Under the Blue Sky 1 | fDtD    
  • S
  • M
  • L

Under the Blue Sky 1

 幼かった頃の中宮庸太郎にとって、篠原旭は手の届かない存在だった。勉強も、運動も、容姿も、何もかもが完璧。一方庸太郎はというと、身長も顔も運動も勉強も、全てが平凡を地で行っていた。
 悠々と何でもこなす旭の姿は、まるで遠い青空を滑空する鳶のようだった。地上にいる自分には触れることも叶わない。しかし彼はその力を誇示することもなく、地上に降りてきては皆の笑顔に囲まれていた。

 その日も、昼休みの校庭で庸太郎は旭を少し遠くから見ていた。幼馴染でありながら遠い憧れの人でもある、そんな微妙な関係。しかし庸太郎の複雑な感情とは裏腹に、彼はこちらと目が合うとすぐに駆け寄ってきてくれた。
「庸太郎はやんないの? ドッジボール」
 返事も待たず、彼は庸太郎の腕を引っ張ってコートに歩き出す。
「やったな、いい的が来た」
 庸太郎を見てクラスメイトが茶化す。本当に運動神経が壊滅的な弱者ではなく、平均程度の庸太郎の方が冗談にしやすいのだ。庸太郎はクラスの中で「地味キャラ」として弄られる地位を確立していた。そして庸太郎自身もそれを諦めて受け入れ、ある程度おいしいポジションだと自分に言い聞かせていた。
 この相互に納得し合った人間関係を唯一認めようとしない者がいた。それが旭だ。彼は何かに苛立っているが、庸太郎にはその理由が分からなかった。もしかしたら自分を馬鹿にするクラスメイトに腹を立ててくれているのかもしれない。小学生の庸太郎は本気でその程度しか考えなかった。
 どうせ真っ先に狙われて外野行きだろうと予定調和の展開を待っていると、案の定こちらに向かってボールが飛んでくる。思わず痛みに身構えると、目の前に旭が飛び出してきた。彼は剛速球を軽々と胸元でキャッチすると、笑いながら反撃に出る。
「どこに投げるか丸、分か……りっ」
 彼の手から離れたボールの進行方向で、楽しそうな悲鳴が上がった。しかし庸太郎は相手のコートではなく、旭だけを目で追い続ける。
 伸びやかな肢体、軽やかな動き、鼻筋の通った美しい横顔、真っ直ぐな瞳。同じ男の自分から見ても、彼は輝いていた。
 女子からの好意を一身に受ける彼は、きっとその内完璧な彼女を持つのだろう。庸太郎はそう信じ切っていた。少し前に親からα、β、Ωの話を聞いた時も、真っ先に旭がαのイメージとして思い浮かんだくらいだ。

