中学卒業直後の三月に両親を亡くした旭は、その翌月から高校生活が始まるはずだった。何もする気力がなく、入学自体辞めようと思っていたのだが、旭を引き取ってくれた伯父は「高校には行った方がいい」と強く勧めた。結局手続き上は入学したものの、旭は実際高校に行くことなく不登校になった。
伯父には仕事があり、日中は彼の家に旭一人が取り残される。誰とも会話をしない日々が一ヶ月ほど続き、夕食中も伯父とほとんど会話がなくなった頃、旭は児童養護施設に入ることになった。高校にも行かない代わりに、少しでも旭に社会的な繋がりを持たせようというのが伯父の考えだった。
「俊輔叔父さんは、俺を捨てるんだな」
旭が無気力にそう言った時、彼は懸命に否定した。旭にはもっと温かい環境が必要で、仕事のある自分にはそれができないのだ、と。
実際伯父は旭のために児童相談所と話し合い、もっとも良い環境を選んでくれた。職員がΩに理解を持っていること、万が一発情した時でも大丈夫なように、周囲にαがいないこと、大部屋での集団生活ではなく、より小規模な家庭的環境であることを条件に探し回ってくれた。
旭はくすのき園という施設の中の、ふたばホームという住居に入ることになった。くすのき園本体は大所帯で共同生活する施設だったが、その分室としていくつかのグループホームが近隣に点在していた。そこは普通の家屋のような作りで、一軒あたりの児童の数は多くても五~六人程度だということだ。旭の入るふたばホームもそんな中の一つだった。
ホームにはメインの担当となる女性の保母が二人、旭以外の子供は男の子が四人だった。同居する男の子は皆小学生で、彼らがなぜここにいるのかは聞かされていない。親との死別以外に、親の病気や親からの虐待など、理由は様々だと聞いていた。
皆そこまで深刻そうではなく、彼らは先輩風を吹かせて無邪気にホーム生活について色々と教えてくれた。リビングなどで彼らと共に過ごし、夜はそれぞれの個室で眠る。急に弟ができたような変な気分だった。
小学生の同居人たちが昼間学校へ行っている間、旭は高校に行く代わりにくすのき園の本園へと行くことがあった。ボランティアの大学生から勉強を教えてもらうこともあれば、どこかの職員だかカウンセラーだかと面談をさせられることもある。
ホームへ入所して四か月が経過した八月。両親の死から五か月が経過すると、旭の心も徐々に平静を取り戻しつつあった。というよりも、心の痛みに慣れてしまっただけなのかもしれない。
ホームの子供たちはちょうど夏休みで、旭は彼らと一緒に庭で花火をしたり市民プールに行ったりするまでになっていた。
50mプールから旭がざばりと上がると、監視員に怒られながら子供たちが駆け寄ってきた。
「旭、泳ぐのはえー!」
「俺にもクロール教えて!」
まだαもΩも知らない小学生の彼らは、素直に旭を兄のように慕ってくれた。小学生にとって運動ができるということの価値は大きい。旭も小学生の頃は体育の短距離走でも球技でもクラスで一番活躍し、いつも友人に囲まれていた。
「お前ら25m泳げんの?」
「泳げるもん」
「この前学校のプールでできた!」
旭の腰に纏わりつく少年たちが口々に自慢する。小さな手が躊躇うことなく自分の身体にぺたぺたと触れてくるのが嬉しかった。
***
夏休みが終わり、子供たちが嫌々小学校生活に戻った時、旭も高校へ行ってみることにした。
今更行き始めても転校生扱いで余計目立つんじゃないか? 同じ中学の連中から俺がΩだってことはバラされてるんだろうな。
そんな不安がなかったわけでもないが、いつまでもこのまま高校にも行かず就職もしないというわけにはいかなかった。
