コンサルタント、あるいはシンクタンク、あるいは研究所と呼ばれるような職業は、とにかく忙しいの一言に尽きる。しかし昼時のオフィスは人口密度も下がり、朝夕に比べればその空気は緩やかなものだった。
「二神さん、資料作成終わりました」
自分の分担タスクを終えた真嶋は、上司のデスクに向かって簡潔に報告する。
「後でチェックしておくから。あ、あのフォルダに入れたよね?」
「はい」
「ファイル名上書きしてないよね?」
「日付を変えてあります」
返事をすると同時にノートパソコンをぱたんと閉じる。時刻はもう13時に近いが、真嶋はまだ昼食をとっていなかった。この時間だとコンビニの棚は寂しいだろうが、逆に飲食店には徐々に空きが出ているだろう。
そんなことを考えながら席を立つと、二神が慌てて呼び止めてきた。
「真嶋さん、もしかしてご飯?」
「そうですけど」
「だったら俺も行く」
二神は手早くパソコンをスリープにすると、財布を取り出して立ち上がった。
「コンビニじゃなくて、どっか食べに行くよね?」
どうやら彼も同じように考えていたらしい。真嶋は黙って小さく頷いた。
社内の廊下は、昼食から戻るためにすれ違う人の方が多い。これから仕事に向かう人間と、これから休憩に入る二人では、進む方向だけでなく気分も真逆だ。
「それにしても、真嶋さんはいつも一番仕事が早いよね」
エレベータに向かう途中、ふいに二神が呟いた。
「まだデータ収集も分析も山ほど残っていますから……単に急いでるんです」
「それは他の二人も同じでしょ。それに、新しいプロジェクトで一から勉強する段階って、人によって速度に差が出るところだけど、真嶋さんはそれが早くてびっくりしたよ」
真嶋の他に今は二人のメンバーがいるが、そうやって比較されてもどう答えればいいのか分からなかった。人付き合いのうまい彼は、真嶋に限らず他人を褒めるのがうまいのだ。
何より、自分たちの中で断然仕事ができるのは二神だった。指示して調べさせた分析データを元に、彼の頭脳は柔軟に思考する。彼が脳だとすれば、真嶋たちはそこに情報を伝達する神経に過ぎない。自分と他のメンバーとの比較よりも、自分と二神との差の方が遥かに大きい。1か月以上共に働いて分かったことだが、彼の能力の高さは想像以上だった。
「そういえば、うちのプロジェクトにはこれ以上誰か入れられないんですか?」
真嶋は話題を転換して尋ねた。今の状況はいささか一人当たりの負担が大きいように感じていたからだ。
「誰も手が空いてる人いないんだってさ。どこか大きいプロジェクトが解散にでもなれば、あるいは」
「まあ、その予定もないんでしょうけど」
今の仕事量がどれほど続くのか考えると、真嶋の声のトーンはいつもよりさらに低くなった。
「ああ、でもほら、もう少ししたら研修が終わった新人が来るってマネージャーが言ってた」
「それは逆に手がかかりそうですね。僕、教えるのは得意じゃないので……」
真嶋はそこで言葉を止めた。二神はもしかしたら、新人が来るという話で真嶋を励まそうとしてくれたのかもしれない。これ以上愚痴を言っても何もならないどころか、彼の好意を無駄にしてしまう。
「真嶋さん冷たーい。どうせかわいい女の子だったら掌返して喜ぶんでしょ」
「それは二神さんの場合でしょう」
少しくらい返答にしくじっても、二神相手だと気まずくならずに会話が進んで行く。彼との会話は楽だった。1か月前は彼との接触すら恐れていたことが嘘のようだ。
エレベータホールの少し手前で、数人の男性グループと出くわす。彼らも比較的華のある見た目で、二神と親しい人間、すなわち真嶋からは遠い存在だ。軽く挨拶をかわす彼らを見ながら、真嶋はなるべく気配を消そうとした。このひと月余りで、こんな対処にも既に慣れ始めている。
「二神んとこはこれから昼?」
「デート!」
二神があっけらかんとそう言うと、男たちの中からヒューッという口笛が上がった。
「ごゆっくり」
そんな言葉と笑い声を残して彼らが立ち去る。
「二神さん、デートって誰とですか? そんな時間はないですよね」
彼と行動を共にするようになって、大体今のが冗談だったことは予測がつく。しかし彼の女性関係が幅広いこともまた事実だ。念のためと思って確認すると、二神はわざとらしく驚きの表情を作った。
「誰とって、そんなの真嶋さんとに決まってるじゃん! 二人の時間を楽しみにしてたのは俺だけだったなんて!」
二神は目元に手を当てて嘘泣きのポーズをしながら、変に女々しい声を作っている。真嶋はそれを無視してエレベータホールに向かった。
「真嶋さん、待って待って」
背後からは普通に戻った彼の声。
しばらく見ていて分かったことだが、彼はこういった同性愛的なジョークをよく使うのだ。彼のこの冗談のノリにどう合わせるべきなのか、真嶋はいつも分からないでいた。二神から「ツッコミがない!」と文句を言われようが知ったことではない。
正直に言うと、本当の同性愛者に失礼ではないかと思うこともある。そういう冗談は学生までにしてくれないかと言いたくなることもあった。しかしそれを言うと「空気が読めない」というレッテルを貼られることは、これまでの経験上しっかり分かっている。それに、なぜかは分からないが、彼を心から憎めないのも事実だ。
真嶋がエレベータの下行きのボタンを押すと、すぐに小さくベルの音が鳴る。他にも数人の乗客がいたエレベータ内では、さすがの二神も軽口を叩くことはなかった。
「あれ、二神君だ」
一人の女性がそう声をかけてきたのは、ちょうど1階でエレベータから降りた時だった。どうやら彼女も隣のエレベータから降りたところらしい。
「香田さん」
香田と呼ばれた女を真嶋は見たことがなかった。おそらく同じビルで働く別の会社の社員だろう。そこまで派手な出で立ちではないものの、くっきりとした化粧のせいか、どこかきつい印象を受ける。
「香田さんも今からお昼?」
「うん、良かったら一緒にどこか——」
そこまで言いかけてから、女はちらりと真嶋を見た。きっと邪魔だと思われているのだろう。