 しかしその認識は、中学に上がってすぐ間違いだったと知らされる。
 篠原旭はΩだった。
 そして平凡の極みだと思っていた自分の方こそ、αだった。
「あら、庸太郎ってばαだったの?」
 そう驚いたのは母親も同じだ。両親は共にαで、庸太郎もその血を受け継いでいる可能性は大いにあったのだが、彼らは庸太郎のことをほぼβ確定として扱ってきていた。
 勉強や運動でうまくいかない愚痴を吐けば、彼らはすぐに「向いてないと思うならやめていい」と言う。αの息子としてのプレッシャーをかけないように、という親心だったのかもしれない。実際その甘さは庸太郎の心にとって薬になっていたが、それが毒であったことも事実だ。
 結局自分が何に向いているのか分からないまま、何を頑張ればいいのか分からないまま、小学校を卒業してしまった。そして中学に入ってすぐ、突然自分がαであることを宣告されたのだ。
 向いていないと思っていたのは全部自分の思い込みだったのかもしれない。本当は運動も勉強も、少しやればすぐ上達したのだろうか。これから自分はどうしていけばいい?
 十二歳の庸太郎は、αという自身の真実をもてあました。しかしその混乱の中でもたった一つだけハッキリと意識していたことがある。
 旭がΩで、自分がα。
 彼はいずれαを求めて発情する。彼は自分との子を産むことができる。
 それを理解した瞬間、庸太郎の中にあった彼への憧れに濁りが生じた。高貴なものに対する尊敬や畏怖の気持ちが、支配欲や劣情に塗り潰されていく。
 違う、こんな感情知らない。俺はそんなつもりじゃ――
 眠れずに夜のベッドでうずくまった。振り払っても振り払っても、頭の中に思い浮かぶのは旭のことばかり。それもただの旭ではなく、Ωとしての篠原旭だ。
 発情して自分を誘う旭。彼の中に精液を流し込む自分。そして大きくなったお腹をさする旭。
 とめどない妄想で、庸太郎は生まれて初めて自慰行為というものを経験した。自分自身の意思で制御できない欲望への恐怖と、憧れの幼馴染を汚してしまった罪悪感。まるで自分が得体のしれない獣になってしまうような気がした。
 これはきっとαの本能のせいだ。まだ子供だから、うまく制御できないのかもしれない。それなら、このおかしな衝動に勝てるようになるまで旭に近付いたら駄目だ。彼に何をしてしまうか分からない。それに……彼が何をしてくるかも分からない。
「発情したΩにだけは気を付けなさい」
 父親はそう言った。彼はΩの支援策を推進する政治家だ。その息子がΩ相手に性的暴行騒ぎを起こすのは確かにまずいだろう。
「分かってるよ」
 庸太郎は今まで通り親の言いつけに従った。旭を遠ざける自分を正当化するのに都合がよかったから。

「なあ、今日の昼はサッカーできるかな?」
 真新しい大き目の制服に身を包んだ旭は、あくまで今まで通り振舞おうとクラスメイトに話しかけていた。しかし声をかけられた者たちの反応は芳しくない。
「昨日の雨で校庭濡れてるし、先輩に先に取られるだろ」
「じゃあ体育館でバスケは?」
「あー、俺たち五時間目の小テストの勉強しないと……」
 めげずに毎日毎日誘いをもちかけるも、旭は遠まわしに仲間から疎外されていった。子供たちの中には、自分が差別をしているという自覚はなかった。Ωは危険なものであり、危険なものを遠ざけるのはごく当たり前のことだと思っていたのだ。
 そんな様子を庸太郎は少し離れたところから見ていた。以前と同じように。すると旭もまたこれまで通りこちらを見る。しかしそこでいつも庸太郎は目を逸らした。彼がこちらに駆け寄ってこないように、見えないバリアを張った。
 多分、旭を無視するのが自分一人だったなら、こんなことはできなかっただろう。皆が今まで通り旭に接する中で、自分だけが彼を突き放すなどできるはずがない。
 でも、皆も旭から遠ざかってくれた。自分だけが悪者になる罪悪感もなければ、自分以外の誰かが旭の傍にいるという嫉妬もない。昼休みの教室で、ぽつんと自分の席に座った旭を見るたびに安心した。
 これから旭に発情期が来たら? 今後旭に優しくする誰かが現れたら?
 そんな不安を先延ばしにして、暫定処置として彼と距離を取る。その間に、自身の胸の内にあるこのどす黒い感情に決着を付けられると信じて。

