旭の両親である晶と奏多は芸術家だった。街のはずれにある木立の中にぽつんと建てられた木の家は、外界の喧騒から静謐な空気で守られているようだった。彼らは買い物とたまの展示会以外ほとんど家から出ることはなく、子育てと芸術活動に勤しんだ。
一階の南に面したアトリエにキャンバスを置いて、その前に二人並んで座って作業をする。なぜなら、彼らはいつも二人で一枚の絵を描くからだ。
彼らの性別について、小学生の頃の旭はあまり真剣に考えたことがなかった。男と女という組み合わせの方が一般的だということは知っていたし、自分の興味の対象はやはり女の子だったが、両親のこともあり、男同士や女同士という関係もあり得るのだろう、というような認識はあった。法律が同性同士の婚姻を認めていることも知っていた。
だが小六の保健の授業で新しく覚えた「赤ちゃんができる仕組み」と「α、β、Ω」という概念によって、旭が両親を見る目は少しだけ変わった。
彼らは驚くべきことに、二人ともΩだった。Ω男性の精子は繁殖能力が弱いため、孕む側にしかならないとされていたのに、彼らはΩ同士で子供を授かったという。旭は自分がどちらの胎から生まれたのか知らされたことはなかったが、とにかくどちらかの精子はΩなのに頑張ったということだ。
もしかしたら俺の精子でも子供が作れるかもしれない。
それは、Ωという性にまだ納得できていない旭にとって、暗闇の中に光る一つの星のような、小さな希望でもあった。
振り返ってみると、旭はたまに奏多側の伯父の家へと預けられることがあった。それは大体月に一度、数日間のことだ。Ωには一月ごとに何日間か発情期がやってくる――その情報と併せて考えると、旭が伯父に預けられている間、家でどんなことが行われているのか想像するのは容易かった。彼らはたまに何か薬を飲んでいたから、きっと発情の周期を合わせようとしていたのだろう。
旭がΩであると診断されてから半年後、十三歳の誕生日を迎えた中一の秋、伯父の家の一室でゴロゴロと転がりながら、旭は家で行われているであろう情事について考えた。
純粋な日本人ではなく、半分海外の血が入っている晶は、髪も肌も瞳も色素が薄く、旭のこの薄茶色の髪や通った鼻筋は彼から受け継いでいるはずだ。一方奏多の方は純和風の清楚な人で、大きな瞳や柔らかな口元が旭へと引き継がれている。
どちらが父で、どちらが母なのか、これまでほとんど考えたこともなかった。しかし普段の生活をよくよく思い出してみると、晶の方がいつも奏多を支えて手助けしているような気がした。だからきっと、晶が男役で奏多が女役なのだろうとステレオタイプに考えた。
いつか自分にも訪れるであろう発情期が旭には怖かった。しかし両親も毎月やっていることだと思えば少しだけ気が楽になる。人形のような晶と奏多が互いを求め合う姿を想像すると、それは恐ろしいものではなく、とても綺麗なものに思えた。
息子である旭がそう思ってしまうほど、彼らはとにかく美しかった。外見だけでなく、彼らの描き出す色鮮やかな世界は多くの人を魅了した。彼らはいつも自分たちの絵に『新世界』という題を付けたが、区別がつかないという理由で、画商はI、II、IIIと数字を振っていたことを覚えている。そんな彼らの発表作は、全て信じられない桁の額で売れていくのだそうだ。旭は知らなかったが、彼らはΩの二人組として話題になっており、Ωの社会貢献という点からも大いに評価されていた。
旭が十二歳でΩという性を知ってから、旭は両親の性と社会的な役割について自覚し、彼らの生き方を見て色々なことを考えた。しかしそれができたのは十五歳の春までだった。
彼らはΩのための講演会で友人が登壇するのだといって出かけていき、中学の卒業式を終えて春休みだった旭は家で留守番をしていた。鈴を転がすような声で「ただいま」と彼らが帰って来て、元気に「おかえり」と言うのをずっと待っていたが、彼らが帰ってくることは二度となかった。