二神といると、いつもこうやって彼の周りには人が集まってくる。そのたびに真嶋はどこか居心地の悪さを感じてきた。自分が友達だと思っている相手には、自分以外にたくさんの友達がいる——学生時代から味わってきたそんな苦い感情に近い。
「じゃあ、僕はここで——」
真嶋は立ち去ろうとした。だが二神は慌てたように真嶋の腕を引っ張る。
「待って、真嶋さん。香田さん、今日はゴメン」
「二神君、最近付き合い悪いね。夜も全然捕まらないし。最近帰り早いの? それともついに彼女でもできた?」
予想はしていたが、やはり彼女も二神の夜の相手の一人のようだ。
「ううん、どっちでもないけど……とにかくここのところ疲れててさ、一人でホテル行ったり、朝まで会社で寝たりしてる」
「そっか。新年度って色々大変だし、特にこの時期ゴールデンウィークの後ってドッと疲れが来るよね」
彼女は納得したようにそう言うと、また真嶋にちらりと視線を寄越す。こいつさえいなければ——そう言われているような気がした。
「あ、香田さん。アイシャドウ変えたでしょ」
二神が話を振ってくれたおかげで、彼女の視線は真嶋から外される。
「俺、今の色の方が好み」
「でも、お昼の誘いはお断りなんでしょ?」
「ごめんって。もう少し落ち着いたら連絡するからさ」
噂に違わず、二神はいつもこうして女を落としているのだろう。目の前で繰り広げられるやり取りから、真嶋だけが断絶されているようだ。
二神は彼女に軽く別れを告げると、掴んでいたままだった真嶋の腕を引いて歩き出した。
「彼女と行かなくて良かったんですか?」
ビルを出て少し歩いたところで、やっと二神は真嶋から手を離した。彼女の方もビルを出たのだろうが、振り返ってももう姿は見えない。
「だって、先に真嶋さんと昼食べるって決まってたじゃん」
「別に僕は構いませんよ」
「あ〜、むしろ上司と一緒に飯行くくらいなら一人の方が気楽だな〜とか思ってるんでしょ」
二神の方が少し前を歩いているため、彼の表情は見えない。
「そんなんじゃないです。あの場で僕は明らかに邪魔者だったじゃないですか。僕はただ、彼女からいらない恨みを買いたくないんです」
「恨み?」
二神はくるりと振り返って首を傾げた。
「彼女、僕を睨んでましたよ」
真嶋が苦々しくそう言うと、二神は一瞬ぽかんとした後、堪え切れないというように吹き出した。
「何がおかしいんですか?」
「だ、だって……」
真嶋は二神が何とか笑いを抑えるのを待った。
「真嶋さん、そこは普通の男だったら『あの子俺のことめっちゃ見てた! 俺に気があるんじゃないか?』って言うところだよ。なのに、睨んでたって」
そこまで言うと、二神はまた思い出したようにふるふると笑いながら歩き出した。何がそこまで楽しいのか全く理解できない。この一か月で彼とはいい関係を築けていたと思っていたが、やはり彼のようなタイプの人間とは分かり合えないのだ。
「『普通』じゃなくて悪かったですね」
真嶋が立ち止まったまま呟くや否や、二神はぴたりと足を止めて真嶋の横へと戻ってきた。
「悪いなんて誰も言ってないって。俺は真嶋さんにそのままでいてほしい」
「言われなくても、どうせ僕はこのままです」
「うそっ、なんか真嶋さん怒ってる?」
「別に怒ってません」
真嶋の心の中で燻っているのは怒りというより劣等感だ。真嶋が歩き出すと、二神も全く同じ速度でついてくる。
「俺が笑ったの、別に嘲笑とかそういうんじゃなくて、俺の周り真嶋さんみたいな人いないから新鮮で……あの、聞いてる? 真嶋さん?」
いつも飄々とうまくコミュニケーションを取っている二神が、今はどこかおろおろしている。彼の言葉に嘘や冗談の影は一切見えない。彼のこんな姿は本当に意外だった。
やっぱり、彼は僕のことを馬鹿にするような人種じゃないのかもしれない。
たった今失われかけていた彼への信頼が、自分でも不思議なほどごく自然と修復されていく。
「あなたに悪意がないことは分かってますよ」
真嶋が少しだけ笑うと、二神は「あっ」と小さく声を上げた。
「何ですか?」
「え、いや……真嶋さんはさ、もうちょっと——」
二神はそこで口を噤んでしまう。
「やっぱりいい」
「気になります」
「いいんだって! 真嶋さんにはそのままでいてほしいから、俺は何も言わない!」
二神は軽い口調でそう言うと、そばにあるビルへと入っていく。真嶋が後を追っていくと、複数の飲食店が並ぶ案内板の前で彼はこちらを振り向いた。
「真嶋さんは何が食べたい?」
「二神さんが食べたいものでいいです」
「そう言うと思った。じゃあこの洋食屋にしよっと」
彼がその店を選ぶだろうことは、真嶋にもなんとなく予想できていた。そしてきっと彼は、目玉焼きかオムレツかオムライスか——とにかく卵料理のつくメニューを注文するだろう。全部、このひと月彼を観察した上での推測だった。
二神のフォークがハンバーグに乗った目玉焼きを切り分けると、その内側からは半熟の黄身がとろりと零れる。真嶋は向かいの席からじっとその様子を見つめた。
「真嶋さん、食べないの? もしかしてやっぱりこの日替わりランチプレートにすればよかったとか思ってる? それとも、そのカレー不味い?」
「違います。ただ——」
「ただ?」
二神は首を傾げてから、フォークを口に運んだ。
「さっき言ってた、一人でホテルに泊まってるって本当ですか?」
「随分話が飛ぶね。真嶋さんらしくない」
「僕の家、使っていいって言ったのに来ないなと、その目玉焼きを見て考えていたんです」
二神を泊めたあの事故のような一夜から、かれこれ一か月と少しが経とうとしていたが、結局彼は一度も姿を現さなかった。おそらく何度か終電を逃しているにも関わらず。
「え? 俺が来ないから寂しいって?」
「別にそんなんじゃありません。来ると言っていたのに来ないとなれば、理由が気になるのは当然でしょう」
そこでやっと、真嶋はカレーライスにスプーンを通した。
「いや、ほら、あの後で俺ももう一度考えたんだけどさ、あんなこと上司に聞かれて断れる部下なんていないっていうか、あれはパワハラだったかもしれないなと、ちょっと反省したわけ。俺もまだ酔いが残ってて変なテンションだったし?」
あの日は頑なに酔っていないと言い張っていたくせに、今になって朝まで酔いが残っていたと言い出されても、どう捉えていいのか分からない。