 しかし時間が何かを解決してくれるわけでもなく、中学の三年間が過ぎ去っていった。その間も、妄想の中で何度も旭を犯しながら。
 庸太郎の中にあった薄ぼんやりとした霧が吹き飛ばされたのは、高校入学直前の春休みのことだ。離れ離れになる中学時代のクラスメイトたちとカラオケで遊んだ土曜日の帰り道、麻里というβの女子と二人きりになった。誰それが付き合っているだのという話に続いて、彼女はこう聞いてきた。
「庸太郎君ってさ、誰とも付き合ってないの?」
「うん。モテないからね」
「もう昔みたいな地味キャラじゃないのにね」
「αの中では地味なんだよ。αの女子のお眼鏡には適わない」
 αはαと付き合うのが当たり前で、αに告白しようとするβの女子などいないのだ。結果、庸太郎はαの女子ともβの女子とも縁がない。
「女の子と付き合いたいとか思わない? 庸太郎君からβの誰かに声かけてみたら、多分皆OKするよ」
 言われて初めて、そんな考えが自分の中に微塵もなかったことに驚いた。確かに、αの女子から相手にされなくても、βの女子を自分から誘えばいいのだ。年頃の男の子なら女子のことを考えて自慰すべきところで、自分はいつも旭のことしか考えていなかった。
 これは本当にαの本能のせいなんだろうか。もしこれが本能でないとしたら、この執着心の名前は――
「……ょっと ねえ、聞いてる?」
「え、いや、ごめん」
「もういいよ」
 彼女はどこか拗ねたように歩を早め、そのまま「じゃあね」と別れた。何か怒らせることを言っただろうか。そう考えかけても、思考はすぐ旭のことに戻ってしまう。
 悶々としたまま帰宅した庸太郎を出迎えたのは、慌ただしいテレビの生中継ニュースだった。どうやら、Ωの講演会で毒ガステロが発生したらしい。
『こちらの正門前で犯人は確保されたとのことです』
 テロが起こった講堂前は進展がないのか、マスコミは門へと移動している。
『とにかく何か叫んでましたよ。これはΩの救済である、とかなんとか』
『いや、もう逃げるそぶりとか全然見せない。堂々としてた』
 録画と思しき目撃者のインタビュー映像が次々と流れていった。
『そりゃあね、街中で急に発情し始めるような事故には困るけど、殺しちゃうほどなのかって話よね。Ωを管理するとか隔離するとか、もっと何か先にやればいいのにね』
 管理、隔離――Ωは皆の嫌われ者。そこでふと思い出したのが、何か月か前に一学年下のΩが校内の保健室で発情してしまった事件だった。
 高校受験間近の大事な時期だったのに、校内のαは全員保健室から離れた音楽室に集められて、結局早退になった。迷惑の根源である発情したΩだけを隔離すればいいのに。帰り道に皆がそう文句を言っていたし、庸太郎自身も同感だった。
 そう、あの時の自分は発情したΩがいると聞いても何の劣情も催さなかった。発情した後輩の顔は把握していたが、彼女の乱れた姿を想像するわけでもなく、迷惑をかけられたという怒りしか湧かなかったのだ。
 やっぱり俺が旭のことをあれこれ想像してるのは、αの本能とは別の感情だったとしたら? 旭へのこの執着心は……。
 一つの可能性に思い当った時、小学生の頃から彼に抱いてきた憧れのような熱い感情が、もっとずっと強くなった気がした。まるで正解だと言わんばかりに。
 しかしこんな単純なことに気付くのに随分時間がかかってしまった。彼と疎遠になった中学の三年間で、彼との関係は冷え切ってしまっている。
 気付いたとはいえ、これからどうしようか。
 教室の隅、廊下側の一番後ろの席にぽつんと座る旭のことを思い浮かべた。彼にはまだ発情期が来ておらず、どれだけ孤立しても授業には出席していた。そのおかげで、次の春から彼は庸太郎と同じ高校へ進学できる。だがΩの一般的な発情開始年齢を考えれば、その時限爆弾はいつ爆発してもおかしくないはずだ。
 突然の発情でどこかの誰かに襲われてしまうくらいなら、いっそ自分のものにしてしまおうか。
 いや、彼との関係を修復することの方が先じゃないか。
 垂れ流される生中継をBGMにしながら、庸太郎は延々と悩み続ける。
 しかし春休み明けの高校入学式に旭が姿を見せることはなかった。庸太郎が所属するAクラスは旭のクラスと最も遠い場所にあったが、新入生にΩがいることも、そのΩがまったく登校してこないことも、クラス中で情報共有がされていた。

