一条新には父親がいない。よって、父親というのが何をすればいいのか分からないのだ。
子供がまだ「あー」とか「まー」しか言えなかった頃は会話の必要が無かったが、単語を言えるようになってくると徐々にコミュニケーションが必要になってくる。
「未来ー、ごめん、パパちょっとお絵描きしたいから、新と待ってて」
「パッパ!」
「うん、少ししたら戻るから」
新に抱き上げられても未来は旭に追い縋ろうともがく。
「駄目だ」
新は一言そう言うと、アトリエに向かう旭とは反対方向、リビングの方へ未来を強制連行した。ソファに座らせると、彼はジトッとした目で新を睨み、「パッパ……」と恨みがましく呟く。
そう、彼にとってパパとは旭のことなのだ。では新のことは何者として認識されているのか。実はよく分かっていない。少し前は「ばー」と呼ばれていたが、その後少しだけ「あー」になり、最近は無言で見つめてくる。
乳離れする前は旭を取り合って若干険悪な仲にもなっていたが、今は何とも言えない距離感だ。
未来は明らかにしょんぼりした様子で、じっと床に視線を落としている。
見れば見るほど小さい頃の自分に似ている――と新は改めて感じた。何せ今の未来には旭を思わせる要素がほとんど見当たらない。新が細胞分裂してクローンを産んだかのようだ。
落ち込むのにも飽きたのか、未来がモゾモゾとソファからずり落ちようとし始める。
「駄目だ」
未来の身体をしっかり抱え、彼を膝に乗せてソファに座り直した。なんとなくぐずり出しそうな気配を察知して、未来がお気に入りの幼児向け番組をつける。
「わんわ!」
画面に現れた犬の着ぐるみを指差して、未来はぴょんぴょん上体を弾ませた。新はそんな彼を落ちないように抱きかかえ続ける。
もし旭なら、ここできっと「わんわん、可愛いなー」とか何とか言ってやるのだろうが、新にそんなコミュニケーション能力はない。何はともあれ、まずは未来を怪我などの危険から守るのが自分の仕事だった。
三十分ほど経った頃だろうか。テレビを見る未来の反応が徐々に鈍っていき、ほとんど動きがなくなった。
もうすぐしたら昼寝すると思うから――旭がそう言った通りだ。ゆっくりと彼を抱いたまま立ち上がり、そばにあるベビーベッドへと近付く。ここからが肝心だ。そろりそろりとベッドの上に未来の身体を置くと……その鼻がフガフガと鳴り始める。
やっぱり駄目か――そう思うのと同時に、未来からフギャーとぐずった声が漏れた。
「どうしてベッドに置いたのがバレるんだ……」
旭は新の下ろし方が下手なんじゃないかと言うが、そんな自覚は全くない。理由は分からないが、抱いている未来をどこかに置く瞬間は新にとって鬼門だった。
本格的なギャン泣きに移行しないよう、新は慌てて未来を持ち上げてゆらゆらと揺らす。旭が絵を描く時間を妨げるわけにはいかない。
「駄目だ」
じっと見つめると、未来は鼻をひくつかせながら静かになる。
「だっ……だー……」
「?」
彼が何を訴えたいのかよく分からないが、とりあえず落ち着いたらしい。
「おもちゃで遊ぼう」
「だっ」
なんとなく意思疎通がうまくいった気がする。意気揚々と部屋の隅に置かれたブロックの山へ連れて行くと、未来は楽しそうにブロックを一つ一つ新に投げつけ始めた。
***
数日後、未来を寝かしつけ、旭とぼんやりテレビを見ながら、新はふと口を開いた。
「旭……最近未来が俺を見て『だっ』と言う気がするんだ」
「つまり?」
こちらを見た旭が上目遣いで首を傾げる。内心ドキリとしながら、新は咳払いしてその先を続けた。
「これはダッドやダディーという意味ではないかと」
「ないない」
即答だ。しかも鼻で笑われた。
「だってお前、いつも言ってるじゃん。『駄目だ』って」
一瞬どういう意味か分からなかったが、遅れてハッと気付いた。
「それを俺の自己紹介として認識していると……?」
確かに思い返してみれば、旭はいつも未来に向かって「パパだよ」と言っていた。それに対して最近の新が彼に言っていたのは……「駄目だ」。頭に「アイ・アム」を付けて解釈されるとは思ってもいなかった。
