ディストピア、あるいは未来についての話 裏0-4 | fDtD    
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裏0-4

 徳光が企画した故篠原氏の展示会は、その年の秋に行われた。
 今までの癖で、新は初日に顔を出す。もう、主役の二人がファンと談笑する姿は見られないのに。その代わりに会場をフラフラしていたのは、大きなお腹の徳光だった。彼はすぐに新に気が付くと、ホッホッと駆け寄ってくる。
「来てくれたんだ、良かった」
「盛況ですね。まあ、ファンならこのありがたい機会を逃すわけがない」
「そう言ってくれると嬉しいね。申し訳ないけど、君には旭君と会う機会は用意できなかったんだけど……」
 彼がガックリすると、丸い身体が余計丸く見えた。
「親の展示会に来られるほど、精神的にまだ回復していない、ということですか?」
「旭君は今、施設で生活させているんだそうだ。伯父さんの仕事がどうしても忙しくて、心のケアもままならなかったらしい。でも九月からは高校にも通い始めたらしいから、回復には進んでるみたいだよ」
「施設……」
「うん、くすのき園という児童養護施設で、保母さんやルームメイトの子たちと、普通の家庭のように生活しているんだそうだよ」
 くすのき園という名前をさり気なく頭にインプットする。
「今度会いに行ってあげるといいね」
 徳光の言葉に、新は曖昧に頷いた。


***

 国内最高峰の大学の、それも法曹を目指す法科大学院生だと言えば、くすのき園はすぐに家庭教師のボランティアとして登録してくれた。
 学部生の頃にアルバイトとして家庭教師はやっていたが、ここ最近はご無沙汰だ。うまくやれるか不安だったが、受験を控えた教育ママの家庭よりは、この施設の方がずっと気が楽だった。
 自分の勉強の時間もあるため、あまり多くの時間に入れるわけではなかったが、土曜日は毎週顔を出した。
 学校にも行かず、学習状況が著しく遅れているような子供たちは、ベテランのボランティアがみているようだ。新が担当した子供たちは比較的元気で、ありがたいことに学習にも意欲的だった。この背の高さのせいで、たまに高い高いをねだられる以外は問題ない。
 しかし、密かに目当てにしていた旭の姿は見えない。やはり遠回しにボランティアなどで入らず、篠原旭に面会したいと言えば良かったのかもしれない。

 そんなことを思い始めた十月末、勉強を終えて帰宅の準備をしている時に、子供たちの会話の中に旭の名前が出た。新は何食わぬ顔をしながらも、彼らの会話に耳をそばだてる。
「今度、旭にサッカー教えてもらうんだ!」
「なんで、なんで?」
「この前高校のサッカーで勝ったんだって! よく分かんないけど、旭はすごいんだ! 泳ぐのも早いし、走るのも早いし、サッカーも上手い!」
 新は心の中で「しかも絵も上手いんだぞ」と胸を張る。
「いいなー、俺もやりたい!」
「しょーがないなあ」
 新はゴホンと咳払いをして、喉を整えた。
「あー、旭って言うのは?」
 しらじらしく尋ねると、子供たちはわっと新を取り囲んだ。
「俺たちと一緒に住んでるの!」
「高校生!」
「イケメン!」
「そう、チョーイケメン!」
 どうやら顔の印象が相当強いらしい。小学六年生のあの頃から、旭はどんな成長をしているのだろうか。
「来週、旭もここ来る用事あるって言ってた! 来週会わせてあげる! 超イケメンだから!」
 まるで宝物をこっそり見せてやると言わんばかりに、子供たちは張り切っている。旭がこうやって誰かに慕われているという事実が、新には誇らしかった。
 あと一週間。ほぼ四年ぶりに旭に会える。初めて会った時のドキドキした気持ちが蘇り、時間はあっという間に過ぎていった。
 まさか、最悪の状態で再会することになるとは思いもせずに。


