猫と花 | fDtD    
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猫と花

「タカヒト、猫って好き?」
 大学の学生食堂で友人にそう聞かれたのが、吉住貴仁の受難の日々の始まりだった。
「何で急に?」
「いや、貴仁ってなんか寂しそうだから、猫とか飼ってみたらどうかなって。相変わらず彼女もできないみたいだし」
 向かいに座った友人——高幡千草は、呆れるでもなく馬鹿にするでもなく、ハッキリとそう言い切った。
「悪かったな」
 貴仁はそれ以上何も言い返せない。千草の言う通り、貴仁は全く恋愛に向いていなかった。薄いブラウンに染めた髪と、ダサすぎずキメすぎない若者向けブランドで作ったファッション、平均よりも高い178センチの身長——顔も含めて外見は全く問題ない。それどころか世間一般的にはイケメンと称される部類のはずだ。しかし、恋愛対象になりそうな異性を前にすると、とある症状が出てしまうという問題を抱えていた。
「黒いオスの猫でさ、まだ子供なんだけど、うちじゃ合わないみたいでちょっと心配してるんだよね」
 向かいで千草がふうと溜め息をつく。
「合わないって?」
「何て言うか、反抗期? 子供なのに全然甘えてきてくれないし、発情期だろうがお構いなしで、家と庭だけのヒキコモリ状態だし」
「ヒキコモリ? 飼い猫なら普通だろ。外出すの危ないし。つか、そんなに様子が変なら医者に診せたら?」
「そういうんじゃなくて、多分、うちの環境が良くないんだと、思う……」
 そこで千草の表情が少し翳る。鼻筋が高く、彫りの深い顔立ちの彼が憂えている様子は、なかなか絵になった。
「そういうわけだからさ、一度会いに来るだけでも、どう?」
 千草は先程までの憂いが嘘のようにコロッと軽い調子でそう言った。まるでロボットのスイッチを切り替えたみたいだ。
 大学になって知り合った千草は、話しやすい人物だが、どこか不思議な空気を纏っていた。顔もよくて人気もあるのに、遊んでいる風でもなく、堅苦しいわけでもない。というより、あまり深い人付き合いをしないようで、親友と呼べるのは貴仁くらいしかいないのかもしれない。
 そんな彼の家に、貴仁は今まで一度も行ったことがなかった。金持ちで実家住まいということだけは聞いていたので、彼の家に興味があるのも事実だ。
「じゃあ、会うだけなら」
 貴仁の答えに対し、千草は珍しく本当に嬉しそうに礼を言った。

 トレイと皿を片付け半地下の食堂から出た二人は、階段を上がって地上へと出ようとする。理系の冴えない男が集まる中、モデルのような千草と二人並んで歩くといつも視線を集めてしまうのがむず痒かった。遊び人、ヤリチン——纏めてそんな風に思われているのかもしれないが、貴仁には全くもって女性との縁がない。
 階段の途中でちょうど一人の女子学生とすれ違いそうになった時、彼女はふらりとバランスを崩した。貴仁は咄嗟に彼女に手を差し伸べ、その身体を支える。
「すみません。ありがとうございます」
「あ、いや、あの、そ、その……っ」
 貴仁は慌てて手を引っ込め、もごもごと口籠る。
 何か言え。これを機に仲良くなるチャンスかもしれないぞ。でもそんな下心がバレたら嫌われるじゃないか。なら何を言えばいいんだ。
 いつものごとく、頭の中で思考が二回転三回転しつつ狼狽えた。女子学生が不審な表情になったところで、傍にいた千草が彼女ににっこりと微笑みかける。
「この階段の石畳、ヒールだと歩きにくいから気を付けて」
「はい、ありがとうございます」
 女性の注意はすぐに千草へと向けられ、助けた当の本人である貴仁はあっさりと眼中から追い出された。
 彼女と別れて階段を上り切り、少し歩いたところで千草からちらちらと視線を受ける。
