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 三連休中の大型おもちゃ店はそこそこの人で賑わっている。広いフロアに整然と並ぶ棚の間を、旭はのんびりと見て回っていた。
 明後日の九月十七日は、ミライの一歳になる誕生日。何かプレゼントをあげたいが、何がいいのか迷っている。日々目まぐるしく成長していくため、これから何が不要になって何が欲しくなるのか、その入れ替わりも激しいのだ。
 積み木はどうだろうか。その隣にあるブロックは? 誤飲の可能性を考えると避けた方がいいかもしれない。
 棚を移動すると、小さな車のおもちゃがズラリと並んでいる。男の子向けとしてはなかなか良さそうだ。その隣には電車のおもちゃがあるが、一歳でレールを上手に敷けるとは思えない。案の定対象年齢は三歳以上と書かれている。
 やっぱり知育的には積み木やブロックがいいんだろうか。前の棚に戻ると、ちょうど一人の女性店員が歩いていた。
「あの、すみません。一歳の息子向けにプレゼントを探してるんですけど——
 呼び止められた女性店員は少しだけ驚いたような顔をしてから、ニコリと営業スマイルを返してくれた。
「お子さんへのプレゼントですね?」
「はい、ブロックは定番かなって思うんですけど、うちの子すぐ口に入れそうで」
「こっちの方は対象年齢三歳から四歳以上ですけど、こっちの方の大きいサイズなら一歳半くらいからでも大丈夫ですよ」
 店員が紹介してくれた方は、ブロックが大きいだけでなく、角のない丸みのあるデザインになっている。
「んー、一歳半……。でも確かにこれだけデカければ口に入れないし、そう簡単にぶっ壊れそうにないし、ちょっと早いけどいいかな」
 熟考モードになりかけた旭は、ふと我に返って隣の店員に礼を言った。
「お子様の成長もそれぞれなので、奥様にも聞いてみてください」
 軽く会釈をして彼女は去っていく。旭の身長からαでもΩでもないと判断し、普通のβ夫婦だと思ったのだろう。奥様という単語とアラタの顔を同時に思い浮かべて、思わず吹き出しそうになってしまった。
 その『奥様』も子供を抱いてこの店内にいるはずなのだが、そう言えば先程からすれ違いもしない。ミライが何か気に入ったものを見つけて離れたがらないのだろうか。
 キョロキョロと棚の間を見ながら少し歩くと、ある棚の前で立ち止まっている大きな男を見つけた。しかしこの一帯はぬいぐるみのエリアで、果たして男の子が気に入るものがあるのかは甚だ疑問だ。
「何かいいものでもあったのか?」
 あと数歩の距離で旭が声をかける。しかしアラタもアラタに抱かれたミライも、棚のぬいぐるみに視線が釘付けだ。
「二人して何見て——
 彼らの視線の先を見て、旭は言葉を止めた。そこにあったのは灰色のハスキー犬……いや、おそらくオオカミのぬいぐるみだ。お尻をつけてぺたんと座ったポーズは愛らしいが、その顔には可愛らしさのカケラもない。
 半月型のジト目で、鼻の下の口はまるでロボットのように四角形に開いている。ぬいぐるみらしいモフモフとした毛がなければ、オオカミ型ロボットと言われても納得のデザインだ。
「え……マジでそれが気に入ったのか?」
 棚から一体を手に取ると、アラタとミライの視線は旭の手元に移動する。
「個性的で惹かれるものがある」
「んっ」
 どうやら二人とも本気のようだ。この二人は普段気が合わないくせに、好みはなぜか似ている。
「いやいや、これ可愛くもかっこよくもないだろ。ブサカワ? シュール? 女の子向けでも男の子向けでもないよな」
 ぐるりとぬいぐるみを回すと、尻尾の途中にバツ印の絆創膏が貼ってある。これだけでポンコツ感がグッと上がるから不思議だ。お尻のタグにはポップな字体で「Lupus & Lepus」と書かれている。外資系のおもちゃ店らしく、どうやら輸入物だ。
「何でよりによってこんな……ほら、隣のこれの方が普通に可愛いだろ」
 旭はオオカミのすぐ隣に並んだウサギのぬいぐるみを持ち上げた。しかしよくよく見ると、これもどこかわざとらしい可愛さだ。薄茶色の毛並みと、クリクリとした大きな目、にっこりした口……そしてなぜか血で赤くなっている手元。
 こちらのタグにも「Lupus & Lepus」と書かれているので、どうやらこのオオカミとウサギはコンビのようだ。ロゴの下に小さく描かれたイラストでは、ウサギがオオカミを攻撃している。
「どっちがルプス? レプス?」
「ラテン語だと、オオカミがルプスでウサギがレプス」
 この男はこういう時だけαらしくなる。アラタの解説に旭は小さく舌打ちした。
「外国の言葉だとそれっぽくても、日本語訳したらただのオオカミとウサギじゃねーか」
 言い合う旭とアラタの間で、ミライの視線はオオカミから固定されて動かない。
「旭の意見はとにかく、ミライ本人がこれを欲しがっているなら、誕生日プレゼントはこれだ」
「ウサギの方がまだ可愛げもあるのに」
 旭が再びオオカミを手に取ると、アラタに抱かれていたミライがこちらに身を乗り出してきた。どうやらよほどこれが気に入ったらしい。
「落ちるから危ないってば」
 アラタからミライの抱っこをバトンタッチすると、ミライはすぐに旭の持つぬいぐるみに手を伸ばしてきた。
「一応まだ買う前だから、あんまり触るなって」
 ぬいぐるみをアラタにパスしたその時、ミライの眉間にピクリと皺が入った。
「あ、やば」
 予想した通り、ミライの顔が徐々に赤くなる。
「アラタ、これ買っといて。確かあっちにオムツ交換とかできるベビールームがあったと思うから、俺はそっちに——
 旭の言葉は泣き出したミライの声に遮られる。
「取り上げてごめんって。ちゃんと買うから、な?」
 アラタに持たせていたバッグを受け取って歩き出したその時、一人の女性店員と目が合った。いつからそこにいたのか分からないが、それは先ほどブロック売り場で旭が声をかけた人だった。
 どこか申し訳なさそうに見えるのは、旭の相手が奥様どころか背の高い男だったからだろうか。別にそんなことは気にしなくてもいいのに。
「あー、えと、結局ぬいぐるみになりました」
 何も言わないのも変かと思ってそれだけ言うと、泣き喚くミライを抱えて足早にその場を去った。


