ディストピア、あるいは未来についての話 21 | fDtD    
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21

 半年後。
 外の世界は十月下旬となり、空は高く空気は肌寒くなってきていたが、研究所の地下室には相変わらず季節など無いに等しかった。
「なー、俺そろそろ鍋やりたい」
 旭はソファに座ってカタログを眺めるアラタに近付くと、背凭れ越しに彼の手元を覗き込んだ。
「鍋?」
「もうすぐ世間は冬だってよ」
 後ろからカタログのページを勝手にめくりながらそう言うと、アラタは小さく首を傾げた。
「ここは一年中同じ温度だ」
「ったく、お前には気分ってもんが分かんねーのかよ。もういーよ」
 彼の頭を小突いてその場を離れようとすると、アラタの手が伸びてきて旭の腕を掴んだ。
「鍋の材料を注文しておけばいいのか?」
 旭は拗ねたフリをして顔を背けながらも、ボソボソと口を開いた。
「材料だけじゃなくて、土鍋とかカセットコンロとか一式全部」
「ないのか?」
「だって、一人で鍋とか虚しいじゃん。ここにきて初鍋なんだよ」
 旭の腕を握るアラタの指にピクリと力が入った。
「……なんというか、家族みたいだな」
 彼は何気なく言ったつもりだったのだろうが、旭ははたと固まった。
 家族って何だ? ……夫婦?
「旭?」
 名前を呼ばれて我に帰り、もげそうになるくらい勢いよく首を振った。
「何でもない!」
 赤くなった顔を隠すために、慌てて彼の拘束から逃れる。とは言っても、この狭い部屋の中では隠れる場所も限られてくる。旭はパタパタと廊下に出ると、トイレの中に閉じこもった。
 彼の真意を知ってから今まで、二人の関係は蜜月とも言っていいほど甘いものだった。監視カメラで全てを覗かれていることと、発情期の度に庸太郎とセックスをしなければならないことを除けば、同棲している恋人同士の空気そのものだ。
 これを見ている研究員らは、旭のことを「お情けでαに恋人のフリをしてもらって有頂天になっている惨めなΩ」だと思っているだろう。現に、研究員らは今でもアラタに信頼を寄せており、たまに彼を誘って食事に出かけている。情報を引き出すためにアラタに利用されているとも知らずに。
 旭の立て籠もったトイレのドアは、すぐにドンドンとノックされる。あの男は相変わらずのストーカーだった。

 アラタはまだしょっちゅう仕事と称して出かけていくが、旭にはもう何の不安もなかった。恋人だと思っていた女性は単なる連絡係であり、あの弁当も薬やメモの受け渡し手段に過ぎないのだ。アラタがいつか旭の弁当を断ったのも、苦渋の決断だったのだろう。
 玄関でアラタのネクタイを直してやって、「いってきます」という彼に、小さく「いってらっしゃい」と返す。彼の挨拶に応えてやるのは、今でもまだ少し気恥ずかしかった。
 彼が出かけて一人になると、旭は前よりもよく絵を描くようになった。今は秋。かつて学校の帰り道に見たドングリのたくさん落ちる場所を思い出しながら、秋の風景を描き出す。
 旭の絵の技術は昔から何ら衰えることはないが、その気持ちには大きな違いがあった。かつては、絵の中に閉じ込めた未来の自分の後ろ姿に、見通しの見えない将来への不安を暗示していた。しかし今旭が絵を描く時に抱いているのは、この研究所を出られた後の未来に対する期待感だ。
 これまでは、もう二度とここから出られないだろうと思っていた。親も友人もなく、ここで虐げられて孤独に死んでいく可能性が一番高いだろうと。それが今は、アラタがいつかここから自分を連れ出してくれるのだと信じて疑わなくなっている。
 現実をそのまま写真のように描いているだけのつもりだったのに、気持ちが変わる前と後では、自分でも分かるほど絵の雰囲気が変わったと思う。
『写真と絵を比べることなんてできないよ。ここには確かに旭の視点と気持ちが入ってる』
 あの時晶が言ってくれた言葉は本当だった。

