まさかこんな日が来るとは夢にも思わなかった。
今自身が置かれている状況に対して、真嶋鏡夜は心の中でそう驚くしかなかった。
見慣れた1LDKの自宅マンション。使い慣れたベッド。しかし、そこでいびきをかいて寝ているのは、今までなるべく避けてきた会社の上司だった。彼の名前は二神。下の名前は確か陽人——読み方はいつも見るメールの差出人欄によるとHarutoだ。
その美しく整った顔のパーツとは裏腹に、彼のネクタイはだらしなく緩められている。傍に落ちていた彼のスーツのジャケットを拾い上げた真嶋は、どうしたものかと途方に暮れていた。
見下ろしていた彼の瞼がぴくりと動き、その長い睫に縁取られた瞳が開くのではないかと一瞬身構える。だが、二神は不明瞭な声を上げながらごろりと寝返りを打っただけだった。
僕は何をこんなに恐れているんだろう。
真嶋は自分で自分にそう問いかけたが、答えは大体分かっている。真嶋は二神のことを自分とは正反対の人間だと思っているからだ。
彼はその端正な顔立ちと社交的な明るさで、いつ見ても華やかな場所にいた。良く言えば底抜けに明るい。悪く言えば、ふざけた冗談が好きで、時に不真面目な印象さえ受ける。多くの女性社員たちは、そんな彼のことを「ノリが良くてカッコいい」と評価しているようで、かなりの女性が彼にとっかえひっかえされているとも聞いている。
しかし、真嶋からすれば彼は未知の人種と言っても過言ではない。真嶋はとにかく、冗談の類が苦手だった。自分から言うことも、他人のジョークに返答することも。
真嶋は背も高く、二神ほど派手ではないものの、精悍な外見を持っている。だが、一度も染めたことのない真っ黒な髪が象徴するように、それを異性にアピールすることはしてこなかった。さらにそこにコミュニケーション能力のコンプレックスも加わった結果、社交的な交流とは無縁な生活を送って来たのだ。
もちろんそんな真嶋には二神との接点などなかったのだが、この4月、入社三年目にして二神はワンランク昇進し、彼の下に入社二年目の真嶋が配属されてしまった。
その時、ベッドの上で二神がまた身じろいだ。仰向けになった彼は、何の前触れもなくゆっくりと目を開いた。ぼんやりとした様子で目だけをさまよわせている彼を見ながら、真嶋は声をかけるべきか迷う。だが第一声を考えているうちに、二神の眼が真嶋を捉えた。
「あっれ……真嶋さんだ。俺、飲み会は……」
「とっくに終わってます。僕の家が近かったので、酔い潰れた二神さんを連れていくように言われたんですよ」
今夜はプロジェクトチームで飲む最初の週末だったのだが、目の前のこの上司は少々羽目を外しすぎた。
まだ酔いが覚めないらしく、彼は身を起こしてもなお眠そうな目をして室内を観察していた。
「えー……つまり、お持ち帰り?」
誰が何を持ち帰ったと言うんだろう。
真嶋は即座にそんなことを考えてから、彼の言う「お持ち帰り」の意味に思い当たる。だがそれが分かったところで、何も上手い返しができるわけでもなかった。
「何か……水でも飲みますか?」
真嶋はそう尋ねると、答えを聞く前に逃げるようにキッチンへと移動した。これ以上会話を続けて彼を落胆させたくはなかったからだ。
コップに水を入れて戻ってくると、彼はちょうど大きな欠伸をしているところだった。少しだけ寝ぐせの付いたやわらかそうな茶色の髪を、彼は無造作にごしごしと撫で付ける。
まるで眠くて不機嫌な猫のようだ。
真嶋の頭には唐突にそんなイメージが沸き起こった。
「ああ、ありがとう」
そう言ってコップを受け取った二神を尻目に、真嶋は再びその場を離れようとした。だがその時、真嶋はシャツの裾を引かれて立ち止まる。振り返ると、二神が据わった眼でこちらを見上げていた。
「何かさ、真嶋さんって俺のこと避けてるよね」
「別に、そんなつもりは……」
「いや、絶対避けてる」
二神はコップをサイドテーブルに置き、どこか拗ねたように頬を膨らませている。真嶋は諦めて一度息を吐いた。
「きっと、二神さんは僕なんかと話しても馬が合わないと思いますよ」