***

 帰宅後、買ってきたおもちゃ店の袋を開けてすぐ、リビングにて家族会議が始まっていた。
「おいアラタ、どういうことだ? これは」
 アラタに購入を任せたのはオオカミのぬいぐるみだったはずだ。しかし今袋から出てきたのはオオカミとウサギの二体になっている。しかもご丁寧にそれぞれが個別にラッピングされていたのである。
 テーブルの上に並んだ二匹をアラタは順に指差した。
「このオオカミはミライの分。このウサギは旭の分」
「それじゃ説明不足」
「十七日はミライの誕生日だが、今日十五日は旭の誕生日だ。だから旭にも誕生日プレゼントを買った」
 言っていることはとても甘くてときめいてしまいそうだが、実際彼が買った物は……。
「何でこのウサギ?」
「旭はそのウサギを可愛いと言っていた。オオカミよりもこっちが欲しそうだった」
「それは! あのジト目でへっぽこそうなオオカミと比較したらまだマシって話!」
 両親の会話が退屈だったのか、旭の膝の上にいたミライが早速ぬいぐるみに手を伸ばす。オオカミを取ってやろうとした時、今度はチャイムが鳴った。インターホンの向こうにいたのは宅配便の配達員だ。
「荷物だって。通販とか何か頼んだ覚えでもある?」
「いや——
 アラタは首を振りかけて黙り込んでしまう。
 とりあえずミライにぬいぐるみを与えて玄関から出ると、宅配員が少し大きめの白い箱を持っていた。
「俊輔伯父さんからだった。何だろ?」
 受け取った箱をリビングの中央に置くと、ぬいぐるみを抱きしめたミライもこちらに興味を示した。よく見ると配送箱には百貨店の名前が入っている。
 もしかして、と思いながら外箱を開けてみると、思った通り中には綺麗にラッピングされた箱が二つ入っていた。添えられたメッセージカードには、旭とミライの両名宛てで誕生日祝いの言葉が書かれている。
「ほら、ミライへの誕生日プレゼントだってさ。中身は……靴だ。はは、小さい」
 まだ壁に掴まってたまに立つくらいしかできないが、その内すぐに必要になるだろう。マジックテープのベルトをべりべり剥がすと、ミライが動きを止めた。どうやら警戒しているらしいので、今履かせるのはやめておこう。
 もう一つの箱を開けてみると、そちらに入っていたのは旭用のスリッポンスニーカーだった。
「そーそー、こういう履きやすくて歩きやすい靴が欲しかったんだよな。伯父さんすごい。俺の欲しいものにドンピシャ」
 子供を抱っこしていると普通のスニーカーの靴紐が結べないので、こういったものが欲しかったのだ。試しに履いてみながらふと顔を上げると、ソファのアラタがどこか暗い。いつもの無表情がさらに虚無になっている。
 そういえば、つい先ほどまで彼の誕生日プレゼントに文句を言っていたところだった。それと比較すると、伯父からの贈り物に少し喜びすぎたかもしれない。
「アラタ……? えーっと」
 何かフォローを、と口を開きかけた時、ミライがテーブルの淵に手をついて立った。
「ミライ、どうした?」
 彼は「んーっ」とテーブルの上のウサギを取ろうとしている。
「お前が欲しかったのそっちだろ?」
 床に転がったオオカミを持って気を引こうとするが、ミライの目線は相変わらずウサギに向いている。
 俺がアラタにもらったものだ。どうしよう。
 ほんの僅か、躊躇いが生じる。
 しかしやはり、子供が最優先だ。
「分かった。いいよ、ほら」
 彼の目の前にぬいぐるみを差し出すと、柔らかな感触が手から離れていく。笑顔でウサギを抱き締める子供の姿に、切なさを振り払って愛しさだけを見出そうとした。


