ディストピア、あるいは未来についての話 10 | fDtD    
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10

「旭……?」
 心地よい低い声で目を覚ます。旭は裸のままタオルにくるまった状態で、ソファに寝かされていた。がばりと身を起こすと、ソファ脇で膝をついていたアラタが心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫か?」
 その言葉にこれまでの経緯を思い出す。確か風呂で散々弄ばれて、洗面所まで出たはいいものの、のぼせた旭はそこで倒れたのだ。
「なーにが『大丈夫か』だ! お前のせいだろ!」
「旭が気持ちよさそうな声を出すから……」
「人のせいにすんな!」
 旭は慌ててはだけたタオルを身体に巻きつけ直した。
「服どこだよ、クソッ」
 ソファから立ち上がろうとする旭をアラタが引き止める。
「旭、これ貼らないと」
 アラタは今日崎原がくれた袋を持っていた。旭はふうっと息を吐いてからどかりとソファに座り直す。
「お前が剥がしたんだから責任持って貼れよな」
 ふんぞり返ってそう言うと、アラタは旭の手首をそっと持ち上げ、まだ赤いそこに唇を寄せた。
「だから、そういうことすんなって!」
 唇が触れた皮膚だけではなく、胸の奥までくすぐったいような感覚。まるで敬うかのようなアラタの優しさがムズムズした。
 こんなα、俺は知らない。こんなのαじゃない。
 かしずくように膝をついたアラタは、旭の手首にそっと肌色のシートを貼っていく。
「これは絆創膏ではなく、ハイドロコロイド素材の創傷被覆材で――
「はいはい、お前が物知りなのはよく分かってますよ、α様」
 丁寧な彼の作業を見ているのがなぜか照れくさくて、旭はあらぬ方向を見て待っていた。
「できた」
 アラタは満足そうに言ってから、また旭の手首をさわさわと撫でた。
「何がそんなに嬉しいんだか」
 彼の表情は普段とまったく変わりないのに、旭には彼の気持ちが声色から読めていた。
「俺が貼れたのが、嬉しい」
 崎原に対する剥き出しの対抗心が、旭の頭をぐらつかせた。
 それは本音なのか? それとも、わざと恋人らしく振る舞ってるだけなのか?
 女の前で露骨に顔を赤らめていたアラタをまた思い出しそうになり、素早く頭を振った。気が付くと、まるで召使いのようにアラタが旭の服を持ってきている。ぼうっとしていると、彼は下着を広げて旭の足に通そうとしてきた。
「……っ、それくらい自分でやるから!」
 アラタの視線が熱を持って自分に向けられていることを感じながら、旭は手早く部屋着を身に着けた。
「さっき、どんな夢を見ていたんだ?」
 アラタがほんの少し眉を顰めて尋ねた。施設と高校生活の夢、そう答えればいいはずなのに、旭の口は動かなくなってしまった。
「随分うなされていた」
「なんだって、いいだろ……」
 彼を振り切って立ち上がり、早足で寝室へ移動する。もちろん彼が後をついてくることも承知で。
 ベッドに潜り込むや否や、隣のアラタは旭にぴったりと寄り添う。小さなブランケットから少し大きめの羽毛布団に変えたのに、彼は相変わらず旭にくっつきたがった。
「たとえ旭が悪夢を見ても、そこに俺がいればいいのに」
「意味分かんねーこと言うな」
 旭はアラタに背を向けるように寝返りを打った。
「俺がいれば、絶対旭を助けると思う」
 背後から回された腕が旭を柔らかく包み込む。もう慣れたと思っていたこの感触に、旭の胸が優しく締め付けられる。
 真っ直ぐに向けられる愛情への喜び。αの男になど絆されまいとする男のプライド。彼の真意に対する僅かな疑念。もう孤独ではないという安心感。
 喜怒哀楽の全てがパレットの上の絵の具のように混ざり合う。現れたその色で、自分と彼がどのような未来を描くのか、今の旭にはまだその下絵すら見えなかった。