多くのαやΩはその身体的な変化を十四歳、十五歳くらいまでには体験する。しかし旭はもうすぐ十六の誕生日を迎えるが、未だΩとしての発情期を体験していない。そんな成長の遅れが幸いして、旭は高校受験の学業も他の学生と同条件で受けることができた。その結果、旭は県内でもかなり上位の高校に合格できたというわけだ。
だからこそ、旭は余計納得していなかった。自分が他の男子とどう違うというのか、Ωという診断結果以外に何も証明できるものがないからだ。
高校へ行こうと決めたはいいものの、入学式すら出ていないため、旭は自分がどこのクラスのどの席なのかも知らない。A組はαのみの特進クラスになっていると聞いていたから、旭はおそらくそれ以外だろう。しかしそんなことを聞くための職員室がどこにあるのかすら分からなかった。
校門脇の守衛になぜか職員室の場所を聞く制服の学生――当然そのおかしな光景は登校中の生徒らの目に留まった。しかも守衛が電話をかけたため、担任と思しき教師が校門まで迎えに来てしまう。
職員室で年配の教師と相談すると、まずは「特別学級」なるところへ行ってみるかと持ちかけられたが、旭には「特別学級は発情期のΩが行かされる場所だ」という勝手な印象があったため、普通に教室へ行くと主張した。
その時、職員室の扉ががらりと開いて「失礼します」という聞き覚えのある声が耳に入った。思わず振り向いてしまった旭は、そこで苦い思い出のある人物と目が合ってしまう。庸太郎――中学に入ってから露骨に避けられ始めた幼馴染。半年見ない間にまた背が伸びている。おそらくもう百八十センチはあるだろう。
彼の方も驚いているようで、職員室の入り口でしばし立ち尽くしていた。旭が視線を逸らして教師との会話に戻ると、少し離れたところから彼も別の教員と会話する声が届いた。おそらくはαのクラスの担任と話をしているのだろう。彼との間にあった小さな溝は、今や深い海溝ほどになっていた。
夏休み明け二日目の高校は、まだどこかだらけた空気が残っていて、中学の頃を思い起こさせる。担任と共にガラリと教室のドアを開けると、クラス中が一瞬静まり返った。
「ずっと休みだった篠原旭君。席はあそこ」
担任が示したのは窓際の一番後ろ。まるで欠番のようにずっと余らせていたのだろうか。
旭は無言で小さく頭を下げると、机の間を俯いて通り抜けて席へついた。
朝のホームルームが終わった後、授業が始まるまでの短い隙を突いて、前に座っていた男子学生が振り向いて旭を見た。少し幼さの残る彼は、スポーツでもしているのか少しだけ日焼けしている。旭が身構えるのも気にせず、彼は明るくからりと笑った。
「そこ、誰も来なかったら俺の荷物置きになるとこだったぞ」
普通に話しかけてもらえるとは思っていなかった。
俺がΩだって知らないのか? いや、そんなはずはない。
旭が驚きで固まっているのを、彼は不思議そうに見つめてきた。
「篠原? どうかした?」
「いや、よく不登校だったΩに話しかける気になったよなって」
生殺しの状態に耐えられず、旭は自らガソリンを被るようなことを言った。早く火を点けて燃やしてくれ――そう思っていると、隣からぷっと吹き出す音が聞こえた。
「お前、それ自分で言うかー?」
前からだけでなく横からも気さくに話しかけられ、旭は余計混乱した。
「この高校にΩで入ってくるなんてどんな奴だろって気になってたんだよ」
「そうそう、もっとこう小さくて弱そうなイメージだったけどさ、全然そんなんじゃねーのな」
気が付くと、彼ら以外の視線も旭に向けられていた。よそよそしく目を逸らすような中学時代とは真逆の反応。旭の戸惑いを察したのか、前に座っていた彼は「ああ」と呟いた。
「もしかして、いじめられるとか思ってた?」
「いじめ……っていうか、もっと腫れ物みたいな扱いになると思ってた。中学ん時そうだったし」
旭がぼそっと言うと、彼は「あるある」と笑った。