「本当に貴仁は面白いくらい女の人が苦手だね」
「う、うるさいな」
「小さい女の子とか、おばあさんなら普通に話せるのにね。近い年頃の女性相手だけ……面白いなあ。意識しすぎてるんじゃないの?」
「他人事だと思って」
 文句を言ってはみたものの、千草の指摘はかなり的を射ていると思う。女性の前で自分を良く見せたい、嫌われたくない、下心を見透かされたくない——そんな風に体裁を意識したが最後、何を話していいのか分からず、「あの」「えっと」「その」といった意味のない言葉しか出なくなってしまうのだ。
 この症状のせいで、まず自分からは積極的に声をかけられない。外見のおかげでかろうじて話しかけてもらえても、緊張してうまくしゃべることができず、相手はさり気なく身を引いていく。いくらモテたいと言っても、これでは恋人ができるわけもなかった。
 しかしさっきのように助けてあげたにも関わらず、上手くしゃべれないだけでサッと引いていく女性にも少しがっかりする。緊張してるんだなと思って優しくしてくれればいいのに。しかし、自身のきょどりっぷりが女性の許容範囲を大幅に上回っているのかもしれないと思うと悲しかった。
「まあまあ、機嫌を直して。だから貴仁にかわいい猫を、って考えてるんだよ」
 猫と人間では全然話が違うだろう。貴仁はそう言いたいのを堪える。
「まだ会う約束しただけだろ」
「うん、楽しみにしてて」
 楽しみなのは猫というより、彼の生活実態全てだ。しかしこの時の貴仁は、彼の家にどんな秘密があるのかなど知る由もなかった。


***

 大学のキャンパスもかなりの田舎にあるが、千草の家も負けず劣らずといったところだ。駅から迎えの車で約十分、東京郊外の住宅街の中にあるやたらと敷地の広い家。外壁は周囲の家の五建分以上は続いており、開いた門の中に車はそのまま入って行った。
 玄関前で貴仁と千草を下ろした後、運転手は「あとで飲み物を持っていくので」と言って車を移動させた。あの中年の男は最初千草の父親かと思ったが、車内で説明されたところによると、千草の家の手伝いの人らしい。執事と言うほどしっかりとした服や口調ではなく、普通のシャツにチノパン姿だったので最初は気付かなかった。
 本当にこんな金持ちの家があるんだな——その程度の小さな驚きはすぐに吹き飛ぶことになる。千草がカギを開けて玄関ドアを開けた瞬間、二人の目の前に現れたのは栗色の髪の子供だった。十代の半ばくらいで、中世的な顔立ち。大きめのパーカーで上半身の体系はよく分からないが、ハーフパンツから伸びる足は少年のものだ。
 ただし、彼はただの少年ではない。彼の髪の間からはまるで猫のような白茶の耳が見えていた。
「千草、おかえりなさい」
「ただいま、マロネ」
 呆然とする貴仁の前で少年は千草にぎゅっと抱き付く。
「この人、誰?」
 少年の丸い大きな瞳にじっと見られても、貴仁は何も言えないでいた。
「俺の友達。タカヒトって言うんだ」
「へえ……」
 千草は靴を脱いで玄関に上がると、まだ固まっている貴仁を見て少し笑った。
「貴仁、上がって」
「え、あ、ああ」
 もぞもぞと靴を脱ぎ、しゃがみ込んできっちりと靴を揃えていると、背後から声がかかった。
「驚いた?」
「正直、何を驚いていいのか分からないくらい驚いてる」
 貴仁は立ち上がり、千草と少年に向き合う。
「この子は、その……」
「マロネって言うんだ」
「いや、名前じゃなくて、その耳は……カチューシャか何か?」
 貴仁がじっと睨むように観察すると、マロネと呼ばれた少年は千草の後ろに隠れるようにしがみついた。
「ちゃんとした器官だよ。人間の耳は付いてない」
「じゃあ、猫って言ってたのはもしかして……」