***

 その三日後、旭はミライを抱いて国立ABO研究センターの前に立っていた。
 ここはその名の通り、αβΩという性別タイプについて専門的に研究している研究開発法人だ。研究所には病院が併設されており、医療行為も行われている。
 そこのロビーで旭とミライを出迎えたのは公安の保坂だ。
「番犬がいないと気が楽でいいな」
「アラタのこと言ってるならあいつは仕事」
 ぶっきらぼうな旭の態度に、腕の中のミライが不思議そうに見上げてきた。「大丈夫」と彼を抱き直してから、保坂と二人で施設の中を歩き出す。
 フェロモン過多と不妊の症状を持っていた旭も、一時はここに入院していた。しかしそれも白峰製薬の地下研究所に転院するまでの僅か一ヶ月程度の期間だ。あれからまだ十年は経っていないが、旭の記憶の中の景色とはかなり変わっている。
「あ、ここの通路はあまり変わってないんだ」
 通りかかった連絡通路で旭が呟くと、隣を歩いていた保坂は小さく肩を竦めた。
「便利な目だな」
 それには返事をせず無言で歩き続け、辿り着いたのは応接室だ。腕の中のミライは部屋の中をキョロキョロ見回している。
 今日会う予定になっているのは、ここの所長とΩ用新薬の研究主任だ。旭の方が予定より早く着いたため、しばらくここで待つことになる。
「組織は違うとは言え、よくまた治験だの何だの協力する気になったな」
 保坂はだらしなくソファに背を預けてぼやいた。彼は旭が再び非人道的な扱いを受けないための監査役だ。
 旭は決意を固めるように、ミライを抱く腕に力を入れた。
「だって、こいつが大人になったらさ……俺みたいに過剰なフェロモンのΩになるかもしれない。普通じゃない俺とアラタの子供なら、もっと普通じゃない体質になるかも」
 ミライの頭を撫でると、まだ何も知らない彼は首を傾げた。
「その時にちゃんと薬や対処法ができてないと困る。そのためなら、俺はまたこういう研究に協力してもいいって思った」
 言葉の端々に固い覚悟を滲ませると、保坂はどうやら分かってくれたようだった。
「でもそうやって子供ばっかり優先してると、あの旦那が何か言ってくるだろ」
 その言葉でアラタの顔を思い浮かべる。
「まあ、決断が遅れたのはあいつがずっと反対してたからだし……あと、ここ二、三日ちょっと不機嫌そうかも」
 あの旭の誕生日は、結局微妙な空気のまま過ぎ去ってしまった。今日も彼は一緒にここへ来るはずだったのに、あの誕生日の夜、急に仕事が入って行けなくなったと言い出したのだ。果たして本当に仕事なのだろうか。
 伯父からの贈り物にばかり喜んだ上、彼からの貰い物を安易に子供に渡してしまったが、あれはやはりマズかったかもしれない。
「へえ。あの仏頂面、嬉しい時や照れてる時は分かりやすいのに、怒ってる時や不機嫌な時は違いが分からん」
「分かるだろ。頭の中にあるいつもの顔と比べると」
 記憶している彼の映像に重ねれば、眉の角度や眉間の距離、口角の下がり具合が分かる。彼との付き合いが長くなるにつれて、その精度は上がる一方だ。
「その便利な目はまさに、無表情のあいつと番になるための運命ってやつか」
 急に言われた言葉に顔が熱くなる。思わず「そんなんじゃない」と言いそうになったが、声にはならなかった。
 この目がずっと嫌いだった。親の死に顔を忘れさせてくれないから。絵を描く時にズルをしている気になるから。
 でも今はもう違う。アラタやミライとの思い出を毎日残しておけるから。
 赤くなったまま何も言わない旭に、保坂はわざとらしく溜息をついた。
「お前の方も素直じゃないからな。本当はゾッコンなのに」
「な……っ」
「お前が未だに俺に冷たい理由、研究所に残されたあいつを俺が助けようとしなかったからだろ?」
 何も言い返せないのは、それが当たっているからだ。旭だけが先に外へ脱出した後、彼は残されたアラタのために何も動いてはくれなかった。アラタ個人よりも任務の遂行を優先した。
 保坂を心の底から嫌っているわけではないが、それが喉に刺さった小骨のようにずっと消えてくれない。
 無言の旭の横で、保坂は何かを思い出したように「あっ」と小さく声を出した。
「そうだ、ちょうど今預かってる新薬があるんだ。新世代の自白剤用なんだが、まあ柔らかく言うと素直になれる薬だな。試しに使ってみろなんて言われてもその機会がなくて」
「俺で試す気か? 一応まだ授乳中なんだけど」
「安全性は高く作られてる」
「別にいらないし」
「使うも使わないも自由だ。使ったら報告待ってるからな」
 保坂はそう言いながら、旭の手に無理矢理一錠分を握らせた。