「Ωとか知ったばっかの頃はやっぱそうなるのかもしんねーけどさ、もう高校生にもなれば全然よ? 大人になると異物への拒否反応が薄れるっつーか? 自分と違う人間がいるのは当たり前って分かってるわけ」
「高校生になってまでそんなこと気にするような奴は、言っちゃ悪いけどこの高校来てないよな。中学でΩからかってたような連中はほとんど底辺の高校行ったし」
「それにβにはあんま関係ねーしな」
高校に登校してみようと決意してからずっと、色々な反応を予想してきた。しかし今のこの状況は全くの予想外だ。今ここでどう反応すべきか、旭の中には何の準備もなかった。
「俺、長谷川茂樹。な、旭って呼んでいい?」
「じゃ、お前も茂樹な」
旭がボソっと言うと、周りにいた他の生徒が我も我もと名乗った。まるで小学生の頃に戻ったような変な感じだった。
***
しばらく高校生活をしている内に、状況が段々と分かってきた。この高校には直近数年内にΩの学生はいなかったのだそうだ。当然今の三学年全部合わせても、Ωは旭一人ということになる。だからとにかく珍しがられているというわけだ。
旭のいるF組はαのA組から最も遠い。Ωに対する万が一の配慮はそれくらいで、特別学級というのも本当に不登校などの学生のための部屋のようだ。Ωと縁がないため対策が薄いとも言えるが、中学の頃のような変に警戒される状況よりはずっと気が楽だった。
旭が高校に復帰して一週間程度が経過したある日。提出の遅れていた諸々の書類を提出するため、旭は一人職員室へと向かっていた。昼休みの終わり際、教室に戻る生徒の波に逆らって歩く。不登校だった痕跡はなるべく衆目に晒したくない。人目につかない時間と場所を選んだ結果、昼休みの終わりが一番だと思ったのだ。
伯父の印鑑が押された書類を何枚か担任に渡し、何かクラスで問題はないかと聞かれる。こういうことを聞かれると分かっていたから、ホームルームや人目のある場所を避けたのだ。何も問題ないと伝えた旭は、そのまま教室へと帰ろうとした。
その途中、理科実験室の前を通ろうとした時、中から声が聞こえてきた。
「最近さー、あのΩが登校してるらしいじゃん」
「見た見た。別に普通じゃね? 本当にΩなのか? 庸太郎、同じ中学だったんだろ?」
その名前が出た瞬間、旭の足がぴたりと止まった。中にいるのはαのA組だ。
「Ωって聞いてるけど、発情してるのとか、それで休んでるのは見たことないな」
庸太郎はそっけなくそれだけ言った。
「えー、じゃあまだ発情来てないってことか? 慣れてない分、学校で急に発情されっと困るよな」
「ああ、中学ん時そういうΩいたいた。初めての発情で何も気付かず学校来てさー、やめてほしいよな」
旭は無意識にギリッと唇を噛んでいた。高校生にもなれば、βのクラスメイトは皆おかしな偏見を露骨には見せてこないのに対し、αはいつまでもΩを忌むべきものとして扱う。比較すればするほど、αへの憎しみが大きくなった。
「まあ、なるべく近寄らないようにするのが自衛になるんじゃないか?」
黙っていた庸太郎がそう提案した。まるで中学から突然旭を避けるようになった自分自身を正当化するように。
背後から授業に向かう教師たちの足音が聞こえててきたため、旭は早足でその場を去った。
そんなことがあっても、基本的にA組と関わらなければ旭の高校生活は順調だった。クラスが離れているのが幸いして、彼らと接触することはほとんどない。
「茂樹ー、俺やっぱ焼きそばパンがよかった」
昼休み、購買から少し離れた中庭のベンチで旭が零す。
「はあ? 何言ってんだよ、お前が今日はコロッケパンの気分って言ったんだろ?」
「だって茂樹がそれ食ってんのみたらさー」
「これは俺の!」
「交換しよーぜ」
「食いかけなんて嫌だよ! ってコラ旭、やーめーろって」