「うん、そういうこと。でも貴仁に会わせたいのはマロネじゃないんだ」
 そういえば彼は黒猫に会わせたいと言っていた。マロネもよく見ると髪や耳の一部に黒っぽい毛が混じっているような気もするが、明らかに黒猫ではなく白茶系統だ。
「多分また自分の部屋でひきこもってるだろうから、後で会いに行こう」
 そう言って千草はひとまず応接間へと向かった。

 豪奢なソファとテーブルで、これまた高そうなティーカップに入った紅茶をすする。慣れないことばかりで、味など全く分からなかった。
 向かいに座った千草の隣には、不思議な耳の愛らしい少年。大きな窓から差し込む日光のせいか、彼の瞳は猫のそれと同じく瞳孔が細くなっている。光彩の色は綺麗な黄金色だ。彼は少し引っ込み思案のようで、貴仁と積極的に話はしないものの、彼の視線だけは貴仁に興味津々だと物語っていた。
「それで、その……何から聞けばいい?」
「聞きたいこと何でも。っていうか、貴仁が知りたいのって、要はこの子がどういう存在なのかってことだよね」
「そう、何がどうしてそんな耳になって、どうしてそれがお前んちにいるのかってこと」
 この少年の存在は、現実とは乖離したファンタジーだった。千草は持っていたティーカップを手でゆっくり回しながら、何かを考えている。
「千草?」
 猫耳の少年が不安そうに千草の袖を引っ張る。千草はそんな彼の頭を一度撫でてから、貴仁に向き合った。
「うちの父さんは、昔とある研究所で働いてたんだ。そこでは世間には公表できないようなことが行われてたんだとか。そこで、母さんが死んで……父さんは研究所のある島からこっちに移った。もうあんな研究はしたくないってね。その代わり、こっちで一人引きこもって作ったのが、この子たちってわけ」
「作った、って……」
「父さんは医学と生物の研究者だった。昔はヒトの遺伝子を操作して、その能力を高める研究をしてたらしい。特許なんかも取ってたけど……途中で全部投げ捨てて研究所を出た。俺が確か……六歳くらいの時だったかな」
「そのお父さんは今どこに?」
「それがおかしな話でさ、結局あの後三年くらいでまた俺たちを置いて島に帰ったんだよ。研究体制が変わったとか何とかで、もう一度やり直すんだって言って。こっちに戻ってくるのは盆か正月くらいのもの」
「じゃあ千草はこんなでかい家でほとんど一人暮らし?」
 いつも彼がどこか大人びて見えたのは、親が傍にいなかったせいなのかもしれない。深刻に考える貴仁とは裏腹に、千草は照れたように笑った。
「子供の頃は、両親と一緒に研究所のある島にいたよ。こっちに来てからは、坂井さん……さっき車の運転をしてくれてたあの人が家にいてくれて半分親状態だし、こいつらも弟みたいなもんだから」
「弟……」
「うん。俺が七歳の時に生まれたから、もうかれこれ十四年は一緒にいるかな」
「十四年、か。じゃあ人間の成長速度とほぼ同じなんだな」
「人間をベースにして一部をいじるのが父さんの研究だから、こいつらもほとんど人間だよ。受精卵を作ったのはそれこそシャーレの上だろうけど、出産自体は代理出産か何かを雇ったんじゃないかな。俺の想像だけど」
「ちなみに、精子と卵子は……」
「ああ、世界一宇宙一最強にかわいい見た目にするために厳選したって父さんが力説してた。弟みたいなもんだけど、半分すら血が繋がってないよ」
 確かに、彼の隣にちょこんと座るマロネは人形のように可愛らしい。千草の父親は間違いなくマッドサイエンティストの類だ。そう思っても、失礼にあたると思い口にはしない。
「まあとにかく父さんがイカレ科学者だったせいでさ、俺の家にはこいつらがいるってわけ」
 イカレ科学者——貴仁が飲み込んだ呼称よりもっと酷い言い方が飛び出し、貴仁はハハッと引き攣った笑みを見せた。
