誰かの葬儀に出席するのは、一昨年祖父を亡くして以来だ。
黒いスーツ姿の人々の後をついて歩きながら、松ヶ谷久音は足元に視線を落とした。雨のせいか、あるいは久々に着たスーツのせいか、どことなく歩きづらい。もうしばらく着る予定はないと思っていた就職活動用のスーツ。まさかこんな形で引っ張り出してくることになるとは、夢にも思っていなかった。
12月末の夕方だというのに、頬に触れる空気はどこか生暖かく、しとしとと降りしきる雨は雪になることもない。黒のコートがすぐ見当たらなかったため、コートのいらない気温でよかった、などと本当にどうでもいいことが頭を過ぎる。どんなことでもいいから、とにかく何かを考えていたかった。この道がどこに続いているのか、自分がどこへ向かっているのか、思い出さないように。
しかしそんな悪あがきも虚しく、前を歩く黒い集団は、歩道からとある敷地の中へと入って行った。白い建物の入り口に集まっているのは、黒い傘、黒い服、黒い車。門の前に立ち尽くして、そんな白黒の景色を遠巻きに見つめる。門前に掲げられた縦長の白い看板には、黒い堂々とした文字が並んでいた。
『故桐野文刻儀 葬儀会場』
漢字ばかりが羅列されている中、友人の名前だけがくっきり浮き出ているような気がした。心がざわついて、その文字から逃げるように建物へと歩を進める。
受付が詰まっているのか、入り口付近で先程前を歩いていた集団に追いついた。
「高田先生、もう先に入ってるかな」
「いや、4年の何人かと一緒に後から来るって」
「ああ、卒論指導の時期だもんな」
「最後の追い込みだよ。……桐野は、もう終わってたんだろうけど」
「何となく、あいつはそういうタイプだよな」
漏れ聞こえてくる会話から察するに、彼らは故人と同じゼミの大学生だろう。同じ大学に通っていても学部が違ったため、彼が普段どんなゼミで誰と一緒にいるのかも知らなかった。彼が自分以外の誰かと一緒にいる時の話には、興味がなかったから。
彼らの内の一人はちらりとこちらを振り向いたが、すぐに前に向き直った。彼らから自分は何者だと思われているのだろう。久音はそんなことを気にしながら、アッシュベージュに染めた髪を意味もなく撫でつけた。
電話で母親に言われた通り、受付で香典を渡しお悔やみの言葉を述べてから、他の人に続いて式場へと進む。入ってすぐ、正面に見えた遺影と目が合って、ほんの一瞬ずきりと胸が痛んだ。
参列者はあまり多くなかったため、着席すると随分前の方になった。彼は友達が多い方ではなさそうだったから当然かもしれない。
「あの写真、いつのだろ。高校の卒アル?」
「制服じゃないから、大学の入学式だろ」
隣から聞こえたそんな会話に、俯いていた顔を上げる。写真の中の彼は見慣れた無表情だったが、確かに今より少し幼く見えた。
久音はこの頃の彼のことを知らない。彼に出会ったのは、大学3年になったばかりの春のことだったからだ。
***
あの日は所属している軽音サークルの新歓ライブでバタバタしていた。組んでいたバンドメンバーがやめてしまったため、新歓ライブでの出番はなく、かといって部室でゆっくりすることもできず、一人ギターを弾ける場所を探していた。
本来であれば、サークルで手伝うべきことはいくらでもあったし、ボーカル兼ギター兼キーボードだから、一人で弾き語りをするという方法もあった。しかし最近はサークルの色々なことに不満を持っていたため、彼らのために何かするという熱意が薄れている。作曲ができるからといって、体のいい曲提供者としてこき使われることも、退屈な恋愛の詞を持ってくるメンバーにも、モテたいだけの自称バンドマンにも、どこか疲れ始めていた。こんな小さなサークルから自分を連れ出してくれる誰かが現れないかと考えてしまうほどには。
新入生で賑わう通りを抜けてキャンパスの外れまで来たところで、木々の間を縫うように伸びる脇道を見つけた。キャンパスの裏手にある山へはここから入っていけるらしい。山の上を少し見上げると、休憩用の東屋のようなものが見えた。
人が立ち入ってもいい場所なのだと分かるや否や、躊躇いなくその小道に足を踏み入れる。むしろなぜ今までこんな絶好の場所に足を向けなかったのか不思議なくらいだった。
ギターを担いで坂道といくつかの階段を上っていくと、下から見えていた東屋の屋根の部分が見えてきた。先客のカップルでもいたらどうしようかと思ったが、幸いにも屋根の下のベンチには誰もいないようだ。