「何で? 今のところ1週間、俺たち問題なく話してると思ってたけど」
「それは仕事だからです。それ以外だと……僕にはつまらないことしか言えませんから」
真嶋は自然と声のトーンを落とし、自らの性分と過去を思い返していた。
勉強と部活の弓道に明け暮れていた中高生の頃、マジマ君という呼び名はいつからかマジメ君に変わっていた。不幸中の幸いだったのは、真嶋はメガネを必要とする視力ではなかったため、メガネ君というあだ名は免れたことだ。そして、クラスで中心になるような目立つ者は、真嶋のことを「ノリが悪い」と言って遠巻きにしたものだ。もっとも、なんとなく付き合いがなくなっただけで、大それたいじめなどは無かったのだが。
その後進学した大学の物理学科という場所は、真嶋と同じように内向的な男が多く、それなりに居心地が良かった。大学の弓道部もそんなタイプばかりが集まっていたため、ここ何年かは、社交的ではないものの比較的平穏な日々を過ごしていた。要は、不必要に別世界の人種に近付かなければいいのだ。
入社した今の会社で二神を見た瞬間、彼がその避けるべき別種の生き物であるとすぐに分かった。どうせまた「ノリが悪い」と言われるに違いない。そう信じてこれまでなるべく接触を避けてきたのだ。それがこともあろうに、この春から彼のいるプロジェクトにアサインされてしまった。
「別にお笑い芸人じゃないんだからさ、面白いこと言えなんて無茶言わないって。フツーでいいんだよ。フツーで」
「二神さんの考える普通のラインにも僕は達してないでしょうね」
こんな言い方をすれば、またノリが悪いと言われるだろう。真嶋はそんな予感を持ちつつも、これ以上の返答は思い浮かばなかった。
「そうかな? 俺、真嶋さんのこと好きだよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。見上げてくる二神の顔が赤いのを見て、彼が先程まで泥酔して眠っていたことを思い出す。
「二神さんはまだ酔ってるんですよ」
「酔ってない」
「酔っ払いほどそう言うのは定説です」
「大体、このチームに真嶋さんが欲しいってマネージャーとディレクターに推薦したの俺だし」
ムキになった二神には、酔った冗談らしさはない。どう受け取っていいのか分からず、真嶋はただ困惑した。
「僕たち、会話したこともなかったじゃないですか」
「でも俺はずっと真嶋さんのこと見てた」
「どうして——」
「なんとなく、真嶋さんから視線を感じたから、かな」
真嶋は自分の心がぎくりと跳ね上がったのを感じた。確かに彼の言う通り、真嶋は二神のことを意識していた。プロジェクトごとに人が流動的に移動する社内では、オフィスもそれなりに見通しがよく、彼の位置はすぐに分かる。そんな状況下で、真嶋は二神を避けるために注意していただけでなく、彼をどこか気にかけていた。
「真嶋さんは覚えてないかもしれないけど、俺たち、去年一回トイレで会ってるよね」
忘れるはずがなかった。それが彼への好奇心を生んだきっかけだったからだ。
あの日は仕事が長引いて普段より遅くなり、社内からはほとんど人がいなくなっていた。帰りがけに入ったトイレの中で、真嶋は洗面台で顔を洗う二神の後姿を見つけたのだ。真嶋が思い切って彼の後ろを通り過ぎようとしたその時、二神が顔を上げて鏡の中で目が合ってしまった。
そこにいた二神は、真嶋の知る彼とは決定的に違った。明るい笑顔も飄々とした軽さもそこにはなく、まるで繊細で壊れやすい彫像か何かのようだった。
笑顔がないのはきっと疲れているからだ。目が赤く見えるのは、寝不足のせいか、目に水が入ったせいだろう。印象が違って感じられるのは、鏡越しで普段とは左右が逆に見えているからに違いない。
咄嗟にそんなことを考えた後、やはり見てはいけないものを見てしまったような気がして、真嶋は思わず踵を返してトイレを出てしまった。
「あの日から、なんとなーく見られてる感じがしてさ、俺何か悪いことしたのかなって」
声の調子はいたって明るいが、二神の表情は真嶋の答えにどこか身構えているようにも見えた。