***

 素直になれる薬——その日の夕食を作っている間、旭の思考はあの小さな錠剤のことで一杯だった。
 あの誕生日プレゼントについて、素直に「嬉しかった」と伝えるべきか。
 しかし大きな喧嘩になっているわけでもなく、放っておいても彼の機嫌はその内直るのではないか。
 ぼんやりとそんなことばかり考えていたら、炒めすぎて焦げた玉ねぎと、煮詰めすぎて崩れたジャガイモ入りのカレーができてしまった。
 さすがに今更作り直せない、よな。
 鍋の前で項垂れていると、玄関から「ただいま」というアラタの声が聞こえてきた。
 まあ大丈夫だろう。楽観的にそう言い聞かせ、ミライの食事の用意に取りかかった。

 夕食の席には大人二人分のカレーと、ミライ用の離乳食が並んでいる。
「はい、まずこっちから」
 旭はベビーチェアに座ったミライの手を、野菜スティックやバナナの乗ったプレートに誘導した。
「まんま!」
「スープが先? こら、スープは手で食べたらダメ」
 ミライは野菜スティックよりもスープの器に手を伸ばしている。仕方なくスプーンでスープを口元に運んでやろうとするが、ミライは自分の手で食べたいらしい。
「ほら、アラタもスプーンで食べてるだろ」
 向かいの彼をチラリと見て、お手本がてらカレーを食べてみせろと訴える。食べ始めるのを待っていたアラタは「いただきます」の後にカレーを口に運んだ。
 静かに咀嚼している間、ほんの一瞬彼の眉間に皺が入ったのを旭は見逃さなかった。おそらく焦げた玉ねぎに当たったのだろう。
「ごめん、玉ねぎかなり焦がした。ジャガイモも結構くずれて溶けてるかも。不味かったらレトルトもあるしそっちで——
 会話が終わる前に、アラタの真似をしてミライがスプーンに食い付いてくれた。ホッとしていると、テーブルの向こうからボソリと声が聞こえてくる。
「いつもと少し味が違うだけだ」
 彼はそう言ってまた一口淡々と食を進める。今度はもう表情一つ変えずに。
「旭が作ってくれたものなら何でも美味しい」
 その一言に何と返そうか迷い、ミライに食事を与えていた手が止まる。
 アラタはなんでこんなに真っ直ぐ言葉を投げられるんだろう。俺の投げたボールは壁に何度も跳ね返って、向こうに届いてるかすら分からないのに。
 ガチャン、という音で思考が止まる。ミライの手が旭の隙を突いてスープの器の縁にかかっていた。
「あ、こら……っ」
 時既に遅く、スープの器は無残にも横倒しとなり、ミライ用のお盆に中身が全部ぶちまけられる。
「ほら、だから言ったのに」
「ぶー」
「ぶー、じゃないだろ、もう」
 落胆する旭を無視して、ミライはプレートからバナナを掴んで食べた。
「お盆だけ片付ける」
 無事なプレートだけを残し、スープまみれのお盆をアラタが回収する。
「うん、ごめん」
「? 旭は悪くない」
 そう言われても、考え事をしてミライから気を逸らしていたのも事実だ。こんな風に悩むくらいなら、潔く素直になってしまった方がいいかもしれない。
 野菜スティックをムシャムシャ食べるミライの向こうに、例の薬が入ったバッグが見えた。