だが一歩また一歩と近付いたところで、ベンチの方から白い紙が一枚風に飛ばされてきて、目の前の地面にカサリと落ちた。くしゃくしゃにされたその紙には、几帳面な文字が連なっている。
「何だ、これ……詩?」
紙の皺を伸ばしながら、そこに書かれた言葉にざっと目を走らせる。一つの詩というよりは、詩のアイデアの断片を寄せ集めたメモのようだ。
僕の言葉は 紙の上で凍り付いて 死んでしまった
いつの日か 君が僕の言葉に 声を与えてくれるなら
僕は君と共に 生まれ変わり 永遠になる
僕はここで その日を待っている いつまでも
一番最後のその部分だけ、一貫して丁寧だった字体に崩れが見える。詩というより、まるで大急ぎで誰かに宛てた手紙のようだった。
何かに呼ばれるようにゆっくりとベンチへと近付くと、誰もいないと思っていたそこには、横になって眠る一人の男がいた。長すぎず短すぎない黒い髪を風に揺らしながら、完全に寝落ちている。彼の腕の中には一冊のリングノート。手元にある紙はここからちぎられたもののようだ。
ノートに向かって手を伸ばしたその時、男の目がぱちりと開いた。
「あ、の」
慌てて手を引っ込めて何か言い訳を探す。目の前の男は、まだ寝ぼけた頭で状況の理解が追いついていないようだ。
「こ、これ、風で飛んできて、その……」
「読んだのか?」
寝起きの掠れた低い声は随分機嫌が悪そうだ。男は久音の見せた紙切れをひったくるように取ると、もう一度くしゃくしゃに丸めた。
「それ、いいのか?」
「ゴミだ。君には関係ない」
逃げるように立ち去ろうとする彼の手を咄嗟に掴む。
「待って、あのさ、あんたの詩、どれでもいいから俺に歌わせてくれない?」
「どうして?」
「俺、バンドやってて曲も作ってるんだけどさ、歌詞だけは苦手で……」
「そうじゃなくて、どうして俺に頼む?」
そう尋ねられて真っ先に思い浮かんだのは、先程ざっと読んだノートの1ページだった。
「えっと、さっきの紙を見て、なんとなく。あんたが待ってる誰かじゃないかもしれないけどさ、俺の声でよければ、あげられるかなって」
その時の彼の驚いた顔が印象的で、その後何と返されたのかは忘れてしまった。あの時はとにかく、彼を獲得するのに必死だった記憶しかない。あの場でギターの弾き語りをしてみせた時、今までのどんなオーディションやライブよりも緊張したことだけは覚えている。
***
ふと気が付けば、斎場は自分の後ろも意外と席が埋まってきている。そのほとんどは親類と思われる年配の人々だったが、その中に大学生らしきグループも見えた。
「あ、先生たち来た。だいぶ後ろになったな」
「肝心の4年の連中があんな後ろで、院生の俺たちだけこんな前ってなあ」
聞くつもりがなくとも、隣からの会話が耳に入ってくる。
「ま、桐野と同じ4年っつってもさ、桐野ってあんまり同級生と仲良くするタイプでもなかったからな」
「あー、誰かと話してることほとんどなかったもんな」
ちょうどそこで時間になったのか、後ろのドアが締められて会場内が静かになった。もうすぐ読経が始まるだろう。まだ隣で何か会話が続いていたが、もう周りの様子を気にするのはやめにして、ただ目を閉じて静かに待つことにした。
***
半ば強引に知り合った彼——桐野文刻はとにかく寡黙でよく眠る男だった。それでいて、紙の上の詩ではやたらと饒舌だ。最初に出会った場所に行くと、大抵彼はそこで何かを黙々と書き綴っているか、居眠りをしていた。
「文刻、そのノート全部読ませてよ」
ベンチの背後から彼の肩にのしかかると、彼はぱたんとノートを閉じた。
「嫌だ」
「ケチ」
ブーイングをしてみせると、彼はノートの途中から1ページだけ切って手渡してきた。
「君が読んでいい部分は俺が決める」
ノートを千切るのは読んでいいものができたという合図——そのルールは最初から今に至るまで徹底されていた。
「俺以外の人にこれ読ませたことある?」
「ない」
「どうして? 友達とかいないの?」
「いない」
コミュニケーションに慣れていない簡素な受け答えから、彼に友達がいないのは本当だろうという確信があった。だから、彼が同じ学年で文学部所属だということ以外は、彼の学生生活について根掘り葉掘り聞く必要もないと思った。
