薬の服用と採血の繰り返しをさらに二日ほどすれば、もう発情期も終わりになっている。
旭がベッドからむくりと身体を起こすと、隣に座っていたアラタはすかさずベッドを降りた。
「もう自分で立てるって」
ベッド脇に待機して旭に手を伸ばす彼に、思わず苦笑が零れる。出される薬が徐々に副作用の出ない分量に変えられたのか、昨日からはほとんど薬によるデメリットもなく快適に過ごせていた。
一人で立ち上がって寝室を出ると、アラタは以前のようにぴたりと旭の背後をついて歩いた。
鴨の雛かよ……ってこれ、前も思ったな。
あの初対面の頃が随分と昔に感じられる。だが、よくよく考えてみれば、まだ彼と出会って三週間程度しか経っていないのだ。
小学生の頃の一日がやけに長く感じられたのと同じように、彼と二人で過ごす時間は随分と濃密で、やけにゆっくり過ぎていくような気がした。
「朝飯、まだお前が作んの? そろそろお粥は飽きたぞ」
この三日間、朝食は毎日アラタの作ったお粥だった。他の食材も買い足してあるのだが、どうやら旭にお粥を「おいしい」と褒められたのがよほど嬉しかったらしい。
「なら、旭の作った朝食が食べたい」
アラタはキッチンの入り口で立ち止まると、ムスッと旭を睨んだ。いつも顔に感情を見せないくせに珍しいこともあるものだ。旭は「しょうがないな」と言いながら苦笑いを噛み殺した。
用意してやった目玉焼きを食べている間、アラタはまだどこか不機嫌そうだった。
久しぶりに俺の飯が食えてもっと喜ぶかと思ったのに。……いや、別に俺はこいつを喜ばせるつもりなんてないけど。
頭の中だけで誰にともなく言い訳する。バケットに手を伸ばそうとした時、彼はやっと口を開いた。
「この後はいつもどんな予定なんだ?」
「あと何日かはまだ外には出られない。俺の発情の危険性もこの部屋のフェロモンも完全になくなれば安全期だ」
せっかく教えてやったのに、アラタは無言だった。黙々と嚙み締めるバケットが、普段よりもやけに固く感じられる。
食事を終えて食器をシンクに置きながら、旭は一つ溜息をついた。
「なんか怒ってる? 俺の発情期が何事もなく終わろうとしてるから? うまくいけば今回で出られたのに残念だったな」
「そうじゃない。旭の体調が戻るまでは言わないつもりだったが、俺にも言いたいことがある」
「もう身体の方はほとんど普通。だから言ってみろよ」
皿を洗おうして水を出すと、背後でガタリと椅子が音を立てた。振り向けば、目の前にアラタが立っている。水を出しっ放しにしているのも忘れて、見下ろしてくる彼の瞳に竦み上がった。
「言いたいことは二つ。一つは、旭が俺よりも他のαを発情の相手に選ぼうとしたことが、俺はやっぱり許せない」
「んなこと言っても、今まで毎月αを取っ替え引っ替えしながら種付けされてきてんだ。今更――」
その瞬間、アラタの手が旭の薄い肩をぎゅっと掴んだ。骨が軋むくらいの力に、思わず顔を顰める。
「そうやって、旭は自分を大切にしようとしない。Ωとしての自分を卑下するような言動が、俺は嫌だ」
アラタにここまではっきりと駄目出しをされたのは初めてで、旭は言葉に窮した。その時、肩を掴む手がやっと離れたかと思ったら、今度は両腕で包むように抱き締められてしまう。シンクを水が流れていく音を聞きながら放心していると、彼はさらに言葉を重ねた。
「もう一つは……また旭に絵を描いてほしい。俺が来てから描いているところを見たことがないが、俺には隠していたのか?」
「別に。ただそういう気分にならなかっただけだ」
彼の前でスケッチブックを開く気になれず、その中身を見せる気にもならず、あの引き出しにずっと封印していた。
「なら、今度その気になった時は、旭が絵を描くところを見ていたい」
「は? やだよ」
「どうせ監視カメラには見られているのに、俺だけ拒まれる理由はないと思う」
キスできそうなほどの距離で顔を覗き込まれ、耐えきれず目を逸らす。
このまま意地を張って隠そうとすればするほど、旭の絵は二人の間で変にタブーになってしまうだろう。頑固に隠し続ける方が分が悪い。