「何も悪いことはしてませんよ。僕はただ、あなたを観察に値すると思っただけで……」
自分は何も見ていない——そう誤魔化すべきだったのかもしれない。馬鹿正直に答えてしまってから、真嶋はまた自身のコミュニケーション能力の低さを恨んだ。
「観察って、まるで朝顔か昆虫みたいな言い方」
「すみません」
言葉の選び方すら間違えた。真嶋は後悔ばかりを募らせたが、ベッドに座った二神は怒るでも呆れるでもなく、むしろ笑いを堪えているように見えた。
「それで? 今までの『観察』を踏まえた中間報告は?」
二神はおどけたように尋ねたが、真嶋はそんな彼の空気にどう合わせていいのか分からなかった。
「報告……二神さんが他の人よりも早く昇進したのは、まあ相応の能力があったからなのかな、と」
「つまり、俺って仕事できる奴ってこと? 褒められてる?」
真嶋は少し躊躇ってから小さく頷いた。
彼は確かにいつもふざけてばかりだったが、彼をしばらく見ていれば、仕事面ではいたって優秀であることが分かった。何かを催促されているところや、やり直しを求められているようなところは見たことがない。むしろ、もう終わったのかと驚かれていることの方が多かった。
真嶋から彼への苦手意識が消えることはなかったが、それは意外な発見となり、彼への興味をいくらか増大させていた。
「あー、よかった。俺、真嶋さんにチャラい奴だって嫌われてると思ってた」
「いや、それもありますけど……。能力と性格は別問題なので」
素直に答えてから「しまった」と思う。だが、見下ろした先にいる二神に怒った様子はなかった。
「真嶋さんってホント正直だよね」
「すみません。正直に言ったら駄目なこともあるって分かってはいるんですけど、つい……」
普段の生活では、一旦考えてから答えるように気を付けている。だが、二神相手に上手く応対しようと焦っているせいか、今日は口を滑らせるばかりだった。
「真面目でいい人そうだなって思ったから選んだんだけど、やっぱり俺は間違ってなかった」
嬉しそうにそう言った二神に、真嶋はただ戸惑う。
「そういえば、真嶋さんは俺より年上なんだから、敬語なんて使わなくていいのに」
「でも、二神さんの方が上司です」
真嶋は大学院まで進み二年長く学生を続けたために、入社自体は学部卒の二神の方が一年早かった。もっとも、この会社に学部卒で入社してくる者はごく稀で、二神がイレギュラーな若さであると言ってもいい。
「それに、僕は職場ではいつもこの口調なので」
「ふーん、まあ確かにそんな感じだよね」
納得したのかしていないのか分からないが、二神はそこで話を打ち切って室内を見渡した。
「ねえ、シャワー貸してくんない?」
会話に困っていた真嶋にとって、その頼みは助け船だ。真嶋はすぐに「用意してきます」と言ってその場を離れた。
彼が自分のことをどう思っているのか、真嶋には見当がつかない。てっきり向こうも、別世界の住人として自分のことなど無視しているとばかり思っていたのだ。それが、むしろ見られていただけでなく「推薦された」というのは、青天の霹靂と言う他なかった。
新しいタオルを出し、新品のパジャマか何かも持ってこなければと頭に留めておく。次にシャンプー類を分かりやすいところに置いた時点で、寝室の方からガタンと大きな音が聞こえた。
慌ててリビングを経由して寝室に戻ると、二神がクローゼットの中を勝手に物色していた。
「ちょっと、何してるんですか」
傍に落ちていた箱をクローゼットに戻しながら聞くと、二神はふらりとクローゼットを離れて、今度はベッドのサイドテーブルの引き出しを開けた。
「何って、真嶋さんでもエロい本とかAVとか持ってるのかなーって思って」
「そんなのないですよ」
クローゼットを閉めた真嶋は、二神が漁っている引き出しを無理矢理閉めた。
「じゃあきっとPCにエロフォルダがあるんだ」
二神がサイドテーブル上に放置されているノートパソコンを睨み付けた。
「ないですって」
真嶋が呆れたように言うと、二神はわざとらしく真嶋に寄りかかってきた。
