週明けの月曜に会った時、二神はもうだいぶ回復しているように見えた。たまに鼻をかんだり、咳をしたりしているものの、いつもより仕事のスピード自体は早くなっている。
「二神さん、土日はちゃんと家で休んだんですか?」
「ああ、うん。病院でもらった薬飲んだら良くなった」
「金曜日は何時頃に僕の家を出たんですか?」
「ごめん、今ちょっと忙しい」
彼は最後までパソコンに顔を向けたままで、真嶋の顔を見なかった。遅れを取り戻すために急いでいるのだろう。邪魔をしてはいけない。真嶋はそう考え、彼から自分への口数が少ないこともこの時は特に気にしなかった。
しかし火曜、水曜と日が経つにつれ、何となく自分は彼に避けられているのではないかと思い始めた。
「二神さん、もうすぐミーティングですよね」
一緒に別室へ移動しようと思い声をかけてみると、二神はうーんと乗り気でない反応だ。
「コンビニ寄ってから行くから先に行ってて」
「それなら僕も一緒に行きます。夕食までお腹が空きそうなので」
「あー、どっちにせよ俺まだちょっとかかるから、先行ってて」
彼は素早くキーボードを叩きながらそう言った。確かに忙しそうだ。
「分かりました。他の二人には開始時間少し遅れるって伝えておきます」
「うん、ありがとう」
やはり彼は一度も真嶋と目を合わせない。忙しいと言えばそれまでだが、真嶋はそれ以外の原因を変に考えてしまう。
二神さんは僕に生まれた特別な感情に気付いているのかもしれない。
一番に思い浮かぶのはそれしかなかった。態度に出ているのか、あるいはあの日『好きだ』と言ってしまったのは問題だったのか。そもそも、今まで彼女がいなかったという話も含め、あの日の自分は少々喋りすぎたのかもしれないと反省する。
せっかく人並みに他人への愛情を持てるようになったと思っていたのに、その相手が同性では、結局マイノリティーに違いはないのだ。しかも二神は女好きで知られる男なのだから、もしも真嶋の感情に気付いていたらいい反応はしないだろう。
萎えた気持ちを持て余しつつエレベータで1階へ降りると、不意に女性から声をかけられた。
「あの、あなた前に二神君と一緒にいた——」
振り返ってみると、そこには以前ここで会った香田と呼ばれていた女が立っていた。彼女は今から外出なのか、手に鞄を持っている。
「やっぱりそうだ。最近二神君忙しいですか?」
どうせメールでやり取りをしているくせに、どうして僕に聞くんだろう。
そう言いたいのをぐっと堪える。
「ええ、彼風邪も引いてしまって、とにかく今は猫の手も借りたいくらいの忙しさです。多分あなたと会う暇もないと思いますよ」
最後の一言に僅かな棘を含める。彼女に対する敵意が今ははっきりと自覚できた。
「そうですか。あの、あなたも彼と同じ仕事してるんですよね?」
「え? はい、そうですけど……」
突然自分に話題の矛先を変えられて、真嶋は虚を突かれた。
「じゃあ一段落したら、二神君も呼んで一緒に飲みにでも——」
「何してるの」
女の言葉を遮ったのは、エレベータホールから出てきた二神だった。今の声の調子も彼の表情も、あまり機嫌が良さそうではない。
「いや、僕は別に……」
「二神君、風邪引いたんだって? 大丈夫?」
「うん、何とか」
香田が二神の相手をし始めたので、真嶋は弁解を逃れた。
「今ね、一段落したら彼も入れて三人で飲みに行こうって話してたんだ」
「何で? 二人で行こうよ」
「えー、でも……」
二神がいつもの明るい調子を取り戻すと、そこは彼ら二人だけの空間になった。
「香田さん、そこの真嶋さんに興味があるなら、やめといた方がいいよ。真嶋さん女の子にはキョーミないから」
「もう、何それー」
彼女は完全にただの冗談だと思ったらしく、二人で楽しそうに笑い合う。だが真嶋は重いハンマーで頭を殴られたような気分だった。