「つまり、やっぱりなかったことにするという結論ですか? 家が遠くて困っているという話も、そこまでのことではなかったんですね」
彼の事情を考慮して真摯に対応したのに、結局彼は話を盛っていたのだろう。そう考えると、真嶋の語尾は自然と刺々しくなっていた。
「困ってるのは嘘じゃないって。でも、俺の不便と真嶋さんの不便を天秤にかけたら、やっぱり真嶋さんに負担を強いるのは申し訳ないし、図々しいことして真嶋さんから嫌われても困るし……」
二神はそんなことを言いながら皿の上のコーンをつついていた。
「僕のためを思って我慢しているというなら、分かりました」
彼を自分の家に呼びたい強い動機があるわけでもないため、真嶋はそれで納得した。止めていた食事を再開すると、二神も少し安心したように息をつく。
「もし本当に困った時は使わせてもらうから」
それは一体どんな場合なのだろう——そんな疑問が浮かぶも、真嶋はそれ以上深くは考えなかった。きっとそんな場合は来ないのだろうと何となく思いながら。
***
それから一週間も何事もなく過ぎ去った。と言うより、クライアント先での大きな報告会を控えているため、真嶋自身も周りもとにかく忙しく、余計なことに気を配っていられる状況ではなかったと言った方が正しい。クライアント側との定例ミーティングは最低週に一度は行っているが、今回の報告会の位置づけはもっと重要なものだった。
今日の夕方は普段通りチーム内での進捗確認をすることになっている。小さなミーティングルームを出た真嶋は、そこでちょうど二神に出くわした。
「二神さん、もうミーティングの開始時間過ぎてます。今呼びに行こうとしてたところで——」
「ごめん、まだ昼食べてないから下のコンビニで買って来る。15分遅らせよう」
「もう16時ですよ」
「うん、何かタイミングなくしちゃって」
普段から要領のいい二神ですら、今は時間に追われているようだ。
「そうだ、真嶋さんが知りたがってたアレ、きっと森田さんって人が知ってるよ。あの人最近はいつも火曜の午前中オープンスペースにいるから」
「ありがとうございます」
過去に同じような案件を扱っていた人がいないか尋ねると、こうやって二神はすぐに答えをくれた。彼の社交性は遊びのためだけに使われているわけではないのだ。
その時唐突に二神はクシュッとくしゃみをした。
「あれ、誰かに噂されてるのかな。そういえば最近誰とも遊んでないからなー。もう何もかも忘れて今夜誰か呼んじゃおうかな」
「今の山を越えるまでは我慢してくださいよ」
「分かってるって〜冗談冗談」
「この忙しい時に冗談を言う余裕はあるんですね」
真嶋が呆れ半分、安心半分でそう呟くと、二神は笑顔を見せてから小走りに来た道を引き返して行った。彼が角を曲がったのを見て、真嶋は室内に戻って他のメンバーに開始時間の遅れを伝える。この少しの空白時間でまたデータ分析を進めようかとも思ったが、作業の前に次のミーティングで確認しておきたいことがあったので、今はおとなしく待つことにした。
空になった紙コップを持ち部屋を出た真嶋は、ウォーターサーバーのある休憩スペースへと向かう。一つ角を曲がってすぐのその場所には、先客が2人いた。
「あ、おつかれっす」
そう声をかけられた真嶋は、静かに「お疲れ様です」と返した。真嶋と同じくらいの長身で体育会系の男と、小柄でひょろりとした気の弱そうな男——真嶋の同期で比較的親しくしていた彼らは、コーヒーを片手に立ち話をしていたようだ。彼らのプロジェクトはさほど忙しくない時期なのかもしれない。
「大変そうですね、真嶋さんのところ。この時間で昼抜きって」
「聞いてたんですか」
真嶋が尋ねると二人とも苦笑した。
「ああ、それで『あそこやばそうだな』って今ちょうど二人で話してたところ」
「真嶋さん、あの人と一緒で大丈夫ですか?」
濁された質問の意図を掴めず、真嶋は首を傾げた。
「どういう意味ですか?」
「いや、その、波長が合わない人と一緒だと大変じゃないかと思って」
「忙しいのにリーダーがヘラヘラ女遊びのこと考えてるなんて俺ならパスだな……」
二人の目は、真嶋を心から同情している。悪意はない。それを分かってはいても、真嶋は彼らの言葉に言い知れぬ感情を覚えた。
「二神さんは仕事に関しては至って優秀です。大変どころかいつも助けられてますよ」
はっきりとそう答えると、目の前の同期たちは目を丸くした。そんなにおかしなことを言ってしまったのだろうか——真嶋は慌てて言葉を重ねる。
「そりゃ、もちろん、彼の冗談には振り回されてますけど、仕事中はケジメを付けてくれるので、まあ許せるかなと……」
「いえ、それならいいんです。真嶋さん、前ああいうタイプの人は苦手だって言ってたので、ちょっと心配していただけで——」
彼らは真嶋と近しい感性を持った比較的真面目なタイプで、それは即ち二神とはあまり親和性を持たない人種だ。真嶋の性格を知る彼らなら、こうして心配するのもおかしくはなかった。
「確かに僕はあの人とは相容れないと思ってましたけど、実際一緒に仕事をしてみたら大分見方が変わりました。本当に仕事の方は完璧ですよ」
「へえ、だから上からの評価が高いのか、あの人」
その意外そうな反応も無理はない。印象だけで言えば、二神は軟派な男以外の何者でもないのだ。おそらくこうして近くで働くことがなければ、真嶋もずっとそう思っていただろう。
以前は彼らと同じ側に立って二神を遠巻きにしていたのに、今の自分は完全に二神の側に立っている——真嶋はそんなことに気が付いて、たった2か月足らずで随分遠くに来てしまったような気がした。
「真嶋さん、どうかしましたか?」
傍から見ても分かるほどぼんやりしてしまっていたらしい。真嶋は軽く頭を振って雑念を追い払うと、「大丈夫です」とだけ答えて、彼らに軽く別れを告げた。
真嶋がミーティングルームに戻ると、すぐに二神も戻ってくる。
「早かったですね」
「そりゃ、俺のせいで待たせるわけにはいかないし」