「恥ずかしがらなくてもいいじゃん。男同士なんだから」
「恥ずかしがってるわけじゃなくて事実です」
彼はやはりまだ酔っている。真嶋は二神を引きはがそうとしたが、軽い力では離れない。
「一人でシないんだ? それってつまり……彼女がいるから毎晩不自由しないとか?」
「どうしてそんなこと答えないといけないんですか」
彼女いない歴26年などということが、この女たらしに知られたら何を言われるか分かったものではない。異性への興味の薄さは、真嶋のコミュニケーション能力への劣等感の中でも大きな位置を占めていた。
今度は本気で二神を突き放すと、彼はベッドに倒れこんだ。少し強引過ぎたかと心配したのも束の間、二神はむくりと起き上がると、ベッドの前に立った真嶋の下半身を引き寄せた。
「あの、二神さん……? ちょっと」
二神はスラックスの上から真嶋の股間をさらりと撫でた後、その中心をぎゅっと握った。
「別に、俺は真嶋さんに彼女がいようが、毎晩スッキリしてようが関係ないんだけどさ、俺の方は溜まってるんだよね」
「だからって、何を……」
二神の手の中でやわやわと揉まれたそこは、久々に昂ぶり始めていた。
「だから、二人で気持ちいいことがしたいなーって」
上目遣いでそう誘われて、真嶋は僅かにたじろいだ。だが、彼が相当酔っていることを思い出し、意を決して彼を引き離す。
「二神さん、何度も言うように、あなたは酔ってるんですよ。大体、あなたなら他に相手はいくらでもいるでしょう。今こんなことしたら、明日になって後悔しますよ」
そう言い聞かせると、俯いていた二神の肩が小さく揺れた。
「ただの冗談だって。ほんっと真嶋さんって真面目だよね」
顔を上げた彼は、いたずらに成功した子供のように笑っている。本気で動揺した自分が恥ずかしくなって、真嶋はただ立ち尽くした。
「じゃ、俺シャワー浴びてこようかな」
勢いよく立ち上がった二神は、すれ違いざまにまた真嶋の下半身に触れる。
「俺が出てくるまでにソレ、何とかしといて」
固くなった真嶋のそこを、二神はわざとらしく掠めてから寝室を出ていった。
やっぱり彼はいけ好かない男だ。いいように弄ばれた真嶋は、あの男の「冗談」が残していった熱を鎮めようと試みた。
元より真嶋は性欲が強い方ではない。と言うより、性的な衝動を覚えること自体が稀であった。先程二神の詮索に対して答えをぼかしたが、一人で処理することも実際ほとんどないのだ。だから、今の状態もすぐに治まると思っていた。
ところが、ベッドに座って目を閉じても、思い浮かぶのは先程の二神の表情と感触ばかりで、治まるどころかどんどん悪くなっている。
このままにしておくわけにもいかず、真嶋はスラックスの前を寛げると、下着の中に手を突っ込んだ。少し扱いてやるだけで、先程初めて他人に触れられた感触を思い出し、みるみるうちにそこは完全に勃ち上がった。
もしあそこで、二神が冗談だと言わなかったら。あの先を続けていたら。
真嶋の想像の中で、二神は楽しそうにそこをいじくり回した。こんな風に、実在する特定の誰かを想像しながら自慰するなど、未だかつてなかったことだ。真嶋は、心の隅で戸惑いと罪悪感を覚える。だが、妄想の中の二神はさらにエスカレートし、真嶋の先端部をぺろりと舐めた。
「……っ」
受け止めた掌にどろりと何かが流れる感触で、真嶋は自身が吐精したことに気付く。
僕は何てことをしてしまったんだ。
卑猥な空想が消えてクリアになった思考で、真嶋はただただ自己嫌悪に陥った。ここまで直接的な想像で衝動的に自己処理をしたことなどなかったのに。
ゆっくりと立ち上がって、ティッシュペーパーで掌を綺麗に拭う。そのままシャツとスラックスを脱ぎ、部屋着にしているTシャツとジーンズに変えてから、そういえば二神の着替えをまだ用意していなかったことに思い当たった。
洗面所まで行ってコンコンとノックをするが、返事はない。代わりに、シャワーの水音だけが聞こえてきている。真嶋は洗面所のドアを開けて、かごの中に持っていた衣服を入れた。
「服、置いておいたから使ってください」