***

 約束の日、勉強時間を終えた子供たちは新の手を引いて施設の中を進んだ。かなり大きな建物だ。共同生活の区画とも、勉強等のためのスペースとも違う、事務的な部屋の並ぶ廊下を小走りで引っ張られていく。
 静かだ。しかしどこかザワザワする。音ではない……匂いだろうか。
「あ、あそこ」
 男の子が指差したのは、小さな診察室のようだ。彼は子供らしくノックもせずに、ガラッとドアを開けた。
 そこで見た光景に、新も子供たちも足を止める。
 部屋の隅にある診察用のベッドの上に、人が二人折り重なっている。上にいるのはシャツとジーンズを着た少し大柄な特徴のない男、そしてその下にいるのは……四年ぶりに見た旭だった。
 彼がゆっくりとこちらに顔を向ける。涙を堪えた赤い瞳はどこか虚ろで、新と子供たちを認識しているのか分からない。
「旭、なに、してるの……?」
 新の足元にいた少年がポツリと零す。彼らにはおそらくここで行われていることの意味が分かっていないだろう。
 旭が身に付けていたと思われるズボンだけが下着ごと床に落ちている。二人の身体の間はここからは見えないが、おそらく、繋がっている。上にいる男のジーンズは、よくよく見れば前が開いているからだ。
 悔しそうに旭がベッドに顔を伏せ、新は慌てて子供たちの視線を遮った。
「向こうで待っていなさい」
 落ち着いて諭すように指示すると、子供たちはまだ心配そうに旭を見てから、小走りで出て行った。
 一人残された新は、震える足を無理矢理動かして彼らの元へ駆け寄る。
 なんだ、この男は。誰だ。誰だ。
 頭を支配する怒りに任せ、男の身体を引き剥がそうとする。だが男の身体は少し動いたものの、彼と旭の間の結合部が見えただけで、それ以上離すことができない。
 αのノッティングという機能を思い出し、新はギリッと歯を食いしばる。
「クソッ」
 一人ではどうすることもできないと判断し、新はその部屋から一度飛び出した。
 汚された。踏み躙られた。大事なものを。
 何がαだ。旭は、あの子は俺のものだ。
 ずっと、ずっと前から大事に思ってきたのに、突然現れたポッと出のαになど渡してたまるか。
 怒りで頭だけでなく別の場所にも血液が行っているようだ。先程から感じている匂いのような何かが、下腹部の奥底にある熱を呼び覚まそうと働きかけてくる。
 おそらく旭は発情期だ。なぜこんな場所でそんなことになっているのかは分からない。そしてあの男は、旭のフェロモンに呼び寄せられて侵入した不届き者だろう。この施設にαはいないと聞いていた。
 あの子がΩで自分がβだと分かった時から、いつかこんなことになるのではないかと怯えていた。
 α。いつも成績で彼らを抜かすたびに、新に嫉妬のような視線を向けてくる奴ら。αというだけで、成績を、Ωを、何もかもを手に入れられると思ったら大間違いだ。
 学習ルームに駆け込んで他のボランティアや施設のスタッフに声をかける。
「向こうで発情した施設のΩの子が襲われています。どこからかαが入り込んでいるようで」
 何人かのスタッフはどこかへと電話をかけ始める。とにかく急いであの部屋へ戻ろうとすると、先に帰しておいた子供たちが寄ってきた。
「旭は、大丈夫なの……?」
「旭が悪い奴にいじめられてるの?」
 今にも泣きそうな彼らの頭を順に撫でる。
「大丈夫だから、待っていなさい」
 新の言葉に、彼らはこくんと頷いた。
 スタッフらを率いて進んでいくと、廊下の途中で何人かの男が足を止めた。
「Ωのフェロモンが効くのはαだけじゃないのか?」
 彼らはそう言って廊下の隅に前屈みで座り込む。どうやらあの子のフェロモンは一部のβにも効果を及ぼしているらしい。確かに、先程から新の中にもおかしな疼きが起こっている。しかし、こんなところで劣情に負けるわけにはいかない。そんなことをしたら、旭を犯しているあの男と同じ、盛った動物に成り下がってしまう。
 αのいないこの施設には、α用の抑制剤はない。理性という名の薬で心を確かに持ち、女性を中心にしたスタッフを連れて廊下を進む。
「こっちです」
 部屋の中を見ると、彼らの交尾は既に終わっているようだった。旭はぐったりとベッドに横たわり、憎い男はベッドの端に座って頭を抱えている。
 何人かの男は「やっぱり無理だ」と言って部屋を出ていく。また間違いが起こらないようにと、フェロモンの効いていない男たちの手で、αの男が部屋から連れ出されていった。
「庸太郎! どこに行ってたんだ!」
 高そうなスーツを着た男が廊下の向こうから走ってきた。
 ヨウタロウ。大嫌いな名前。偶然だろうか。それとも。
 男たちが今起こったことを説明し始める。それをかき消すように、どこかから救急車のサイレンが聞こえてきた。