二神は殊勝なことを言いながら、席についてサンドイッチを取り出した。真嶋は時折、二神は誰よりも真面目な人間なのではないかと思うことがある。だがその時、二神はふいに楽しそうに笑った。
「まあ、俺の好きなやつがすぐ目に入ったから即決しただけなんだけどさ〜」
ちらりと見ると、彼の手の中で今まさに開封されているパッケージの中には、輪切りのゆで卵とレタスが挟まれたものや、細切れのタマゴとマヨネーズを混ぜたものなどが並んでいる。彼が即決したというのもあながち嘘ではないだろう。
彼はそこで一度大きくくしゃみをしてから、独り言でサンドイッチの調味料に悪態をつき始める。
真面目なのかふざけているのか、やはり彼は食えない男だ。彼に近付いたような気がしているだけで、本当のところ、真嶋は彼の正体をほとんど掴めていなかった。
***
あのミーティングの後、真嶋はさらにもう一つの資料作成を終わらせてから帰宅した。時刻は既に0時を過ぎている。
真嶋が会社を出る時、二神は彼よりさらに上のマネージャーと打ち合わせに入っていた。明日の午前中にそれを受けてまたチーム内でミーティングを行うが、自分の作った資料に大量の赤が付いて戻ってくることを予想して、真嶋は気疲れを感じていた。
しかし自分より大変なのは二神なのだ。おそらく今夜、彼は終電に間に合わないだろう——真嶋はそんなことを考える。
熱いシャワーを浴びてリビングに戻ると、窓の外からは雨の音が聞こえるようになっていた。真嶋が帰る時はポツポツと振っていた程度だったが、今はもう本降りになっているようだ。あと半月もしないうちに梅雨に入るだろう。
タオルで髪を拭きながらソファに座り、何とはなしにテレビをつけてみる。深夜特有のバラエティ番組やアニメを次々に切り替えていくと、一局だけ海外の映画かドラマのようなものを放送していた。
前後の流れは分からないが、二人の男がバーで話し合っていた。どうやら片方の男が付き合っていた女性に振られたらしく、彼はいかに彼女を愛していたか滔々と語っている。
最初は何とも思ってなかった。いつの間にか好きになっていて、付き合い始めたらもっと好きになった。彼女を一生守りたいと思って、結婚まで考えていたのに。
テレビから聞こえてくる酔った男の恨み言。しかし彼の言葉はどれを取っても、真嶋にはピンと来なかった。そこまで一人の人を愛するという感情を抱いたこともなければ、こうやって男友達と恋愛の相談をすることもなかったからだ。
周りはそんな真嶋を変わり者のように扱ったが、真嶋からすれば、街中を歩く全ての人がそこまで真剣に誰かを愛したことがあるなどとは到底思えなかった。
大学時代に一度だけ、そんな話を同じ研究室の友人としたことがある。彼はあっさりと『多分ほとんどの人は顔の第一印象でなんとなく好きになって、アプローチかけて、アプローチされた方もなんとなくOKして付き合い始めてるだけだよ』と答えた。そんな曖昧な感情で深い付き合いをするなんて考えられないと反論したら、彼は少しだけ笑って『お前はそういう奴だよな』と言っていた。
自分は冷酷な人間なのかもしれない。あるいは、一部の感情がすっぽりと欠落した欠陥品なのかもしれない。対人コミュニケーションにおける真嶋のコンプレックスは、こうして少しずつ蓄積され続けてきた。
唯一、大学時代に自分よりも変わった人物と接した時、自分はまだ普通に近いのかもしれないと思った。真嶋は苦手意識を持ちながらもなんとか社会に溶け込もうとあがいているのに対し、あの時会った男はもはや社会に適合しようという意思さえ見えなかった。彼は、きっと社会には出ずに今も大学で博士課程か何かに所属しているだろう。独りでずっと殻にこもって。
昔のことを思い出していると、唐突にチャイムが鳴った。一瞬テレビの中かとも思ったが、これは間違いなくこの家のチャイムの音だ。
真嶋がインターホンに出ると、マンションの入り口を映した映像の中には二神が立っていた。
「真嶋さん、ごめん、今日……」
映像が不鮮明で分かりづらいが、どことなく元気がないように見える。不審に思いながらも、真嶋はすぐに「どうぞ」と彼を中へ招き入れた。
再度部屋のチャイムに答えてドアを開けた時、真嶋はそこに立っていた二神の姿に息を呑んだ。傘をささずに歩いてきたのか、彼は全身ずぶ濡れだったからだ。
「二神さん、どうしたんですか? 傘は……」
「うん、持ってなかった」
「コンビニでいくらでも買えるでしょう」
「ああ、うん……」
心ここにあらずといった体で、二神はフラフラと玄関に入ってきた。俯き気味の彼の表情は暗い。真嶋は瞬時に、去年会社のトイレで鏡越しに見てしまった彼の姿を思い出していた。
バタンとドアが閉まると、彼は一瞬びくりと震える。
「二神さん、何かあったんですか? とにかくシャワーでも——」
真嶋がそう言いかけたその時、二神の身体が横に傾いだ。真嶋は思わず彼の腕を掴んだが、濡れたシャツ越しにも分かるほど彼の身体は熱かった。
「二神さん、もしかして熱がありますか?」
「え? いや、むしろめちゃくちゃ寒いよ。それより頭がガンガンしてボーっとする」
彼は自分でも壁に手をついて身体を支えると、一つ大きなくしゃみをした。
「それは明らかに風邪だと思うんですが」
「そうか、なるほどね……」
二神はまるで他人事のようにそう言う。彼はもつれる足でどうにか靴を脱いだが、部屋の中に足を入れるのを躊躇うそぶりを見せた。
「真嶋さん、ごめん、床濡れるかも」
「そんなの後で拭けばいい話じゃないですか」
変に細かいところに気を遣うものだ——真嶋はそんなことを思いながら、二神の腕を引いて部屋に上げた。
「シャワーを浴びて、風邪薬を飲んで、暖かくして寝る——二神さんに必要なのはそれだけです」
バスルーム前の洗面所まで二神を引っ張って行き、その中に彼を押し込む。
「後で着替えを持ってきますから」
「ありがとう」
真嶋は以前彼に貸した服と新しい下着を取りに寝室へと向かった。
終電を逃して泊まりに来た上司が風邪を引いていた——ただそれだけの単純なことだ。そう自分に言い聞かせていたが、いつもとはあまりにも様子の異なる彼を見て、真嶋は軽い動揺を覚えていた。普段苦手に思っている彼の陽気さが、今はどこか恋しいほどに。