少し前の「ばー」も「馬鹿」の意ではないかという疑惑があったが、今回の「だっ」が「駄目」を意味する可能性は極めて高い気がする。
今はまだ「だっ」しか言えていないが、その内に新を指差して「だめ」と言い始めるかもしれない。それはまずい。
「まあ俺も結構『ダメー』って言ってるから、駄目は人の名前じゃないってその内分かると思うけど、他にも話しかける言葉のバリエーション増やしたら?」
暗に語彙力がないと言われている気がする。
「あとは、新も自分から呼び方アピールするとか? パパだぞーって」
「それは旭と呼び方が被ってしまう」
「そう? 俺も親のこと両方とも父さんって呼んでたけど」
「それでどっちに呼びかけたのか判別できるのか?」
「いや、二人ともハモって『はーい』って返事してた」
旭は苦笑いしてから新の肩に凭れかかった。
自分はどう呼ばれたいのか、新には少し想像が難しかった。もし自分に父がいたとしたら何と呼んだだろう。パパ、父さん、親父、父上、おとん……。
小さい頃は『パパ』だったのが、少し経つと『お父さん』になることも多く、幼子の頃の呼び方など深く考える必要はないのかもしれないが。
そこでふともう一つ思い付く。最初はお互いを名前で呼び合っていた新婚夫婦も、子供ができるとお互いをパパ、ママと呼び始める気がする。つまり、我が家も未来に合わせて旭からの呼び方が変わるかもしれないのだ。未来に何と呼ばれたいか考えることは、旭に何と呼ばれたいか考えることに等しいかもしれない。旭にはずっと新と呼んでもらいたいが、かといって息子からも新と呼ばれるのは変な気がする。
「なあ、なんでそんな難しい顔して考え込んでるんだ?」
旭の一言で思考の迷路から我に帰る。彼は少し呆れ顔でも整っているからすごい。思わず彼の身体をぎゅうっと抱き締め、自分はずっと旭を旭と呼ぶだろうと確信した。
***
その翌朝、新は台所でうどんを煮込んでいた。リビングからは掃除機の音。抱っこ紐で未来を括り付けた旭が掃除機をかけているのだ。
涎を垂らした赤ん坊をくっ付けていても、雑誌の表紙を飾れそうなほど絵になっている。心の中でひっそりと旭の完璧さを崇め、そんな彼と一緒にいられることを神――即ち旭に感謝した。
外見だけではない。彼は料理もうまいし、スポーツ万能だし、芸術の才能もある。
しかもこの若さで彼にはかなりの資産があった。高名な画家だった親の遺産に加え、被験者として製薬会社から毎年千万円程が七年振り込まれ続けていて、しかも昨年は研究所内で性的暴行をした証拠が残っていた連中から示談金も回収した。
旭にはしばらく働かなくても十分な蓄えがあるが、彼の絵は最近画商を通して結構な値段で売れつつあるらしい。
どこからどう見ても完璧だ。旭のような人間をまさにスパダリと言うのだろう。
そんな彼と結婚できる人は幸せ者だ。誰だ? 俺だ。
新は大体こんな感じのことを一日一回は考えている。表向きは無表情で。
しかし旭と比べて自分はどうだろうか、と今日はついつい考えてしまう。息子曰く『駄目』だ。一応弁護士のはずなのに。
溜め息をつくのは我慢したが、代わりに隠のオーラがじわじわと周りに滲み出した。
「よし、俺ちょっと洗濯してくるから、新は未来にご飯食べさせといて」
ベビーチェアに置き去りにされた未来は「パッ、パッ」と旭の方へ手を伸ばす。椅子の上で立ち上がってしまいそうになったため、新は思わず「駄目だ」と言いかけて堪えた。
「……お、落ちるから」
そう、なぜ駄目なのかを伝えればいいのだ。それなら語彙が増える。
未来を椅子に座らせ、目の前にうどんの入ったプラスチック製のお椀を置いた。子供用のフォークで掬ってやろうとしたその時、お椀ごと未来に奪い取られた。まずい、手掴みで食べ始める――咄嗟に「駄目だ」が喉まで出かかって、グッと飲み込む。
「あ、熱いから」
本当はかなり十分冷ましたから大丈夫なはずだが、ここはそれらしい理由をつけた。本当は手掴みを許すとあちこちに食べ物を投げたり落としたりするから嫌なのだ。
「あーちちー?」
「そう、そうだ。あーちちーだ」
自分の言葉が通じたのが分かり、新に僅かな自信が生まれる。「駄目」の一言を封印するだけでこんなにもコミュニケーションが捗るとは。