***

 夜の九時半、ベビーベッドで静かに寝入るミライを見下ろし、旭はゴクリと唾を飲んだ。
 素直になると言っても、やはりまだアラタと向き合うには覚悟が足りない。自分がどんなことを口走ってしまうのか分からないのだ。
 だからまず試しに、眠っているミライへと話しかけてみることにした。
「なあ、あのさ……俺はお前のためなら何でもできるつもりだけど、でもこれだけは返してほしいんだ」
 旭はベビーベッドの端に置かれたウサギのぬいぐるみをそっと触った。
「可愛いどころかちょっと怖いし、名前ももうどっちがレプスかルプスか覚えてないけど、これは俺があいつにもらった物だから……取らないで」
 返ってくるのは寝息だけ。しかしちゃんと言えた。
 ただしこれはあくまで練習で、本番はこれからだ。風呂に入っているであろうアラタの元へいざ——と寝室を出ようとすると、半分開いていたドアがギッと音を立てた。そこにいたのは早々と風呂から上がったらしいアラタだ。
「分かった。明日もう一つ買ってくる。ちなみにウサギの名前はレプスだ」
「い、い、いつから聞いて——
「最初から」
 恥ずかしさに思わず叫びそうになったが、ミライを起こしてはまずい。アラタの身体を押しながら廊下に出て、ゆっくり一度深呼吸をした。
「おかしいんだ、俺。ミライのためなら薬の研究協力でも何でもやってやるって思えるのに、ミライにぬいぐるみ一個譲るのも惜しくなるなんて」
「惜しんでくれた方が俺は嬉しい」
「でもそんなの、親失格だ」
「旭でさえ親失格なら、俺はもっと失格だ。俺はミライにたくさん嫉妬してきた」
 そう、アラタはいつだってミライを優先する旭にむくれていた。そんな彼のことを「まるで子供だ」と揶揄していたはずなのに。
「うん、この一年俺は子育てで一杯一杯だったけど、少しずつ楽になった分、俺自身の欲求みたいなのが戻ってきたのかも」
 いつもより正直に心情を吐露すると、なんだか甘えたくなってくる。目の前にあったアラタの肩にコツンと額をぶつけると、彼の大きな手に頭を撫でられた。
「何もおかしなことじゃない。もうすぐ発情期も戻ってくる」
「……それは分からないけど、今はもっとこうしてたい」
 彼の背に腕を回して抱きつくと、アラタは少しビックリしたようにぎこちなく抱き返してきた。親になる前の、彼と二人恋人同士だった頃に戻ったみたいな気がする。
 結局自分もまだ子供なのだ。あの部屋で社会から隔絶されている間、旭の時間は高校生の頃のまま止まっていた。普通の学生生活、普通の恋愛——何もかも飛ばして急に親になったようなものだ。誕生日が来て二十五歳になっても、その飛ばした部分を求める過去の自分がどこかにいる。
「ミライの親としての俺と、アラタの恋人としての俺……二人に分裂できたらいいのに」
「分かれる必要はないし、そもそも人間は分裂できない」
 きっと今アラタの頭の中には、アメーバのように分裂する旭が思い浮かんでいることだろう。たとえ話にまで大真面目に反応する彼がおかしくて、でも愛おしい。このフワフワした温かい気持ちをいつもなら押し隠してきたところだが、今夜は違う。
「俺、素直じゃないけどさ、お前がしてくれることも、言ってくれることも、どんなに変なことでもちゃんと、その、嬉しい」
「それは何となく分かってきた」
「へ?」
 想定外の言葉に、旭は思わずアラタの肩から顔を上げた。
「旭が言う『嫌』『ダメ』は高確率で逆の意味だ。赤くなって怒っている時も、大抵本当は怒っていない」
 鈍いように見えて、旭の言動に関してはかなり学習したようだ。
「うん……そう」
 アラタの背中を褒めるように撫でてやると、彼は僅かに首を傾げた。
「? ここはまた赤くなって否定する場面だとばかり——
「今日の俺は違うんだよ。素直になる薬を飲んだから」
 旭はアラタの手を引いて、かつて自分が使っていた部屋へと連れ込んだ。高校一年生の頃まで過ごしたこの部屋は、机と本棚とベッドくらいしかない。
 アラタをベッドに座らせてから、低くなった彼の頬を撫でた。
「あさ——
 彼の言葉を塞ぐようにキスをする。唇を離しても彼はビックリして固まったままだ。
「なあ、俺が本気で怒ってないって分かってたのに、なんで落ち込んでたんだ?」
「落ち込む?」
「俺が伯父さんのプレゼント開けた時」
「……それは言えない」
 いつもズケズケとものを言う癖に、今夜に限って彼の方が何かを隠している。
「白状させてやるからな」
 ギシリとベッドに膝をつき、アラタの股間を優しく握った。こうやって旭から迫ると、彼はいつも戸惑うような反応をする。しかし彼がそんな初心な顔をするのも最初だけ。火が点いてしまえば彼の中の別の顔が目を醒ますはず。
 旭は彼のそこを下着ごとずり下ろし、出てきたモノにパクリと食い付いた。
「……ぁ、む、早くおっきくなれよ」
 通常時でも質量のあるそれを上から下へと舌を這わせ、睾丸を食みながら上目遣いでアラタを見つめる。早く欲しいと目で訴えるだけで、彼の欲望はどんどん硬くなった。
「いつも素直でよろしい」
 上向いた彼の亀頭に音を立ててキスをする。そのまま彼のパジャマの上も脱がせると、彼の方からも旭の服に手が伸びてきた。
 ぷちぷちと途中までボタンを外したところで、彼の指は旭の胸を弄り始める。
「だめ、今日のは俺の三日遅れの誕生日プレゼントだから、俺が好きにするんだよ」