彼にはやはり自分の感情がばれているのだろうか——そんな疑惑が膨れ上がる。もしそうなら、今彼はそれを笑いのネタにしたことになる。
『真嶋さんホモなの?』
急にあの夜彼に言われた言葉を思い出した。彼は自分を嫌悪し、笑いものにしているのではないか——そんな被害妄想だけが大きくなっていく。
「すみません、先に戻ります」
これ以上ここにいても、彼らから『普通の』男女の関係を見せつけられ、みじめになるだけだ。真嶋はすれ違う時、二神の顔を見なかった。
逃げ込むように乗り込んだエレベータには誰も乗っていない。結局コンビニで買い物をすることもなく、無駄足になってしまった。手に入れたのは、この重く沈んだ気持ちだけだ。
少しずれた真嶋のことを、今まで二神は好意的に見てくれていた。てっきり馬鹿にされると思っていたのに、彼は決して真嶋を使って笑いを取ることはしなかった。
しかし、限度というものはあるのだ。さすがに彼も、同性から向けられた愛情を無条件に受け入れてはくれないのだろう。先程彼が香田との親密なやり取りを見せつけたのも、釘を刺す意味があったのかもしれない。俺は同性愛者じゃないんだぞと。
真嶋の頭の中は、そんなネガティブな推測で埋め尽くされる。先程彼がどんな顔をしていたのかさえ記憶が曖昧で、中高生の頃に真嶋を馬鹿にした同級生の顔がそこに重なった。
せっかく温まり始めたと思っていた自分の中の何かは、また急速に逆戻りして冷え切っている。この後のミーティングで二神にどんな顔をして会えばいいのだろう。彼の元に配属されたばかりの頃、彼をどこか恐れていた気持ちが蘇っていた。
***
「真嶋さん、新しいプロジェクトに入って2か月……どうですか?」
面談や面接に使われる小さな個室で、真嶋は3年先輩である原口という社員と向き合っていた。この会社には、新入社員に少し年上の先輩社員がアドバイザーとしてつくメンター制度がある。原口は去年真嶋が入社した時から、メンターとして都度面倒を見てくれた存在だ。
「とにかく忙しいですよ。来週の火曜日が大きな報告会なので、今は特に」
正直に言うと、この修羅場にメンターとの面談の時間を取ることさえ惜しい。しかし、原口にも予定があり、前々からスケジューリングしていたのが今日だったのだ。
「そう言うに決まってるよね。まあ、忙しさに波があるってことは、一年以上やって分かってると思うけど。じゃあ、人間関係で困っていることは?」
仕事内容やキャリアの話を飛ばしてそう切り込まれ、真嶋は自分の心が読まれているのではないかと思った。
「特に問題はありませんが……」
真嶋はそこで言葉を詰まらせた。昨日、例の二神と香田の会話の一件があってから、まだ24時間も経過していない。真嶋は感情表現に乏しいポーカーフェイスのおかげで、表面上はうまく取り繕えている。
しかし、様子がおかしいのは二神の方だった。彼も真嶋以外の人間とは楽しそうに会話しているが、普段なら絶対にやらないようなミスや見逃しを今日だけで数回やらかしている。
「どうかした?」
「いえ、もしかしたら僕は、上司の足を引っ張っているのかもしれません」
「真嶋さんは仕事面での評価は高いから、能力的には問題ないと思うけど」
「能力の問題ではなく、感情的な部分で僕は彼に負担をかけています」
「ああ……真嶋さんの上って二神さんだったっけ。なるほど、確かに真逆の性格だ」
原口は腑に落ちたといったように、何度か頷いている。
「ハッキリ言って、真嶋さんが気に病む必要は全くないと思うよ。だって社会人として見れば真嶋さんみたいな態度の方が普通なんだから。二神さんがそれで不都合があるって言うなら、それは彼の側の問題じゃないの?」
原口は真嶋をフォローしようとしてくれたが、事情を知らない彼の考えはやはりズレている。今は真嶋と二神の性格的な違いなどどうでもいいのだ。包み隠さず明確に言うのであれば「同性愛的な感情を向けてくる相手と一緒にいることで、二神が調子を崩しているかもしれない」ことが問題なのだ。しかし、いくら相談役のメンターであってもこんなことを正直に話せるはずもない。