ベンチの上でふざけてじゃれ合っていると、ふと視線を感じた。顔を上げると、サッカーボールを持ったA組の生徒が歩きながらこちらを見ていた。その中にいた一人、庸太郎と目が合う。苦虫を噛み潰したような顔で彼は旭を睨んでいた。
昔は給食のプリンを取り合って庸太郎とこんな風にふざけあったのに。
旭の脳裏になぜかそんなことが思い浮かんだ。彼らが通り過ぎた後、茂樹は休戦の隙を利用して焼きそばパンを食べ進めた。
「αの連中も大変だよな。一々Ωだの何だのって敵視してさ、あいつらが一番生まれつきの型に縛られてるよな」
「茂樹はあいつらに同情すんの」
「αに味方はしないけど、あいつらもかわいそうな奴らだなとは思うよ。αとして成功するようにプレッシャーかけられてっから、それ以外の視野が狭くなってんだよな」
淡々と分析するような茂樹の言葉は、旭の中にあった闇雲な怒りをいくらか鎮めてくれた。
「茂樹は大人だな」
「おう、焼きそばパンは譲らねーけどな」
旭が気付いた時にはもう、彼は最後の一切れを口に放り込んでいた。
***
十月に入ると、高校では体育祭の季節になった。中学の頃の印象では五月くらいにやるものだと思っていたのだが、この高校は体育祭に文化祭と秋にイベントが集中している。
「旭はどの競技に出んの?」
「俺、サッカーがいい。あ、茂樹ってサッカー部だっけ」
「サッカー部どころか、俺βだけどスカウトとか結構されてんだぞ?」
そんな会話をしながら、旭たちは二人でサッカーへの参加表明をした。
「大体な、体格が違うんだから全部A組が有利なわけよ」
初戦からA組と当たってしまい、フィールドに向かう茂樹がつまらなさそうにぼやいた。
「バスケならそうかもしれねーけど、サッカーなら何とかなるだろ。サッカー部もいるんだしさ」
頼りにしてるぞ、という目で茂樹を見る。二人の間に「勝ってやろう」という共通認識が生まれた。
キックオフで配置につき、まっすぐ前を見る。対戦相手の中にいるのは庸太郎。昔は同じチームだった彼は、今旭の前に敵として立ちはだかっていた。
笛の音と共にボールが動き出す。αが油断している最初がチャンスだ。旭は素早く上がってパスを受けると、器用にドリブルをして前へと進んだ。
小学生の頃とは足の長さも変わったため、少し感覚が違う。しかしすぐに新しい状況に順応した旭は、ボールをしっかりと足元にキープしたまま一人二人と抜き去った。
次に旭の前に来たのは庸太郎だ。旭がボールを蹴るたび、それは吸い付くように旭の足元に返ってくる。庸太郎は当然このまま真っ向勝負で向かってくると思ったのだろう。しかし旭はそこであえてボールを大きく蹴り、脇に上がってきていた茂樹にパスを回した。
肩透かしを食らって呆然とする庸太郎の横をすり抜けて、茂樹を横目に見ながらゴールへと近付く。サッカー部として警戒されていた彼にはすぐに何人も守備が付くが、その中から茂樹は旭にパスを出した。
始まってまだ一分程度、相手がこちらの戦力を見極められない内に、ノーマークの旭がボールと共にゴールへと迫る。至近距離で打ったシュートはキーパーの横をすり抜けてゴールポストを揺らした。
笛の音が鳴る中、αが皆旭に注目している。いつもの見下すような視線とは違う空気に、旭は胸のすくような思いだった。
「旭~!」
背中からガバリと抱き着かれて振り返る。
「茂樹、大げさだって」
フィールドのど真ん中でぎゅうぎゅうと抱き締められながらも、旭は笑顔を隠すことができなかった。
その後旭には守備が多く付いたが、旭は小回りのきいたテクニックでそれを突破し、逆に守備の軽くなった茂樹に攻撃の起点を移した。
試合に勝利してしばしF組が沸き立った後、旭は水分の補給のために校舎脇の水飲み場へと向かった。カラカラに乾いた喉を潤し、汗をかいた顔を軽く洗う。タオルで水分を拭っていると、そこに背の高い男が近付いてきた。