「じゃあさ、文刻の詩に出てくる『君』って誰? ていうか『僕』って誰? お前、自分のこと俺って言うじゃん」
「……全部、夢の中で見たことだから」
「顔に似合わずドリーマーなんだ」
「うるさい」
仏頂面がほんの少し照れるあの瞬間が好きで、こんな風に彼をよくからかった。
***
隣の人が席を立つ。気付けばもう焼香の順番が回ってきていた。どんな作法でやればいいのか——そんなことは、彼の遺影の前に来ると頭から飛んでしまった。
写真の中の幼さが残る男を、自分は知らない。棺の中に誰がいるのか、ここからでは見えない。だから、これは彼の葬儀ではないのかもしれない。
そうやって逃避しなければ、今この場で蹲ってしまいそうだった。久しぶりに締めたネクタイのせいか、喉元に何かがつかえているような感触がする。このつかえが取れれば、全部この場で溢れてしまうだろう。マイクの前に立つ時とは違う、歌ではない何かが。
気が付くと通夜は滞りなく終わり、人波に流されて斎場を出るところだった。あそこで自分は正しく焼香できたのか、記憶が定かではない。
人ごみに目を走らせると、例のゼミ生の集団が見えた。皆一様に、笑ってはいないが心底悲しんでいるという風でもない。大学のゼミは3年の春からで、たった1年9か月の知人ならその程度なのだろう。
付き合いの長さでいえば、久音も彼らと変わらない。2年以下のつきあいの友人関係。他人から見れば、大したことのない関係に思えるかもしれない。それでも、この短い間には自分と彼にしか分からない繋がりが確かにあった。
内向きな詩に反して、彼自身はぶっきらぼうで口が悪くて、しょっちゅうどうでもいい言い争いをした。
彼が恋愛についての詩を書かないことに気が付いた時、彼の恋愛経験のなさをからかったら、思った以上に大喧嘩になった。
二人で作った曲をバンドメンバーに持って行ったら、彼はなんだかつまらなさそうにして拗ねていた。
やけに喧嘩したことばかりを思い出してしまうが、どれも嫌な記憶ではない。喧嘩するほど仲がいいというもので、二人にとっては喧嘩も普通の日常の内だった。その普通の日常も、もう失われてしまったけれど。
「あの、松ヶ谷君?」
ふいにかけられた声に振り返ると、喪服を着た女性が立っていた。一昨日の夜に病院で初めて会った、文刻の母親だ。
***
あの日はちょうどクリスマスだった。
「問題。本日クリスマスは誰の誕生日でしょーか?」
「イエスキリスト」
「は?」
「ジーザスクライスト」
「無駄に発音よくしたって不正解だっつの。あのな、クリスマスは俺の誕生日だって去年も言っただろ」
「忘れた」
「ま、いーけど。新しく曲作ったからさ、今日の夜うちに聞きに来いよ」
「……分かった」
冬休みで授業ももうないのに、二人で裏山のいつもの場所に集まってそんな会話をしたのが昼過ぎ。まさかあれが最後になるとは思ってもいなかったから、別れ際に何を言ったのかも覚えていない。
20時を過ぎても彼が姿を現すことはなく、最初は遅刻を怒鳴りつけてやるつもりで携帯に電話をした。だがいくらかけてもそれが繋がることはなく、23時近くになってやっと電話越しに出たのは、聞いたこともない女性の声だった。
「あの、どちら様? 文刻の彼女さん……なんていないか」
「桐野文刻の母親です」
その後の会話はよく覚えていない。彼女はただ、文刻が交通事故にあって亡くなったとだけ伝えた。
病院の場所を聞いて大急ぎで駆け付けた時、彼女はまだそこで葬儀の打ち合わせをしていた。泣きはらした彼女の目をなるべく見ないように軽く会釈をすると、彼女は「どうぞ」と室内に通してくれた。
そこは病室ではなく霊安室で、空気は冷たく、線香の匂いが漂っていた。頭は完全に思考停止しているのに、足が勝手にベッドへ向かう。最初に出会った時と同じように、彼はそこで眠っていた。詩を書くための夢を見ているのかもしれない。
「文刻、起きろ」
いつもするのと同じように頬を軽く叩いたら、そこは予想していたよりずっとずっと冷たかった。いつも無理矢理ノートを覗き込もうとして触れていた広い肩も、破ったノートを渡してくれる大きな手も、全部冷たく固まっている。
人の体温ではなく、物の温度だ。そこでやっと、彼がもう二度と起きることはないのだと実感した。彼の命はとっくに失われていて、もうこの頭の中で夢を見ることもないのだと思ったら、全身から力が抜けた。