 ぺちっと彼の手をはたき落とすと、旭は上も下も全部自分で脱ぎ捨てた。アラタの膝の上に向かい合って座り、緩く角度を上げた自身の性器をアラタの硬いそれに押し付ける。
「ん、一緒にやって」
 旭に言われるがまま、アラタが二人分の竿を握る。この役割はいつも彼だ。大きな手で下から上へと扱かれ、先端部をこねくり回される。他人から与えられる刺激で、旭のそこも大きく硬くなった。生殖には使えないが、ただ気持ちいいと主張するためだけに。
 一方、Ωの中はαを迎え入れるために愛液を満たして準備を始める。旭はアラタに跨ったまま腰を動かし、彼の太ももにぬるぬると入り口を擦った。
「ほら、ここ。早くお前が欲しいってさ」
 腰を浮かせた旭は、後ろ手に自身の後孔へくちゅりと指を入れた。Ωの蜜が糸を引いてとろりと垂れ、アラタの喉仏が上下する。旭は血管の浮いた彼の怒張を濡れた入り口へと導き、そのままゆっくりと腰を下ろした。
「ん……、深ぃ」
 身体が沈み込み、根元まで彼の欲望を咥え込む。焦らすようにゆっくりと腰を揺らしていると、アラタの手によって胸の突起が摘まれた。くにくにと揉まれ、旭の身体が跳ねる。
「……ゃっ、だめ、そこ……」
 条件反射で漏らした声に、アラタの手がピタリと止まった。
「? どー、した?」
「……いや、何でもない。旭の指示に従っただけ」
 と言いつつ、彼の手は旭の腹や脇腹を滑っている。それだけで感じて力が抜けそうになるが、旭も負けじと腰を上下し始めた。中にある彼のものを内壁で扱くように。
「ん……っ、きもち、いぃ?」
 旭の問いかけに、アラタからの返事はない。しかし眉間に寄った皺で快楽に耐えていることはすぐに分かった。でもまだまだこれからだ。
 ぐちゅ、ぐちゅ、と速度を上げようとしたその時、目の前から声がかかった。
「旭、動きたい」
 彼の手は旭の腰をしっかり掴んでおり、今すぐにでも下から突き上げられそうだ。
「ダメ、今日は俺が、その……お前を気持ちよくさせたいから」
「旭の誕生日なのに?」
「俺の誕生日だから、俺がしたいことをしてるんだよ。意味、分かるよな?」
 照れ隠しで唇を重ね、何か言おうとしていた彼の口を封じる。安堵したのも束の間、身体がふわりと浮くような感覚に襲われた。彼が繋がったままの旭を抱いて立ち上がったのだ。
 しっかり抱かれているので落ちる不安はないが、自重で結合がより深くなったような気がする。彼にしがみつくと、耳元で声がした。
「つまり、旭が嬉しいのは俺を気持ちよくさせた時。しかし俺が気持ちよくなるのは、旭を気持ちよくさせた時。そのためには俺が動くべきだと思う」
 まるで証明終了とでも言うような勢いだ。
「分かった、から……下ろせ」
「下ろしたら動いても?」
 旭がコクコクと頷くと、彼はベッドに向き直って旭を下ろそうとした。しかしその直前、彼が旭の身体を抱き直し、大きく上下に揺さぶられた。
「ひゃ……っ、あ」
 旭の嬌声に、アラタの好奇心スイッチがオンになる。まるで抱っこした子供をあやすように、上下にゆさゆさと揺らされた。
「それ、深……っ、ゃだ……あ」
 身体が落ちるたびに、最奥をゴツンと突かれて身悶える。誰にも触れられていない旭の性器が、二人の間でヒクヒクと揺れた。
「ぁ、奥、もっと……っ」
 旭の言葉がねだるような声色に変わると、上下に揺すられる速度が上がり、下からの突き上げも本格化した。いつもとは違う角度で、奥の奥までゴリゴリ擦られる。
「ぁ、ん……っ、もう、イ、く……」
 不安定な態勢と下からの快楽で頭がどうにかなりそうだ。アラタの首に回した手でぎゅうっと抱き着いた瞬間、二人の間で揺れていた旭のモノが白濁を吐いた。しかし彼の動きはまだ止まらない。
「今、ダメ……っ、イッてる、から……っ」
 内壁をうねらせながらビクンビクンと震える中、ゴリュッと今までないほど奥を穿たれる。旭を抱く腕が強張り、何かがどろりと垂れる感触がした。
「馬鹿、こんな……」
 駅弁という体位の名前を思い出して赤くなっていると、旭の身体はようやくベッドに下ろしてもらえた。彼のモノが抜かれると、後を追うように白い液体がドロドロと溢れてくる。
「溜めてた? こんなに出したって、まだ二人目なんてできないのに」
 Ωが排卵するにはまず発情期が戻らなければ。彼の精液を指で掬ってぼやく旭に、アラタが真剣な顔で首を傾げた。
「……『まだ』ということはつまり、時期が来たら二人目も考慮しているということか」
 しまった。どうしてこの男はいつも言葉尻を捕らえてくるのだろう。
 いつもなら「違う、そんなつもりじゃない」と怒るところだが、旭はそれを喉元で押し留めた。
「俺は別に、どっちでも……っていうか、新しく産んだらまた子供につきっきりになるけど、お前がそれでも良ければ……」
 言いながらやっぱり恥ずかしくなってしまい、彼から顔を背けるようにベッドの上をごろりと転がった。すると、背後から腰を持ち上げるように引っ張られ、まだ汚れている双丘の間に硬いものがピタリと添えられた。
「何でまだこんな硬く……っ、こら、急にサカるなってば」
「予行演習」
 旭の許可を待つ忠犬に絆され、結局ベッドの上で第二ラウンドが始まってしまう。そういえばアラタから何かを聞き出そうとしていたような気がするが、それもすぐ快楽で忘れてしまった。