擦りガラスの向こうのバスルームに声をかけるが、何も返答はなかった。きっとシャワーの音で聞こえていないのだろう。そう判断した真嶋は、それ以上追及せずにリビングへと戻った。
適度な酔いと先程の自慰による疲労が眠気を誘っている。真嶋は二人掛けのソファに座って欠伸をした。ベッドに行きたいが、今日は客人がいる。そしてこの家に予備の布団はない。今日はこのソファで眠るしかなさそうだ。
真嶋は狭いソファの上でごろりと横になると、すぐに目を閉じる。眠る前に思い浮かぶのは、この数十分の出来事ばかりだ。本当に今晩は予想外の連続だった。この短時間であの男に散々振り回された。だが不思議と、そこまで嫌な感情はなかった。
どうしてだろう——その問いへの答えはすぐに見つけられそうもない。あの男が自分の能力を買ってくれていたからだろうか。あるいは、真嶋はあの男を避けていたが、それと同時に興味も持っていたからかもしれない。
そんなことをつらつらと考えているうちに、真嶋はゆっくりと眠りに落ちていた。
***
「真嶋さん、起きないと遅刻するよ〜?」
耳元でそう囁かれ、真嶋はがばりと身体を起こした。ソファの脇には、サイズの合っていないパジャマを着た上司。昨日の出来事を思い出してから、すぐに壁の時計を見やる。時刻は9時を示していた。
慌てて立ち上がった真嶋は、速足で洗面所へと向かう。手早く顔を洗いながら考えるのは今日の予定だ。
何か午前中に会議はなかったか? クライアントとのミーティングはなかったか? 外部との予定さえなければ、裁量労働なのだから少しくらい遅れても問題はない。今日は何曜日だったか……。
そこまで考えてから、今日が休みの土曜日であることに気が付く。顔を洗っていた手を止めると、生ぬるくなった水が顎からぽたりと零れ落ちた。
リビングに戻ってみれば、空いたソファを占拠した上司がちゃっかりテレビをつけていた。睨み付ける真嶋の視線に気付いたのか、二神はちらりとこちらを見た。
「真嶋クン、土曜出勤ご苦労」
「しませんよ」
真嶋は呆れながらキッチンへと向かった。冷蔵庫から水のペットボトルを出して飲みながら、朝食はどうしようか考える。そこでふと目に入ったシンクには、昨夜二神に出したコップが置かれていた。そういえばあれ以来、彼に何も出していない。
真嶋は洗ったコップに再度水を入れて、リビングにいる彼のところへ持っていく。
「二神さん、朝食……何か食べます?」
「え、真嶋さんが作ってくれんの?」
「作るというほど大したものじゃないですけど……」
「食べる食べる! 俺真嶋さんが作った目玉焼き食べたいなー」
まさかメニューまで指定してくるとは思わなかった。だがそう難しい注文でもない。
「分かりました」
そう答えた真嶋がキッチンへ戻ろうとすると、二神は「えっ」と小さく声を上げた。
「ホ、ホントに作ってくれんの?」
「二神さんがそう言ったんじゃないですか。まさか、また冗談だなんて——」
「いや、冗談じゃないっ。食べたい、超食べたい!」
よく分からない男だ。真嶋は首を傾げつつもキッチンへと向かった。
「真嶋さんって料理も上手なんだー。真嶋さんが俺の母さんかお嫁さんだったら良かったのに」
ほどよく焼けた目玉焼きを半分ほど食べたところで、二神がそう呟く。
「『父親か夫』の間違いじゃないんですか」
真嶋が性別の違いを指摘すると、二神はおかしそうに笑った。
ああ、これもまた彼の冗談だったんだろう。大体、こんな目玉焼きとトーストだけで料理の上手い下手を判断するなんてできるはずがない。
そう気付いた真嶋は、ばつが悪いのを誤魔化すように自身の朝食へと集中した。
「それにしてもここ、いい物件だよね。バス、トイレは別、寝室も別、リビングもダイニングもあるし。高そうだけどうちの給料ならいけるんだろうね」
二神はダイニングのテーブルから見える範囲をぐるりと見渡した。
「ここって会社から何分?」
「地下鉄で一駅。全部で大体20分もあれば着きますね。電車を使わなければ30分くらいでしょうか」