 旭の自宅へ行ってみたのは五月になってからで、その家は人の気配もなく静まり返っていた。住宅街から少し離れ、木に囲まれているその建物は、どこか秘密の別荘のようにも見える。
 もしかして引っ越したのだろうか。
 こっそりと門の中へ入り、窓の中を覗き込んでみる。小学生の頃はいつも旭が庸太郎の家に遊びに来るばかりで、そういえばこの家の中に入ったことはない。それどころか、旭の両親に関する認識も酷く曖昧だ。旭の顔立ちからして、彼の親は外国人で日本語が通じないかもしれない――幼い頃のそんな恐怖が旭の家族に対する好奇心を押し留めていたからだ。
 そこでふと、自分の親なら旭の両親と知り合いかもしれないと思い出す。「篠原さん家からもらった」と言って、よく食後にお菓子が出てきていたからだ。
「篠原さんってさ、引っ越しでもしたのかな」
 夕食後に何気なく聞くと、台所で洗い物をしていた母親が皿を取り落として嫌な音を立てた。
「どうかした?」
「ううん、どうしたの急に?」
「あいつが高校に来てないから、どうしたのかなって気になっただけ」
 両親はぎこちなく「どうしたんだろうね」としか言わなかった。

 結局何も分からないまま、高校最初の一学期が過ぎ去っていく。周りがαばかりというクラスの中、庸太郎は中の下あたりを維持するのに精一杯で、他のことを考えている暇がなかったとも言える。
 あのテロ事件の被害者である篠原という画家が旭の両親ではないか――そんな噂を聞いたのは夏休みに入ってからだった。
「親が死んだから、どっか遠くの親戚の家にでも引っ越したんじゃねーの?」
「それなら退学とか転校とか学校に連絡いってるはずじゃん? ずっと欠席扱いなのはおかしいって」
「そもそも画家の篠原は二人ともΩなんだから、子供がいるわけないだろ」
「どっちかが誰かから種だけもらって産んだとか?」
 夏休みの補講が終わった教室で、αのクラスメイトたちが様々な推理を繰り広げる。しかしそれらは庸太郎の耳を右から左へ抜けていった。
 皆が旭に興味を持っている。そこにあるのはΩに対する差別感情だけだろうか。Ωを嫌悪しながら、実はΩに飢えているんじゃないだろうか。中学の頃のように、高校のクラスメイトも皆で旭を遠ざけてくれるだろうか。もし誰かが抜け駆けでもして、Ωの旭に優しくしたら。
 無数の疑念、不安、焦り。庸太郎の頭の中では、ドロドロした何かが徐々に水位を上げてきていた。
 しかし自分と旭は小中学生の頃からの幼馴染で、自分は彼の家も知っている。たったそれだけのささやかな優越感で、その汚れた何かに無理矢理蓋をした。それで何が解決するわけでもないのに。

***

 問題をいつまでも先延ばしにしていたら、夏休み明けにあっさりその時がきた。職員室のドアを開けた瞬間、ずっと探していた旭がそこにいたのだ。彼と目が合った僅かな時間、意識が全て彼に集中する。クラスでのけ者にされていた中学の頃より、さらに寂しく儚げな空気を纏っている気がする。しかしその瞳の輝きは、前より一層強い何かを宿していた。
 吸い込まれる――そう思った瞬間、彼の方から目を逸らされた。自分がいくら感動の再会だと思っていても、旭からしたら疎遠になった幼馴染との気まずい邂逅でしかないのかもしれない。

 不登校だったΩが姿を現した――その話が庸太郎のクラスに届くまでそう時間はかからなかった。
 ある日の昼休みの終わり、少し早めに理科実験室へと移動していた庸太郎の周りでもその話題になる。
「最近さー、あのΩが登校してるらしいじゃん」
「見た見た。別に普通じゃね? 本当にΩなのか? 庸太郎、同じ中学だったんだろ?」
 話を向けられて、庸太郎はなるべく表情を変えずに口を開いた。
「Ωって聞いてるけど、発情してるのとか、それで休んでるのは見たことないな」
「えー、じゃあまだ発情来てないってことか? 慣れてない分、学校で急に発情されっと困るよな」
「ああ、中学ん時そういうΩいたいた。初めての発情で何も気付かず学校来てさー、やめてほしいよな」
 そうだ、皆そうやって旭を迷惑な存在として認識していればいい。誰も近付くな。
 そんなドス黒い本心を腹の底に押し留める。
「まあ、なるべく近寄らないようにするのが自衛になるんじゃないか?」
 周囲が「そうだなー」と同意する声にほっと緊張が解ける。しかしα達の旭に対する興味は完全にはなくならなかった。