***

 旭には三か月に一度程度、伯父との面会が設けられる。これは旭への温情というよりは、外部への体裁を取り繕うためのものだ。
「俊輔伯父さん、久しぶり」
 旭が小さな面会室に入ると、先に座っていた男が顔を上げた。
 藤堂俊輔、四十三歳、β。旭の父、奏多の兄にあたる男だ。その穏やかで理知的な顔は、兄弟の奏多をもう少し男らしくしたような雰囲気だが、男臭いというよりは優男といった方が相応しく、身長も顔も至って平均的な人だった。
「父さんたちの命日、お墓参りは行った?」
「ああ、ついでと言うとなんだけど、僕の親と篠原さん家のご両親の方もお墓に行ってきた」
「じーちゃんばーちゃんの命日も近いからな」
 俊輔と奏多の親はαとΩの女性同士だったと言う。もっとも、旭は祖母となる彼女らに会ったことはない。なぜなら、旭が生まれるより前に彼女らは事故で亡くなっていたからだ。そしてその事故で同時に、もう片方の晶側の祖父母も亡くなっている。
 奏多と晶は生まれた時からの幼馴染で、その親同士も仲が良かった。奏多と晶がΩ同士で恋人として付き合っていると親にカミングアウトした直後、双方の親同士四人で旅行に行った先での交通事故だった。
 親を亡くした時、俊輔は十九歳、奏多は十八歳だった。
 高校生の頃から既にコンクールなどで注目を集めていた晶と奏多は、画家として画商との繋がりもできていたため、美大への進学を諦めて結婚した。子供ができないことを承知での結婚だったが、奇跡的に旭が生まれたのはその翌年のことだ。
 一方俊輔はと言うと、通っていた大学を学費免除と奨学金で卒業し、そのまま情報通信関係の企業へと就職していた。
「何か問題はないか?」
 俊輔の最初の質問はいつもこうだった。
「何もないよ。ちょっと検査に協力するだけで優雅な暮らし」
 俊輔は気付いていないだろうが、この部屋での面会内容は全て録音されている。旭が余計なことを言わないようにするためだ。俊輔は旭のここでの生活をあくまで「研究協力の仕事」だと思っているし、旭が奴隷のような扱いを受けていることも軟禁状態に置かれていることも知らされていない。そんな窮状を吐露して俊輔に助けを求めたが最後、真実を知ってしまった彼もここに「招待」されることになる――そう脅されていた。
「特に変わりなしか」
「ああ、変わったことはあったな。俺の城にαが入ってきてさ」
 旭はそこで最近の出来事を掻い摘んで話した。もっとも、アラタから向けられている露骨な好意や、そこで自分の中に芽生えたおかしな気持ちについては伏せて。
「旭が、αと」
「ありえないだろ? とっとと出て行ってほしいんだよな」
「でも今の旭は、いつもより少しだけ楽しそうだ」
 俊輔は目を丸くして旭を観察していた。
「そんなわけないって。でもまあ、単調な毎日に変化があったのは暇潰しにはなるかな」
「たとえ暇潰しでも、旭がαと一緒にいるのはすごいことだと思うね」
「俊輔伯父さん、何か勘違いしてるみたいだけど、俺はαに気を許してるわけじゃないから」
 拗ねて口を尖らせると、俊輔は小さく笑った。
「うん、そうだね、αじゃなくて、今一緒にいるその人には……ってことだね」
「そういう言い方もなんか嫌なんだけど」
 まるでアラタが特別な何かであるような含みを感じ取り、旭はむっと頬を膨らませた。
 この伯父はいつもどこか達観したような目で世界を見ている。まるで心の中を見透かすような彼の視線から、旭はどこかに隠れてしまいたい気持ちにさせられた。
「旭は頑なで強情だね」
「俊輔伯父さんに言われたくない」
 幼い頃から施設に入るまで、毎月数日彼と一緒に暮らしてきたのだ。彼が旭を知っているのと同じくらい、旭も彼のことをよく見ていた。
 小さい頃よく俊輔の家に遊びに来ていた男。俊輔にキヨと呼ばれていた彼は、いつからかほとんど俊輔の元へ来なくなった。小学生だった旭が無邪気に「どうしてキヨは来なくなったの?」と尋ねた時、俊輔が突然涙を流したので驚いた。