シャワーを浴びたらいつもの彼に戻るかもしれない——そんな甘い考えは、再びバスルームのドアを開けた瞬間に吹き飛んでしまった。
「あの、二神さん、本気で大丈夫ですか?」
彼は洗面台のすぐ傍で、壁にもたれかかるようにして蹲っていた。真嶋は彼の目の前で膝をつき、彼の肩を軽く揺すってみる。
「夜間診療所か何か行きますか? どちらにせよ、まずその濡れた身体は何とかした方が——」
俯いていた二神が顔を上げ、真嶋はハッとした。彼に興味を持ったあの日、鏡越しに見えたものと同じ。笑顔のない彼の整った顔は、今にも壊れそうな透明のガラスのようだった。
真嶋は無意識に、その濡れた頬を包むように片手を添える。まるで作り物のように見えていたのに、触れた彼の表面は熱く柔らかかった。
「真嶋、さん……? あの、ごめん、多分大丈夫だから……」
突然のことに、二神は目を彷徨わせている。しかし真嶋は静かに首を振った。
「とても大丈夫とは思えません」
真嶋は二神の目をじっと覗き込んだ。揺れる瞳は彼の心を表しているかのようだ。彼の薄茶色の目に映った自分をしばらく見ていると、二神は観念したようにゆっくりと口を開いた。
「俺……どうして昇進なんかしたんだろ」
二神がそう言って一度瞬きすると、彼の眼尻から溢れた水分が真嶋の手を温かく濡らした。
「自分の仕事でさえいっぱいいっぱいなのに、部下の分まで監督して責任持つなんて……俺にはまだできない」
唐突に零されたそんな愚痴から、真嶋は何となく彼に何があったのかを察した。
「マネージャーとのミーティング、何か言われたんですか?」
二神は何も言わなかったが、真嶋は彼の沈黙を肯定と捉えた。彼の今の状態は単なる風邪だけではないとすれば辻褄が合う。
「部下の……僕の不備のせいで、二神さんが何か言われたんですよね」
その言葉に対しては、大きく首を振って否定された。
「真嶋さんは悪くないよ」
じゃあ、他のメンバーの誰かだろうか——ぼんやりとそう考えたが、それ以上の答えは追求しなかった。
「俺がまとめてる以上、チームの責任は全部俺にあるんだって分かってるけどさ、やっぱり理不尽だって思っちゃうんだよね。それが仕事なんだって言われたら、それまでなんだけど」
彼はいつものように軽い口調で言ったつもりなのかもしれないが、その声のトーンでは全然取り繕えていない。
強かな人だと思っていた。能力も人望もあって、世の中を悠々と渡り歩いているように見えたからだ。しかし今目の前にいるのは、未熟で弱いただの年下の男でしかない。見えなかった彼の足の裏にはいくつもの傷があって、本当はもう立ち上がることすらできなくなっているようにも思えた。
「ごめん、ただの愚痴。シャワーでも浴びたらきっとスッキリするよ」
二神は頬にあてられていた真嶋の手をそっと退けると、壁に手をついて立ち上がった。
「ああ、でもこの風邪、明日大丈夫かな」
真嶋も立ち上がると、彼はぽつりとそう呟いて鼻をすすった。
「無理ですよ。明日は休んでください」
「でも仕事があるんだから行くしかないんだって。俺が、行かないと……」
どうして彼はこんなにも無理をするのだろう。あんなに弱った姿を見せられた後では、彼の全てが虚勢に見えた。
彼をこんな状態にしている原因が彼自身の中にあるのなら、その病原を根こそぎ取り去って治してやりたい。彼に無理をさせる原因が外にあるのなら、害をなすものから彼を守りたい。
目の前で佇む彼を見て、真嶋には自然とそんな感情が沸き起こった。今まで自分に欠けていると思っていた熱のようなもの——生まれて初めて感じたそれをどうすればいいのか、真嶋には分からなかった。
ただふと思い出したのは、辛い時に自分を慰めてくれた両親の手だ。真嶋はそのイメージに従って、二神の身体を両腕で包み込んだ。雨に濡れた彼の衣服は、体温で生温くなっていた。
「あの、ちょっと、真嶋さん」
驚いたような二神の声を無視して、真嶋は片手で彼の濡れた頭を撫でた。しばらく続けていると、二神も黙ってその顔を真嶋の肩に押し付けた。彼の目元に触れている辺りが熱くなって、真嶋の服に水分が吸収される。彼がまた泣いているのが分かっても、真嶋は何も言わないことにした。何を言えばいいのか分からないのが半分、何も言わない方が得策だと思ったのが半分だ。
「俺……今日真嶋さんのとこに来て良かった」
しばらくしてから、二神は独り言のようにそう呟いた。声は小さかったが、いくらか普段の彼を取り戻しているようだ。
「タクシーで帰るのも、ホテルに行くのも何か嫌でさ、真嶋さんと話したらちょっと元気になるような気がして、気付いたらここに向かってて……道は忘れかけてるし、暗いし、雨降ってるし、途中何度も『俺何やってるんだろ』って思ったけど、なんか全部報われた気がする」
二神は顔を上げると、口元に笑みを作った。
「僕は二神さんに何か……その……価値を提供できましたか?」
我ながら仕事で使うようなおかしな表現だと真嶋が思っていると、二神がやはりクスクスと笑った。
「うん。まさかこんなにサービスしてもらえるとは思ってなかった」
正直に言うと、真嶋はなぜこんなに彼に喜んでもらえたのか分からなかった。
「二神さんの役に立つなら、いくらでも僕を使ってください」
「それ、何でもお願い聞いてくれるってこと?」
何かいたずらを企んでいるかのような彼の表情は、もう普段通りに戻っている。真嶋はそんな彼の調子を崩さないよう返答を選んだ。
「どうぞ。あまり無茶なものでなければ」
二神はわざとらしく「うーん」と迷うポーズを作る。
「じゃあまずはシャワー浴びるから服でも脱がしてもらおうかな」
二神に上目遣いで見つめられて、真嶋はほんの一瞬呼吸を止めた。「冗談でしょう」と言おうと思ったが、彼の濡れたシャツを見たら、なぜか別の行動を取りたくなった。
「いいですよ」
二神の身体を少し離し、既に半分緩んでいたネクタイに手をかける。
「え、ちょっと」
二神の戸惑うような声が聞こえたが、真嶋は無視して彼のネクタイを抜き取った。そのままシャツのボタンを外しながら、真嶋はふと考える——このまま彼を覆うものを取り去ってしまえば、よりもっと彼を知ることができるのではないか?