 昼過ぎにドアが開く音がすれば、旭は絵を描くのを止め、「おかえり」を言うために玄関へと向かう。
 しかし今日は清々しい気持ちでそれを言うことができなかった。待ちわびた同居人の後ろに、邪魔者の姿があったからだ。
「旭、今日は検査に行こう。ビタミン剤の点滴だって」
 アラタを押し退けるように玄関から上がってきた庸太郎は、旭の腰に片手をまわすと、反対の手で旭の腹部をさらりと撫でた。
「触るな」
 肘鉄を食らわせて彼の腕から逃れる。
「早く俺たちの子供ができないかなって思っただけなのに」
「もうお前じゃ無理無理! 早く種馬交換しろっての」
 こうやって邪険に扱っても、庸太郎は決して諦めてはくれなかった。他の研究員と同じように、旭とアラタが両想いなのを知らないのであれば仕方ない。しかし旭はなぜかそうは思えなかった。
 庸太郎は俺とアラタの関係が本物だって気付いてるんじゃないか?
 そう思う理由は漠然としている。ただ少し前から、庸太郎はどこか諦観したような空気を醸し出すようになった気がするのだ。幼馴染を他の男に取られたという、悲しみのようなものをヒシヒシと感じていた。
 しかしそんな庸太郎の嫉妬心とは別に、アラタもまた庸太郎が来た日は少し様子がおかしくなった。
 ソファに並んで座っていても、密着するどころか旭の膝の上にゴロリと頭を乗せてウトウトしたり、カメラの前でわざとらしく旭に抱き付いて離れなかったり、何とも分かりやすく甘えるようになる。
 旭が寝ると言えばピッタリくっついて来て、ベッドの中でいつも通り旭をぎゅうっと抱き締めてくる。しかし大抵こういう日はそこで留まらない。
 アラタは旭の首筋に鼻をすり寄せてから、そろりそろりとぎこちなく旭の身体に手を這わせた。
「何?」
 そう聞いておきながらも、本当は彼がしたいことは何となく分かっている。彼は一生懸命布団の中で旭のシャツをめくり上げようと試み、控え目に下半身を押し付けてくる。童貞の下手くそなセックスの誘い方に、旭の方がムズムズするほど恥ずかしくなった。
「だから、そういうのはまだ駄目だって」
 旭の拒絶に対し、アラタはいつも「どうして?」と言わんばかりに拗ねる。
「あいつとは毎月してるのに不平等だ」
 ボソッと呟かれたその言葉に、旭は彼の頭を優しく撫でた。
「お前の方が好きだって言ってるだろ。でも、だからこそまだ駄目なんだ。こんな恥ずかしいこと言わせんなよ」
 旭から明確に「好き」という言葉をかけられると、彼は現金にも大人しくなる。勝ち誇った目でカメラを見るアラタに、旭はやれやれと溜息をつきそうになった。
 なんで分かってくれないんだ? 本当に好きだからこそ、お前との初めてのセックスを下衆な連中への見世物になんかしたくないんだ。
 そんな警戒心のせいで、旭は結局彼とキスすらもできていなかった。


***

「……えっ?」
 乾いたリビングの室内に、旭の驚きの声はやけに大きく響いた。
「だから、今月末の発情期で一旦一条さんの方の実験は終了だと言っている。日本語くらい一度で理解しろ」
 主任の林がわざわざ訪れてそう言い出したのは、十一月直前のことだった。
「まだ何も分かっていないと思いますが」
 旭の隣に座るアラタが問いかけると、林は丁寧に頷いた。
「そうですが、白峰製薬の経営的な問題でこちらも予算を減らされているのです。αについては性急な実験はせず、もう少しこちらで基礎研究を進めようということになりましたので」
 最早決定事項のように話が進められ、旭は慌てて口を挟んだ。
「いや、でも、もう少しで何か分かるかもしれないのに」
「受容器官、神経経路上の器官、そして脳に対してこれまでいくつかの変化を与えてきたが、どこも可能性すら見えない。このまま続けても手応えがなさそうだというのが現状の認識だ」
 アラタは黒野製薬というところの薬を使って、ここの実験で投与される物質の効果を打ち消していると聞いていた。しかしその完璧な防御が裏目に出たようだ。
 俯く旭に向かって、林はフンと鼻を鳴らした。
「まあ君は寂しくなるのかもしれないが、いつまでも彼を恋人ごっこで拘束することはできない。無料のホストクラブでもあるまいしな」
 どんなに悔しくても、ここは言い返してはならない。旭が黙ったのを見て嗜虐心が満たされたのか、林は次にアラタへと向き直った。
「それと一条さん、予算の都合上あそこの共同研究室も締めることになりましたので、お仕事の方は最後半月だけお休みにしてください」
「すみません、それはどうしても困ります」
 アラタの声に焦りが混ざる。
「メールならば所内で使えるパソコンを探しますので、手短に済ませていただくことはできそうですが」
「そう、ですか」
 アラタは納得していないという空気だったが、変に要求する前に引き下がった。
「少しずつでいいので荷造りをお願いしますよ。念のため、ここから外に持ち出す物はチェックをさせていただきますが」
 林は無慈悲にそう言い残し、嵐のように去っていった。旭とアラタの共同生活は、ついにあと半月ということになる。