***

 シャワーを浴びて寝室へ戻らなければ——旭がそう思っていても、背後から抱き着いたアラタが離してくれない。ただ旭自身も、もう少しこうしていたいという気持ちがあるのは事実だ。
 腰に回された彼の手にそっと触れ、旭はおもむろに口を開いた。
「去年の俺の誕生日のこと、覚えてる?」
「花を取り寄せた」
 案の定、旭の首元に顔を埋めていたアラタは即答した。
 ちょうど一年前の誕生日は、出産予定日とほぼ被っていた。あの頃のアラタは仕事も休んで二十四時間旭につきっきりだった。いつ産気づいてもいいように。
 旭の誕生日プレゼントをアラタ一人で買いに行くこともなければ、二人でショッピングに出かけるということもなく、代わりに彼が取った手段が通販だった。ギフト向けと思われるフラワーアレンジメントが、旭の誕生日の朝大量に送られてきたのだ。
 当然旭は聞いた。なんでこんな大量に?
 アラタの答えはこうだ。たくさん種類があってどれがいいか分からなかったから。
 だからと言って一つ五千円もするものを二十近く買うのは解せない。彼はいつだって極端だ。
「結局旭は次の日から入院して、退院した頃にはしおれていた。……俺はプレゼント選びに失敗した」
「でも俺は覚えてる」
 誕生日プレゼントに花なんてクサいだのキザだのと口では文句を言っていたが、旭の脳裏にはあの時の光景が全部残っている。届いた時、玄関が花で埋まったこと。アトリエの日向に二人で全部並べたこと。
 いつかこの脳内にあるあの花だらけの景色を絵にしてみよう。アラタにそれを贈ったらお返しになるだろうか。
「ちゃんと嬉しかったんだって、薬で素直になってるついでに言っときたくて」
 去年は出産前でバタバタしていたから、ちゃんとお礼を言えていなかった。
「えーっと、そろそろ素直になる薬も時間切れかな」
 やはり照れ臭くなって起き上がろうとすると、アラタにガッシリと引き止められてしまった。
「旭は素直になる薬なんか飲んでいない」
「え……」
 ギクリと嫌な汗が背中を伝う。
「さっき、嘘を言った」
「俺は嘘なんて言ってないけど」
 反論を無視して、彼の手がまだ汚れたままの旭の下肢へと向かう。長い指が旭の双丘の割れ目からぬるりと入り込んできた。
「っ、ゃ……だめ、だって」
「ほら、まただ。嫌じゃないはずなのに」
「ちが、これは……っ」
 慌てすぎて言葉が喉でつっかえる。
 薬の力に頼らず素直になりたい。そう考えた旭は「どんな恥ずかしいことを言っても薬のせいにしてしまえ」と開き直ることにした。しかしその嘘がバレてしまえば、もういつも通りのことしか言えなくなってしまう。
「いつもの旭も素直な旭も捨てがたい」
 そう言ったアラタは旭のうなじを甘噛みした。
 鈍いのか鋭いのか分からないこの男に、このまま一生勝てる気がしない。もっとも、彼の方には勝ち負けの概念など全くないのだろう。