***
面倒な検査を全て済ませた午後、旭は再び閉じ込められたリビングのソファでだらりと横になっていた。弁護士というアラタの職業のせいでいらないことを思い出してしまい、全身がくたくたに疲れていたからだ。
少し昼寝でもしようかと思った矢先、玄関のドアが開く音がした。ぼーっとリビングの入り口を見ていると、まだ検査衣を身に着けたままのアラタが入って来た。彼は外から持ち込んだと思しき本を一冊手に持っている。
俺なんて外から勝手に何か持ち込もうものなら身体検査で即没収だってのに、α様は手荷物検査も緩いんだな。
旭が内心でそんな嫌味を言っていることなどつゆ知らず、アラタはダイニングのテーブルに本を置いてから旭の方へやってきた。
「遅かったんだな」
「ただいま」
素直に「おかえり」と言うことはできなくて、旭は重い身体を起こすことで返事の代わりとした。
「何されたんだ?」
「色々な匂いを嗅がされた」
「フェロモンって匂いみたいなもんだろ? 反応しないのは鼻クソ詰まってんじゃねーの。ちょっと指突っ込んでほじってみろよ」
「そうではないらしい。通常の匂いの検知はできているそうだ」
アラタは検査衣を脱いで、ソファの背にかけてあったシャツを羽織った。
「検査結果について教えてもらえんだな。俺なんて検査受けるだけ受けても、何が分かったか全く教えてもらえないのに」
「なぜ?」
スラックスのベルトを止めながら、アラタは頭の上に疑問符を出した。
「俺なんかに教える義務なんてないんだよ。でもお前はαだからな。しかも怖い弁護士様ときた」
嫌味っぽく肩を竦めると、アラタの眉がぴくりと動いた。
「聞いたのか」
「あのクソ医者とクソ白衣が話してるのが勝手に聞こえてきただけ。俺が聞いたところで誰も教えてくれるわけないだろ。お前だって黙ってた」
アラタについてはαであることと、その特殊な症状しか聞いていなかった。旭の口調が責めるようなきついものだったからか、彼は口を開くのを何度か躊躇って狼狽を見せた。
「……旭は弁護士が好きではないと思って」
「それも俺の個人情報を知った上で言ってる?」
アラタは面白いくらい分かりやすく視線を彷徨わせた。
「隠さなくてもいい。誰から聞いた?」
「それ、は……」
彼はそれきり口を噤んでしまった。
「なら、どこまで聞いた?」
「……旭の両親があの七年前の事件の犠牲者で、有名な画家だったこと。あと……その報道に関すること」
彼は慎重に言葉を選んでいるようだ。今朝の取り乱した旭を思い出しているのかもしれない。
「別に、そんなぼかした言い回ししなくてもいい。Ωの集まる場所に毒ガスを撒き散らすテロが起こって、五十人以上死んだ。俺の親もそこにいて、遺体の映像が世界中のニュースに広がった。それだけだ」
旭は努めて何でもないかのようにそう言いつつ、ソファの上で膝を抱えた。
***
あの日、旭の両親は知り合いのΩに会うために、Ωとその支援者向けの講演会へと出向いた。会場となったのはとある大学の講堂で、事件が起こったのは講演開始の十分前。施設内部の空調から毒性の強いガスが流れ込み、早めに来ていた人々は何が起こったかも分からないまま昏倒した。
犯人は逃げも隠れもせず、大学の校門ですぐに見つかった。彼はこの大学の清掃員として雇われていたようで、Ωを天国へと導くことが人類の救済になると声高に演説していたという。周囲の人と警備員に取り押さえられ、彼はあっさり捕まったそうだ。いや、捕まるような悪いことをしたという自覚すらなかったのだという。
毒性も安定性も高い毒ガスが用いられたため、すぐには誰も現場に入れなかった。その場にあるものに触れただけでさらなる被害が広がるからだ。大混乱の中、報道規制もままならない状況で、マスコミがどんどん集まっていった。
