発情期が落ち着いたすぐ翌日、旭は下の階にある事務所へ向かい、応接スペースのソファで晴海と向かい合っていた。
電話で発情期中も話は聞いていたが、アラタの処遇は晴海に伝わってこず、庸太郎も年明けまでインターンは中断だと告げられてしまったらしい。
「公安の人はなんて?」
旭の声は自分でも分かるほど疲れ切っていた。
「まだ捜査は終わってないって」
「捜査って――」
「彼らの目的は過激派団体の証拠を掴むこと。一条君はまだそのスパイ任務中とみなされてる」
テーブルの上に置かれたグラスの中、氷が溶けてカランと音を立てた。
旭があそこを出てからもう一週間、さすがにそれだけ長くアラタが姿を見せないとなると、彼は何らかの理由であの研究所に足止めされているということだ。旭がいなくなった以上、実験のための拘束ではない。旭を逃した疑いをかけられていると考えた方が現実的だろう。それは確実に友好的な抑留ではない。
襲い来る最悪の想像を振り払い、旭はきゅっと唇を噛んだ。
「この前晴海さんが話してくれたことが本当なら、確かに捕まえないとやばい連中なんだと思う。でも、アラタが……民間の協力者が無事かどうかも分からないまま進めるってやり方は、どうなんだ?」
アラタと協力している公安と聞いて、旭はてっきり正義の味方のような人を想像していた。しかし実際は、協力者のアラタすらも駒としかみていない、冷酷なエージェントのような対応だ。
「俺が軟禁されてたことについては、俺が警察にでも被害届を出して、あそこを捜索させれば例の軟禁部屋が見つかる。とりあえずそれで逮捕してさ、反Ωとかそう言うのは、取り調べか何かのついでに問い質すとか――」
「仮にあなたの監禁の罪で別件逮捕できたところで、反Ω団体としての証拠が何も出なければそちらの件は逃げられてしまう。そしてこれまで一条君から受けている情報では、彼らは形に残る証拠を残していない。下手に一部の件で追い詰めて刺激するのはよくない、というのが彼らの判断」
旭は彼から何も報告を聞いていないが、簡単に見つかる証拠がなさそうなのは分かっていた。彼が研究員に取り入って食事に行ったり、庸太郎に協力を要請したりしていたところから察するに、職員への教育現場そのものをカメラに収めるつもりだったのだろう。
旭は膝の上で拳を握り締めた。
「俺、国立のABO型研究センターからあそこの研究所に移されたんだ。もしもあの研究所の悪事が暴かれたら、そこに俺を送った国立の研究センターまで責められることになるよな。国の機関の不祥事……公安の人は本当にちゃんと動くのか?」
「事実だけ確認したら揉み消すかもしれないってこと?」
晴海の疑問に旭は大きく頷いた。
「それで、真実を知ってる協力者――アラタは用無しだから、あの研究所でどうなってようが気にしない、とか」
旭の最悪の想像を晴海は否定してくれなかった。嫌な予感が膨れ上がり、旭は無理に笑顔を作る。
「俺、軟禁中暇だったから、ドラマとか見過ぎたせいで変なこと考えるんだよな」
晴海との会話ではそれ以上建設的な案は出ず、旭はトボトボと上階のアラタの部屋へ戻った。
あいつは俺のことを助けにあの研究所まで来てくれたのに、俺は何もできないのか? 助けられるばかりなんて、そんなお姫様みたいな役割はゴメンだ。男だからとか、Ωだからとか、そういうんじゃなくて、人間として大事な人の一人も助けられないなんて、絶対に嫌だ。
旭はアラタの使っていたデスクを撫で、そこに置かれていた借り物の携帯電話を手に取った。ネットには繋がるようになっており、伯父からのメールが入っている。内容は研究所での面会と同じ、「何も問題はないか」というものだった。
旭自身に問題はない。だが、アラタのことだけが不安だった。
本音を言うと今すぐにでもあの研究所に戻って乗り込みたい。しかし旭がまたあそこに捕まってしまったが最後、アラタが旭のためにしてくれたこと全てを無駄にすることになる。ひとりよがりな気持ちだけで突っ走っても何もならない。それを分かっているからこそ、どうしようもない焦燥感ばかりが胸の中に溜まっていった。
あの研究所に直接接触に行かず、しかしアラタのためになるような遠隔の援護方法はないものか。少なくとも、旭の脱走に関して彼が協力関係にあったことだけは真っ先に否定しなければならない。旭は手の中にある携帯電話をじっと見つめた。