「何? 俺には近付かないんじゃないのか? 自衛のために」
水場を使うでもなく立ち尽くす庸太郎に向かって、旭は挑発するようにそう言った。
「αなんて言ってもさ、やっぱお前俺に勝てねーのな。昔と同じ」
周囲に人がいるのをいいことに、旭は強気に出てみた。いつまでも一方的に無視されるだけの弱者ではないのだ。先ほどの試合で、旭の中にそんな自尊心が戻りつつあった。
「学校、どうして来てなかったんだ?」
庸太郎から唐突に会話を振られ、旭はタオルを頬に当てたまま動きを止めた。
「ずっと遠巻きにしてたくせに、そんなとこは気になるわけ?」
会話らしい会話など、中学に上がってから一度もなかった。なぜこのタイミングで彼が対話を望むのかが分からない。
「ちょっと――」
事もあろうに、彼は旭の腕を掴んで校舎の裏へと引っ張っていった。
「校舎裏でリンチ? αだからってそれはさすがにマズイだろ」
腕を掴まれたまま、旭は庸太郎を睨み上げた。
「いや、学校休んでたのが何か言いにくい理由ならこっちの方がいいだろ?」
「お前に理由を話してやるの前提かよ」
旭は両親の死について誰かに言うつもりはなかった。そんなことで同情を集めるのは旭のプライドが許さなかった。
「発情期が始まった、とか?」
庸太郎は旭を校舎の壁際に追い詰めて追及する。
「はっ、お前らどんだけ俺に発情期が来てるかどうか気にしてんの? 中学ん時からさ、『発情期まだー?』ってサカりすぎだろ。来てたとしてもテメーとヤるわけねーっつーの」
「なら、あの事件の篠原って芸術家……あれが旭の親だって噂が本当なのか? 確かに旭の親って、昔から授業参観とか来てなかったけど、何か隠してるのか?」
「な……そんなこと、誰が――」
動揺のせいで思わず声が震えてしまった。庸太郎はその変化を見逃してはくれない。
「本当だったんだな」
「だったら何だって言うんだよ!」
旭が叫んだ時、校舎の角から茂樹が走ってきた。
「旭! おい、何してんだお前!」
茂樹は素早く駆け寄ってくると、壁に押し付けられていた旭を救出した。
「試合に負けたからってそういうのはナシだろ」
茂樹は旭を庇うようにして庸太郎と対峙する。
「そんなんじゃない」
庸太郎は悔しそうに唇を噛むと、ふいっと立ち去ってしまった。
「旭、大丈夫か?」
「ああ、あいつ小学生の頃よく一緒にサッカーした奴でさ、ちょっと懐かしくなったんじゃねーの」
心配してくれた茂樹に対し、なぜかそんなことを言ってぼかす。庸太郎を庇うつもりもなかったが、彼の様子が少しおかしいことが引っ掛かった。
***
九月十五日生まれの旭は既に十六歳になっているのだが、十月が終わってもまだ発情期は始まらなかった。
十一月頭の土曜日、旭はくすのき園の本園へと行くことになった。高校に復帰したため、カウンセラーとの面談が休日に移動になったからだ。
その日は同じホームの小学生たちも、ちょうど本園でボランティアの大学生から勉強を教えてもらうことになっていた。
小学生たちの時間に合わせて一緒に家を出ると、早めに本園へと着いてしまう。旭はカウンセラーが来るまで一時間程度、診察用の小部屋で待たされることになった。
部屋の壁際にあるベッドに上がり、ゴロリと横になる。何日か前から調子が悪く、昨日の夕方に病院で風邪と診断されていた。風邪薬は飲んでいるのだが、全身の熱っぽさと倦怠感が抜けない。少し横になって休もうと、旭は目を閉じた。
ぐっすりと眠り込んでいた旭は、下半身がムズムズする感触で目を覚ました。朝勃ちとは違う、もっと強烈な欲情。
何だ……これ。
そろりと股間に手を伸ばすと、そこは完全に勃ってしまっていた。しかしこんな場所で処理することもできない。身を起こそうとしても、フラフラして力が入らなかった。
もしかして、これが発情期?