 日が経つにつれ、実際に旭の姿を目視した者が増えてくる。昼休みに購買でパンを買った帰りの廊下で、また旭の話題になった。
「なあ、あのΩ見たけどすげーイケメンじゃね?」
「思った。女にモテそうなのにΩってかわいそ」
「あれで女抱く側じゃなくて男に掘られる側だもんな」
 彼らの話題は徐々に下品なものになっていく。
「なあ、あいつがもし股広げて誘ってきたらどう? ヤレる?」
「あー、いけるかも。顔がいい男が男にめちゃくちゃにされんのって、なんかスカッとしない?」
「うわー、性格悪いフツメン」
「だってさ、あのスカしたイケメンがぐちょぐちょに濡らしてチンコ欲しがるんだろ? そんなん――
「やめろよ! 気持ち悪い」
 庸太郎は思わず足を止めて声を荒げた。たとえ妄想の中でも旭に触れられたくなかった。
「庸太郎、どうした? お、噂をすればあそこ」
 彼らの視線の先には、ベンチで誰かとじゃれ合う旭の姿があった。
「やっぱ男とイチャイチャしてんな」
 旭ともう一人の男はパンの取り合いでもしているのだろうか。相手はおそらくクラスメイトのβだ。
 小学生の頃、旭とプリンを取り合う位置にいたのは庸太郎だった。それが今はこの距離にまで離れてしまっている。
 邪魔なβの男を睨んでいると、こちらに気付いた旭と一瞬目が合った。
「やべ、こっち見た」
 周りがそそくさと逃げるのに合わせ、庸太郎も彼から視線を外す。
 このままでは誰かに旭を取られてしまう。そんな焦りばかりが大きくなっていった。

 何もできないまま迎えた体育祭の日、予期せずして旭と接近する機会がやってきた。サッカーの試合で彼のクラスとの対戦になったのだ。
 油断しているクラスメイトを見てまずいと思ったが、既に手遅れだった。旭は鮮やかなボール捌きで次から次へと抜き去っていく。庸太郎が慌てて立ち塞がると、彼は流れるように横へパスを流した。
 相手はこの前の昼休みに見かけたあのβの男だ。ゴールが決まって彼と旭が喜びを分かち合っている。
 旭が皆の中心で輝いている――まるで小学生の頃に戻ったかのような光景だった。
 だから勘違いしてしまったのだ。あの頃のように彼とまた会話ができるのではないかと。

 試合後に一人で水飲み場へと向かった旭を見て、ふらりと後を追う。タオルで顔を拭く彼に向かって、昔のように「旭はやっぱりすごいな」と言おうとした。が、それより先に旭がこちらの影に気付いた。
「何? 俺には近付かないんじゃないのか? 自衛のために」
 刺々しい彼の言葉と冷たい視線。あの頃とはもう違うのだと、痛みをもって思い知る。
「αなんて言ってもさ、やっぱお前俺に勝てねーのな。昔と同じ」
 旭は確かに口が悪いところはあったが、こんな見下すようなことを言うタイプだっただろうか。
 明らかに、何かが彼を変えた。その何かは、しばらく学校に来なかった理由と関係があるのだろうか。
「学校、どうして来てなかったんだ?」
 心の中の疑問をそのまま口にすると、旭は身構えるように固まった。
「ずっと遠巻きにしてたくせに、そんなとこは気になるわけ?」
 彼の反応から、やはり彼の変化は不登校だった理由と繋がっている気がした。
 考えられるのは二つ。
 発情期が突然始まり、事故でαと性交渉した末に妊娠、堕胎、そのショックで療養していたか。
 あるいは、あの噂通り旭の両親は春頃に起こったΩ毒殺テロ事件で亡くなったか。
 その時、少し大きめの笑い声が遠くから聞こえ、庸太郎は思わず旭の腕を掴んだ。彼からの抗議も無視して校舎の裏へと向かう。
「校舎裏でリンチ? αだからってそれはさすがにマズイだろ」
 旭に睨まれて、慌てて首を振る。
「いや、学校休んでたのが何か言いにくい理由ならこっちの方がいいだろ?」
「お前に理由を話してやるの前提かよ」
 話してくれないなら、こちらから当てるまでだ。
「発情期が始まった、とか?」
 小さな変化も見逃さないように、旭を校舎の壁際に追い詰めてじっと瞳を見つめる。
「はっ、お前らどんだけ俺に発情期が来てるかどうか気にしてんの? 中学ん時からさ、『発情期まだー?』ってサカりすぎだろ。来てたとしてもテメーとヤるわけねーっつーの」
「なら、あの事件の篠原って芸術家……あれが旭の親だって噂が本当なのか? 確かに旭の親って、昔から授業参観とか来てなかったけど、何か隠してるのか?」
「な……そんなこと、誰が――
 声も瞳も大きく震えた。こっちが当たりだ。
「本当だったんだな」
「だったら何だって言うんだよ!」
 旭の声に呼ばれたかのように、あのβの男が駆け寄ってきた。
「旭! おい、何してんだお前!」
 男は壁と庸太郎の間に閉じ込められていた旭を引っ張り出し、自身の背後に彼を匿った。
「試合に負けたからってそういうのはナシだろ」
「そんなんじゃない」
 ただ旭と話がしたいだけなのに。唇を噛んで男を睨むが、この場では引き下がるしかなさそうだ。
 二人に背を向けて歩きながら、先ほどの会話での収穫を思い出す。
 彼の両親がαに殺されていた――この半年弱で旭を変えたのはαへの憎しみだ。彼の瞳に宿っていた昏い光の正体が分かり、庸太郎は少しだけ安堵していた。
 彼が憎んでいるのはαであって、自分個人ではないのだと思えたから。