「でも、組む相手のせいで二神さんが十分に能力を発揮できないのは、会社にとって損失ですよね。いくら僕は悪くないと言われても、やはり気になるものは気になります」
原口の話に何とか合わせてそう言うと、彼は腕を組んで唸った。
「じゃあ、どういう解決策があるだろう」
「まず考えられるのは人事異動ですよね。確か今のプロジェクトは半年の予定で、可能であれば次の報告会後かどこかのキリがいい時にプロジェクトの移動をさせてもらうか、無理であればこのプロジェクトが終わった後は僕と彼を離してもらうか……。そこまでやらないのであれば、単純に『気にしないようにする』という精神論的な解決策になります」
「真嶋さんは、それをどの程度問題視してる? それによってどの方法を取るか変わるよね」
まるで仕事中かのようにきっちりと議論を進められ、真嶋は僅かに躊躇った。何となく感じている不安を口にしただけで、今そこまで明確な解決策を求めているわけでもないのだ。
「まだ些細な問題だと思いますので、とりあえず今は極力気にしないようにして様子見がいいかと」
「じゃあ僕から人事には何も言わなくていい? あ、一応プロジェクト移動の可否くらいはそれとなく聞いておこうか?」
「それでお願いします」
その後は、今の仕事内容に関する話や今後のキャリアの話をしたが、そのどれもが真嶋の頭を右から左へ通り過ぎていった。
***
その翌日の金曜日——普段であれば一週間の終わりだという開放感がある日だ。しかし今週は休日出勤もあるかもしれないなと、朝から気分は重かった。
しかもこの忙しいのに、マネージャーの桜庭から例の新人を紹介したいと言われ、チームは皆ミーティングルームに集められている。ちらりと二神を盗み見ると、彼はどこか顔色が悪いように見えた。ここ何日か、仕事で必要なこと以外は話さないようにしていたから理由は分からないが、また風邪がぶり返しているのかもしれない。
少し遅れて入ってきた新人の女性は、真嶋の顔を見て小さく「あっ」と声を上げた。
「知り合い?」
桜庭に聞かれてようやく、真嶋は彼女を思い出した。
「石川さん、ですよね。大学の弓道部で一つ後輩だった……」
彼女は控えめにこくりと頷く。その所作も綺麗な黒い髪も以前と変わらず、慎ましい日本人女性の典型のような人だった。真嶋は大学院に上がっても弓道部に顔を出し続けたが、彼女は大学院への進学を機にやめてしまったので、会うのはかれこれ2年以上ぶりだ。
彼女は改めて真嶋以外のメンバーを見て、今度は二神にぴたりと視線を止めた。彼女は何か言いたそうにしていたが、桜庭が彼女の紹介を話し始めたので、そちらに視線を戻した。
やはり二神の見た目に惹きつけられたのだろうか。しかし、彼女は男性の見た目に対して値踏みをするようなタイプではない。それに何より、女性に見つめられてあの二神が何も言わないことも気になった。
「今このチームはちょうど忙しいところだから、今度の報告会が終わるまで、彼女には自主的にこのプロジェクトに追いつけるようキャッチアップしてもらいます。二神さん、それでいい?」
桜庭に聞かれて、二神は驚いたように顔を上げた。上の空で何も聞いていなかったようだ。
「あ、はい……。すみません、ちょっと体調が良くないので、外の空気を吸ってから仕事に戻ります」
二神はそう言うと、静かに席を立って部屋を出た。心なしか石川の方もどこか気まずそうにしている。過去彼らの間に何かがあったのかもしれない。そう思ったが、真嶋はすぐに考えすぎだと否定した。二神は石川のような真面目な女性で遊ぶことはないし、石川もまた男遊びとは程遠い印象だ。単に二神は体調が悪いだけで、石川は二神のような男に苦手意識があると考えた方がずっと現実的だった。
「じゃあ僕も仕事に戻ります。今日の夕方、またミーティングで」