ネット……今なら個人で情報発信ができる。告発のブログとか作るか? いや、そんなもの世間やあの研究所の誰かに見つけてもらえるとは思えない。
無力感に苛まれながら、アラタが使っていたであろうデスクチェアに腰を下ろす。そこから部屋の中を見渡し、ある一点に目を留めた。
テレビ。マスメディア。あの事件で旭を苦しめたものの一つ。
あの狭い部屋の中、暇潰しにニュース以外の番組を見ていた時も本当はずっと引っかかっていた。マスメディアが大嫌いなはずなのに、テレビを見ているという矛盾に。
しかし薬にしても同じことだ。白峰製薬の新薬開発の現場にはΩ差別がはびこっているのに、世間のΩは彼らの薬を使わざるを得ない。
この社会は理不尽だ。あの監禁部屋をディストピアだと馬鹿にできるほど、外の世界は美しくもない。どこもかしこも、うまく回っているように見えて少しずつ歪んでいる。自由と正義だけが物を言う理想郷などありはしないのだ。
俺はこの狂った社会を肯定するわけでも、許すわけでもない。ただ、「間違ってる」っていつまでも反抗するだけの子供でもいられない。ただ、あるがままを利用させてもらうだけだ。
旭は携帯でとあるページに検索で辿り着き、そこにあった番号に電話をかけた。
***
十二月、旭が研究所を脱走してからもうすぐ一か月になろうとしていた。世間は年末に向けて慌ただしくなり、街中はクリスマス一色に浮足立つ。
あれから不審な人物が旭を連れ戻しにうろつくこともなく、旭は自分のお金で徐々に普通に近い生活ができるようになっていた。
ゴミを自分で外に捨てに行くこと。食材や日用品を全て自分の手でレジで会計して購入すること。洗濯物を部屋の外に干すこと。そんな些細なことも全て新鮮な日々だ。
その日も夕飯のためのコンビニ弁当を買った帰りがけに、途中の階にある晴海の事務所に顔を出した。借りていた携帯を解約して、自分で契約し直したと伝えるためだ。
ドアを開けた瞬間、応接スペースにあったテレビを見ていた晴海が振り向く。彼女の肩越しに見えるテレビに映っているのは、まさに旭自身だった。
「篠原君、これは」
彼女は放送中の番組と旭の顔を交互に見た。
「ああ、今日放送だったっけ。俺、取材受けたんだ」
十九時のゴールデンタイムに始まったであろうその番組は、新たなΩ支援法の施行に伴った特番だ。
一か月ほど前、旭はテレビ局に電話をかけてこう言った。
「七年前に起きたΩ大量毒殺事件についてお話したいことがあるのですが」
始めは相手にしようとしなかった彼らだが、あの事件で亡くなった画家の篠原の息子だと言うと、彼らはすぐに餌に食いついた。事件や事故の遺族というのは、彼らにとって視聴率を稼ぐいい道具なのだろう。しかも、子供はいないとされていたΩ同士の画家、篠原に息子がいたというのもスクープだ。
テレビの映像はちょうど小さな個室でインタビューを受ける旭が映し出されている。クオーターの整った顔立ちや、すらりとした体型は、一般人よりも芸能人に近い。
画面右上に出ているテロップには『霧の土曜日事件の遺族 Ωの生活実態を語る』などと仰々しく掲げられている。霧の土曜日というのは、メディアがあの事件に勝手に付けた俗称だ。
「旭さんのように新薬開発のため人体実験に参加しているΩはどのくらいいるんでしょう?」
レポーターの質問に、テレビの中で旭が軽く首を振る。
「分かりません。Ω用の薬を開発している製薬会社はいくつもありますから」
「ちなみに旭さんはどこの製薬会社に協力を?」
「それは言えないです。っていうか、もしそれがここのスポンサーだったら放送してもらえないでしょう」
嫌味を押し隠し、旭はテレビの中のアイドルのように笑っている。
「とにかく、旭さんが今ここにいるということは、実験から解放されたわけですよね」
「解放というか、逃げてきました。ちょうど停電になった瞬間があって、ドアの電子ロックが開錠されたんです。その隙に」
「旭さん以外のΩはそこにはいなかったんですか?」
「Ωはいませんでしたが、αはいました」
「そのαは今どこに?」
「さあ? 真っ暗な中で必死だったので、その人とは一緒に出られませんでした。もしかしたら今も拘束されているかもしれませんね」