「いいなー。俺なんて大学の時からそのまま引っ越さなかったから、部屋はワンルームだし、通勤片道1時間くらいかかるし、タクシーだともっと時間かかるし。おかげで終電逃したら、睡眠時間重視でその辺のホテル泊まり。お金もったいないよね」
「女性同伴で部屋を取らなければ、もっと節約できるんじゃないですか」
遅くまで残業した彼が、他の女性社員とホテルに行っていることは有名な話だった。
「へえ、真嶋さんもそういう話知ってるんだ。もしかしてヤキモチ焼いた?」
「だ、誰が、誰に……」
真嶋がごほごほと噎せていると、二神はにやりと笑った。
「いやー、真嶋さんが気になってる子を俺が食っちゃってたかもしれないし? むしろ真嶋さんの好きな人は俺かもしれないし?」
「そ、そんなわけないじゃないですか」
そう答えてしまってから、ここはまともに返答すべき場面ではないのかもしれないという考えが頭を過る。
「なーんだ、サスペンスばりのドロドロの三角関係があるかと思ったのに」
案の定、二神は大げさに残念がって見せた。真嶋は、手の中に残っていたトーストを全部口に入れると、そそくさと空いた食器を集めてキッチンに逃げようとした。だが、それを引き留めるように、二神が口を開く。
「あー、俺もここに住みたいなー。そしたらもう誰かとホテル行く必要もないんだけどなー」
「な……」
驚いた真嶋は危うく皿を落としそうになる。本気か、冗談か。本気で言っているならば答えは当然ノーだが、そこまではっきり断っていいものか。たとえ冗談だとしても、はたしてどう返せばいいのか。真嶋が言葉を詰まらせていると、二神はふふっと笑った。
「冗談だってば。昨日から話してて、もう俺がどんな人間か分かってるでしょ? なんで全部真面目にリアクションするかなあ」
彼の口調には、真嶋を馬鹿にするような気配はない。純粋な好奇心に満ちた瞳が、真嶋をじっと見ていた。
「なんでって……もしかしたら冗談じゃなく本気かもしれないじゃないですか」
「俺がこんなにふざけた奴でも?」
「だとしても、あなたの言葉が100%冗談だとは限らない」
我ながら面倒な性格だという自覚はあった。だが、真嶋はどうしても「どうせ冗談だろう」と曖昧な推測で済ませることはできない性分なのだ。
目の前の二神は、驚いたようにぱちぱちと瞬きをした。
「うん、やっぱり真嶋さんは俺が思った通りの人だ。良かった」
てっきり頭が固いと言われると思っていた。真嶋はまた軽い戸惑いを覚える。
「じゃあ、もし仮にさっきの俺の話が本気だったとしたら、真嶋さんの答えは?」
さっきの話というのは、「ここに住みたい」という話だろうか。一度冗談だと言ったのに、なぜもう一度聞くのだろうか。そんなことを考えつつ、真嶋は懸命に答えを紡いだ。
「正直に言わせてもらうと……二神さんとはまだあまり付き合いが長くないので、その、部屋をシェアするという段階には早いです。同居人が一人増えれば、正式に大家さんにも言わないとならないですし……。ただ、本気で困ってると言うのなら、終電がなくなった日だけここを使う、というのが妥当なラインかと……」
この答えで適切だったか不安になり、真嶋の言葉は尻すぼみになる。ちらりと二神を見ると、彼はさっきと変わらず真嶋のことを穴が開くほど見ていた。
「真嶋さんって、何て言うかホント『良い人』だよね」
「お人好しって言いたいんですか」
「そうじゃなくて、うまく言えないけどさ」
気恥ずかしくなった真嶋は、今度こそ食器を持って席を離れた。
「いやー、でも意外と本気で聞いてみるもんだね。終電無くなったら泊めてもらえるんだって。やった」
キッチンまで来たところで、背後からそんな声が聞こえてくる。あの男の口車に乗せられてしまった気がしないでもない。
「次来た時に歯ブラシとか置かせてもらおう。あ、真嶋さん、このパジャマ俺用にとっといてよ。駅前のスーパーで2980円だって? 値札付いてたよ。あ、プライベートの携帯番号とメアド後で教えてね。それと——」
この年下の上司と本当にこれからうまく付き合っていけるのだろうか。まだべらべらと喋り続ける彼の言葉を聞きながら、真嶋の不安は増大するばかりだった。