「外出とかできんの?」
 貴仁がそう言うと、マロネはいそいそと着ていたパーカーのフードをすっぽり被って耳を隠した。目だけで得意気に「こうするんだよ」と言っている。
「頻繁にはできないけど、たまには街に連れ出してあげてるよ」
「学校とかは?」
「もちろん行けないけど、こいつらが赤ん坊だった頃から坂井さんが勉強も含めて世話してるから大丈夫。坂井さんは父さんの昔の助手でね、こいつらの先生としては申し分ない博識な人なんだ」
 マッドサイエンティストに振り回され、子供の世話までする元助手——本人がどう思っているのか詳しく聞きたいところだが、先程お茶を持ってきてからというもの、彼は姿を現していない。
「それで、もう一匹……いやもう一人の方っていうのは」
「うん。ネロって言うんだけど……まあ、会ってもらった方が早いかな」
 千草はカップをテーブルに戻すと、重い腰を上げる。マロネもぴょこりと立ち上がり、千草より先にパタパタと応接間を出て行った。
「貴仁、あのさ……」
 ソファから立つ貴仁に向かって、千草がふいに呼び止める。
「何だよ」
「できれば、俺に話を合わせてほしい」
「合わせる?」
「さっきも言ったけど、やっぱりあいつら頻繁に外には連れてってやれなくてさ。ネロの方は特にこもりがちだから、外の世界に目を向けてほしいんだけど、かと言って信頼できない人には任せられなくて」
「だから俺?」
「うん……頼むよ」
 何をどう頼まれているのか分からないが、千草は「ついて来て」と言って部屋を出てしまう。玄関近くに戻ってから吹き抜けの階段を上がり、二階の廊下を少し進んだところで、マロネが壁に凭れて待っていた。
「ネロ、返事ないの」
 マロネはむーっと困ったようにそう言った。
「どうせ狸寝入りでもしてるんだよ。仕方ないね」
 千草は傍のドアをコンコンと叩いた。
「ネロ、お客さんだよ」
 返事はない。千草はふう、と息をついてから、ガチャリとドアを開けた。
「ネロ、入るよ?」
 千草は声をかけながら部屋の中へと入っていく。入り口から見える内部は、カーテンを閉め切っているらしく薄暗い。ただ、子供部屋にしては広い作りになっていることは何となく分かった。
 マロネが忍び足で部屋に入るのを見ていると、奥から「んー」という寝ぼけた声が聞こえた。
「ほら、起きて」
 貴仁がおずおずと部屋に入った時、千草は奥にある西洋風のキングサイズベッドで布団の塊を揺さぶっていた。
「んー、うるさいなあ」
 声と共に布団がもぞもぞと動き、黒い髪と耳がぴょこんと姿を現す。貴仁がベッドへと歩みを進めた時、マロネが閉まっていたカーテンをサッと開いた。
「……っ! 眩しいって!」
 ベッドでがばりと身を起こした少年は、マロネをキッと睨み付けた。
「お部屋、暗いのに」
 マロネがすごすごとカーテンを戻すと、室内は再び薄暗くなった。
「ネロ、お客さんがいるんだ」
 千草が貴仁を紹介するために少し身体をずらす。そこでやっと、貴仁はネロと呼ばれる少年をまじまじと見た。
 暗い室内の中でもさらに暗い漆黒の髪と、猫の耳。しかしそれとは対照的に、暗い部屋でも分かるほど肌は白い。光の少ない部屋の中にいるせいか瞳孔が大きく、ただでさえ大きな瞳をより大きく見せていた。
「オレにはどーぞお構いなく」
 綺麗なバラには棘がある、という言葉の通り、彼はツンとそう言った。彼は身体を覆っていた布団を蹴り飛ばすと、ベッドから猫のように軽い足取りで立ち上がる。立つと貴仁の肩くらいまでの身長だ。しかしそんなことより、貴仁の目は彼の身体に釘付けになった。パジャマのようなものを着ていると思っていたのに、太ももまで覆う大きめのシャツの下——下半身にはズボンも何も履いていなかったからだ。しかも、シャツの裾から出ているのは白くて細い生足だけではない。その後ろに、黒いしっぽのようなものが見えていた。