耳障りな音と共に、傍にあったパイプ椅子を倒しながら床に膝をつく。一旦崩れてしまえば全てがどうでもよくなって、堪えていた涙が音もなく零れた。
「車道の脇で、小学生の男の子が自転車で転んでいて……文刻が助けようとしたんだそうです」
幾分落ち着きを取り戻した頃、パイプ椅子に座っていた彼の母親がぽつりとそう呟いた。すぐには言われた意味が分からず、交通事故の原因に関する話なのだと理解するのに一拍遅れる。
「あいつ、口ではウザいとかめんどくさいとか言うクセに、そういう変に優しいところ、あるから……」
声が喉に貼りついたように、途切れ途切れにしか言葉が出てこなかった。
「警察の人が持ってきてくれた文刻の鞄の中に、こんなものがあったんだけど……」
床に座り込んでいた久音の元に、彼女はラッピングされた小包を差し出した。
「あなたと会う約束をしていたなら、これはあなたへのものなんじゃないかと思って」
「……んだよ、それ……そういうキャラじゃないだろ」
「受け取って?」
泣きそうな彼女から目を逸らして、ぶんぶんと首を振った。
「俺に宛てたものとは、限らないから」
「でも、あの子から聞いた友達の話は、全部あなたのことだった」
彼が母親に自分の友人関係まで話していたとは初耳だ。
「あいつ、ほんっと俺以外友達いなかったのな」
これ以上拒んだら目の前の女性を泣かせてしまいそうだったので、その包みを大人しく受け取ることにした。
「あと、これも……」
そう言って彼女が見せてきたのは、彼がいつも持っていたノートだった。
「それは……絶対に受け取れません」
「どうして?」
「だって、あいつに怒られるから」
「文刻はもういないんだし怒られることなんて……」
「それでも、約束だから。それは誰も読まないで、棺に一緒に入れてやってください」
彼女はそれ以上食い下がることはなかった。その後は、文刻の父親と妹が来るまで彼女の話し相手になった。
***
喪服を着た目の前の女性は、病院で会ったあの日よりさらにやつれて細くなっている。
「松ヶ谷君がもし良ければ、明日の告別式も来てくれないかしら」
「でも、明日は親族の方だけなんじゃ……」
「別にそんなこと決まってないから気にしないで。一番親しくしてもらっていた松ヶ谷君が来てくれた方が、あの子も喜ぶかと思って」
「お邪魔でなければ……」
そう答えると、彼女の青白い頬がほんの少し赤みを取り戻したように見えた。
なるべく何も考えないように、頭を空っぽにして帰りの電車に揺られる。あえて日常を取り戻すかのように携帯でメールチェックをしてみると、何通か入って来たメールの内、一件は最近声をかけてきたメジャーレーベルの人からのものだった。
ネット上の動画サイトやSNSに曲を投稿して、ライブやフェスにも参加して、CDもチケットもそれなりに売れている。インディーズではかなり芽が出ている方で、メジャーに行くか考えているところだった。卒業後はアルバイトをしながら続けるつもりだったが、音楽だけで食っていけるかもしれないという期待も生まれ始めていた。
メールの内容は、作詞をしていた友人が亡くなったという話に対するお悔やみの言葉、しかし君の歌には期待しているという励ましの言葉、気持ちが落ち着いた頃にまた会いましょうという誘いで締めくくられていた。まるで作詞担当には替えがきくとでも言われているようで、メジャー契約をする気はほとんど消え失せた。元から歌詞や曲にまで口出しされそうな雰囲気に尻込みしていたから、決心がついてちょうどよかったのかもしれない。
そもそも、文刻がいなくなってしまったら、メジャーだろうがインディーズだろうが、もう歌う言葉がない。彼の言葉以外で歌う気にはならない。つまり、音楽人生もこれで終わりだ。
彼がいなくなってここまで苦しいのは、音楽を続けていく夢が断たれたからだろうか。そんな考えはすぐに打ち消される。それだけのことなら、あの日彼が遺したノートを受け取って、これからいくらでも曲を作ればよかったのだ。
しかしそんな気にはならなかった。メジャーデビューを考えたのも、彼の言葉を音にして、なるべく多くの人に聞いてほしかったからだ。彼がいなくなってしまった今、歌う意味を完全に見失っていた。
電車のドアの窓ガラスに映った自分の顔を見て、心の中で問いかける。
彼に出会う前は何のために歌っていた?