 それからしばらく過ぎたが、相変わらず旭と接触する機会は持てずにいた。彼の家に何度か行ってみても人の気配はなく、すごすごと帰るしかなかったのだ。
 突然旭と急接近することになったのは十一月に入ったばかりの土曜日のことだった。
 その日は家族で買い物や食事に行く予定だったが、その前に政治家の父が支援している施設に寄ることになった。
 応接間に両親と共に案内され、お茶まで出されたが、父の「長くなるかもしれないから周りでも見てきなさい」という提案に頷いた。
 今日はボランティアの学生が子供たちに勉強を教えているらしい。人のいそうな方へ向かおうとしたが、不思議な香りで思わず足を止めた。今まで嗅いだことのない、甘くて心地良い空気が身体をくすぐっている。
 まるで誘われるようにしてその匂いの強い方へと歩を進めた。発生源と思われる部屋を見つけ、その引き戸をガラリと開ける。小さな診察室のような部屋の隅、ベッドの上に旭がいた。まるで運命に引き寄せられたような気がした。
「な……ようた、ろ……?」
「旭?」
「何で、お前、こんなとこに――
「家族ででかける途中に父さんがここに寄ったんだ。施設への寄付金がどうとかって」
 とりあえずドアを閉めると、密室の中で匂いはより強くなる。
「ああ、お前の親父、政治家だっけ。ご支援どーも」
 彼の言葉には棘がある。が、それはα全体に向けられたものだ。庸太郎個人への怒りではない。そう思って受け流した。
「旭は、あの事件の後ここにいたんだな」
「正しくは、ここの分室のグループホーム。今日はたまたま……」
 そこで言葉を詰まらせた旭はどこか様子がおかしい。下半身だけに毛布を被せて大きく息をしている。
 あの毛布の下はどうなっているのか――気になり出したら身体が勝手に彼の方へと歩み寄り始めていた。
「お前、ここに何か用があったのか? 誰かを探してたとか?」
「そうじゃなくて、何か匂いがしたから、無意識に――
 ベッドに座る旭の目の前まで来たところで、彼が素早く防御姿勢を取った。
「近付かない方がいい。お前だって、ずっとそう思って避けてただろ?」
 避けていた? 誰が? 誰を? 何のために?
 答えはないまま旭の身体をベッドに押し倒す。
「や、め……!」
 気になっていたもの――旭にかかっていた毛布を剥ぎ取った。そこが大きくなっているのは衣服の上からでも察することができた。
「旭、お前、これ……」
「知らなかった! 風邪だって言われてたのに、気付いたらこんな――
 ついに来た。旭に発情期が。
 ずっと誰かに取られてしまうのではないかと恐れていたが、誰にも汚されていない旭の「初めて」がここにある。このタイミングで二人が鉢合わせるなんて、運命としか言いようがない。
 今から誰かに横取りされるはずもないのに、庸太郎は慌てて彼のシャツを捲り上げた。誰にも踏み荒らされたことのない新雪のような肌をしゃぶっていると、彼の膨らんだ下半身が目に入る。
 見たい。触りたい。汚したい。犯したい。孕ませたい。
 無我夢中で旭の下半身から衣服を剥ぎ取ると、一際強い匂いが広がった。
「ふ、ざけんなっ……!」
 旭の怒声も無視して、庸太郎は彼のそこを舐め回すように見ていた。
 平均より小さめの性器はフルフルと勃ち上がっており、先端から流れた透明な液がその下にある控えめな二つの袋を濡らしている。そこからさらに辿った先では、小さな蕾がヒクヒクしていた。隙間から僅かに透明に光るものが見えて、誘われるようにそこへと触れる。