「あー、ちゃんとズボン履かないとダメなんだよ」
 マロネが非難の声を上げる。
「うるさいなー。しっぽ仕舞うの窮屈なんだもん」
「慣れないとお外に連れてってもらえないよ」
「マロネってほんといい子ちゃんだよね。オレは外なんてキョーミないし。マロネだけ勝手に連れてってもらえばいーじゃん」
 言い負かされたマロネは泣きそうな顔で千草にぎゅっとしがみついた。その様子を見て、意地悪な黒猫はフンと鼻を鳴らす。そのまま部屋を出て行こうとする彼を、千草がまた呼び止めた。
「ネロ、どこ行くの」
「どこだっていいじゃん。あ、お客さん? どうぞくつろいでって」
 ネロは貴仁の顔も見ずにすれ違おうとする。
「駄目だよ。この人はネロに会いに来たんだから」
 千草の言葉に、ネロはぴたりと足を止めた。
「オレに? マロネじゃなくて?」
 ネロとやっと正面から目が合う。彼は品定めするように貴仁の全身を観察した。
「うん、タカヒトって言うんだけどね、ネロの話をしたらすごく興味を持ってくれて、ぜひ会いたいって」
 会うだけでも、と頼まれただけで、興味を示した覚えなどない。ここでやっと、先程千草の言っていた「話を合わせる」の意味が分かり始めた。
「ふーん……へえ〜……」
 先程までの気怠そうな態度から一変し、彼は貴仁に全神経を注いでいるかのようだ。
「まあ、オレとしては、キョーミなんて持たれても別に……って感じだけどさ、どーしてもっていうなら、ちょっとくらい話してあげてもいいよ」
 生意気な口をきかれ、貴仁は何か言い返したいのをぐっと堪える。
「うん、きっと二人とも話が合うと思うんだ。貴仁の趣味はね、ガーデニングなんだよ。マンションのベランダで色々育ててるんだ。大学の専攻も、俺と一緒の生物系」
 それは嘘ではなく本当の話だ。貴仁はマンションのベランダにいくつもプランターを並べて、花や野菜を育てている。今年植えたプチトマトのことを内心トマさんと呼んでいることまでは、誰にも教えていないが。
「へえ〜、今は何を育ててるの?」
 ネロは本当にこの話に食い付いてきた。
「えと、最近だとチューリップとかパンジーとかが終わりかけで、もうすぐ咲きそうなのは、カスミソウ、かな」
「そんだけ?」
「他にもあるけどさ……お前んちの広い庭と比べるなよ」
 貴仁がポリポリと頭を掻くと、すかさず千草が間に入った。
「ネロはここ以外のこと全然知らないから、貴仁がどうやって花を育ててるか想像もできないでしょ?」
「う、そ、そんくらいオレだって分かるし! テレビとか本とか、俺だってフツーに見てるもん! ビンボー人はちっちゃい家に住んでるんだってさ!」
「この家が大きすぎるだけで、マンション住まい自体は普通のことだよ。まあ、俺は確かにビンボー学生だけど」
 ネロは何か言い返そうと口を開きかけたが、それを千草がさり気なく止めた。
「ねえ、ネロ? 貴仁の家、一度見てきたらどうかな」
「な、なんで、オレがそんな……」
 慌てるネロを見て、貴仁は鼻で笑った。
「お前が世間知らずだから千草も心配してんだよ」
「せ、せけんしらず? お前に言われたくないんだけど! こんな……なんか絶妙にモテないオーラの奴に!」
「な……」
 貴仁が絶句すると、千草が「コラ」とネロを叱りつけた。
「貴仁、ごめん。普段はここまで反抗的じゃないんだけど——」
「反抗的ってなんだよ! それが嫌ならマロネと話せばいいだろ!」
 毛を逆立てる猫のように、ネロは全方位を威嚇した。これは無理だ——そう判断した貴仁は、小さく肩を竦める。
「ごめん、千草。ギブアップ。帰るわ」