 救急車から少し遅れて旭の搬送先に行った時、病室には眠る旭とそれを見守る一人の男がいた。新と一緒にいた施設の女性スタッフは「この事態を防げなくて申し訳ない」と頭を下げた。
 旭のベッド脇にいる男は、良く言えば人が良さそう、悪く言えば気弱そうだ。紹介によると、彼は藤堂俊輔という旭の伯父だった。
「偶然、俺が見つけたんです。ボランティアで、勉強を教えに行っていて……」
 藤堂に向かって新が説明する。
「旭は、これが初めての発情期でした。しかし抑制剤もあまり効かず、少しフェロモンが強すぎるということで、こんな離れた部屋に隔離されています」
 藤堂は力なくそう言った。
「相手は、幼馴染だったようで……親御さんが後からお詫びに来ると仰ってました」
「彼は中宮さんと言って、うちに支援してくださっているαの議員さんです。Ωの支援に力を入れている方なので、謝ることはあっても、旭君を責めることはないでしょう」
 旭の幼馴染。Ωの旭にαの幼馴染。まるで運命のような組み合わせ。この子の胎の中には今、あの男の種がある。受精率は100%だ。だがどうせ堕胎する。……しなかったら?
 静かに話を進める藤堂と施設員の横で、新はぎゅっと唇を噛んだ。
 施設の女性が先に帰った後、病室で新は藤堂と向き合っていた。
「俺は、旭の絵を見たことがあります。もう、七年も前に。何度も篠原さんの展示会に足を運んで、旭のことも、ずっと見てきました」
 旭の幼馴染というあの男に対抗するように、新はこれまでのことを話した。
「しかし旭の絵にファンか……この子が起きたら絵の道でも勧めてやってください」
「旭君は、あまり画家の道に乗り気ではなかったようで」
「会ったことが?」
「一度だけ、篠原さんの個展で会話をしたことがあります」
「どうせ、親と同じ職業は嫌だとでも言ったんでしょう。旭は昔から永遠の反抗期なんですよ」
 藤堂の言い草はすっかり親のそれになっている。彼と旭の関係がかなり親しそうなのを見て、どこか微笑ましい気持ちになった。
「確かに、この子はいつもツンとしていますね。一度彼と会話をした時も、変質者だのストーカーだの言われました」
「顔に似合わず口が悪いんです、この子は。親は二人とも柔らかい人だったのに、反動ですかね」
 旭本人が寝ている横で勝手に盛り上がり、別れ際に藤堂は「この子が起きている時に見舞いにでも来てください。きっと喜ぶと思いますよ。口では何を言うか分かりませんけど」と言った。


***

 翌週も施設に向かった新は、子供たちに旭のことを聞いてみた。
「旭、しばらくニューインするんだって」
「怪我させられたのかな」
「皆、何も教えてくれないんだ」
 かわいそうなほど落ち込んでいる彼らは、珍しく勉強に身が入っていなかった。
「今度、一緒にお見舞いに行こうか」
 おそらくもうそろそろ旭の発情期も治まっているだろう。新の提案に子供たちは大喜びだ。
 この前病室で教えてもらった藤堂の連絡先に、見舞いに行ってもいいかと聞いてみる。てっきり快く承諾してもらえるものと思っていたが、返ってきた返信はこうだ。
『来てもらいたいのはやまやまですが、病院側が旭の隔離を強めてしまいました。私以外の外部の面会は謝絶されています。本当に申し訳ない。旭を気にかけてくれてありがとうございます』
 それからと言うもの、連絡をすれば旭の様子を教えてはもらえるが、直接彼の顔を見に行くことはできなくなってしまった。

「ねえ、旭のお見舞いまだー?」
 そう急かす子供たちを躱しながら、あの事件から一ヶ月が経過した頃、藤堂の方から連絡が入った。
『旭は国立ABO研究センターへと行くことになりました。フェロモン過剰なだけでなく、この前の行為で旭は妊娠していないのだそうです。この特別な体質を調べるため、これからは病院ではなく研究所での生活になります』
 会いに行けるかと聞くと、最早伯父である藤堂ですら研究センターには入れないのだと言う。そして年明けに来た藤堂からのメールには、「旭は国立ABO研究センターから白峰製薬の研究所へ移りました」と書かれていた。