万が一のために抑制剤は貰ってあった。しかし昨日から風邪薬を飲んでいて、飲み合わせしてもいいものか分からなかったため、今日は手元に持ってきていない。
やっと上半身を起こしてはあはあと息を吐いていると、ガラリと部屋のドアが開いた。そこにいたのは、こんな施設にいるはずのない男だった。
「な……ようた、ろ……?」
庸太郎はドアを開けた状態のまま、目を見開いている。
「旭?」
旭は大慌てで傍にあった毛布で下半身を隠した。
「何で、お前、こんなとこに――」
「家族ででかける途中に父さんがここに寄ったんだ。施設への寄付金がどうとかって」
庸太郎はドアを閉めて室内へと入ってくる。
「ああ、お前の親父、政治家だっけ。ご支援どーも」
こんなところでもαとは金銭的な上下関係があるのだと思うと、握った拳に力がこもった。
「旭は、あの事件の後ここにいたんだな」
「正しくは、ここの分室のグループホーム。今日はたまたま……」
乱れる息を整えながらなんとかそんな会話をしてから、それにしても庸太郎がこの部屋を見に来たのは不自然だと思い直した。
「お前、ここに何か用があったのか? 誰かを探してたとか?」
「そうじゃなくて、何か匂いがしたから、無意識に――」
どこか様子がおかしい。そう思った時には、庸太郎は旭の座るベッドの目の前に来ていた。
「近付かない方がいい。お前だって、ずっとそう思って避けてただろ?」
旭の忠告も虚しく、庸太郎の手が旭をベッドに押し倒した。
「や、め……!」
旭の抵抗を押さえ付け、庸太郎の手が旭の上にあった毛布を剥ぎ取った。
「旭、お前、これ……」
彼の視線が旭の膨らんだ股間に注がれていた。
「知らなかった! 風邪だって言われてたのに、気付いたらこんな――」
旭の言い訳が終わらない内に、庸太郎は急くように旭のシャツを捲り上げた。匂いの元である旭の肌に庸太郎がむしゃぶりつく。しかし彼はすぐに旭の上半身に興味を失ったらしく、乱暴に下半身を剥き出しにされた。
「ふ、ざけんなっ……!」
旭が声を上げても、休日のこんな診察室の周りに人はいない。職員も子供たちも皆、宿舎の方か学習ルームに集まっていた。
「Ωってホントに濡れるんだ」
庸太郎の手が旭の秘所をまさぐる。
「濡れるわけ、ないだろ……っ」
男として前で自慰をしたことはあっても、後ろで快楽を感じたことなど一度もない。しかし庸太郎の言う通り、彼の指はにゅるりと旭の穴の中に飲み込まれた。
「わ、すご……っ」
「やめろって、なあ」
足をバタつかせても、力のない蹴りは簡単に庸太郎の手で止められてしまう。それどころかそのまま足を大きく開かされ、誰にも見せたことのない場所が、明るい昼の室内に曝け出された。
「もう、無理。きっつ……」
庸太郎は手早くジーンズのベルトを緩め、前を寛げた。噂されていた通り、庸太郎のそこは大きく、まだ高校生の若い欲望は腹に付くほどの勢いで反り返っていた。
「っひ……や、め……っ」
怖気付いた旭が悲鳴にも似た懇願を零す。何とか逃げ出そうと身体を捩って這いつくばるが、今度はうつぶせの状態でベッドに押さえつけられた。庸太郎は我慢できないと言わんばかりに、後ろから旭の腰を持ち上げ、その割れ目に自身を擦り付ける。
「狭……っ」
「んなもん入んないって、この……クソα!」
旭の罵倒を嘲るように、庸太郎が腰を前へ進めた。排泄のための器官だと思っていたそこは、まるで最初から男を咥え込むために作られたかのように庸太郎のモノを飲み込んでいく。
「クソ……抜けよ! 死ね!」
庸太郎はもう言葉を紡ぐ余裕もないようで、一番奥まで到達するや否や、すぐにガツガツと腰を振り始めた。その衝撃で、旭の喉の奥から呻き声が漏れる。
「っぐ……何が、α、だ……てめえらなんて、ただのサカった動物だ……っ」
獣のような荒い息を吐きながらカクカクと一心不乱に腰を振る庸太郎に、旭は軽蔑しか抱かなかった。しかし庸太郎はそれを咎めるように旭の中心を握り締めた。
「先にサカったのはΩの方……だろ? ここ、触ってないのにビンビンじゃん」
旭はそれを否定できなかった。内部を太いものでこすられるだけで、そこが全部性感帯になったかのようにじんじんと痺れる。その快感は全て前にある男性器へと集中していた。