「Ωってホントに濡れるんだ」
「濡れるわけ、ないだろ……っ」
 一本指を入れてみると、思ったよりぬめっていたそこはにゅるんと庸太郎の指を咥え込んだ。
「わ、すご……っ」
「やめろって、なあ」
 旭の足がジタバタと蹴ってくるが、逆にその足首を捕まえる。かつては華麗にサッカーボールを操っていたその足を大きくM字に開かせて、前も後ろもびしょびしょに濡れたそこを見下ろした。
 その光景は庸太郎の中にあった征服欲に火を付ける。その炎は最早誰にも消火できないほど激しくなっていた。庸太郎自身でもコントロールできないほどに。
「もう、無理。きっつ……」
 ジーンズの中が苦しくて、大きくなったイチモツを外へ取り出した。そこは今まで見たことがないほど大きく反り返っている。
「っひ……や、め……っ」
 庸太郎の手が離れた隙に、旭は悲鳴をあげて身を捩る。這いつくばって逃げようとする身体を力任せに捩じ伏せ、うつ伏せになっている彼の腰を高く持ち上げた。白い割れ目に自身の怒張を擦り付けて入り口を探す。庸太郎も初めてだったが、本能のまま旭の濡れたそこに押し入った。
「狭……っ」
「んなもん入んないって、この……クソα!」
 言っていることとは裏腹に、旭のそこは庸太郎をすんなり飲み飲んだ。柔らかな襞に性器が包まれる感触――生まれて初めての快楽で、庸太郎はもう完全に理性を無くしていた。
「クソ……抜けよ! 死ね!」
 抗議の声を無視してピストンを開始する。内壁に包まれているだけでも気持ち良かったのに、擦り出したらもう止まらなくなった。
「っぐ……何が、α、だ……てめえらなんて、ただのサカった動物だ……っ」
 確かにバックから彼を犯す今の状態は交尾中の犬のようだ。しかしそんなことを言う旭も、中をうねらせて感じているのは伝わっていた。旭の股間に手を伸ばし、萎えることのないその茎を握り締める。
「先にサカったのはΩの方……だろ? ここ、触ってないのにビンビンじゃん」
 そう囁くとまた旭の中がビクビク震える。言葉だけで犯せるような気がしてさらに続けた。
「それに後ろ、ぐっちょぐちょ……これ、ヤバい」
 わざとらしくぐちゅぐちゅ掻き回してやると、旭は弱々しく首を振った。
「ちが、違う……こんなの、俺の意思じゃ……ない」
「でもΩの意思だ」
 彼は孕みたい。自分は孕ませたい。
 完全に気持ちは一つだと思った。
 愛しい彼の名を呼びかけながら、抽送を早めていく。亀頭球が膨んで、種付けの準備が整っていくのを遠くで感じていた。
「やめ、ろ……っ! くそっ……」
 身体はこんなに求めてくるくせに、旭の口は相変わらず素直になれないようだ。
「ほん、とに……だめ、だって。このまま、最後までしたら……っ」
 言われなくても分かっている。そのためにしているのだ。妊娠させて、旭を手に入れるために。
 頭の中は彼を孕ませることしか考えられなくなり、がむしゃらに腰を振った。庸太郎の欲望に合わせて亀頭球も大きくなっていく。ビクンビクンと痙攣する旭の腰を鷲掴みにして、庸太郎も思い切り射精した。
「……は、ふ……っ」
 旭の身体はまだ小さく震えている。どうやら彼も達していたらしい。シーツは彼の出した精液で濡れそぼっていた。