 旭との繋がりはそこで一旦途切れることになる。白峰製薬の研究所に面会を申し込んでも、家族以外は駄目だと跳ね除けられた。
 施設の子どもたちは、旭は家族で兄のようなものだと主張したが、面会申し込みの結果は変わらなかった。
 藤堂に聞いてみれば、家族である彼さえもほとんど会わせてはもらえないのだそうだ。しかし彼によると、面会で会う旭は比較的元気で、生活も快適だと言っているらしい。
 本人がそう言うなら問題はないのだろう。そう言い聞かせて、新はいよいよ司法試験に向けての勉強に打ち込んでいった。
 翌年の四月に法科大学院を卒業し、五月には司法試験、六月頭には大手法律事務所からの内定をもらい、九月に司法試験合格発表。
『やったよー』
 泣き顔の絵文字付きで國木田からメールが届いた。彼はふざけているように見えて優秀な男だ。試験に通るのも予想できていた。
 十一月からはすぐに司法修習が始まる。司法修習の終わりは翌年の十一月、司法修習の最後に行われる試験の結果が十二月に出て、一条新は晴れて弁護士として登録された。
 母には何と連絡すればいいか迷った。
『内定先近くに引っ越そうと思う』
 それだけで新が弁護士になれたことは伝わるだろう。
 生まれた時から住んでいるこのマンションの一室は、母が買ったものだった。今、母は事務所のビルに住んでいるため、新がいなくなると無人になる。
『じゃあ売っちゃおうか』
 彼女はあっさりそう返すと、長く住んだ家を本当に簡単に手放した。

 弁護士としての執務を開始してすぐの年明け、新は夜のコーヒーショップで國木田と会っていた。彼もまた都内の中堅事務所で働き始めている。
「いやー、もう一条先生、ですなあ」
「お前だって、國木田先生だろう」
 互いの健闘を称え合うが、大事なのは弁護士になった後だ。
「お前、結局かーちゃんの事務所には行かなかったんだな」
「当たり前だ。誰があんなところでイソ弁なんて」
「でもまあ、お前のかーちゃんって名前は知られたじゃん。逆転無罪の敏腕弁護士って」
 予感した通り、彼女はあのΩ毒殺事件の犯人を見事無罪にしてしまった。遺族は荒れた。社会もあの判決結果に大いに揺れた。彼女はもちろん、バッシングも受けた。
 しかしあの公判結果を見た限り、母の主張におかしなところはなかった。あの犯人は善悪の判断もなく、自らの行為を隠そうとすることもない。丁寧な調査により、精神病を患う前の彼は、極めてまっとうな人間だったことも分かっている。
 心神喪失と判断されうる要素は十二分にあった。後は法廷での立ち回りで裁判官を引き込めるかどうかだ。真実の追求のために揃えた膨大な調書と、人心掌握術による逆転勝利。彼女の腕は弁護士の間では高く評価された。今は死刑確実と言われるような犯罪者からの依頼が、彼女の元へ行くのだそうだ。
「弁護士としての心と、遺族に関わる人間としての心は別だ。俺はやっぱり、母さんと一緒に働けるほどまだ割り切れていない」
「まーな。それに、お前のかーちゃんの事務所に行ってたら、ヤバい刑事案件ばっかやらされてたかもな」
 新の入った事務所は主に企業法務だ。一年目二年目あたりの下積みは色々なことをやらされ激務となるが、その分年収は一年目から一本を越える。母の小さな事務所にいては到底できない仕事と、得られない報酬だった。
「それで? めでたく弁護士になれたこと、旭君には報告できた?」
「……いや、相変わらず駄目だ」
「白峰製薬の研究所? まあΩのための薬ばっかり作ってるΩフレンドリーな会社だからさ、悪いようにはされてないんだろうけど、ちょっとあまりにも厳重なお姫様体制だよなあ。宝物みてー」
 藤堂からはあれからほとんど連絡がない。年に三、四回しか会えない上に、面会内容も近況報告だけだそうで、新に何か伝えるような進展もないのだろう。
「さすがにもう三年だ。何かしら研究成果が出れば外に出られるだろう」
 それは國木田に向けてと言うより、新自身に向けた言葉だった。

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