かつての音楽に対する情熱すら、今はもう思い出せなくなっていた。
自宅のワンルームマンションは当たり前だが真っ暗で、電気を点けてもそこには誰もいない。
文刻には合鍵を渡してあったから、帰ってくるとそこのベッドで彼が寝ていることもあった。頬を叩いて起こしてやると、彼はいつも「君が呼んだくせにどこに行っていたんだ」と文句を言ったものだ。
ネクタイを緩めても、喉のつかえが取れることはない。スーツを脱いで着替えても、身体が軽くなることもなかった。先程一つ余計なことを思い出したせいで、家の中の物を見るたびに二つ三つと記憶が蘇る。
ベッドと机の間にあるシンセサイザーで、完成した曲をよく披露した。彼の詩で最初に作った曲をあれで弾き語りして見せた時、彼は目を丸くしてこう言った。
「ギターを弾いてた時と全然印象が違う」
「俺を見るより曲を聴いてほしかったんだけど?」
恥ずかしさを隠すように肩を竦めると、彼はきまり悪そうに黙ってしまった。
あのシンセサイザーと隣のパソコンを使って、彼の詩に曲を付けたり、あるいは曲に合わせて彼に歌詞を変えてもらったり、一晩中二人で試行錯誤していた。そんなことをしているとよく徹夜になるから、この部屋には彼のものがいくつか残っている。彼の箸も、マグカップも、歯ブラシも、全部処分しないとならない。分かってはいても、しばらくは手を付けられないだろう。通夜が終わってもまだ、彼が戻ってくるような気がしているから。
食事も何もする気にはなれず、シャワーも明日の朝でいいかと妥協する。ふと目に入った机の上には、クリスマスに受け取った彼のプレゼントが未開封のまま置きっぱなしになっていた。本当に自分宛てなのか自信がないのが半分、開けたらまた感情が揺さぶられそうで怖いのが半分。
しばらく開けることもないだろうと思い、それをクローゼットにしまおうとする。だが扉を開けた瞬間目に入ったのは、彼の着替えが入った紙袋だった。
たったそれだけの些細な後押しで、堰き止められていた何かが決壊した。もう枯れたと思っていた涙が溢れ出して、嗚咽を噛み殺す。明日目が腫れることも気にせず、その場でしばらく泣き続けた。
泣きすぎたせいか頭がズキズキと重く痛む。ベッドの中、クローゼットから一枚だけ持ち出した彼のシャツを抱き締めて、身体をぎゅっと縮こまらせた。迫ってくる明日から身を守るように。
明日は告別式。最後に遺された彼の身体も火葬にされて無くなってしまうという、なんとも恐ろしい日だ。彼の身体を構成していたものはどこへ行くのだろう。煙は空へ、灰は地面へ、骨は墓の下へ。
冷たくなった彼の肌に触れたあの日、既にもう彼はいなくなっていた。残された抜け殻が燃えてなくなることなど、大した意味はないじゃないか。そう思おうとしても、目に見える彼が消えてしまうことがたまらなく怖かった。考えないようにしても、明日のその瞬間のイメージを頭から追い出すことができない。腕の中のシャツは人肌で温められ、彼の匂いもまだ残っているのに、本人がもうこの世にいないというのが不思議で仕方なかった。
ただの友人の死にしては、今の自分の行動がおかしいという自覚はある。彼の存在が友人以上だったかと聞かれれば、迷うことなくイエスと答えるだろう。むしろ過去に付き合ったどんな女性よりも、彼と一緒にいる方が楽しかった。彼の言葉を自分の声と一つにして、スピーカー越しに拡散する瞬間は、セックスなんて比較にならないほど気持ちよかった。
あまりにも漠然としたこの気持ちに、恋だとか愛だとかいった名前を当てはめることすら躊躇われる。この気持ちは、それよりも上位のものだったのかもしれない。
出会ってから1年9か月という時間は、あまりにも短すぎたのだ。彼へのこの感情を正しく理解することも、彼について深く知ることも、彼との関係に名前を付けることも、結局全部中途半端に終わってしまった。