桜庭もそう言い残して部屋を出たため、室内はお開きの空気となった。
「二神さんがいないところで申し訳ないけど、できれば報告会用の資料のまとめとか、配布物の印刷とか手伝ってくれると助かります」
去り際にそう提案したのはメンバーの一人である松本だった。どうせ彼は自分が楽をするためにそれらしいことを言っているのだろう。しかしそこまで突拍子もないことではなかったため、石川自身もその提案を承諾した。
皆が出て行った部屋で、真嶋は石川と二人取り残される。何かうまく会話できればいいのだが、久しぶりに会った後輩に何を言えばいいのか真嶋には分からなかった。
「真嶋さんもこの会社に入ってたんですね」
幸い彼女の方から話しかけてくれたので、真嶋は「はい」とだけ答える。
「結構同じ大学だった人を見かけたんですけど、まさか同じ部だった真嶋さんまでいるなんて」
この会社で採用するのは名のあるいくつかの大学に決まっているため、出身大学を聞けば同じというのはよくあることだった。
「ここなら同じ大学というのも珍しいことではないですから、同じ部や同じ研究室出身ということも当然あるでしょう」
「そう、ですね……」
彼女の反応を見て、また自分は頭の固い返答をしたのだと真嶋は悟る。申し訳なく思いながら部屋を出ようとした時、背後から彼女に呼び止められた。
「あの、二神君のこと、なんですけど……」
どうしてここで彼の名前が出るのだろう。しかも「二神君」という呼び方で。真嶋は疑問に思いながら、彼女が何を心配しているのか考えた。
「彼なら仕事は真面目にやるので大丈夫ですよ」
「知ってます。二神君は真面目な子でした」
予想外の返答に、真嶋は言葉に窮した。
「彼とは高校の同級生だったんです。あまり話したことはなかったですけど」
彼女は真嶋の一つ年下だから、つまり二神と同い年で何もおかしいことはない。頭の回らない真嶋は、それくらいの当たり前のことしか考えられなかった。
「大学に入った時からああなったって、友達から聞いてはいたんですけど、実際にここで見てもちょっと信じられなくて」
「彼が普段は真面目とは程遠い言動をしていることも、女性関係の噂が多いのも事実ですよ」
「そうですか……。高校の時の色々なことを知ってると、どう接していいか分からなくて……きっと二神君も同じ気持ちだと思います」
先程あの二人の間に感じた違和感は、やはり彼らの過去に起因しているようだ。
「彼はそんなに違うんですか?」
「高校の時は、話しやすくて明るくて、とにかくすごく感じのいい子だったんです。女子と遊ぶようなこともほとんどなくて。でも、確か高2の終わりの時に——」
その時不意に、部屋の外から物音が聞こえた気がした。真嶋が突然入り口に目をやったため、石川もつられてそちらを見る。真嶋は開いたままになっていたドアから外を見たが、誰もいない。
「真嶋さん、どうかしました?」
「いえ、あの、やっぱり彼の昔の話はいいです。早く仕事に戻らないと」
誰かに聞かれていたのではないかとビクビク心配するくらいなら、そもそも初めからそんな噂話はすべきでないのだ。真嶋はどこか目が覚めたような気分だった。
「私の方こそ、お忙しいところ引き留めてしまってすみません」
謝る石川と共に部屋を出る。その時ふと一つの心配が真嶋の頭を過ぎった。
「石川さん、あの……今の二神さんの話、この会社で僕以外の誰かに話しましたか?」
「いえ……そもそも大学でも彼の高校時代について話したことはありません」
「なら、是非これからもそうしてください。きっとその話は二神さんに不利になる内容でしょうから」
ここ何日かで二神への感情は遠のいてしまったと思っていたのに、真嶋は自然とそう頼んでいた。彼への気持ちはまだ死んでいなかったのかと、真嶋自身驚く。
そんな真嶋の内面に石川が気付くことはなく、彼女はただ「もちろんです」と快諾した。彼女はこの後呼び出しを受けているとのことで、そのままオープンスペースの方へと去って行った。