「分かった、分かったよ。なら皿洗ったら描いてやるから」
「描く気になったのか? 今すぐ?」
こくりと頷いてから、表情を隠すようにアラタの胸に顔を押し付ける。抱き締める力が強くなったのを感じながら、旭は彼がまた一歩自分の中に入り込んできているのを感じていた。
***
寝室のベッドの上。壁際のヘッドボードを背凭れにして座りながら、スケッチブックを開く。隣に座ったアラタは、ぴったりと旭に寄り添って手元を覗き込んだ。
見られてると描きづらいんだけどな。
そんな文句を言いたくなったが、それを言うとアラタがしょんぼりと萎れてしまいそうな気がしたので、言葉には出さずに胸にしまいこむ。
「色鉛筆で描くのか?」
「息抜きにはこんくらいでいいんだよ。昔は周りにいくらでもアクリル絵具やらキャンバスがあったけどさ」
「だからいつもこのベッドの上で?」
「気楽だろ? それにここなら背後に監視カメラもないからな」
何となく自分の描いている絵だけは監視カメラで見られたくなかった。トイレもセックスも監視されていて、今更何も恥じらうものは残っていないはずなのに。それでも、絵を見られることは心を見られることと同じような気がするのだ。
新しく開いた空白のページをぼんやり見ていると、突然アラタが旭の黒い色鉛筆を奪い取った。抗議するより先に、彼はその手でちまちまと汚い文字を綴る。
『こうすれば監視されずに話ができる』
まるで子供が秘密基地か隠れ家を見つけたかのようだ。そんな郷愁を抱いてしまってから、旭はもう一本青の色鉛筆を手に取り、彼の字の下に素っ気なく『で?』と大きく書いてやった。
『いつか何かの役に立つかもしれない』
文字を読んでから彼の顔をちらりと見ると、予想以上に近くて顔が急激に火照る。一つのスケッチブックに二人で書き込んでいるのだから当たり前のはずなのに、心臓は言うことを聞かずに脈を早めた。
動揺を隠そうと、慌てて二人で書いた文字を覆い隠すように青でザカザカと色を付けていく。何を描くか決めていなかったが、色鉛筆を走らせながら頭の中に蘇ったのは、いつか両親に一度だけ連れて行ってもらったリゾート地の海岸。旭が青い空と海の違いを色鉛筆だけでリアルに描いていく間、アラタはそれをじっと見守っていた。
***
室内に警戒期間解除を知らせる放送が入ったのは、それから三日後の朝のことだ。
「あー、今日あいつ来るんだよな。やだやだ」
「あいつ?」
ソファにぐったり横になった旭を見下ろしながら、アラタが怪訝な顔をする。
「主任って奴だよ。この時期だけここに来て、研究成果の進展なしっつー無意味な報告と嫌味だけ言ってくαの中でもさらにクソなα」
「林啓吾、五十四歳。専門は薬学だけでなく、脳科学から精神科、内科まで幅広い天才。昔はこの上の白峰十字病院でも勤務していたが、今は裏方の研究に専念している」
「何でそんなことまで知ってんだ、お前」
「ここに来る時に聞いた」
「はっ、俺が聞いた時には名前さえ名乗らなかったけどな」
この研究所は明らかにアラタを贔屓している。αとΩというだけでここまで待遇に差が出るのは心底腹立たしい。
噂をすれば、チャイムもなく入り口ドアが重々しく開閉される音が聞こえた。リビングに入ってきたのはいつも通り、白衣の男が三人。主任――林の後ろに毎回変わる研究員が二人という組み合わせだ。
旭がのそりとソファから身を起こすと、空いた隣にアラタが座った。
「先に言ってやろうか? 今月も特に新しい進展はなし、だろ?」
林はソファの側に立ったまま、旭の挑発に眉一つ動かさない。
「治験薬の方は、副作用をうまくコントロールできれば有用なことが分かった。不妊のメカニズムについては実験を拒否されてしまったので、成果がないのは我々の責任ではない」
「拒否したのは俺じゃない」
旭は隣に座るアラタを横目にそう言った。
「そうだな。一条さん、あなたはこのΩに少々入れ込みすぎているように見えます」
林は途中から口調を変えてアラタを見据えた。
「モニタリングしている研究員たちの間でも、まるで恋人同士の番のようだと少し前から噂になっているんですよ。先日、あのΩの実験を阻んだことであなたへの懸念が高まっている、というのが正直なところです」