どうしてもっと早くあの場所を見つけなかったのだろう。ただそれだけが悔やまれる。もしも時間を巻き戻せるなら、一秒でも早くあの場所に向かって、一秒でも長く彼と共に過ごす時間を増やしたい。
眠りに落ちる直前、そんな叶わない願いだけが頭を過ぎった。
***
パソコンに繋いだキーボードで、イメージしていたメロディーを奏でる。文刻に新しくもらった詩を、この年末年始である程度曲の形にしてしまうつもりだ。
「き、み、がー? んー、なんか違う……」
「何が?」
声をかけられると同時に、肩に重みがのしかかる。
「重い」
「君の真似。いつも後ろから人のノートを覗いてくる」
「俺はお前より軽いからいーの」
横目で睨んでも、文刻はモニター上の譜面をじっと見ていた。
「歌詞、変える?」
「んー、まだいいよ。そんなことよりお腹空いたから何か作って」
「この前焼きそば焦がしたら、もう作るなって君が……」
「忘れた」
「なんだそれ」
「文刻の真似。都合が悪くなったら忘れる」
そう言うと、彼は渋々廊下のキッチンへと向かった。
つい数日前にも同じやり取りをしたような気がしないでもない。そういえば今日は何日だろうか。
ふとそんな違和感を覚えてしまったが最後、すぐにこれは夢なのだと気付いてしまった。気付かなければ、夢の中だけでは幸せな時間を過ごせたのに。
向き直った机の上には、彼のノートの1ページ。さっきまでこれを見ながら曲を作っていたのに、その詩の一節を見て今更ぎくりとする。
神様の姿なんて 探さなくていいんだ
あいつはマジックミラーの向こうの 卑怯者なんだから
君は僕だけ 見ていればいいのに
なんて 今君の前から消える僕の 理不尽な嫉妬
別れの詩を作ってもらったら、やけに今の状況に一致していて、心がずしりと重くなった。まるで死んだ彼からのメッセージのような気さえしてくる。
本当はこれ以外でも、彼の詩を読んで時々心に引っ掛かることがあった。
「この『君』って俺のこと?」
いつもの軽口と同じノリで、何度もそう聞きたくなる衝動を抑えてきた。たとえ冗談でも「違う」と言われるのが怖かったから。
本当は、彼がたまに自分に向けてくる執着心のようなものに気付いていた。バンドの練習に行こうとして不意に掴まれた時の腕の力や、ライブハウスの後方からステージの自分をじっと見てくる視線の鋭さは、何かを思わせるに十分だったからだ。
しかし、彼にはきっと自覚がない。彼は夢で見たことを詩にしているだけのつもりでいる。一人で勝手に意識するのも自意識過剰な気がして、結局彼の気持ちを確かめることすらできなかった。
何を恐れていたのだろう。なぜ聞けなかったのだろう。彼の返事がどうであれ、今この瞬間の胸の痛みより恐ろしいものがこの世にあるだろうか。
コップから水が溢れるように、頭から後悔が滲み出して、爪先まで全身に痛みが浸透していく。寝る前の頭痛が、夢の中まで追いかけてくる。
「やり直したい?」
ふと聞こえた声は、自分のものでも文刻のものでもなかった。振り返った先、部屋の中央に立っていたのは、葬式帰りのような黒いスーツの男だ。今日の通夜で見た誰かの姿かもしれない。しかし、年老いているわけでも、若いわけでもない、年齢不詳の不思議な空気を纏っている。
「な、に……?」
「随分強い後悔を持っているようだったので、やり直したいのかと」
夢特有の突拍子もない展開がおかしくて、泣きそうな気持ちが吹き飛ぶ代わりに、自嘲気味の笑みが零れた。
「そんなもん、やり直せるならいくらでもやり直したいよ。限界までCtrl-Zで戻りたい。セーブしないでゲーム機のリセットボタン押したい。曲の途中で一時停止して、頭出しボタンを盛大にぽちっとやってやる」
「やり直したら今より良くなると本当に思いますか?」
説教じみた大人の尋問のような、無邪気な子供の質問のような、よく分からない音色の声だ。