大学時代の懐かしい後輩に会えたということよりも、彼女が言いかけた二神の高校時代のことで真嶋の頭は一杯だ。この忙しい時に新人が入るというだけでも気が散るのに、まさかこんな爆弾まで投下していくとは思っていなかった。
仕事に気持ちを切り替えようと思いつつ急いで戻ると、プロジェクトのスペースに近付くにつれて二神の声が聞こえてきた。
「も〜松本さん、その書き方駄目だって言ったでしょ〜。夕方のミーティングまでに絶対直してください」
駄目出しをする二神の声はいつも通りだ。真嶋が近付くと、二神は一瞬身構えたように見えた。もっともそれは真嶋の思い過ごしかもしれないのだが。
「あれ、石川さんは?」
松本の問いを聞きながら、真嶋は席に着いた。
「まだ顔見せだけですから、他にも色々予定があるみたいです」
「ああ、そうか。遅かったけど二人で何話してたんですか?」
「大学時代の思い出話に耽ってたんだよ、きっと」
真嶋が答えるより先に、横から二神が口を挟んだ。冗談めかしているように聞こえたが、真嶋の返答を遮ったようにも感じられる。
「まあ確かに、大学時代の後輩と偶然再会って運命感じるかもな〜。真嶋さん、石川さんのことはどう思ってるんですか?」
松本におかしな話を振られたことで、ずっと二神について考えていた真嶋は現実に引き戻された。
「え、あの、僕は、そんな……」
「その動揺っぷりは怪しいな」
松本に絡まれて困った真嶋は、助けを求めるように二神を見た。彼はやはりどこか生気のない顔をしていたが、真嶋と目が合うとびっくりしたように目を逸らした。
「松本さん、喋ってる暇あるならさっきの直して」
二神に急かされ、松本は渋々仕事に戻った。真嶋もパソコンを立ち上げながら、横目に二神の様子を見る。
今なら、彼の元気がなかった理由に新しい仮説を立てることができるのではないか。まず、彼は高校時代に何かよくないことがあったらしい。そしてそれを知る人物——石川がここに来るという予定を事前に知っていた。彼はおそらく高校時代の傷が掘り返されることを恐れただろう。そのせいで精神的に負担を感じていてもおかしくはない。
真嶋はこの考えに一筋の光を見出していた。つまり、ここ数日彼の様子がおかしかったのは自分のせいではないかもしれないのだ。一度ポジティブになると楽なもので、そもそも彼に自分の感情がばれているという確証など何もないのだと自分に言い聞かせる。そして結局残ったのは、二神を心配する気持ちと彼の過去に対する好奇心だけだった。
***
金曜の夜は飲み会をするプロジェクトが多く、夜の社内はいつもより人が少ない。松本は土日も家で作業すると言って帰宅し、木村も休日出勤する前提でつい先ほど帰路についた。社内の見える範囲に残されているのは真嶋と二神だけ。時刻はそろそろ電車が止まるかという頃になっている。
「二神さん、まだ帰らないんですか?」
「え? あ、うん、もう少し……」
真嶋に声をかけられた二神は、まさか話しかけられるとは思ってもいなかったというくらい意外そうな反応を見せた。
「電車、なくなりますね」
「……大詰めなんだから仕方ないって」
「僕の家使いますか?」
断られることも覚悟して勇気を振り絞り、努めて自然に見えるよう誘った。すると二神はさらに目を丸くする。
「なんで……」
二神の呟きの意図が理解できず、真嶋は首を傾げた。
「真嶋さん、今日俺のこと石川さんから聞いたんでしょ? それなのに——」
「聞いてません」
きっぱりと否定すると、二神は瞠目した。
「……気を遣って知らないフリとかしなくていいから」
「もしかして今日、会議室の前にいましたか?」
二神がこくりと首を縦に振る。おそらく彼は真嶋が会議室の外を見に行った時に逃げてしまったので、その先を聞いていないのだろう。