 旭の中に種を注ぎながら、庸太郎は充足感に満ちていた。旭は自分の子を妊娠する――そう信じていた。萎えないモノを彼の奥にグイグイ押し付けながら。
 こうなってしまったのなら、もうこれ以上何も隠しておく必要はないだろう。熱に浮かされた状態で庸太郎は旭の耳元に囁く。
「旭、旭、ずっと好きだった。俺がαで旭がΩだって分かってから、ずっとこうしたかった。我慢するために避けてたんだ」
 中学の頃から彼を避け、寂しい思いをさせて本当に申し訳なかったと思っていたのだ。しかしこれでやっと二人は結ばれる。
 そのまま十分近く彼の中に精を流し込むことに没頭していたが、亀頭球が徐々に小さくなるにつれて恍惚とした意識も覚醒していく。
 しまった、やらかした、この事態は絶対避けなければならなかったはずなのに――そう認識したのは虚ろな旭の瞳に気付いた時だった。
 心のどこかでもう一人の自分が「駄目だ」「やめろ」と何度も制止していたのに、どうして止められなかったんだ。後悔が一つまた一つ、波のように押し寄せていた。
 悔しさに唇を噛みながら、とりあえず自分の服だけ直してベッドに座る。
 ――発情したΩには気を付けなさい。
 親の言葉が頭の中でこだました。政治家の父にとっては完全な不祥事だ。
 項垂れていると何人かが部屋の中へ慌ただしく駆け込んできた。全く眼中になかったが、どうやら施設の人間に気付かれていたらしい。
 男たちに捕まれて部屋から連れ出される時、背筋がゾクリとするような恐ろしい視線を感じた。その方向をチラリと見ると一人の男がいた。旭と自分の間に立ち塞がるように立つ背の高い男だ。真面目そうな黒髪と、彫りの深い整った顔立ち。そんな彼の目が庸太郎を見ていた。いや、冷たい瞳で睨んでいる。
 僅か一瞬の邂逅の後、庸太郎は診察室を後にした。
「庸太郎! どこに行ってたんだ!」
 男たちに連行される形で廊下を少し進むと、スーツ姿の父が息を切らせながらこちらへ走ってくる。父は診察室の中を一目見てすぐ戻ってきた。αの彼にとっても旭のフェロモンは厳しいらしい。
「なんてことをしたんだ……!」
 彼が怒るのも無理はない。あそこでボロボロになっている旭は、小学生の頃何度も庸太郎の家に遊びに来ていた顔見知りなのだから。
 父は政治家としてのパフォーマンスではなく、本当に親Ωの思想を持っていた。周りの人々に頭を下げる父を見ながら、庸太郎はこれからのことを考えた。
 Ωは発情期に性行為の刺激で排卵し、αから送り込まれる大量の精子によって確実に受精する。さらに受精卵を宿すとすぐに、その身体は完全に防衛に入るという。β用のアフターピルによる受精や着床の妨害ができず、妊娠初期に子宮口から細い器具を入れて掻爬する以外に中絶方法はない。
 このまま産んでくれないだろうか――そんなことを願ってみるが、旭のあの感じだと望みは薄いだろう。
 汗や精液、愛液でめちゃくちゃに汚され、湿ったシーツの上でボロ雑巾のように転がる彼の弱々しい姿を思い出す。
 かつての彼は手の届かない遠い空を飛ぶ鳶のようだった。しかし庸太郎はそれを撃ち落として汚した。地面に落ちた彼を見下ろしてみれば、それは大きな鳶でも何でもなく、ただの小鳥だった。
 そしてその小鳥は庸太郎の子供を産むこともなく、庸太郎のものにもならず、別の籠へと閉じ込められることになる。

コメントをつける
   
お名前
コメント