***

 次の週末、旭とアラタの元を俊輔が訪ねてきていた。リビングのソファに腰掛けた伯父に麦茶を出してから、旭はミライを抱いて彼の隣に座った。
「俊輔伯父さん、この前の靴ありがとう。サイズも色も履きやすさも全部ぴったり」
「ああ、よかった」
「ここまで気配りができる人なのに、伯父さんを振った奴は本当にバカだよな。むしろ俺の方が伯父さんと結婚したい」
 旭が力説すると、俊輔は一拍おいてからフッと吹き出した。
「え、何笑って——
「だって……」
 伯父の目線は旭ではなくアラタにチラチラと向けられている。困惑する旭の代わりにアラタが口を挟んだ。
「俊輔さん、あれは内緒だと——
「いいよ、もうバラそう。旭、あのプレゼントだけど俺がアラタ君に相談したんだよ」
「……へ?」
 鳩が豆鉄砲を食ったように固まる旭を見て、伯父は笑いを堪えながら続けた。
「旭が靴を変えたがってるのも、そのサイズも色も、全部アラタ君から聞いたんだ」
「じゃあアラタが何となく落ち込んでたのって——
 恐る恐るアラタに視線を向けると、彼はムッと引き結んでいた口を開いた。
「自分の手柄だと言えないのが悔しかった」
「旭のお褒めの言葉は実質アラタ君に向けられたものだったわけだ」
 伯父はさらに「内緒にしてたんだけど、あそこまで褒められると罪悪感で種明かししたくなるよね」と続けたが、真っ赤になった旭の耳には届いてこなかった。
 欲しいものドンピシャ。気遣いができる。結婚したい。
 自分が口走ったこと全部、アラタはどんな気持ちで聞いていたのだろうか——それを思うと穴があったら入りたい気分だ。
 なんとかこの話題を流さなければ、と思っていたところに、伯父の一言が耳に入った。
「あ、これL2じゃないか」
 彼が見ているのは例のウサギとオオカミのぬいぐるみだ。二匹はリビングのテーブル上に仲良く並べられている。
「伯父さんそれ知ってるの? えっと確か名前は——
「ルプス・アンド・レプス。海外では有名でLLとかL2とか言われてるんだけど……日本だとあまり受けがよくないんだよね」
「へえ、うちのミライは随分と気に入ったみたいだけど」
 しかし腕の中のミライはテーブルの上に並ぶ二匹にはもう目もくれていない。
「あれ? そういえば今朝はもう触ってないな」
 オオカミのぬいぐるみを「ほら」と近付けても、彼はプイと顔を背けてしまった。
「もしかしてもう飽きた?」
 せっかくの誕生日プレゼントだが、どうやら一週間でミライの中では時代遅れになってしまったようだ。
 ちょうどその時、また室内にチャイムが鳴った。ミライを抱えたままインターホンを出ると、いつも馴染みの宅配員がそこにいた。
「また宅配便だ」
 どうせまたアラタが通販で本でも買ったのだろう。そう予想していたが、宅配員から受け取った段ボールの箱を見て嫌な予感がした。なぜなら、箱の側面には先週行った玩具店のロゴが大きく書かれているからだ。
 リビングに戻り、俊輔が呑気に「どうしたの?」と聞いてくるのも無視して、無言でその箱を開けてみる。旭の目に飛び込んできたのは、整然と詰められた大量のぬいぐるみだ。それも既にテーブル上にいる例のウサギとオオカミだけが何体も。
「……通販で取り寄せた」
 背後から聞こえたのはアラタの淡々とした声。伯父は笑い、ミライは興奮した声を出している。
 確かに大量のフラワーギフトを通販で取り寄せたことに対して「嬉しかった」と伝えた。しかしそれはこういう意味じゃない。
 箱の中でズラリとぬいぐるみが並ぶシュールな図も、旭の中で忘れられない光景になるだろう。生まれた時に神様がくれた目と記憶力のおかげで、頭の中のアルバムは増え続けるばかりだ。

ツンデレな旭にとって「いかにして相手にデレを伝えるか」というのは永遠の悩みなので、多分今後もずっとツンとデレの堺で葛藤し続けるんだと思います。
ところで、レプスとルプス、どっちがオオカミでどっちがウサギだったか私はもう忘れました。
現在本シリーズ本編の同人誌化を検討中ですので、ご興味のある方はぜひアンケートにご協力ください。

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