その後防護服を着た自衛隊によって内部の化学洗浄が行われていく様は、すぐに全世界で注目のニュースとなる。海外ではΩの地位向上や人権問題が活発だったため、日本のこの事件は大きく取り扱われた。特に海外のメディアは積極的で、それに煽られた日本の報道も加速していくのは必然だった。
事件の夜、旭は伯父と共に自宅で待機していた。十五歳だった旭は、ニュース番組から両親の行った場所で事件が起きたことももちろん理解していた。
伯父は何度も誰かと電話をしていたが、「安否の確認が取れない」という曖昧な表現ばかり使っていたことをよく覚えている。講堂周辺で倒れて病院に搬送された人は二百人以上に上り、講堂内部の犠牲者数は分からないという状況だ。
連絡がつかなくても、父さんたちは軽症で病院に運ばれてるに決まってる。このアナウンサーが三秒以内に瞬きをしたら、父さんたちは助かる。一、二、三……。
そんな願掛けをしていた矢先に、真夜中のニュースで講堂の建物内部の映像が流れた。右上ではLIVEという文字がチカチカと回っている。
通路で折り重なるように倒れる人々の数から、犠牲者が思っていたより多いことが窺い知れる。まるで突然糸が切れてしまった操り人形のように、人々がぐにゃりと身体を折り曲げて転がっていた。カメラはさらに講堂の中まで入り、そこでも力なく横たわる身体をカメラに納めた。
なんでこんなところにカメラが入れるんだ?
旭が目を逸らしかけたその時、隣り合った座席に座って目を閉じる両親が映った。互いに凭れかかる様にして、まるでうたた寝でもしているのかと思うような映像だ。今この場で目を覚ましてもおかしくないほどで、旭は状況を受け入れることができなかった。
その後、伯父とどんな会話をしたのかはあまり覚えていない。ただ、視覚情報だけは鮮明な映像記録として旭の脳裏に焼き付いている。まるで無声映画のように。
一晩経った翌朝、アトリエに行けばいつものように彼らが仲良く絵でも描いているだろうと思い、廊下をフラフラと進んだ。朝日の差す中、主を失って空っぽになったアトリエに立ち、それがかつて自分が描いた絵の景色にそっくりで、何に腹を立てているのかも分からずに慟哭した。だが自分がどんな声を上げたのか、旭の記憶の中から音だけがすっぽりと抜け落ちている。
***
「もう七年も前のことだ。今更、だろ」
「でも旭はまだ忘れていない。旭は……納得していない」
無言で近寄るなという空気を醸し出しているつもりなのに、アラタは何も気にせずソファの前までやって来た。
「納得? 納得しないとならないのか? どうして? お前たち弁護士の正当化のためか?」
あの事件の犯人は心神喪失で無罪となっていた。弁護士による主張はおおむねこうだ。彼はαだったが、αの妻がΩの女に寝取られて精神を病み、清掃員にまで身をやつしていた。犯行当時も彼は精神的病と薬の副作用により心神喪失状態にあったという。
そしてまた、遺族の一部が故人の人権侵害としてマスコミに損害賠償を求めたが、それもやはりマスコミと弁護士の主張する公益性が認められていた。
あの事件の後約九ヶ月で旭はこの研究所に閉じ込められることになり、精神的な理由でニュースや新聞を見ることもできなくなってしまったため、これらの公判結果は全て面会でたまに会える伯父から聞いた話だ。
もし犠牲になっていたのがαだったら、きっとこんな判決にはならなかった。旭はそう信じたし、世間でも同じことを言う人は多かったそうだ。
「納得しなくてもいい。同じ気持ちの人は他に何人もいる」
アラタの声色は優しかったが、旭は顔も上げずに鼻で笑った。