 お互いに沈んだ空気のまま、夜ベッドの上でスケッチブックを介して言葉を交わす。
『お前が外に出たら、カメラの映像を公安に出して、捜査が入れば俺も後から外に出られるんだよな?』
 何も悲しむ必要はないのだと言い聞かせて尋ねると、アラタは新しい青の色鉛筆で文字を書き足した。
『外に出す時の検査でバレなければ。本当は、全ての証拠が揃ったら外から踏み込んでもらう予定だった』
『持ち込みの時にも検査通過したんだろ?』
『もし万が一見つかったら、もう君を助け出すために戻ることができなくなる。外と連絡を取って対応を相談したいが、もう恋人役を呼べる機会もなさそうだ』
『心配性』
 旭はそこでアラタの青い鉛筆を奪うと、二人の会話の上からグシャグシャッと色を付ける。青い空と海、もうすぐ彼と外の景色を見られるのだと信じ、不安を塗り潰した。


***

 その数日後、アラタは最後の実験に向けて検査へと連れ出された。一人部屋に取り残された旭の元に来客があったのは、午後の三時過ぎだった。
「あれ、崎原先生?」
 リビングのソファにだらしなく寝転がっていた旭は、崎原の姿に姿勢を正した。よく見ると、彼の後ろにはまた林が付き添っている。
「今月の診察はこの部屋で行ってもらうことにした」
「色々経営的な問題があるみたいでね、僕も地上と地下で二部屋使えているのは贅沢なんだそうだ」
 確かに彼の診察室は殺風景で、あまり使われている様子がなかった。予算不足で真っ先に切られそうな無駄な部分だ。しかしそれなら旭を地上の診察室に連れて行けばいいのに、研究所の外部の目には徹底的に旭を見せない方針らしい。
「この部屋、カメラ回ってんだろ。こんなところで崎原先生と話なんか――
「一時的に止める。それでいいだろう」
 旭がいるのにこの部屋のカメラを止めるというのは、今までにない特殊な事態だ。これ以上何を言っても無駄だと判断し、旭は舌打ちで承諾を示した。
 林が部屋を出て行ってカメラが切れたことを放送が告げると、崎原はソファにいる旭の正面、テーブルを挟んで向かい側の床に腰を下ろした。座布団でも出してやりたいのだが、あいにくこの部屋にそんなものはない。
「どうやら秋の決算で相当苦しい状況になったみたいで、なんだかバタバタしてるよ。追い立てるように荷造りさせられて、このカルテを見つけるのも一苦労……ああ、ペンを忘れた」
 崎原は持っていた黒い下敷きボードを見てあたふたしている。旭はテーブル上のペン立てを彼の方に寄せてやった。
「どうぞ」
 礼を言いながら一つペンを選んだ崎原は、サラサラと何かを書きながらさっそく質問してきた。
「篠原君の方はどう? このバタバタの煽りを受けて」
 どうせ知っているくせに、と思いつつ、旭は自らの口で説明する。
「先生も聞いてると思うけど、あいつ……アラタの実験も撤収だってさ。それ以外は特に不景気な話は聞いてないけど」
「やはり白峰製薬は君を使った実験で一発逆転を狙っているんだろうねえ」
「はっ、たとえこいつらが画期的な薬を開発できたとして、Ωを忌み嫌ってる連中が作った薬をΩが何も知らずに使うなんて、この世界は心底腐り切ってるな」
 旭は乱暴に足を組んだ。
「まあそれは置いておくとして、一条さんがいなくなることで君の心の健康に害があるかどうか。それを僕は診にきたんだよ」
 そんなことだろうとは思っていたが、いざとなると何と言えばいいか躊躇った。たとえ崎原相手であっても、この軟禁は全て証拠として確保されている、アラタが出て行ってすぐにこの研究所には捜査の手が伸びるだろう、などとは言えない。
「えと、それは、まあ……前みたいに治療室行きにはならないだろうけど」
 視線を泳がせる旭に、崎原は目を丸くした。
「へえ。むしろこの何ヶ月か彼と過ごす時間が長かったせいで、余計離れづらくなってるのかと心配してたのに」
「いや、なんていうか、もうそろそろ飽きてきたかなー、なんて」
 アラタがこの嘘を聞いて拗ねる姿を想像したら、ついつい笑顔になってしまう。そんな旭を、崎原はじいっと見つめた。
「僕はむしろ、君たちが本気で恋人同士になったものとばかり思っていたよ」
 旭の心臓がドキリと脈打つ。この人はやはり人の心を読むのがうまい。
 そのあとは何とか崎原を誤魔化すことに精一杯で、どんな会話をしたかもあまり覚えていなかった。