「どういう意味? 俺は、できるなら大学入学まで戻りたい。それで速攻あの裏山に登って、文刻を叩き起こしたい。そこにいなければ、文学部の授業に乗り込んで全部探してやる。そうすれば少なくとも、1年9か月よりは長く一緒にいられる」
「それで? 彼との関係が今より深まったとして、もう一度今日この日が巡ってきたら? 気持ちが大きくなればなるほど、悲しみも大きくなりませんか?」
「それは、そうかもしれないけど」
「けど?」
感情の籠もっていない問いかけが、ぐさぐさと心に刺さる。
「けど、こうやってうじうじ後悔してんのよりは、ずっとマシだ」
「何を言ってももう『ここ』には戻って来られないし、やり直せるのは一度きりでも?」
「構わないね」
音楽をやるために就職活動を捨てた時から、覚悟を決めることには慣れている。
「人間は本当に分からない」
そう言いながらも、男はまったく不思議そうな顔にならない。夢の中の登場人物というのは、えてしてこんな人形染みたハリボテだったりするものだ。
「やり直しできたら、今の記憶ってどうなんのかな。全部残ってて、強くてニューゲームだったりして」
「さあ、多分ほとんど忘れてしまうと思いますけど」
「多分って?」
「こういうことは滅多にしないので」
そこでやっと、微妙に会話が噛み合っていないことに気付く。
「仮定の話じゃなくて、マジでやり直せんの?」
「だからこうやってさっきから聞いてるんです」
夢というのはたまにこうやって面白くなる。文刻はいつもこんな夢を見ていたのだろうか。彼を思い出してちくりと胸に棘が刺さった。
「滅多にしないのに、俺だけ特別? 何でまた? 俺のファンなの?」
あえて冗談っぽく言うと、男はこちらを指差した。
「あれが、気に入ったから?」
彼の指し示す先にあったのは、机の上の紙切れだ。つられてもう一度、そこに書かれた言葉に目を向ける。
神様の力なんて 頼らなくていいんだ
君の悲しみを癒せるのは 時間だけなんだから
僕が君を 助けられたらいいのに
なんて 今君を悲しませている僕の 矛盾した祈り
「神よりも時間の方が上だと言ってくれるなら、その信仰に応えるのも悪くはないかなと」
その時やっと、男の表情に微妙な感情らしきものがみえた。やっぱりこれは、夢ではないのかもしれない。ふと過ぎった希望に、さらなる期待を重ねてみる。
「もし……もしも全部やり直して、あいつとの関係が変わったら、あのクリスマスの日も当然変わるし、そしたらあいつだって死なないかもしれないんだよな」
「逆に彼とは全く出会うこともなく、たとえ彼が死んでもあなたは何事もなく生きていくかもしれませんね」
それが、もっとも平和な解決策かもしれない。それでも突き動かされるように首を振る。
「それは絶対ないと思う。俺はきっとまた文刻に会うよ」
「都合のいい自信」
「それくらいの自信でもないと、就職捨ててまで音楽なんてやってけないよ」
成功に必要なのは才能と覚悟と自信と運と、そして何より戦略だ。この賭けに勝つために、全部でなくていいから、最初に彼と出会ったあの瞬間だけは確実に覚えていようと思った。
キャンパスを見下ろす景色と、日陰になったベンチと、散りかけの桜の木。春先の緑の匂いと木々のざわめきの中で、永遠を願う彼に向けて歌ったのは、UKロックの有名な曲。
「会うだけでどうにかなると思いますか?」
まるで心の中を読んだかのように、目の前の男が水を差す。
「どうにかなるよ。出会いさえすれば、後はもう転がる石のごとく落ちるだけ。多分……いや、絶対」
ライブが始まる前の昂揚感に似た何かが、久しぶりに身体の中を満たしていく。これはただの夢で、目が覚めたら告別式のはずなのに、自分でも不思議なくらいこの男の話に乗せられている。それでも悪い気分ではない。