シャツの間から見えた彼の肌は、思ったよりも白い。シャツを剥ぎ取って見たところ、彼は平均よりもやや痩せているようだ。スポーツはしていないらしく、筋肉は大してついていない。
今まで知らなかったことが次々と分かり、真嶋は純粋な好奇心に動かされていた。だがそのまま彼のベルトを外したところで、二神の手がついに真嶋を制止した。
「真嶋さん!」
まず感じたのは、どうして止めるのだろうという疑問だ。その次に、真嶋は自分たちの状況を客観的に見た。壁際に二神を追い詰めた状態で、彼のスラックスに手をかけている。もし彼が止めなければ、この後彼の下着まで下していたかもしれない。いくら男同士とはいえ、これは明らかにおかしい状況だった。
「も、もうここからは自分でできるから」
こういう時こそ冗談を言ってくれればいいのに、二神は消え入りそうな声でそう言った。
最初に「脱がせてほしい」なんて冗談を言ったのは彼の方だ。真嶋は頭の中だけでそんな弁解をしてから、「すみません」と言って部屋を出た。
どうしてあんなことをしてしまったんだろう。彼を元気づけるために冗談に乗ってやろうと思ったからか、あるいは、彼の身体に興味があったからか。真嶋はドアを背にして溜息をついた。
しばらくすると、中からはシャワーの音が聞こえてくる。また蹲りでもしないかと不安だったが、今度は無事にシャワーを浴びてくれているようだ。
リビングに戻ると、テレビの中の映画は随分と進んでいた。先程酔って愚痴を吐いていた男は、女の手を引いて何者かから逃げている。この映画はロマンスものではなく、アクションものかホラーものだったらしい。
女は明らかに男の足を引っ張っている。女を見捨てれば男は助かるにも関わらず、男は決して女の手を離すことはしなかった。
もし僕だったらどうするだろうか。
いや、そもそも僕にはそんな相手はいないじゃないか。
……本当にそうだろうか?
いくつかの思考が真嶋の頭の中で一瞬のうちに広がって霧散した。
画面の中の男女はいよいよ追い詰められている。ホラーものでカップルが死ぬのはよくあることだ。彼らの運命もきっと明るいものではないだろう。
テレビを消した真嶋は欠伸を噛み殺し、二神のために卵粥でも作ってやろうかと考えた。
***
「38度4分」
二神が体温計を読み上げる声がする。彼の使った食器類を片付けた真嶋は、彼の座っているリビングのソファに近付いた。
「薬は飲みました?」
「うん、お薬超おいしかった。ゴチソウサマ」
市販の風邪薬においしいも何もないはずだ。真嶋が心の中だけでそう言う。二神はテーブルに置かれたコップの横に体温計をそっと並べた。
「じゃあ、もうさっさと寝てください」
「食べてすぐじゃん。もう少し待ってよ」
真嶋は仕方なく彼の隣に座った。
「真嶋さんご飯作るのうまいよね。いつも一人で食べてるの?」
「別にお粥くらいでうまいも何も——」
「もー、俺が聞きたいのはそっちの話じゃなくて、真嶋さんのご飯、俺以外に食べてる人いるのかなって」
ならば最初からそれだけ聞いてくれればいいのに——会話の苦手な真嶋は、頭の中でそう零してから、彼への答えを考えた。
「二神さん以外では、ここに来て僕の料理を食べるような人はいません」
「それって、この部屋にお客さんが来ることすらないの?」
真嶋は少し返答に詰まった。彼の言う通り、この家に呼ぶような友人は誰もいないのだが、それをそのまま言っていいものか迷ったからだ。
「……ないです」
先程彼は隠していた本音を晒してくれた。ならばそれにこたえて自分も正直になるべきだ——そんな思いで、真嶋は本当のことを伝えた。
「でも、彼女とか——」
「いません。彼女がいて当たり前というのが、二神さんの感覚なんでしょうけど」
「いや、俺の感覚っていうか……だって真嶋さんの見た目ならモテるでしょ?」
一瞬何を言われたのか理解が遅れた。
「……意味が、分かりません。今まで一度だって彼女なんていませんけど」
「い、一度も?」
「はい」
「うそ……」
心から驚いているらしい彼の反応を見て、真嶋はやはり言うべきではなかったかもしれないと思い始めた。
「好きな人はいなかったの? 誰かから告白とかされたでしょ?」
「告白……されたことはありますけど断りました。僕は女の人を——いや、誰も好きになったことがありませんから」
二神は目をぱちぱちさせている。
「僕が変だというのは分かってます」
彼に馬鹿にされるより先に、自分から自虐的に笑った。しかし、二神はゆっくりと首を振った。
「でもそれって、悪いことじゃないと思う。普通の男だったら、別に好きじゃない子でも告白されたら何となく付き合っちゃうよ。セックスできてラッキーっていう下半身で生きてる奴、一杯いるし」
少し生々しい話を聞いて、真嶋はぎこちなく目を逸らした。
「……あ、誰とも付き合ったことないってことは、真嶋さん——」
彼の言わんとするところは分かっている。しかし年下相手にはっきり童貞などと言いたくはない。真嶋は慌てて立ち上がった。
「二神さん、もうそろそろ寝てください」
「あ、うん、寝るよ」
そう言いつつも、二神はソファから動こうとしない。彼はテーブルに置かれていた携帯を取った。
「二神さん」
「何? 俺、ここで寝るから。おやすみー」
「病人はしっかりベッドで寝てください」
二神は携帯から顔を上げて、ちょっと困ったような顔をした。
「そんなの真嶋さんに悪いよ。ただでさえ睡眠時間削って迷惑かけてるのに」
「そう思うんだったら今すぐおとなしくベッドに行ってください。もう引きずって連れて行ってもいいですか?」