 中学になってから、あの男から結婚式の招待状らしきものが届いているのをポストで見つけた。旭からそれを渡された時の呆然とした俊輔の顔が忘れられない。結局俊輔はその招待状に欠席の返信をして何も言わなかった。
 俊輔と彼の間に何か仲違いが生じたことは明らかで、俊輔がいつまでも独り身でいる理由となんとなく繋がっている気がした。
「俺に変わりあるかどうか聞くよりもさ、俊輔伯父さんこそ何か生活に変化ないわけ? 実は誰かと暮らし始めてるとかさ」
「何もないよ。旭が外に出て暮らせるようになったのを見届けるまではね」
「そんなの、いつになるか分かんないぞ」
 いつか外に出られるという希望は今のところ全く見えない。いつまでこの生活が続くのだろうと旭の表情が翳った時、部屋のドアがノックされて面会時間の終了を告げた。
「次に来る時はもう夏かな」
「そうだな」
 一切外に出してもらえない旭には季節など無関係だ。しかし俊輔はそんなことなど知らない。「発情の危険があるため旭を遠出させることはできない」という建前で、面会はいつもこの研究所で行われているのだ。実際は遠出どころかどんなに近場ですら外に出してもらえていないのだが、俊輔は旭のそんな過酷な状況を知る由もなかった。
 旭の部屋はネットが繋がらないためメールもできない、と告げられた時、彼は激しく怪しんだが、こうして面談を設けることで彼の疑念は有耶無耶にされたまま今に至る。
 二人でドアを開けて廊下に出ると、いつもの迎えの研究員と一緒に背の高い仏頂面の男が立っていた。相変わらず人間味のない彫像のような顔をしているが、その双眸が「待っていた」と語っているのが分かる。こうしてアラタがどこにでも迎えに来ることも、最近の旭には予測できるようになっていた。
 もちろん俊輔もすぐに彼の存在に気が付き、二人の視線が一瞬交わる。また崎原の時と同じように彼が嫉妬しないかと心配したが、意外にも彼は俊輔に向かって丁寧にお辞儀をした。つられて俊輔の方も頭を下げ、すぐに案内のスタッフに連れられてエレベータの方へと去っていった。
「旭、帰ろう」
「言われなくても帰る時間だ、勝手に仕切るんじゃねえ……ってそこのおっさんが言ってる」
 旭は何気なく傍で待っていた付き添いの研究員を指し示す。突然注目を浴びた白衣の男は、理不尽にもアラタからぎろりと睨まれた。
 今までの旭は研究員二人に両側から腕を掴まれて移動していたが、最近アラタと一緒に歩く時だけは彼らからの拘束がない。今日もアラタと二人並んで歩くのを見張られながらの帰投だった。
「旭の伯父さんには、今度旭の子供の頃の話を聞きたい」
「何も面白い話なんてねーっての」
「俺の知らない旭の話は何でも聞きたい」
 こんな廊下で何を言い出すのかと思わずきょろきょろすると、斜め後ろを歩いていた付添いの研究員と目が合ってしまった。
「そういう話をこんなとこでするんじゃねー……ってそこのおっさんが言ってる」
 またしてもアラタの冷たい目線を浴びて、研究員は一つ咳払いをした。
「どうせ部屋に戻っても全部聞かれているんだ。ここで言って何が悪い」
 アラタは声だけで不服を示した。言われてみれば、あの部屋で彼が旭にかけた言葉も、それを受けて旭がどんな反応を示したかも、全部誰かに見られているのだ。籠の中に入れた二匹の動物の行動を観察するかのように。
 そしてもうすぐ、彼らの最大の関心事となるイベントがやってくる。周期的に旭の次の発情期はあと数日以内に始まる。明日からは万が一周期が早まった場合に備えて警戒レベルが引き上げられることになっていた。こうやって部屋の外に出ることも、アラタの外出も禁止となる。
 いよいよその時が近付いているのだと思うと、旭は焦りとも緊張ともいえない何かを感じていた。

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