「どうだか。皆いくら同情したところで、本気でΩの力になろうと動いた人なんていなかった。それどころか、決まりかけてたΩのための補助制度は、あの事件を受けてなぜか白紙に戻されたくらいだ。あの事件の被害者がαだったら、真っ先にαを保護する動きがあるだろうにな」
「旭がニュースを見ないから気付いていないだけで、あれから社会はΩのために変わりつつある。雇用機会の均等化や、発情期の休暇制度、それに――」
「俺には関係ない。俺はここに閉じ込められて、発情期のたびに犯されて生きていくだけだ。トイレだろうが何だろうが、俺は何でもかんでも監視されて、αはそれを見て優越感に浸る」
アラタの手が近付いてきたため、旭はそれを素早く叩き落とした。
「俺はαが嫌いだ。弁護士が嫌いだ。頼むから、放っておいてくれ」
あの事件の日、旭の中に占めていた両親のスペースがぽっかり空き、代わりにその空洞に流し込むための新しい燃料を探した。あの絶望の沼から脱出するために旭が選び取った原動力は、αと社会への憎しみだった。どうして今更手放すことなどできようか。
膝に顔を埋めて待ったが、アラタの気配はいなくならない。
「αが嫌いで、弁護士が嫌いだから……旭は俺が嫌い、なのか?」
「そうだよ! 何か文句あるか!」
大きな声を出したはずなのに、旭の声は抱え込んだ膝の間でくぐもった。
「俺は旭を虐げたαでもないし、殺人鬼やマスコミの味方をした弁護士でもない。どうしてαや弁護士だからといって、嫌いというレッテルを貼られないといけないのか分からない」
「Ωだから――ただそれだけの理由で、どんなに才能があっても俺の父さんたちは殺された。Ωだっていうだけで散々レッテル貼りされて生きてきたんだ。αにそれをやり返して何が悪い」
「自分がされて嫌だったことは、他人にもしないというのが――」
その瞬間、旭の中でプツリと何かが切れた。気が付いたら面を上げて立ち上がり、目の前にいるアラタの胸倉を掴んでいた。
「綺麗事言うなよ! お前に分かるか? Ωだって分かった途端、男も女も友達は皆潮が引くみたいに離れていった。昨日まで同じ男だったはずなのに、急に道が分かれて、選ばれた奴が弁護士だの医者だの政治家だのになっていくのに、俺は迷惑な発情するゴミだ」
中学校という群れでの生活とカーストが頭を過ぎり、旭は怒りで奥歯をギリギリと噛み締めた。
「上に行った奴には下の気持ちなんて絶対に分からないんだ。αに生まれたってだけで、あいつらは何の疑問もなく全てを手に入れる。俺はΩっていうたった一つの事実で、プライドも家族も人生も滅茶苦茶にされたっていうのに……αを憎むな、レッテル貼りするなって……? 馬鹿じゃねーの?」
αが差別するのは良くて、αが差別されるのは良くない、などというのは全く筋が通らない。旭が怒りに震えていると、アラタは居心地悪そうに視線を外した。
「少し、待ってほしい」
勢いを殺がれた旭が掴んでいた手を離すと、アラタはいそいそとダイニングのテーブルへ向かった。何をするのかと思いきや、彼は先程自分が持ってきた本をぱらぱらとめくり始める。
彼の意味不明な行動に、旭の怒りは行き場をなくしてしまった。そのままソファに座って少し待っていると、アラタが恐る恐る近付いてきた。
「旭……その……昼食は……」
いくらか頭の冷えた旭は、彼の言葉を遮るように溜め息をついた。
「食べてない。なあ、もう何も言わなくていい。確かにお前はαだからって俺に何かしたわけじゃないし、弁護士としてあの事件に関わったわけでもない。八つ当たりされるだけなんだから……だからもう放っておいてくれって言ってんだよ」
それだけ言い残してから、旭はソファの上でごろりと横になった。腕で顔を隠して、もう何を話しかけられても反応しないように心を決める。この男にいくら喚き散らしたところで、自分が惨めになるだけなのは分かり切っているからだ。
結局アラタはそれ以上何か言うこともなく、旭は目を閉じた暗闇の中で浅い眠りに落ちていった。