「僕は本当に聞いてませんよ。彼女が何か言いかけましたが、話を聞くのをお断りしました。僕が二神さんから十分な信頼を得て、二神さんの口から話してもらうのが正しい筋ですから。間違ったことはしたくない」
真嶋が堂々とそう言い切ると、二神は緊張を解くように、はあっと大きな溜め息をついた。
「ああ、うん、それホントに真嶋さんらしいね」
どうやら彼は信じてくれたらしく、何日かぶりに真嶋に向かって僅かに笑顔を見せた。
「ここ何日か、二神さんが少しおかしかったのはそのせいですか?」
「え、俺そんなおかしく見えてた?」
「なんと言うか、僕に対してだけ、様子が違うように見えてたんですが……」
「ああ、うん、真嶋さんに知られるのが一番怖かったから、かな」
そう言われてますます彼の過去が気になったが、今はそれを心の内にしまい込む。
「僕はてっきり、この前泊めた時に何か僕が良くないことを言ってしまったのかと思ってました」
真嶋は自分が不安に思っていたことをそれとなく聞いた。
「あ、それもあるかも」
「え、あの、僕の何が……」
真嶋が慌てると、二神は控えめに吹き出した。
「嘘だって」
久しぶりの彼の冗談に、真嶋はまんまと騙された。恥ずかしさと嬉しさが綯い交ぜになったような不思議な感覚だ。
「石川さんのことなら心配しないでください。確かにあなたの高校時代の話を知っているようでしたが、人に話さないようお願いしておきました。彼女も噂話を言い触らすような人ではありません」
それを聞いた二神は笑顔を引っ込めて、少し真面目な顔つきになった。
「真嶋さん、ありがとう。あー、もう、敵わないな」
彼の言わんとするところが分からず、真嶋はどう答えればいいか迷う。
「何で真嶋さんは俺にそんな親切にしてくれんの? 家泊めたり、石川さんに口止めしたり。真嶋さんからすれば俺なんて正反対の性格のヤな奴なのに」
正反対——真嶋も以前はそう思っていた。しかし今は違う。
「僕はそうは思いません」
彼と自分は似た者同士だ。まるで鏡のように、向き合うから反転しているように錯覚しているだけで、本当は全く同じものを真っ直ぐに反射している。互いに高校の頃に何かがあり、その後歩む道を違えただけで、ルーツとしては繋がっているような気がした。彼の中にある隠れた真面目さに惹かれたからこそ、彼を守りたいと思うようになったのだ。
「二神さんは本当は、いい人のはずです。今あなたがいくつか問題を抱えているように見えるのは、理由があってのことなんだと思います」
いつか彼に全てを打ち明けてもらって、彼の影を払うことができればいいのに——真嶋は密かにそう思っていた。しかし二神は真嶋の視線から逃れるように顔を伏せた。
「いい人なのは真嶋さんの方だって」
「あなたにとってはそうかもしれませんが、石川さんにすれば、今日の僕の態度はいい人ではなかったでしょうね」
再会してもろくに気の利いたことも言えず、彼女の話を断って、最後は忠告めいたことまでしたのだ。
「でも石川さんが困ってたら、真嶋さんはきっと彼女の前でいい人になるよ。彼女が終電を逃して途方に暮れてれば家に連れてく?」
真嶋には彼の真意が掴めないため、一般的に考えることにした。
「女性を泊めるのはさすがに不適切だと思います」
「なんで? 真嶋さんが襲っちゃうから?」
「そんなことはしません。でも石川さんの方がきっと嫌がります」
「……真嶋さんが彼女できないの、なんか分かった気がする」
二神の態度には馬鹿にしたようなところは見られなかった。
「強引さが足りないということですか? でも本当に好きになった人なら、ちゃんと誘いますよ」
真嶋は意図的に彼の目を見た。
僕はさっきあなたを家に誘った。僕は今、好きな人なら誘うと言った。この二つを結びつけて考えてください。
二神に向かって心の中だけでそう呟く。
「じゃあもし真嶋さんに好きな人ができたら、俺が寝るとこなくなるね」
二神はいつもの調子で嘘泣きをして茶化した。