「それは、最初に言った通り……」
「もちろん、その話は聞いています。『このΩとの実験を行うにあたり、彼と身体だけではなく心を通じ合わせておきたい』『そのために発情期以外も共同生活をしたい』……しかしそれを許可したせいで、あなたがこのΩに本物の情を抱いてしまったように見える。そしてそれが、我々の実験に支障をきたしている」
珍しくアラタは反論することなく押し黙ってしまった。
「『他のαを立ち入らせるなら、この実験への協力をやめる』――あの日あなたはそう言って、一度はこちらも引き下がりました。しかし、あの後我々が話し合って出した結論はこうです。このΩを使った実験に支障が出るくらいなら、あなたの研究協力を打ち切ってもらっても構わない」
突然の宣告。α同士それなりの好待遇を受けていたアラタが、旭の――Ωの味方をしたせいで追い出されそうになっている。
「リークによると、ライバルである黒野製薬は既にα向けの高度なラット抑制剤を治験段階まで進めていると聞きます。今我々があなたを使って一から研究を始めても数年の後れを取っている。一方でΩに対する薬の開発はこちらがリードしている。特にこのΩの不妊メカニズムの解明が進めば、画期的な人類の進歩がみられるでしょう。つまり、研究対象の価値としてはあなたよりもそのΩの方が将来性を持っているのです」
男の目は狂気をはらんでいるのに、すらすらと紡がれる言葉はロボットのように心がない。その時やっと、アラタが重い口を開いた。
「しかしその黒野製薬の作っているというα向けの薬が、果たしてどれほどのものかはまだ分からない。私を使った実験で得られる薬の方が優れているという可能性も――」
「そうです。だから我々としては、あなたの研究協力を失うのは惜しいわけです。我々の理想としては、あなたにこのまま研究協力をしていただきつつ、このΩの実験に必要なことには口出ししないでいただきたい。虫のいい話かもしれませんがね」
アラタはいつもの真顔のまま少し考えてから、膝の上の拳をぎゅっと握り直した。
「そもそもあの時は、実験の妨害をしたという認識はありませんでした。ただ、しばらく彼のヒートに当てられていれば、自分も発情する可能性があると思っただけです。でもその途中で他のαがいると集中できなくなってしまうので、出て行ってほしいと」
「なるほど。では、このΩに特別な情を持っているわけではない、と」
旭が聞きたくてもあえて聞かずにいた疑問。
「はい、別に特別な感情はありません」
彼の答えは冷たく旭の耳に突き刺さった。
「ここでの会話は全て記録されています。何日か前にあのキッチンであなたたちが交わした会話も」
男が何を言いたいかはすぐに分かった。発情中に旭が他のαを選ぼうとしたことが許せない――アラタが嫉妬も露わに問い詰めた時のことだろう。横目で見たアラタは、迷うことなく口を開いた。
「人間誰しも、競争心というものがあるでしょう。他のαにΩを取られるというのは、αの本能として面白くない。当たり前の感情だと思いませんか?」
「あなたはこのΩが描いた絵を気に入っていたとか。初耳です。入所前の聞き取りでは隠していましたね」
「芸術作品に対する気持ちと、作者本人への気持ちは別です。報告する必要もない」
「では、この研究への協力を仰いだ時、あなたが『αの未来のために』と言ってくれたのを、まだ信じてもいいんですね?」
嫌味な男は、まるでわざと旭に聞かせるようにそう言った。
「……もちろんです。そのためにも、まだこの研究に協力できればと」
「ありがとうございます。このΩの研究の妨げにさえならなければ、『恋人ごっこ』も続けていただいて構わないのですがね。とりあえず、来月の発情期は試しにとある薬を飲んでもらいます。それが効かなければ別のαがこのΩの相手をしに来ますので、その時はもう――」
「……分かっています」
脇にいる旭を無視して勝手に話が進んでいく。林はちらりと旭を見てから、背後にいた一人の研究員を前に出した。