***
「Ω同士で子供産んだら、またΩが生まれるって予想できなかったのかよ」
きっかけすら思い出せないほど些細なことで親と喧嘩になった時、夕食の席で旭は思わずそう言ってしまったことがある。
「皆学校で習う前から、親にαとかβの話教えてもらってたってさ。俺、父さんたちが何なのかすら知らなかったんだけど」
「それは――」
晶がそこで言葉も箸も止めたため、隣にいた奏多が先を続けた。
「旭には、Ωとかそういうこと、気にしないで大きくなってほしかったから」
「俺は少しでも早く心構えしていたかった。同じΩなら分かるだろ? 急に今日からお前はΩですって言われて、男じゃなくて女みたいな役割押し付けられて……おかしいって思っただろ?」
晶と奏多は二人でしゅんと項垂れてしまい、まるで子供である旭の方が説教をしているようになった。
「何で言い返さないわけ? Ωでもおかしいって思ったことないから? まあ、そうだよな。どっちから俺が生まれたのかは知らないけど、どっちかはΩの役割を受け入れたんだ。男のクセに」
「旭」
膝の上に両手を置いた奏多が、意を決したように旭を止めた。
「そうやって、男なのに……とか、Ωだから……って考え方の人間になってほしくなかったから、僕たちはずっと黙ってたんだ。旭は子供を産める女の人が嫌い? だから女みたいな役割だって馬鹿にしてる?」
「馬鹿になんてしてねーし、最初っから女に生まれた人が子供を産むのはいいじゃん。でも、男だったはずの人が男じゃなくなるのは別問題の大問題だろ」
「でも、性別の役割って、そんなに大事なことかな?」
「奏多……旭くらいの年頃なら、それはやっぱり大事なんじゃないかな? 四六時中エッチなことばかり考える時期なんだしさ」
突然晶が横からそんなことを言ったため、旭はパッと顔を赤くした。
「別に、そんなんじゃねーし!」
旭は大慌てで茶碗から白米をかき込んだ。
「晶……旭、余計怒っちゃったよ」
「ご飯を食べ始めたってことは、喧嘩はもう終わりってことだよ、きっと」
「反抗期ってやつかな」
「旭は生まれた時からずっと反抗期だから、きっと治らないだろうね」
向かいでコソコソと両親がそんな話をしていたが、旭には全部聞こえていた。
二人とも男なのに線が細く華奢な身体で、言葉遣いも柔らかい。そんないかにもΩといったところは、旭をたまに無性に苛立たせた。
しかしそれと同じくらい、仲睦まじい二人の姿が好きだった。憧れていたと言ってもいい。Ω同士という子供ができない型破りな組み合わせでもいいから一緒になった――その絆が羨ましかった。彼らが幸せそうだと、Ωでも幸せになれる未来があるような気がしていた。自分にもいつかこんな相手ができるかもしれないという希望的観測に近かったかもしれない。
喧嘩をした翌日も、旭は彼らが絵を描いているアトリエに行った。並んで座る彼らを少し後ろから眺めて自分も絵を描くのが、旭の日課であり安らぎだったからだ。肩を並べて絵筆を走らせる彼らは、まるで生まれた時から二人で一つのようだった。木漏れ日の差し込むアトリエの中は、空気中の埃を乱反射させてキラキラと輝き、まるで天使のいる楽園のように思えた。
まさか死ぬ時まで二人並んで座っていなくてもいいのに。
彼らの死を目の当たりにして混乱していた中、旭の心の一部はそんなことを考えていた。
現在彼らは二人仲良く墓の下で眠っていることだろう。もっとも、この研究所に入れられて以来、旭は彼らの墓参りすらできていなかった。
***
どこか焦げ臭い匂いが鼻を擽り、その匂いの出所が夢ではないと分かった瞬間、旭はガバリと身を起こした。ソファで寝落ちしていたらしいが、身体の上にはベッドで使っているブランケットが被せられていた。
しかし今はそんなことはどうでもいい。慌てて立ち上がってキッチンへ行くと、何やら怪しい煙がもくもくと立ち上っていた。