「好きな人なら誘う」の逆、「誘うなら好いている」は論理学的に必ずしも成り立たない。ロジックが第一のこの会社にいるならば、区別できて当然のことだ。男同士ではそもそも恋愛にならないという別の条件が彼の中にあれば、なおさら結論を急ぐようなことはしないだろう。
つい少し前までは、彼に自分の恋愛感情がばれていると心配していたのに、今は逆にこのままでは一生気付いてもらえないような気がした。だからと言って、彼にはっきりと気持ちを伝える勇気もない。本当に自分には恋人なんてできないのかもしれないなと自虐的になったその時、二神の携帯がデスクの上で長く振動した。
「二神さん、電話みたいですけど」
彼はちらりとディスプレイを見たが、出ようとはしなかった。
「いいんですか?」
こんな時間にかけてくるのは、もしかしたら女性からの夜の誘いかもしれない。しかし彼はちょっと首を振ってから真嶋を見た。
「別に出なくていい。今日は真嶋さんのとこに行っていいんでしょ?」
彼が誰かの誘いよりも自分を取ってくれたのだと思うと、真嶋は変な達成感を覚えていた。
「はい。何なら、忙しい火曜までうちをホテルにしてくれていいですよ」
「ホント? なんか合宿みたい」
二神の楽しそうな声に釣られて、真嶋も思わず口元を緩める。まだ土日も仕事があるという憂鬱を忘れて、真嶋はどこか晴れ晴れとした気持ちで帰る準備を始めた。
「でも、ベッドは真嶋さんが使って。ホントにいつも悪いから」
「別にいいです。二神さんがいなくてもあのソファで寝ることもありますし」
「いや、だったら俺もそのソファで大丈夫だって」
埒が明かないと思った真嶋は、ふと思いついたことを口にした。
「じゃあ、二人でベッドを使いますか?」
二神は酷く驚いた様子で、閉じかけていたノートパソコンを急にバタンと閉じた。
「まっ、真嶋さんも冗談言うんだ!?」
「いえ、僕は冗談が言えません」
「でも、だって、あのベッド男二人じゃ寝られないって。ほら、数字で考えてさ」
「セミダブルなので不可能ではないです。数字で考えれば」
二神は閉じたパソコンの表面を無駄に撫でながら、何かをもごもごと言っている。真嶋は現実的に実行可能な解決策を機械的に提案しただけだったのだが、二神の反応を見てもう一度よく考え直した。あのベッドで彼と寝るという距離感——想像してすぐに無理だと分かった。それはベッドの大きさという数字の問題ではなく、気持ちの問題だ。
第一、好意を寄せている相手をベッドに誘うなど、客観的に見れば下心が見え透いている。唐突に恥ずかしくなり、本当にそんなつもりはなかったのだと真嶋は自分に言い訳をした。
「すみません。不可能ではないですが、それで二人とも寝不足になったら元も子もないですよね。トータルでのメリットを考えれば、やはりベッドとソファの両方の資源を使わないと」
「へ? あ、うん、そうそう」
真嶋が意見を変えたことが意外だったのか、二神の反応は鈍かった。
「どっちがどこで寝るかはとりあえず保留にしましょう」
そう言って帰り支度をし、二人は夜の街を歩いて真嶋の家へと向かった。二神が報告会まであと何日かのスケジュールについて話すのを、真嶋は相槌を打ちながら聞き続ける。
「真嶋さんが一番進捗早いんだからさ、当日のプレゼンも全部任せたいんだけど」
「僕には無理ですよ」
「冗談だって」
彼にストレスや疲れは見られず、十分リラックスしているように思えた。これなら今の山場も乗り切れるだろう。
真嶋は途中何度も、彼の昔の話を聞かせてくれないか頼みたくなったが、それらを全て飲み込んだ。今はただ、修復された彼との関係を保ちたかったからだ。しかしそうやって壊さないように慎重になっていては、いつまで経っても彼との関係は進展しないだろう。
真嶋がジレンマに押しつぶされそうになっていることもつゆ知らず、二神はじゃんけんで今夜の寝床を決めようと楽しそうに笑っていた。