「それから、今後そのΩには実験用に専属のαを付ける。紹介……と言っても、既に顔見知りだと聞いているが」
そう言われてやっと、背景だと思っていた研究員の顔をまともに見た。
「旭、久しぶり」
「庸、太郎……? なん、で」
彼と顔を合わせるのは、施設で強姦されたあの日以来。嫌な記憶が蘇る。旭の顔は青を通り越して白に近くなっていた。
「彼は大学院の学生で、この白峰製薬のインターンとして共同研究することになった。ここに隔絶されているとイメージしづらいかもしれないが、君と同い年の人間はもうそういう世代なんだ」
最後に見た高一のあの時と比べれば、時の流れは明らかだ。彼の背はずっと伸びていて、顔も幼さがすっかり消えている。通りですぐ気付かないはずだ。短く揃えた黒の短髪は真面目な学生そのもので、地味な彼らしいと言える。
放心する旭を見て、彼は真面目な顔つきを崩して僅かに微笑んだ。
「これからよろしく」
まるで過去のことを忘れたかのような穏やかな声。それでも、庸太郎の瞳の奥には薄暗い何かがある。
――旭、旭、ずっと好きだった。俺がαで旭がΩだって分かってから、ずっとこうしたかった。我慢するために避けてたんだ。
あの日ベッドに組み敷かれながら耳元で何度も聞いた言葉。聞こえなかったフリで記憶から消していた言葉。
それがなぜか急に耳の奥に蘇り、旭はぞくりと背筋を震わせた。
***
「……さ、ひ。旭」
自分の名を呼ぶ低い声。身体を控えめに揺さぶられて、ゆっくりと瞼を上げた。見慣れた寝室をぼんやりと見ながら、徐々に頭を回転させる。確か研究員らが部屋を出て行った後、気分が悪いと言って横になったのだ。ベッドの脇からは、アラタが眉間に皺を寄せて旭を見下ろしていた。
「今……何時?」
「もうすぐ十八時だ。起こすのも悪いかと思ったが、随分うなされていたようだったから」
そう言われて先ほど眠りの中で見たものを思い出そうとする。
午後の日差しが入り込む、穏やかな施設の診察室。庸太郎に押さえつけられた力の強さと、少し硬い診察室のベッド。自分の中を異物が出入りする初めての感触。子供たちと助けに来てくれた人々の視線。
あれは、夢と言うよりもただの記憶の再生。旭の脳に刻み込まれてしまった、忘れたくても忘れられない負の記憶の一つだ。
「夕飯作る」
ベッドから出てアラタの横をすり抜けようとしたその時、不意に腕を掴まれた。
「気分が悪いなら俺が」
「いいって。お前、さっきあいつらに言われたこと聞いてただろ? 俺に構いすぎるとまた怒られるぞ。まだ追い出されたくないだろ? 『αの未来のために』」
あてつけっぽく最後に付け足すと、アラタの眉間の谷間が深くなった。庸太郎のことでショックを受けてすっかり忘れかけていたが、あの時のアラタの受け答えにも、引っ掛かるところがたくさんあった。
この研究所を追い出されないようにするために取り繕った嘘も混ざっていただろうことは理解している。ただ、果たしてどこまでが彼の本心なのかが読めない。それに何より、彼が嘘をついてまでここに残ろうとする理由も分からないのだ。元から彼が旭を画家として気に入っていようが、あるいは林が言ったように旭に情が移っていようが、それだけでは軟禁生活を継続したがる理由として弱いように思える。そうなるとやはり、『αの未来のため』なのだろうか。
イチジョウアラタという男の行動原理を理解するにあたって、まだ手持ちのピースだけではパズルが完成しない。そんな気がした。
アラタが何かを言いかけた時、旭は目だけで彼を止めた。
「カメラ、見てるぞ」
部屋の角でカメラのレンズが照明を鈍く反射している。てっきり「そんなことは関係ない」とでも言うかと思ったが、アラタは言われた通り口を噤んだ。
彼から言い訳を聞きただしたい気持ちもあったが、今はなぜか彼の言葉を聞くのが怖い。
『別に特別な感情はありません』
あんな言葉、どうせ嘘だ。あんなにストーキングしてきたくせに。あんなに、優しくしてきたくせに。
でも、もし本当だったら? あれをもう一度真正面から言われたら?
旭は臆病な心の声に負けて、アラタの手を振りほどいた。