「ちょ、な、何だこれ……!」
「あさひ……」
煙の中でアラタがズッシリと暗く落ち込んだ空気を発している。この部屋の監視員が、彼の頭上のライトだけ暗く調節しているのではないかと思うほどだ。
天井に備え付けられた煙感知器がビービーと音を鳴らしていたが、幸いにも煙だけで火は回っていないらしい。ダイニングの椅子をさっさと持ってきた旭は、天井の検知器のボタンを押して音を止めた。アラタは背が高いくせに立ち尽くすばかりで使い物にならない。旭が椅子を戻した頃には、もう煙はほとんどなくなっていた。
「チャーハンを作ろうとしたらなぜか……こうなった」
アラタはそう言いながら中華鍋の中身を見せてくる。そこには真っ黒な炭の塊がこびりついていた。
「え、いや、なんでこうなんの? っつーか何でチャーハンとか作ろうとしてんの?」
アラタが鍋をシンクに置くと、水に触れた鍋はジュッといい音を立てた。
「旭が昨日食べていた」
「だから?」
「旭はチャーハンが好きなんだと思った」
「いや、別に好きじゃねーけど」
「えっ……」
アラタは本当に真剣な顔で固まってしまった。
「うん、まあいいや。それで? 俺がチャーハンを好きだと思ったからチャーハン作って、どうするつもりだった? 俺の目の前で食べてやろうっていやがらせか」
「二人で食べようと思って」
何となく予想はしていたが、彼は健気にも旭のために料理を作りたかったらしい。旭は腕を組んでダイニングテーブルに凭れかかった。
「俺は頼んでない」
「イライラするのは空腹が原因かもしれない。喧嘩になった時も親しくなりたい時も、まず食事をしてみるといい……らしい」
そこでアラタはちらりとダイニングテーブルを見た。そこには今日彼が持ち込んで喧嘩中もパラ見していた本が置かれている。
『コミュニケーション入門 ――なぜあなたの会話は続かないのか』
本のタイトルを見て思わず目が点になった。
「何だこれ」
「今日カウンセリングの先生からもらった」
「ああ、崎原先生だろ? あの人、まだ若いけどいい先生だよな。βだし」
そう言った途端、アラタの身体が迫ってきてダイニングテーブルの上に押し倒されてしまった。
「旭は……あの先生が好きなのか?」
「え? まあ、好きだよ。βだからαみたいに横暴なこともしないしさ」
掴まれた肩や腕にぎりぎりと力が籠められる。
「βに生まれたというだけで旭からの好意が得られるのはおかしいと思う」
アラタは無表情のくせに、目だけで「ずるい」と駄々を捏ねているように思えた。
「子供かよ……。お前ってさ、本当に有能な弁護士なのか?」
旭から疑いの視線を向けられても、アラタは僅かに首を傾げるだけだ。
「有能……旭に褒められた気がする」
「褒めてねーよ! そういう噂話を聞いただけで……って、おいこら!」
気が付けば押し倒された旭の身体はすっぽりとアラタの腕の中に包まれていた。
「俺、発情期のフェロモンも何も出してないんだけど? サカってんの?」
旭は彼の脇腹をぎゅっとつねるが、全く効いていないようだった。
「旭が少し元気になった気がする」
彼は旭の匂いを嗅ぐように首筋に顔を埋めてきた。
まだ彼と出会ってからたったの二十四時間。なぜ彼がここまで自分に気を遣ってくれるのか、旭にはよく分からない。それ以前に彼は全体的にとにかく不思議な男だった。
「旭……あさひ……」
譫言のように名前を呼びながら、彼は旭を抱く腕に力を込めた。
忠犬というよりも、まるで大きな狼に懐かれてしまったような気さえする。
もしかしたらこいつも、運命の番ってやつを感じてる……とか?
そんなことを考えてしまい旭は思わず顔を赤らめた。幸いにもアラタには気付かれていないようだったが、部屋の隅の監視カメラは照れる旭をしっかりと捉えていた。