 崎原が出て行ってすぐ、入れ替わるようにしてアラタが戻ってくる。
「外であの崎原という医師とすれ違った」
「うん、地下の診察室がなくなったから、今日はこの部屋で話した」
 そんな話をしながらリビングへ戻ると、アラタは先ほど旭と崎原が会話していた辺りをジッと睨んだ。
「アラタ? どうかした?」
「いや」
 彼は否定したが、眉間には深い皺が刻まれている。
「うん、機嫌悪いな」
 旭がそう結論付けても、アラタは何も言わずに寝室へと着替えに行った。しかし旭には彼が機嫌を損ねる理由が全く思い当たらない。まさか崎原との嘘の会話を聞かれていたわけでもあるまい。どうせまた些細な嫉妬だろうと、あまり気にしないことにした。


***

 どんなに足掻いても時間だけは進んでいく。旭の発情期――最後の実験が始まるまであと三日に迫った夕方六時。
 今夜の夕飯は何にしようかと冷蔵庫の中を覗いていると、廊下からアラタの呼ぶ声が聞こえてきた。
「旭、風呂の掃除をしてるんだがちょっと来てほしい」
「何だ? ゴキブリでもいた? まさかまた洗剤使いすぎて泡まみれになってたりしないよな?」
 その時の旭には、この先何があるのか全く分かっていなかった。
 洗面所に入ると、奥のバスルームからもくもくと湯気が流れてきている。どうせまた不器用なことをして助けを呼んでいるのかと思ったが、風呂場の奥の壁を見て旭は絶句した。
 穴だ。
 今まで鏡が取り付けられていた裏の壁に大きな穴が空いている。
「旭の想像通り、洗剤の量を間違えて大変なことになった。手伝ってほしい」
 アラタはでまかせを言いながら人差し指を唇に当て、無言で「静かに」と旭の言葉を堰き止めた。天井の隅に設えられた監視カメラは、いつも通り曇っている。
 最初に出会った時から彼の変人っぷりには驚かされてきたが、これは過去最高のサプライズだ。
 アラタはシャワーを出しっ放しにしたまま穴の先へと大きな図体を押し込み、向こうから旭に手を伸ばした。導かれるままに穴の外へ出てみると、そこは壁裏の狭い空間になっていた。左手は少し行った場所で柱がせり出しているのか、通り抜けるのは難しそうだが、右手は人がギリギリ二人並んで通れるくらいの幅の空間が壁沿いに続いている。
「何だよ、この穴」
「開けた」
「いつ? どうやって?」
 問いかける旭の手を掴み、アラタは右手の狭い通路を進んでいく。
「万が一に備えて、旭が体調を崩してカメラが止まっていた時に作業した。まさかその万が一が来るとは思っていなかったが」
「作業したってどうやって? スプーンか?」
「それは脱獄映画の話だろう。あの部屋には旭の使った日曜大工の工具がある。ハンマー、たがね、その他多数。スプーンよりずっと簡単だ」
 確かに、棚を自作するための工具セットを購入した記憶がある。壊すにはそれなりの音が出るだろうが、カメラが止まっていればさほど気にすることもなかっただろう。
「でもカメラが止まってたのって何ヶ月も前だよな。この壁裏って誰も入って来ないのか?」
「ここの図面は来る前に頭に入れておいた。少し進めばメンテナンス用の通路になるはずだが、普通は誰も来ない」
 実際この幅の狭さは、正式な通路にしてはありえない。また、今進んでいるのと反対方向は通り抜けもできなさそうだったので、実質ここは行き止まりということになる。
 しかしやはり解せないことが多く、旭はピタリと立ち止まり、前を歩くアラタを引き止めた。
「でも何でこんな強引な脱獄じみたことする必要があるんだ? お前が外に出たら、俺も後から出られるはずだろ? カメラが持ち出し検査に引っかかるのがそんなに心配か?」
 アラタは前を向いたまま、何かを躊躇っている。
「……カメラはない」
「え? あれって嘘だったのか?」
「違う。この前まではあった。旭、リビングのテーブルに立ててあったペンはどうした?」