「それに後ろ、ぐっちょぐちょ……これ、ヤバい」
庸太郎が腰を振るたびにぐちゅぐちゅと結合部から水音が漏れる。
「ちが、違う……こんなの、俺の意思じゃ……ない」
「でもΩの意思だ」
そこで庸太郎は突き上げの速度を上げた。まるで譫言のように背後から「旭、旭」と名前を呼ばれる。内部を暴れる庸太郎のモノは、いつの間にか亀頭球が膨みつつあり、それが旭の中をコリコリと擦った。
「やめ、ろ……っ! くそっ……」
このままだと亀頭球が引っ掛かって抜けない状態で射精される。αのノッティングという機能を思い出し、旭は悔しさに涙が滲んだ。
「ほん、とに……だめ、だって。このまま、最後までしたら……っ」
発情中のαとセックスすると、確実に孕まされる。そう教えられていた。
しかし完全に我を忘れた庸太郎は、叩きつけるようにピストンを続ける。亀頭球がほぼ限界まで膨らんだかという頃、旭の中に固定された庸太郎の怒張はドクドクと精液を流し込んできた。
「……は、ふ……っ」
男としてのプライドを踏み躙られ、旭は悔しさで歯を食いしばった。長々と精子を注入される感触に、旭の心は嫌がっているのにΩの身体は悦んでいる。身体の表面は熱っぽいのに、胎の中だけが冷えているような、乖離した感覚。
今までずっと、自分がΩであることを否定し続けてきた。自分はβやαと何が違うのかと思ってきた。しかし今、こうして執拗に種付けをされてやっと理解した。
これがΩなんだ。捕まえられて、逃げられない。
結合部から感じる熱が、旭にΩとしての性を焼印のごとく刻み付けていくようだった。
涙を堪えながらいつまでも続く射精を受け止めていると、部屋のドアが勢いよく開いた。ベッドにうつぶせに押さえつけられた旭は、顔だけをそちらへ向けて確認する。
誰か一人、大人の男性と、その周りにいるのは……今日一緒にここまで来たホームの弟分たち。
「旭、なに、してるの……?」
まだ何も知らない無垢な小学生の目が、旭たちの重なった身体を捉えている。旭は堪え切れずにベッドに顔を押し付け、呻き声を漏らした。
向こうで待っていなさい――男性がそう指示する声が聞こえた。パタパタと子供たちが遠ざかる足音がした後、男性が駆け寄ってきて旭から庸太郎を離そうとする。しかし庸太郎の亀頭球でしっかり固定された二人は引き離せなかった。
「クソッ」
男は悔しそうに吐き捨てると、一旦部屋を出て行った。
その間も庸太郎は気にせずにずっと旭の中に精液を注ぎ込み続けている。彼が耳元で何かを囁いていたが、旭の脳はその言葉を理解することを拒んだ。
この後俺は妊娠するんだろうか。庸太郎の子を……。それとも、庸太郎の親父が金を払って堕胎と口止めを要求してくるんだろうか。
ぼんやりそんなことを考えている内に、庸太郎の亀頭球がやっと小さくなり、ずるりと旭の中から抜け出ていった。栓のなくなったそこからは僅かに白いものが流れ出てきたが、大半の精液はこの長い射精時間中に奥の奥まで流し込まれてしまっていた。
腰を掴んでいた庸太郎の手が離れると、旭の下半身はどさりとベッドに落とされる。濡れたシーツの感触で、旭は自分がいつの間にか達していたことを悟った。
「……だからずっと、避けてたのに」
庸太郎がそう呟くと同時に、また誰かが部屋へと駈け込んで来た。
「こっちです」
先程聞いた男の声。シーツに顔を埋めた旭は、もはや助けに来た大人たちのことなど見てもいなかった。やっと治まりかけていた欲情がまたぶり返してきそうになっていて、それどころではなかったとも言える。
声だけ聴いていると、何やら応援に来たβの男たちまでもが旭の発情にあてられてしまっているらしい。ただβ全員に効くというわけでもないようで、一部のβ男性と女性スタッフによって、旭は救急車で病院へと運ばれた。
その後、その異常な発情の強さのために病院で一ヶ月拘束され、さらにその後少しして庸太郎の子を身ごもっていないことも発覚すると、旭は国立ABO研究センターへと送られることになった。そしてその年が終わる前に、とある研究所の地下室へと軟禁されることになる。
広がりかけていた普通の高校生活も、普通の人生も、そこで道が絶たれた。