インタビュアーに向かって、旭はしれっとそう答える。我ながら役者だなと旭は自画自賛した。
「それは警察などに情報提供した方がいいのでは?」
「あのαの人は自分から研究に協力すると言って入ってきて、研究員の人とも食事に行ったり随分仲良くしていたみたいなので、同意の上の関係なら警察もどうこう言えないんじゃないですか? 現に警察やなんかがあの研究所に目を付けてるなんて話、全く聞いたことないですから」
「あなたと違ってαの方は優遇されていたということですね」
インタビュアーの声が神妙になる。ここでΩ差別を実感しろという合図のような手慣れた誘導だ。
「はい。あの人は研究所からの命令で俺に手酷くしたり、急に優しくしたり……。俺を振り回して、他の研究員と一緒に俺のことを笑ってたんだと思います。それで、もう愛想が尽きてしまって……一人で逃げました」
旭もインタビュアーに合わせて暗い顔を作る。
「もちろん製薬会社の人が皆悪い人という訳ではないです。優しくしてくれた人もいましたし……。特に精神科の先生、まだ三十歳にもなってない若い先生でしたけど、ここからお礼を言いたくて今日は取材を受けました」
その後画面は旭が部屋を去っていくシーンを流し、男性の声による「旭さんは今、製薬会社から身を隠しながら社会復帰を目指しています」というナレーションが流れた。
画面がスタジオのタレントたちを映し出すと、晴海は旭を見て説明を促した。
「俺が今外からできることって言ったら、あいつと俺は無関係だって大声で言ってやることくらいだから」
本当は電話する先を警察にした方が良かったのかもしれない。しかし調べたところ、アラタに潜入を依頼している公安と警察は別物らしく、余計な揉め事を避けつつ即効性のありそうな方法がマスコミしか思い浮かばなかったのだ。
「公安の人に怒られるかな? でもさ、アラタのこと見殺しにしてるような奴の言うことなんて、俺が聞いてやる義理もないだろ」
旭はわざと悪ぶって肩を竦める。なんだかんだと言いつつ、アラタがもし今も公安からの任務を遂行しようとしているなら、その邪魔になるようなことは言わないようにしたつもりだ。
「あなたは、これで良かったの? これから他のテレビ局やメディアがあなたに興味を持つかもしれないのに」
晴海は責めるでもなく、旭を心配そうに見つめた。
「また父さんたちが死んだ時みたいに、カメラから隠れる生活になるかもってこと? 白峰製薬から隠れて生活してる今の状況なら、むしろ俺の周りにマスコミがいた方がボディーガードになるだろ」
旭は喉の奥で笑う。さすがに衆人環視の中で旭を連れて行こうとする者はいないだろう。
「それだけじゃなくて、あの篠原さんに子供がいたこととか、隠してたんでしょう?」
「そんなの、親のせいで子供の俺まで注目集めないようにってだけのことだし……」
「一条君が言ってた。あなたは自分の絵を出した時、親の名前を出さなかったって。画商に聞いて初めて知ったって」
旭は手の中のコンビニ袋を握り直した。
「親の七光りだと思われるのが嫌だったから。まあ、バラしたからにはもう、俺の絵が親と関係なく評価されることはなくなったのかもな」
それについて何も躊躇いがなかったと言えば嘘になる。ソファに座ったまま固まる晴海に、旭はテレビ画面の中で見せたのと同じ笑顔を作った。
「でも俺、アラタが帰ってこないならもう絵を描くつもりないから。あいつに見てもらえないなら、描く気にならない」
旭は当初伝えるつもりだった携帯電話の契約の件と、もうすぐまた発情期が来ることを告げて事務所を出た。
俺、馬鹿なことしたのかな。俺がもっと頭が良ければ、こんな方法以外の何かを思いついたのかもしれない。
上昇するエレベーターの中で、旭は晴海の顔を思い出しながらそんなことを考える。取材を受けてから半月以上経っているが、今更取り返しのつかないことをしたのだと突きつけられたような気がした。
しかし後悔はない。身の回りの平穏も、画家としての正統な評価も、何もいらない。彼に助けられた恩を今こそ返す時だ。アラタを取り戻すことだけが、今の旭にとって大事なことだった。
エレベーターが停止して身体がふわりと浮く。自動的に電気の灯った廊下を、旭はしっかりとした足取りで進んだ。