開けなかったプレゼント。読まなかった彼のノート。答え合わせは持ち越しにしよう。
「やっぱり人間はよく分からない」
男がそう零すが、分かってもらうつもりなどさらさらない。この男に限らず、通りがかりの誰かが今日の自分の姿を見ても、今の不思議な心境を理解してくれるとは思わない。彼と二人で積み重ねてきた時間を知らない人からすれば、その程度だろう。
夢が幕を閉じる最後に聞こえたのは「まあ、面白いからおまけのサービスを付けておこう」と呟く誰かの声だった。
***
携帯のアラームが枕元で朝を告げる。
ゆっくりと身を起こしてみると、何だか随分頭が重い。昨夜、頭痛の原因になるような何かがあったのだろうか。思い出そうとしても、頭の中には今見た夢の残骸しか残っていない。
とにかく悲しい気持ちと、悔しい気持ちと、ほんの少しの希望が混ざっていたことだけは覚えているが、夢というものは起きた瞬間にぽっかり忘れてしまうものだ。
今日は大学で新入生向けのガイダンスがある。入学式より先に何日もガイダンスがあるのはいかがなものか。皆そう思っているだろうが、誰も口には出さない。
ギターを持って電車に乗るのが嫌で、大学の近くのマンションを借りた。徒歩通学なら交通事情を気にする必要もなし、そんなに急ぐこともないだろう。
そんなことを考えながら伸びをして立ち上がった瞬間、買ったばかりのシンセサイザーの隣に、一枚の紙切れが置かれていることに気付いた。リングノートの1ページを切ったようなものだが、真っ白で何も書かれていない。
「こんなの持ってたっけ」
何とはなしにそれを手に取った瞬間、頭の中に見たことのない風景が見えた。どこかの山の中腹にあるベンチで、誰かと何かを話している。さっきまで見ていた夢で近いものをみた気がするが、靄がかかったように曖昧だ。
こうやって夢の内容を思い出せそうで思い出せない時ほどもどかしいものはない。掴みかけた細い糸がするすると指の間を抜けていくような感覚だ。
しかし、それを思い出せる瞬間というのも、意外とあっけなくやってくる。洗面所で冷たい水が目に入り、ぎゅっと目を瞑った瞬間、頭の中の霧がスッと晴れた。
「……あ」
まだ見ぬはずの大学生活の記憶から、夢の中でおかしな男と話した内容まで、全てが早送りのように頭の中に流れ込む。洗面所で身支度を終えてから着替えをして、気が付いたら朝食も食べずに家を飛び出していた。
せっかく思い出したはずの記憶は、まるで揮発性の液体のように、思い出した端から順に宙へと消えていく。このままだと、『彼』に会うまでにこの記憶は全部消えてしまうだろう。何かメモでも残したいところだが、見えている記憶はうまく言語化することができない。
そんなことはいいから、とにかく走れ——頭の中にあるもう一人の意識が囁いた。
ギターのせいで走りにくくとも、足が止まることはない。走りながら耳の中にイヤフォンを突っ込んで、頭の中に音楽を流し込んでみる。あの日弾き語りした曲を、1曲のみのリピート再生にして。たとえ途中で全部忘れてしまっても、この設定を見れば何かに気付くだろう。
一秒でも早く、あの場所へ、『彼』の元へ。
未来のあの日で立ち止まったまま、『俺』は答えを待っている。
消えかけの意識のかけらがそう語りかけ、走る背中をそっと後押ししてくれたような気がした。
本当はこの続きの「やり直した世界」の話を中〜長編で構想していて、これはそのプロローグ的なもののつもりで書きました。
死んだ誰かを救うためのループものって悲劇のように見えるけど、何度もループ可能ならもうループし続けてればずっと一緒にいられるじゃん?って思ってしまうので、一回だけループ可ってルールにしてみた。
もっと長い間一緒にいて、もっと深い関係になった後で、もう一度文刻君を喪ってもう二度とループできないとなったら……久音君はどうするんだろうね(フラグ)。