気持ちをアピールするように、千草は眉尻を下げた。その瞬間、我慢しようと思っていた言葉がついつい飛び出す。
「あんまりこういうことハッキリ言いたくないけどさ、俺はお前にも腹が立ってるから。あいつが部屋に閉じこもり気味になったのは、お前たちの対応にも原因があるんじゃないか?」
 千草は作っていた表情をスッと引っ込めて、いつものマネキンのような無表情に戻った。
「うん、分かってる。最初に言っただろ? 俺の家の環境がよくないんだろう、って」
「分かってるならどうして何もフォローしてやらなかったんだ? 俺に頼るより先にお前だけでも何かできただろ?」
「それも最初に言ったと思うけど、俺じゃ駄目なんだ」
 階段の上段から彼をじっと見下ろす。いつもは見上げる彼の顔が、今は目線より下にあって、それが貴仁を少し強気にさせた。
「どうして? お前が……あいつよりマロネの方が好きだから?」
 そこでやっと、無表情だった千草に動揺が見えた。つまり、ネロが言っていたのは事実だったのだろう。
「ただでさえ恵まれてる方を選んでさらに贔屓するって神経が……俺には理解できない」
「マロネだって恵まれてるわけじゃない。身体は弱いし、さっきみたいに好奇の的になれば疲れるし、ネロのことを誰よりも心配してる」
「そんな比較の話じゃなくてさ、どうして平等に心配してやれないのかってことだよ」
「平等だよ。貴仁は俺たち家族の限られた部分しかまだ見てないし、ネロを贔屓目に見るからそう感じてるだけで」
 彼の言うことももっともなのかもしれない。それでも、一人静かにリビングを去っていった時のネロの背中を思い出すと、それを放置するような男の言い分を素直に認めてはいけない気がした。
「俺、お前のことは親友だと思ってるけど、たまにお前の考えてることが全く分からなくなる。表情はあるのに、中身の感情が空っぽの宇宙人みたいだ」
 ずっと千草に抱いていた違和感を指摘すると、彼は目をぱちくりさせてから、なぜか小さく笑った。
「俺はそうやってハッキリ言ってくれる貴仁が好きだよ」
 何か言い返そうとしたその時、背後からドアが開く音がした。ぺたぺたと裸足で廊下を歩いてきたネロの手には、本が何冊か入っていそうな紙袋があった。
「あ、千草。オレたちもう帰るね。マロネが泣かないといいんだけど」
 今の会話を知らないネロは、あっけらかんといつも通り千草に話しかける。
「坂井さん、今あのお客さんを駅まで送ってってるからまだ帰ってないんだ」
 千草の言葉に、ネロが「えーっ」という声を上げる。
「いいよ、バスもあるだろ?」
 貴仁はそう言ってネロの手を引いて階段を降りる。一刻も早くこの家を離れたい。迎えの車を待つ時間すら惜しい。頭の中にあるのはそれだけだった。


***

 電車で家に帰り着いたのは夜の23時頃だった。真っ暗な部屋の電気を点けると、後ろからネロが駆け込んでくる。
「ただいまーっ」
「……おかえり」
 くしゃりとネロの髪を撫でると、やっと人心地ついたような気がした。
「まだ一週間しか経ってないのに、もうこっちの方が家みたい」
「小さいって馬鹿にしてたくせに」
 頭を撫でる力を強めると、ネロはぶんぶんと首を振って逃げていった。ベランダへと続く窓の前に来たところで、ネロの耳がピンと立つ。
「タカヒト、見て見て!」
 呼ばれて見に行くと、黒いポットの中心に小さな双葉が出ていた。
「うーん、これはどれも普通の葉っぱだな」
「どーいうこと?」
 貴仁は屈んでポットを見つめたまま口を開く。
「ほら、前に言っただろ? この種、珍しいアサガオが咲くかもって」
「出物ってやつ?」
「そう。出物なら、もうこの段階で葉っぱが違うんだ」
「そっか……」
 ネロの声が少し沈んだような気がして、貴仁は思わず彼を見た。
「いや、普通のアサガオだって綺麗だろ? それに、こいつから取れた種をまた次に蒔けば出物になるかもしれないんだしさ」
 ネロは慌てて捲し立てる貴仁にぽかんとしてから、ふふっとかわいらしい笑みを見せた。
「うん、普通がいいよね。これから毎日楽しみだなー」
「そうだな」
 きらきらと目を輝かせるネロの横顔を見て、なぜだか無性に抱き締めたくなる。この小さな身体を守ってやれるのは自分だけなのだと思うと、たまらなく彼に触れたくなってしまう。
 アサガオの芽と一緒に、貴仁の中にも不思議な使命感のようなものが芽生え始めていた。

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