アドバイスをくれた旭に感謝しながらうどんを食べさせていると、ちょうど彼がダイニングへと戻ってきた。
「お、ちゃんと食べてるじゃん。未来、今日は大きい公園行こうな」
旭の呼びかけに未来は「パッ!」と返事をし、その勢いで新がせっかく食べさせたうどんが口から零れ落ちた。
***
その日、家族三人で訪れたのは、車で十五分ほどの場所にある大きめの公園だ。対象年齢別にエリアが分けられており、0歳から3歳でも遊べる遊具がある。
早速ベビーカーから未来を下ろしてやると、よちよち歩きでまずはパンダ型のスプリング遊具へと向かっていった。普通の公園にあるものよりもずっと背の低いそれを、未来は物珍しそうに揺らしている。
「それは乗って遊ぶんだってば」
旭の言葉も無視して、未来はゆらゆらとパンダを揺さぶることに夢中だ。なぜ子供は本来と異なる遊び方を見出してしまうのだろうか。
真剣にパンダを揺らし続ける幼児と、それを戸惑いながら見守るイケメンの様子を、新は後方から腕組みをして眺めていた。が、すぐに未来は別のターゲットへ移動していく。
彼が次に向かったのはこれまた背の低い滑り台だ。この高さだと滑る時間はせいぜい1秒くらいしかないだろう。先に3歳くらいの子供が遊んでいたので、旭と未来はそれを見ながら順番を待っている。前の子は階段を登りきったところから、座らず立ったまま滑り台を駆け降りた。
「未来は座って降りるんだぞー」
旭はそう言ったが、未来の目は先に降りていった子の方をじっと見ている。耳から聞こえるものよりも、今見た光景の方が完全に勝ってしまっている予感がした。子供というのは、なぜか他の子の真似をしたがるものだ。大人が見本を見せたり一緒に滑ったりできればいいのだが、この0歳から3歳児用の遊具の耐荷重的にそれは無理な話だった。
新が滑り台の脇に移動すると、案の定てっぺんで立ったままの未来を旭が必死に横から座らせようとしている。
「ほら、そう、座ったまんまで! スーって!」
後ろで待っている子がいるので、旭も少し焦っていた。「がんばれ」と未来を囃し立てるとやっと滑り出したが、やはりすぐ立ち上がろうとしてバランスを崩す。
前のめりになり顔面からダイブしそうになった未来を、新は横からひょいと抱えて止めた。そのまま抱き上げて滑り台の横に降ろしてやったが、未来本人は何が起こったのか分からないと言った様子で固まってしまっていた。
「新、ありがと。こら、立つなって言っただろ?」
やっと恐怖や驚きが湧いてきたのか、未来の顔がみるみる曇っていく。泣いて旭に抱っこを求め始めるだろうと思いきや、彼は涙目で新に向かって両手を上げ、抱っこの要求をしてきた。
「だっ、だっ……」
嫌な呼ばれ方だが、すぐ隣に旭がいるにもかかわらず、新に抱っこをせがんでくるのは非常に珍しいことだ。初めてかもしれない。本当に自分でいいのか訝しみつつ抱き上げてやると、彼は新の腕の中でぐずぐずと鼻水を啜った。
「未来はちゃんと分かってるんだよな。新が自分のこと危険から守ってくれる係の人だって」
旭にそう言われ、未来はじとっとした目で新を見つめてきた。何を考えているか分からない瞳だが、今なら少しだけ分かる。うまくコミュニケーションも取れないし、変な呼ばれ方をしているが、新が未来の安全を思う気持ちは確かに伝わっていたのだ。
見つめ合っていると、未来が新の顔を指差した。
「だっ……?」
「違う、アラタだよ。あーらーた」
旭の言葉をインプットした一瞬の沈黙の後、未来が新を指差したまま口を開く。
「あー、た……あんた!」
その瞬間旭が思い切り吹き出し、止まらなくなったように笑い出した。それを見た未来も涙を引っ込めてケラケラと笑う。
「あんった、あんた!」
一発ギャグを褒められて何度も披露する芸人のように、未来は新を見ながら連呼した。人々で賑う公園のど真ん中、息子から「あんた」呼ばわりされながら、早く彼が「ら」の発音を習得できますようにと祈るばかりだった。
じりじり言葉を喋れるようになってきた未来VSコミュ障の新の戦いでした。
Twitterの方でおまけもアップします〜。