 どうして急にそんな話になるのか分からなかったが、旭は頭の中の記憶映像を検索した。
「え、ああ、この前崎原先生がペンを忘れたって言ってたから貸して……あ、間違えて持って帰ってるな。出て行く時に手に持ってる」
「あれがカメラだった」
 繋がれた手がぎゅっと悔しそうに握られる。
「嘘、だろ? じゃあ今って――
「証拠がなくなった以上、振り出しもいいところだ。俺だけ出られても、旭は閉じ込められたまま、外に出してやる手立てがない」
 まさかあの無造作に置かれていたペンが重要な物だとは知らなかった。しかし崎原にあれを貸してしまった罪悪感は拭えない。
 アラタに引っ張られて再び歩き出し、少し広めのメンテナンス用通路に出た。足元にはぽつぽつと明かりが灯っている。
「どこに行くんだ?」
「電気を落とす」
 アラタは目的地に向かって迷うことなく早足で進んで行く。
「上は病院だぞ。なんだっけ? 白峰十字病院? 医療機械で生かされてる人を殺す気か?」
「上の病院と下の研究所は電源系統が別だ。たとえ同じ系統だったとしても、病院なら緊急の発電設備が作動するだろう」
 あるドアの前で立ち止まったアラタは、中を確認して素早く入り込む。中は四角い機械がたくさん並んでいて、旭にはさっぱり分からない。
 入り口で待っていると、アラタはその中のいくつかを弄って戻ってきた。
「すぐに誰かここに来る」
 アラタに連れられて通路に戻ると、足元に点灯していた灯りが全て消えていた。
「どこに逃げるんだ?」
「戻る」
「はあ? 戻ってどうすんだよ」
 旭の問いに答えはない。ただ彼は半分走るようにして今来た道を引き返した。
 通路の正面からどこかのドアがバタンと閉まる音がして、暗闇の中、誰かがこちらに向かっている気配がした。アラタは先ほど出てきた狭い隙間の横道に戻ると、浴室の壁穴付近まで進んだ。
 しかし室内に戻るでもなく、ザーザーとシャワーの音が聞こえる場所を少し通り過ぎていく。
 その先はついさっき確認した通り、基礎部分となる柱がせり出しているせいで、普通に人が通れる幅ではない。身体を横にすれば、背が低くて細身の人間なら通れるかもしれないが。
 旭が自分の身体なら通れそうだと目測したのと、アラタが正面を指差したのはほぼ同時だった。
「ここを通る。向こうにも別のメンテナンス用通路がある。そこで右へ行くと突き当たりにドアがある。その先は外――建物の脇に掘られたドライエリアだ。どこかから上へ上がれる。皆電力室に注目が集まっている今なら、向こうの通路は誰も通らないだろう」
 背後からは電力室に向かう何人かの足音が聞こえてくる。こちらの行き止まりには誰も来ないだろうが、彼と繋がった掌はじっとりと汗ばんだ。
「お前の図体でここ通れんのか?」
 うまく通れずにもたもたしていたら、せっかく囮にした電力室も復帰してしまうかもしれない。不安を示す旭に、アラタは静かに首を振った。
「え……?」
「俺は通れない。旭だけ通る」
 彼はそこで強引に後ろにいた旭の身体を前へと押し出す。狭いスペースに押し込まれそうになって、旭は慌てて抵抗した。
「お前はどうすんだよ」
「部屋に戻って穴をまた隠す。誰かが来たら、旭は停電で開錠されたドアから逃げたと伝える。俺はそのまま実験終了で解放される」
 アラタは流れるようにそう言うが、旭はゆっくりと首を振った。
「そんなの絶対怪しいだろ。すんなり行くとは思えない。俺の脱走に荷担したってバレたら、お前、どうなると思って――
「これ以外に方法がない」
 早く行けと促す力を、旭は懸命に押し返した。
「崎原先生だろ? 言えばペンくらいすぐ返してもらえるって」
「俺の実験終了までに彼と会う機会はもうない。それにたかがペン一本の返却を求めれば、何かあるのかと厳しく検査されるだろうな。確実にカメラの存在がバレる。彼が真実を話してもいい相手かどうか、まだ分からない」