 貴仁が踵を返して部屋から出ようとすると、背後からネロが呼び止めた。
「オ、オレに会いに来たんじゃないの!?」
「うん、もう会ったから」
「オレにキョーミあるって言ってたじゃん!」
「もう好奇心は満たされた」
 振り向きもせずそう言う貴仁の背を見て、ネロは急展開に狼狽え始める。
 部屋を出て、階段を途中まで降りたところで、千草が後を追ってきた。
「待って、貴仁。ごめん、あいつが失礼なこと言ったのは俺が謝る」
「別にあいつに言われたことで怒ってるんじゃないよ。俺だって色々言ったし。ただ、千草が望んでるような展開には絶対ならないと思うんだ」
 階段を降り切った貴仁は玄関に向かおうとするが、千草は無理矢理貴仁の腕を掴んで廊下を進み、奥の応接間に引き込んだ。
「大丈夫だって。多分、貴仁の方から誘ってやれば——」
「俺が下手に出て誘ってやっても、『そこまで言うなら別にいいけど』って態度なんだろ、どうせ。そんな状態で外連れてっても、何も変わらないって」
「そ、そうかもしれないけど」
「外の世界見せてやる前にさ、もう少し根本的にあいつの考え方を変えないと」
 そう言った途端、腕を掴んでいた千草の手に僅かに力が加わった。
「うん、そう、あいつがああなったのは、俺が悪いんだ。分かってる」
 妙に深刻な顔でそう言われ、貴仁は首を捻るしかない。
「なあ、お礼はちゃんとするからさ、何日か……いや、一晩でもいいんだ。あいつのこと預かって、色々な場所に連れてってやってくれないかな」
「色々な場所って言われても——」
「花が好きな人はどこに行く? 植物園、とか?」
「自分で連れてってみたらどうなんだよ」
「俺じゃ駄目なんだよ。俺とマロネ以外の誰かじゃないと、駄目なんだ」
 彼は真剣で、このままでは帰してくれそうにない。貴仁は降参というように両手を上げた。
「分かった、分かった。それで、お礼ってのは?」
「何がいい? あまり高いものじゃなければ、だけど」
「金がかかるものはいいよ。そうだな……誰か女の子紹介して。俺のこの性格のことも先に話して了承してくれる優しい子。仲を取り持ってくれれば、あとは自分で頑張るから」
 あまり本気ではなかったが、千草は簡単に「いいよ」と答えた。彼にかかればいくらでも知り合いの女性を紹介できるということだろう。
 ちょうどその時、玄関の方からドアが開閉する音が聞こえてきた。誰かが家から出たか、あるいは入ったか。応接間から出ると、廊下の先でマロネがぽつんと立っているのが見えた。
「どうした?」
 千草が声をかけながら駆け寄る。
「ネロが、お庭に行くって」
 閉まったドアをマロネが指差す。貴仁と千草は少し顔を見合わせてから、互いにこくりと頷いた。

 玄関前で千草と二手に別れ、家の何倍も広い庭を千草とは反対方向にぐるりと回っていく。ウッドデッキ脇に来たところで、広い花壇の前にしゃがみ込んでいる小さな人影を見つけた。
 真っ黒な髪と耳をした彼は、マロネとおそろいのパーカーにハーフパンツを着ている。さすがにシャツ一枚では外に出なかったようだ。
 背後から彼に近付くと、貴仁自身の影が彼を覆った。
「千草?」
 そう言いながら振り向いたネロは、貴仁の顔を見てびっくりしたように固まった。
「スイートピーか」
 大きな花壇に色とりどりのスイートピーが咲いているのを見て、貴仁は無意識に呟く。
「もう帰ったんじゃなかったの?」
「帰るけど、まだもう少し」
「ふーん……」
 ネロはそこで、拗ねたように花壇に視線を戻した。千草に頼まれた以上、彼を誘ってみなければ——ぎこちない沈黙の中、貴仁はなんとか会話の続きを考えた。
「その花、好きなの?」
 あたりさわりないことを聞くと、ネロは一厘の花を指でつついた。