「えー、そんな乱暴な方法じゃなくて、優しく抱っこするとか……って、ちょっと!」
二神が抗議の声を上げたが時既に遅く、彼の身体は真嶋の肩に担がれていた。
「そうですね、こっちの方が早いです」
運動部経験のある真嶋にとって、痩せぎすの二神を持ち上げることはそこまで難しいことでもなかった。荷物のように運ばれながら、二神は真嶋の背中を叩く。
「あのさ、今日の真嶋さん何か強引じゃない? いつもみたいに『本気ですか?』って一回聞いてよ!」
真嶋はベッドの上に二神を下ろすと、彼の上に無理矢理布団をかけた。
「本当にされたくないことなら、冗談でも言わない方がいいですよ」
先程脱衣所で彼にしてしまったことも含めて、真嶋はそう自己弁護した。今日の自分は何かおかしいという自覚はもちろんある。ただ、その理由は分からなかった。
二神は少しむくれた後、携帯を持ち続けていた手を布団から出した。どうやらまだ寝るつもりはないらしい。真嶋が携帯を取り上げようとすると、二神は素早く手を引っこめる。
「二神さん、何してるんですか?」
「何って、メール」
「誰に?」
「秘密。そーだ、風邪引いたから看病してーって皆に送ろっと」
またどうせ女のことを考えているのだろう。こんなのはいつものことなのに、なぜか今日は苛立ちを覚えた。
「どうせなら最初からその人たちのところに行けばよかったじゃないですか。歩いて行ける場所がここしかなかったんですか?」
思ったよりも鋭い声のトーンが出て、真嶋自身驚いた。二神も笑顔をサッと消して、目を丸くしている。また自分は空気の読めないことを言ってしまったようだ。これ以上ここにいても、ただのお節介にしかならない——そう判断して、真嶋はリビングに戻ろうとした。
「真嶋さん、あの——」
「すみません。出過ぎたことを言いました。メールでも何でも、楽にして早く良くなってください」
その場を離れようとした時、二神の手が真嶋の手首を掴んだ。
「待って。ごめん、ごめんなさい。怒った? あの、俺が今日ここに来たのは、会社から近いからとか、他の人が捕まらないから仕方なくとか、そういうんじゃないから。俺は真嶋さんの人柄が好きだから、ここを選んだんだってことは……その、分かってほしい……」
真嶋は彼の赤い顔と潤んだ瞳をじっと見た。熱でかなり苦しそうだ。
「僕も二神さんが好きだから、きちんと休んで早く治してほしいと思ってるだけです」
そう言った瞬間、手首を掴む二神の手が強張った。
「え、好きって、ど、どういう意味……? 真嶋さんホモなの? 女の子好きになったことないって……そういうこと?」
「どういう意味も何も、そのままの意味です。そもそも、先に僕を好きだと言ったのは二神さんじゃないですか。それと同じですよ」
「同じ……同じ?」
熱で意識が朦朧としているのだろう。彼は真嶋から手を離すと、ぼんやり何かを考え始めた。
「朝になったら僕は会社に行きますけど、二神さんは休んでてください。お粥、まだ余ってるので温めてどうぞ。近所に病院もあるので、必要なら診察を受けに行ってください。服は僕のを使ってくれて構いません。家を出る時はリビングにある合鍵で鍵をかけてください」
二神はまるで上の空で聞こえているのか分からないが、真嶋はそれだけ伝えて部屋を出た。
リビングのソファに座ってからやっと、先程の二神との会話について頭が回り始める。
彼が言った『好き』の意味は何だったんだろう?
僕が言った『好き』に何か意味はあったんだろうか?
考えても答えは出ない。ただ、自分の中で凍り付いていた何かがやっと動き出したことだけは、確かに感じていた。
***
桜庭という上司はとにかく頭の切れる男だ。まだ30代前半だが、銀フレームの眼鏡の奥にある双眸は鋭さを含んでいる。論理的思考の人間が多いこの社内でも、彼は飛びぬけてその傾向が強い。かと言って厳しいというわけでもなく、上司としてはいたって懇切丁寧に指導をしてくれた。
「えっ、二神さん、風邪引いたの? 彼のこともだけど、スケジュールも心配だな」
真嶋が二神の不在を報告すると、桜庭は手を顎にやって、うーんと唸った。
「あの、昨日の夜のミーティングでは、二神さんとどんな話を?」
昨夜の二神の落ち込みようを思い出し、恐る恐る聞いてみる。だが、この男が二神にそこまできつい叱り方をしたようには思えない。
「もちろん、今度の報告会のための資料のチェックだよ。修正点は全部赤で書いてあるから、二神さん無しでもどんどん進めて」
「やはり、あの、問題点がたくさんあったんですよね?」
「問題なんてあって当たり前。特に二神さんは新しい役回りになったからね。最初にしては中々頑張ってるけど、まだ掴めてないみたいだ」
「二神さんに伝えたのは、それだけ?」
「具体的にどこが駄目だったかたくさんアドバイスしたけど、まあ大体は」
はっきり言って、拍子抜けだった。あそこまで彼が落ち込むくらいだから、相当キツい物言いをされたものと思っていたのだ。今の桜庭の様子からは、そんな気配はほとんどない。
「二神さんは何て?」
「もう少しいい線行ってると思ってたと、悔しがってたよ。でもいくら駄目出ししてもへこまないのはいいことだね」
違う。彼は十分にへこんでいた。
真嶋は頭の中だけで咄嗟に否定した。そしてすぐに、二神という男のパーソナリティについて考える。
社交的で有能で精神的にも余裕のある若手社員というのは表向きに過ぎないのだ。その裏には、必死で努力する真面目でナイーブな面が潜んでいる。想定したラインに到達できなかった自分を、あそこまで責めて追い詰めるほどに。
誰も気付かないのだろうか? 気付いているのは僕だけなんだろうか?