「だからって、お前を置いてくなんて無理だ。俺もうすぐ発情期だし、外を一人で歩くなんてどうなるか……」
 とにかく彼を置いて行きたくなくて、適当な理由を付けてごねる。
「発情期の心配が無ければいいのか?」
 アラタは無表情にそう言うと、旭の身体を抱き寄せて首筋に唇を寄せる。
 まさか――
 そう予感した次の瞬間、ガリッという痛みがうなじに走った。
「は……何、で」
 これは番の契約だ。何の前触れもなく、躊躇いもなかったが、大きな意味を持つ行為。
「これで旭が発情しても俺以外誰も反応しない」
 しれっと言い放つアラタに、旭は大慌てで食ってかかった。
「そうじゃなくて、お前分かってるのか? 俺と番になんかなったって――
「旭は嫌だったのか? 俺はてっきり旭も同じ気持ちだとばかり思っていた」
「俺じゃなくて、お前が! 俺、結局妊娠しない理由分かってないままだし、俺と正式に番になりたい奴なんて――
 旭は唇を噛んで俯く。これまで何人ものαを相手にしてきたが、誰一人として旭のうなじになど興味を示さなかった。あの庸太郎でさえ。
「子供ができないから旭を手放す? そんな選択肢はない。早く行け。部屋に誰かきて穴が見られたら計画はおしまいだ」
 つまらないことを言うなとばかりに、アラタは旭の身体を押した。
「絶対、外で会えるんだよな?」
 旭は首筋の噛み跡にそっと手を這わせる。
「番にしておいて一生俺を一人にするなんて、そんな酷いことしないよな?」
 それは想像するだけで恐ろしく、思わず声が震えた。アラタは確かに頷いてから「早く」と旭を催促し、旭が狭い隙間の向こう側に出たのを確認してから、水音のする穴の向こうへ消えてしまった。
 もし今のが今生の別れだったらどうしよう。
 暗い足元から這い上がるそんな不安を蹴り飛ばすように、旭は言われた通り先へと進んだ。
 少し行くと、先ほど反対側で見たのと同じような通路に出る。まだ電気が復旧していないため、足元の灯りもなく見通しが悪い。どうやらこちらは電力ではなくガスなどの設備があるようだが、今こちらに用がある者はいない。
 アラタの言った通り、壁に触れながら右方向へ進むと、行き止まりにはドアがあった。
 開けたら誰かいたりして。そしたら全部おしまいだ。
 ぶるりと震えてから、思い切ってドアを開く。ギギギーと鳴った音がやけに大きく聞こえて、心臓がバクバク鳴った。
 だがそんな心配は全て杞憂だった。開けた瞬間に、懐かしい初冬の冷たい空気が身体を包む。そこは地下階の外壁を囲むように掘られた溝で、上を見上げるともう夜空が見えた。
 すぐ上の地上は芝生になっているのか、七年ぶりに緑の匂いが鼻を擽る。ジーンズに薄手のVネックセーターという格好ではさすがに寒いが、今はそんなことを気にしている場合ではない。外に出られた感傷も、今は全部後回しだ。
 どこかから上に上がれるはずだと言われた通り、建物に沿って少し歩いて行くと、壁に梯子のような金具が埋め込まれた場所を見つけた。
 ここを登りきったらどうすればいい? そういえばあいつ、外に出てからのことは全然説明してくれなかったな。とにかくこの研究所の敷地を出よう。
 梯子を登る旭の頭は、もう地上に出た後のことしか考えていなかった。だから、周囲に対する警戒の視野が狭まっていた。
 やっと地上に手が届いたと思ったその時、旭の頭上を黒い人影が覆う。
「旭」
 聞いたことのある声にハッと顔を上げると、屈みこんで見下ろす人物と目が合った。
 庸太郎。
 ああ、全部、おしまいだ。
 冷たい外気の中、旭の思考までもが完全に凍りついた。

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