「どの花も同じくらい好きだよ。こいつはサヤエンドウみたいなのができるのが面白いよね」
「マメ科だからな。それになんたって、名前がスイートなピーだし」
 植物に関する話題ならスラスラと言葉を紡ぐことができる。
「マメなんだ、こいつ。なんかさ、種とか豆とか、いいよね」
「おいしそうだから?」
 貴仁の言葉に対し、ネロはぶんぶんと首を振った。
「違うよ! なんか、花が咲いて、種ができて、地面に落ちて、また芽が出て……そういうの、すごい自然じゃん。そういうところが、羨ましい」
 しゃがみ込んだ彼の背中を見ていても、貴仁にはその意図がまったく分からなかった。
「羨ましいって……お前、花になりたいと思うか?」
「花になりたいんじゃなくて、自然になりたい。オレは……自然じゃないから」
 小さな少年の背中が、今はさらに小さく見える。ずっと生意気なことばかり言っていた彼とは別人のようだ。
 彼の隣にしゃがんだ貴仁は、花壇一面に広がる花をぼんやりと見つめる。
 いつか自分も新しい色の花を作りたい——密かに抱いているそんな夢は、マッドサイエンティストである千草の父親とどれくらい違うというのだろう。色の波を見ていると、全ての境界が混ざって曖昧になっていくようだ。
「自然ってどこからどこまでが自然なんだ? スイートピーなんて、今でこそこうやってたくさん色があるけど、人間の品種改良で作られた色だってたくさん混ざってる。それにこのスイートピーは分からないけど、園芸店で買った種は人の手で意図的に交配されてるのが多い。F1って言って、この一代だけ揃って綺麗に咲くようにされてるんだ。ものによっては種ができなかったり、種ができても親と同じように育たなかったりするかな」
「そう、なんだ……」
 ネロは少し興味を持ったように花壇を見つめ直した。
「そうだよ。大体、この庭は、えっと、坂井さんだっけ? その人が管理してるんだろ? このスイートピー、蔓を巻き付けるための支柱が立ってる。花壇を作って、水やったり手入れしたり、人の手がたくさん入ってるんだ。山奥で自生してる植物に比べたら、この庭は全く自然とは言えないだろ」
 貴仁はちらりと横目でネロを見た。彼はそんな視線にも気付かずに、膝を抱えて俯いている。
「……でも、オレにはここが自然に見える」
「主観でいいなら、お前も自然の範囲だと思うけどな。俺は」
 そんな言葉が自分の口から出たことに、貴仁自身少し驚いていた。
「で、でも、耳としっぽを隠さないといけないなんて、やっぱりオレが自然じゃないってことなんだよ」
 ネロは人差し指で地面にぐるぐると砂の痕を付ける。
「逆に言えば、耳としっぽさえ隠せば自然に溶け込めるだろ。傷跡とか皮膚のアトピーとか、身体の一部を隠して外出するのなんて、普通の人間だってやってる。ていうか、人間が本気で自然のままで外に出ようとするなら、全裸で警察に捕まるんだけど」
「そんなの屁理屈だ」
 貴仁はそこで一旦考えた。
「そう……かな。俺にはお前の方が屁理屈こねてるように見える。自分は自然じゃない、外に出られないって、そう思い込んでウジウジ悩む口実にしてるみたいだ」
 子供に向かって少し強く言い過ぎたかもしれない。自分にこういうところがあると自覚しているからこそ、女性の前では余計気を付けて喋れなくなってしまうのだが、特に意識していない相手だとついついぽろりと言い過ぎてしまう。
 案の定、隣でネロはすっくと立ち上がった。
「オレの気持ちなんて分かんないくせに」
 まるで彼の心を表すかのように、一筋の風がスイートピーの花々を揺らした。貴仁は彼の怒りをかわすようにわざとのらりくらりと立ち上がると、縮めていた身体をうーんと伸ばす。