そんな疑問が何とはなしに浮かんだ。真嶋はこれまでに二度、彼の裏の顔を見ている。以前トイレで偶然見てしまった時と、昨夜彼が家に来た時。特に最初トイレで会った時の彼は心底驚いていたようだった。そう簡単に弱い部分を他人に見せるつもりはないのだろう。
それは推測であると同時に、彼の本当の顔を知るのは自分だけでありたいという願望も混じっていた。
「真嶋さん、どうかしました?」
桜庭に声をかけられて、真嶋は我に返る。
「いえ、仕事に戻ります」
「そうそう、昨日二神さんにも話したんだけど、もうすぐ研修済みの新入社員に加わってもらうからよろしく。石川さんっていう女の子だから」
いい知らせのように聞こえるが、また二神の負担が増えるのだろうと思うと、そういいことばかりでもなさそうだ。真嶋は自然と、二神の心配をしていた。
自分のデスクに戻ると、チームの残り二人も既に出社していた。
「今日二神さん風邪で欠勤です」
「えっ、今日丸々一日ですか?」
即座に反応したのは少しお調子者の松本という同期だった。
「今朝もまだ熱があるようだったので、多分今日一日は無理でしょうね」
「今朝って……彼と会ったんですか?」
そう聞いてきたのは、一つ上の先輩である木村という男だ。
「会ったというか、昨夜二神さんが僕の家に来て、今もそのまま僕の家にいると思いますよ」
「ええ〜……何で急に真嶋さんの家に? あの人、仕事はできるんだけど、たまに何考えてるのか分かんないんだよなあ」
松本がぽろりと零したのは本音のようだ。
「僕の方から家に来てもいいと言ってあったんです」
「いやあ、でも……真嶋さんも大変だな」
松本も木村も同情の目を向けている。
「以前酔い潰れた二神さんを泊めたこともありますよ。いや、そもそも、あの時二神さんを僕に押し付けたの松本さんじゃないですか」
「そうだっけ? もう忘れた」
松本がとぼけると、真嶋は小さく息を吐いた。
「まあ、別にそんなに大変というわけでもないです」
「へえ、あの飲み会の時は二神さんを連れ帰るのかなり渋ってたのに」
「やっぱり覚えてるじゃないですか」
「さあ、仕事に戻ろう。直すところがたくさんあるぞ」
松本は会話から逃げるようにパソコンに向かった。
言われてみれば、以前の真嶋は上司である二神を家に泊めることをストレスだと思っていたし、なるべく避けたいと思っていた。それがいつからか、彼が家に来ないことを疑問に思うようになり、そして今日に至っては、彼におとなしく家にいてほしいとまで思っている。
二神に対する好意、あるいは興味が日に日に強くなっていることを真嶋は自覚していた。その理由はまだ朧げにしか分かっていない。最初の印象がマイナスだったからこそ、彼の隠された一面が大きなギャップとして印象付けられているのだろうか。
真嶋は他人事のように自分の感情を分析した。そうすることで、何かが前に進むような気がしたからだ。
***
真嶋が会社を出たのは日付が変わる直前だった。氷枕や冷却シート、マスクなど、夕方ドラッグストアで買っておいた風邪対策の品を片手に速足で家に向かう。明日からの土日、二神にはしっかり休んでもらわなければ。そんなことを考えつつ、真嶋は静かに家のドアを開いた。
中は暗く、二神はまだ寝ているのかと思い寝室を見に行く。しかしベッドは空だ。リビングの電気をつけてみるが、誰もいない。そこでふとダイニングのテーブルを見ると、紙切れが置かれていた。
『お世話になりました。少し良くなったので家に帰ります。(Tシャツとジーンズを借りたので鍵と一緒に今度返します)』
真嶋はそのメモを何度か読み直した。電車が動いていて歩ける程度に回復すれば、彼は自分の家に帰る——当たり前のことだ。なぜか勝手に、彼は今日も明日も明後日も家にいるような気がして、自分がずっと看病するつもりになっていたが、これが自然なのだ。
使うことのなくなってしまったドラッグストアの袋を、テーブルの上に静かに下ろす。
その瞬間、頭に思い浮かんだのは幼い頃の記憶。拾った迷い猫のために餌を買って帰ったら、もうその猫はいなくなっていた。親に聞いたら、ちょうど飼い主が見つかって猫を連れ帰ったと聞かされた。
厄介ごとがなくなり、平和に土日を過ごせるんだからいいじゃないか。そう思おうとしても、胸のあたりがキリキリと痛む。真嶋は急に肺の一部が真空になってしまったかのような息苦しさと、底知れぬ喪失感を感じていた。
彼は今、本当に自分の家に帰っているのだろうか。彼は今、『誰と』いるのだろうか。昨日メールをしていた『誰か』を呼んでいるのだろうか。
考えた瞬間、胸の痛みが突然燃えるように全身に広がった。昨日見た彼の脆い表情や、彼と交わした言葉が頭の中にフラッシュバックする。
あの時の『好き』にはやはり特別な意味があったのだ。今の自分は紛れもなく、彼に恋焦がれている。彼と一緒にいるかもしれない誰かに嫉妬している。
真嶋は手の中にあった置手紙をぎゅっと握り潰した。それ以外に、今の自分の気持ちをぶつける先がない。
もしもこれが本当に特別な愛情なのだとすれば、これが自分の最初の恋になるのだろう——ただそんなことだけを考えていた。