「うん、分からない。俺は平凡な人間だからな。でも俺だって、普通じゃない欠点くらいあるよ。女の人と話すの異常なくらい苦手で、お前の言う通りモテないオーラ出てんのかもしれないけどさ、それを理由にして諦めようとは思わないから」
 そういう必死さがむしろ焦りを生んで言葉がどもり、いつまでもモテないループに嵌っているのかもしれない——自虐めいたことをこっそりと考える。だが、そんな貴仁の内心とは別に、ネロはネロでじっとスイートピーを見て考え込んだ。
「でも、オレ、どうすればいいのか分からない。何のために生きてるのかも、よく分かんなくなっちゃったし」
 ここにきてやっと、この会話のゴール——千草に頼まれていたことを思い出す。
「それは、ほら、外出てみればいいだろ。この家と庭に引きこもってるのが駄目なんだよ」
 貴仁がさり気なく誘うが、ネロはもじもじとつま先で石を蹴った。
「バスも電車も一人で乗ったことないもん。千草とマロネに一緒に来てもらうのは……悪いし」
 家族であるはずの千草たちになぜ気を遣うのか少し気になったが、そこにはあえて触れないことにする。
「だから、さっきも千草が言ったみたいにさ、俺の家、来てみればいいじゃん」
 ネロはそこで弾かれたように顔を上げた。
「オ、オレのこと、もうキョーミないって」
 まるで自分の身を守るように胸の前で小さな両手を握り締め、ネロはどこか必死な目で貴仁を見上げている。
「じゃあ、それナシ。やっぱり興味あるよ」
 そう言った瞬間、ネロの周りがパッと明るくなったような気がした。
 彼を家に連れて行くためのリップサービスではなく、実際それは貴仁の本心だ。人間の手で改良された品種である彼が、今後どうやって生きていくのか興味があった。
「だったら、まあ行ってあげてもいいけど」
 ネロはにまにまと嬉しそうな顔をしているくせに、口だけは予想通り素直にならない。
「そういう言い方するんだったら来なくていい」
 意地の悪いことを言ってやると、ネロは貴仁の腕にぎゅっとしがみ付いた。
「や、やだ! 行く! 行きたい!」
「だったら最初からそう言うこと」
 ネロの真っ黒な髪を撫でてやる。そこは午後の日差しを吸収してぽかぽかと暖かくなっていた。弟みたいなもの——千草が言っていたことが少し分かった気がする。
 そのまま耳に触れると、ネロは一瞬ぴくりと反応したが、貴仁がさわさわと獣の耳をいじるのを、彼はじっと受け入れた。黙っていればかわいいのに、などと思ってはみたものの、彼を怒らせるようなことは口に出さない。
「ネロ、じゃあ、出かける準備しようか」
 突然そう言ったのは、ウッドデッキの陰から姿を現した千草だった。彼のすぐ傍にはマロネも付き添っている。
「……聞いてた?」
「貴仁、いいお父さんになれるよ」
 近付いてきた千草はにっこりと笑ってそう言う。
「……結婚できれば、な」
 誰にも聞こえないくらい小さな声で貴仁はそうぼやいた。
「千草、オレ……」
 まだ貴仁にくっ付いたまま、ネロは何かを言いかけて止める。
「ネロ、世界には俺とマロネと坂井さんだけじゃなくて、たくさんの人がいるんだってこと、分かってほしいんだ」
 千草がそう言うと、ネロは少し不安そうに頷いた。
「貴仁の家に行くのはまず第一歩。何日分くらいのお泊まりセットにする? もう二人は仲良しみたいだけど」
 茶化すように言われて、貴仁とネロは同時に千草を睨む。
「「別に仲良しなんかじゃ——」」
 思わず声が重なり、千草がクスクスと笑った。
「すごい、なかよし……」
 感嘆するマロネに向かって、ネロが「うるさい、うるさい」と突っかかりに行く。もう夕方に近くなった五月の日差しが、柔らかく広い庭を照らしていた。

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